第6話 また図書館に。あるいはサーカスの少女ミニヨンの歌
●ある日の授業風景、現国
わたし、銀河を統括する情報統合思念体に送り込まれた対人コンタクト用人型インターフェースである長門有希が、教室でどんなかということは、クラスが違うので涼宮ハルヒらSOS団のメンバーにはあまり知られてはいない。
まだ眼鏡っ娘だった頃の、ある日の授業風景から始めよう。
その日は、現国の時間が始まる1分前になると、教頭先生が見慣れぬ若い女の先生を連れて教室に入ってきた。
そして、担当の先生が予定より早く産休に入ったので、急遽、現国は今日からしばらくの間、3月に関西学院大学を卒業したばかりの森先生に担当していただくと言って、出て行った。
新しい先生は、「森園生」と黒板に自分の名を大書すると、教育実習でなく本当に教えるのは今日は初めてですけど、頑張りますのでよろしくお願いします、と頭を下げた。
余計なおしゃべりはしそうもない代わりに、にこやかな笑みを絶やさない、芯の強そうな美人の先生だった。男子生徒が嬉しそうな顔をしているのが分かる。
わたしには、この名前にも顔にも、見覚えがある気がしたが、はっきり思い出せなかった。三年前の七夕の夜に、三年後の異時間同位体の“わたし”と同期して得た未来の記憶は、その後の2年8か月にもわたる休眠期によって、細部が失われてしまっていたから。
その方がいい。未来のことなど知らない方がよいのだから。
「今日は、田代先生からの引継ぎで、35頁の近代詩のところからです」
指示に従って生徒たちが、ガサガサと教科書をめくる。
「ミニヨンの歌」と大きくあって、横に「ゲーテ作、SSS訳」とある。
頁の下部に、「明治22年発表。SSSは新体詩の運動を始めた新声社の略で、実際の訳は森鴎外の妹、小金井喜美子とも、鴎外その人だとも言われている」と、細かい文字で註が付いていた。
「明治の訳詩かァ、つまんなさそう‥‥」後の席で女生徒が、小声でつぶやくのが聞こえる。
「どうせなら尾崎豊にでもすればよかったのに」と、ジャズやロックの歴史に詳しいことが自慢の男子生徒の声。
じっさい、頁の上の詩は、わたしの脳内装備型日本語変換辞書にもなじみのない文語調で書かれていて、高校生が親しめるものではなさそうだった。
「まず、私が読みます」といって森先生は、涼やかな声で三連からなる詩を、よどみなく読み上げた。
「このミニヨンの歌は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』という長い小説に出てくる詩です。舞台は十八世紀のドイツで、ミニヨンは幼い時にさらわれてサーカス団に売られた可哀そうな少女です。親方に鞭で打たれて苛められているところを、主人公のヴィルヘルムという青年が救い出し、お金を出してサーカス団から解放してあげます。お礼にミニヨンがヴィルヘルムに歌って聞かせたのがこの詩で、思い出の中の故郷イタリアのことを歌って、ウィルヘルムに一緒に行きたいと誘うのが、全体の意味です。最後の「行かまし」というのは、「行きたいの」という、願望の意味ですね」
「くっさー。サーカスに売られて苛められる少女だって。大昔の少女漫画まんまじゃん」と、背後で小さく別の女子生徒の声。
「大正ロマン、てところね」と、少女マンガ通を自認するまた別の女子生徒が応じる。
森先生が続ける。
「この詩は名訳ですけど、古すぎで皆さんにはすぐに良さは分からないと思います。もっと新しい良い訳が出ているので、皆さんに読んでもらうことにします。」
そう言うと、コピーを取り出し、配り始めた。
行きわたったところを見計らって、座席表を眺め、なぜかわたしの方を見て、言った。
「長門有希さん、いま配った新しい訳を読んで下さい」
教室が一瞬、ざわついた。
わたしは構わずコピーを持って立ち、読み始めた。長いので最初の二連だけでよいという指示に忠実に。
●「君よ知るや南の国――」の朗読で文学少女長門有希のイメージが定着する
〔ミニヨンの歌〕
君よ知るや南の国。レモンの花咲き、
暗き木陰に、黄金なすオレンジ燃え、
青き空より、やわらかき風のそよぎ、
ミルテ静かに、
君よ知るや、かの国を。
かなたへ、かなたへ、
おお、いとしき人よ、君と共に行かまし。
君よ知るやかの家を、
広間はかがやき、小部屋はきらめく。
哀れなる子よ、いかなる目に
君よ知るや、かの家を。
かなたへ、かなたへ、
おお、
読み終わると、不思議な沈黙が教室を支配した。
わたしは着席してよいか、指示を待って森先生を見る。
夢を見ているような顔をしていたが、我に返ったように先生は言った。
「素晴らしい読みでした、長門さん。まるでミニヨンが乗り移ったみたいよ!」
そして、パチパチと手を叩いた。
拍子がパラパラと生徒たちの間にも起こり、やがて全員に広がった。「さすが文芸部員」といった声も上がった。
どうして。普通に感情を交えずに、淡々と読んだつもりだったのに。わたしは席に座りながら思った。
すると、おしゃべりな脳内装備型日本語変換辞書が、勝手に立ち上がって囁いた。
――嘘。あなたは途中から、図書館のことを思い出していたの。
この前の日曜に、初めてのSOS団野外活動で“彼”に連れられて行った図書館のことを。
あの時あなたは、まるで夢遊病患者のようなステップでふらふらと本棚に向かって歩き出した。
そして厚い哲学書を手に取ると、三時間もの間、その場で立ったまま読みふけった。
しまいに“彼”が来て、涼宮ハルヒが集合時間がとっくに過ぎていると電話で怒りまくっているので、早く駅前に戻らなければならないと促した。
あなたは、床に根を生やしたように動かなかった。
仕方なく“彼”は、カウンターに行ってあなたの貸し出しカードを作ってもらい、読んでいる本を借りてあげた。
その図書館のことをあなたは思い出していたの。
「南の国」も「かの家」もあなたの中では図書館で、「君」も“彼”のことだったのに――
勝手な解釈しないでよ。わたしは脳内辞書を黙らせた。
でも、この日から、クラスでのわたしへの風向きが、微妙に変化したのは確かだった。
何人か、文芸部に入部したいと言ってきた男子生徒がいた。
やや緊張気味に、憧れるようなまなざしを向けて。
わたしは「今は募集していない」と素っ気なく答えた。
文芸部室はすっかりSOS団の巣窟になっていて、放課後になるとハルヒが朝比奈みくるにコスプレを演じさせようと大騒ぎしていたから。
にべもなく断られても何人かの男子生徒は、憧れるようなまなざしを向け続けた。
どうやら、「眼鏡キャラ、無口キャラ、神秘的な無表情系」というミステリアスな文学少女のイメージが、定着したようだった。
でも、そののち1,2週間で大きな出来事が次々に起こり、眼鏡は失くすわで、そんなことは念頭からなくなってしまった。
●YUKI.N>また図書館に
その翌日の放課後。朝倉涼子が“彼”を襲撃したので、やむをえず戦闘パワーを全開して消滅させなければならなかった。
同じ情報統合思念体でも、わたしのように主流派でなく急進派によって送り込まれたヒューマノイド・インターフェースである彼女は、涼宮ハルヒと同じ1年5組に入り込み、社交性豊かな学級委員長キャラによってハルヒに接近を図っていた。
けれども、ハルヒにはまったく相手にされなかった。
それどころか、文芸部室に籠って気ままな読書に耽るだけだったわたしの方が、労せずしてハルヒとの関係構築に成功しているように思えたのだろう。
そんな焦りが、ハルヒにとっての“鍵”とも見える彼を殺してハルヒの出方を見るという、過激な行動に走らせたのだった。
わたしのバックアップでもあり、地球人類の生活様式にうまく適応できないわたしを生活面でサポートしていた彼女を失うのは、痛手だったけど。
代償に得たのが“彼”の信頼だった。
その日、朝倉涼子との激しい戦闘によって傷つき倒れたわたしを、彼はやさしく力強く抱き起した。
「眼鏡の再構成を忘れた」というと、
「してないほうが可愛いいと思うぞ。俺には眼鏡属性はないし」
「眼鏡属性って何?」
「何でもない。ただの妄言だ」
「そう」
そんなやり取りがあって、次の日からわたしは、眼鏡なしで登校するようになった。
「可愛い」という評価を受けることの、地球人少女としての重要性を、この惑星に生きるようになって以来、いやというほど理解していたから。
可愛さにかけては、同じSOS団の未来人少女朝比奈みくるには、逆立ちしたってかないっこないのが、気がかりだったけれど。
次の事件はその、朝比奈みくるがらみで起こった。
その翌朝。眼鏡なしにマンションを出たところで、「長門さん」と、白いスーツ姿の女の人に呼び止められた。
この惑星の知的生命体の美の理想を具現化したような姿が歩み寄ってくる。
「久しぶりです、長門さん」
朝比奈みくるの異時間同位体。三年前の七夕の夜、“彼”と一緒にマンションを訪れて以来のことだった。
けれども、この大人版朝比奈みくるにとってそれは、二か月後になるはず。だから久しぶりとは、北高でのSOS団の活動いらい、ということを意味しているはずだった。
「あ、あの、お願いがあるんですけど」
黙って見つめると、おっかなびっくり切り出す。なぜ朝比奈みくるは、少女版大人版を通じて、わたしを恐れるのか。
「今日のお昼に文芸部室に行きますけど、申し訳ありませんが席をはずしていただけませんか。どうしてもキョン君とだけ話したいことがあって‥‥」
わたしは、「了解した」とだけ答えて、歩き出そうとした。
「あの、もう一つ‥‥」慌てて朝比奈みくる(大)が続ける。
「これから少し後に、困ったことが起こるかもしれません。巨大な閉鎖空間が出現して、涼宮さんとキョン君だけがその中に取り込まれてしまうかも」
「巨大な閉鎖空間?」
「それも、あたしの過去の、つまりこの時代の朝比奈みくるのせいで‥‥」
「‥‥」
「それで、もしそうなったら、あなたの能力で、キョン君に伝えて欲しいんです」
「何を?」
「sleeping beautyと。それだけで分かるはずです」
わたしは、見えるか見えないかの角度で頭を下げてうなずいた。
次の瞬間には朝比奈みくるの異時間同位体は、目の前からかき消すようにいなくなっていた。体内装備型時間跳躍装置TPDDを作動させて、4時間後の部室に行ったものと推測された。
異変は翌月の初めになって起こった。
その日の放課後。
文芸部室で“彼”と朝比奈みくるが、体が触れ合うのもお構いなしにパソコン画面を前にしてじゃれ合っているところを、ハルヒが、「なにやってんのあんたら」と、冷え切った声と共に入ってきたのだった。
朝比奈みくるは顔面蒼白になった。
その日ハルヒの機嫌は最悪だった。
本の頁から目をそらすことなく様子を伺っていて、これが大人版朝比奈みくるが言っていた「あたしのせい」という事態だと推測がついた。
その夜マンションでわたしは、夜を徹して本を読むことにした。本は『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』に決めた。ミニヨンの歌の載っている、ゲーテ作の二百年以上前の小説だった。
深夜のきっかり12時。涼宮ハルヒがこの世界から消えたことを感受して、わたしは頁から目を上げた。
“彼”の気配も消えている。
ハルヒが巨大な情報フレアを爆発させて、自分と“彼”の二人っきりの世界を創造しつつあるのだ。
情報統合思念体から緊急の連絡があった。どんな手段を使ってもハルヒをこの世界に取り戻すようとの指示だった。
部屋の隅で、めったに鳴ることのない電話が鳴った。
古泉一樹からだった。
「閉鎖空間はどんどん広がっています。このままでは、最悪、世界全体がそっくり改変されることになりかねませんね。おまけに、僕の能力をもってしても入り込めないのですね。機関に属する能力者全員のパワーを合せて、僕ひとりが短時間入り込めるぐらいですか。今、涼宮さんと彼は文芸部室にいるようですが、何か彼に伝言はありませんかーー」
部室のパソコンの電源を入れるよう、伝言を頼む。
次に、脳内装備型通信回路をエマージェンシー・モードに切り替えた。
今やわたしは、地球上のどんな回線ネットワークにでも居ながらにして入り込める、強力なスーパーコンピュータだった。
情報回路の触手を閉鎖空間に向かって伸ばし、空間の壁を透過して「あちらの世界」の文芸部室のパソコンにコンタクトする。
電源が入ったことを確認し、送信を始める。
YUKI.N>みえてる?
キーボードから、『ああ』という答えがかえってくる。
YUKI.N>そっちの時空間とはまだ完全に連絡を絶たれていない。でも時間の問題。すぐに閉じられる。そうなれば最後。
『どうすりゃいい』
YUKI.N>どうにもならない。‥‥情報統合思念体は失望している。これで進化の可能性は失われた。
その後、涼宮ハルヒの情報創造能力を解析すれば自律進化への糸口がつかめるかもしれないと情報統合思念体は考えたといったことを説明した後、わたしはためらいながら、次の文字を送った。
YUKI.N>あなたに賭ける。
『何をだよ』
YUKI.N>もう一度こちらへ回帰することを我々は望んでいる。涼宮ハルヒは‥‥もう二度と宇宙に生まれないかもしれない貴重な存在。わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。
回線が切れかけている。わたしは急いで、
YUKI.N>また図書館に
と送信する。「一緒に行くことを望んでいる」と続けたかったが、朝比奈みくるに依頼されたことを最後に伝えなければならない。
YUKI.N> sleeping beauty
直後、すべての回路が絶たれた。
あとは、待つだけ。
sleeping beautyとは、白雪姫や眠り姫や眠れる森の美女の総称。悪いお妃や魔法使いによって眠らされていたけれど、王子様が現れて口づけすると目が醒めるという物語のパターンが、世界のいたるところにあることを、わたしは調べ上げていた。
“彼”が王子様の役をすれば、閉鎖空間は解けて世界は元に戻るということを、大人版朝比奈みくるは暗に言おうとしたのだった。
でもーー
とわたしは思考をめぐらす。そうやって二人が元の世界に戻ってきたとして、二人の絆の不可侵性が確認されたことになってしまう。
また図書館に、一緒に行ってくれる日が来るのだろうかーー
午前2時30分。閉鎖空間が消えるのが確認された。
ハルヒも“彼”も、自宅の寝室に戻っている。
安堵してわたしは本を閉じ、ベッドにもぐりこんだ。
そして、長い夢を見た。
●サーカスの少女ミニヨンの物語:プロローグ
サーカスに売られて来られる前のことは、ほとんど思い出せない。
イタリアのどこか、湖の畔に住んでいた。
レモンの花が咲き、暗い木陰には黄金色のオレンジが燃えていた。
青い空からやわらかい風がそよいでいた。
ミルテは静かに、月桂樹は高くそびえていた。
あたしが暮らしていたのは、湖畔の漁師の家だった。
母親が近くの町に住んでいたけど、めったに会わせて貰えなかった。
母親は罪深い女で、あたしは罪の子だからということだった。
侯爵家の次男坊の修道僧と通じて生まれたのがあたしだから、ということだった。
その父親は山の彼方の修道院に、今も囚人のようにして生きているということだった。
(原作:Yuki Nagato/ 脳内口述筆記:アグリッパ・ゆうき)
*口述筆記者註:「ミニヨンの歌」は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)』(ゲーテ作、山崎章甫訳、岩波文庫、2001)を基本とし、他の訳も参考にして読みやすくしました。
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