第5話 パンドーラ・伝説の巫女

どこか知らない、乾いた大地を旅していた。

 白茶けた岩山と岩山の合間に緑の草地がところどころに拡がり、羊や牛がのどかに草を食んでいた。

 遠く、青い水平線が望まれることもあった。

 少し広い牧草地と岩山の間には、たいてい泉か井戸があり、岩山に隠れるようにして煉瓦の白茶けた家が何軒か固まって、村落を作っていた。

 わたしは、ある時は何人かの集団で、またある時は一人っきりで、村から村へと渡り歩いていた。

 歩き通しのこともあれば、農夫の荷車に乗せて貰うこともあった


 村に着くと、好奇心で目を輝かせた村びとが、大人も子どもも、老いも若きも集まってくる。わたしは広場でタンバリンを打ち鳴らして踊りながら、大地と豊穣の女神デーメーテールや愛と婚姻の女神アフロディーティーに捧げる歌を歌った。


 その後、求めに応じて占いをする。わたしの占いは良く当たると評判だった。

 そのまま村の有力者の家に泊まることもあったが、たいていはそこで春をひさぐことになるのだった。

 それも、歩き巫女の仕事の内だった。


 そうやって村から村を渡り歩きながら、わたしはパンドーラという名の、伝説的な巫女の消息を求めていた。


 パンドーラは、何千年も昔から生きているという。不老の美しさを保ちながら。

 ある説によると、パンドーラこそ、最初の人間の女だという。

 今でも、どこかの廃墟となった神殿の奥深く棲むが、実際にあったという人は誰もいないという。


 どれくらいの月日が、そうやって流れたかは分からない。ある日、とうとう、海に面した断崖に立つ崩れかけた神殿の奥で、わたしはパンドーラに会ったのだった。


 「わたくしの名を、久方ぶりに呼ぶのは誰ですか‥‥」

 神殿の奥の暗がりから、立ちのぼる香煙をかき分けるようにして長身をあらわした巫女を見て、わたしは小さく叫んでいた。

 「朝比奈みくるさん!?」

 「その人のことは知りません」

 巫女は平静に言葉を継いだ。「でも、美の理想は、どんな時代でも似たようなものになってしまうのです。このパンドーラは、元々、理想の美を体現せんものと、オリュンポスの神々によって造型されたものですから‥‥」

 そして、憂いを含んだ目でわたしを見て、「して、何用あって、このような荒れ果てた地に、世に忘れ去られた巫女のところに、来たのです?はかなげな乙女よ」

 「乙女などではありません‥‥」

 わたしは、昨夜も村で、自分の体に散々加えられた、おぞましい仕打ちの数々を思い起こして顔を赤らめながら、答えた。「春をひさぐのをなりわいとする、ただの卑しい歩き巫女‥‥」

 そして、聞こえないような小声で付け加えたーー「はかなくもないのだし‥‥」

 伝説の巫女は、じっとわたしに目を注いで、少し悲しげに言った。

 「そのようなことを言うものではありません。黒い瞳に青みがかった銀色の髪をした乙女よ。あなたの闇に星を鏤めたような瞳の奥には、無窮の宇宙が広がっているものを。見ていると吸い込まれそうな。ーーして、何用ですか?」 

 「パンドーラさま。わたしは知りたい。わたしはなぜ、今、ここにいるのかを。わたしは一体、誰なのかを」


 わたしは跪くと、堰を切ったように語り始めた。

 「気がついた時にはもう、わたしは、15か16歳の女として、旅芸人の一座に加わって村から村へと渡り歩いていました。

 わたしには、親も兄弟姉妹もありません。わたしを拾ってくれた一座の親方は、わたしが空から降ってきた、と言っていたものです。

 ですからわたしには、子どもの頃の記憶がありません。

 踊り子として一座と共に過ごすうちに、わたしには予言の力があることが分かってきました。日ごとに煩わしく言い寄ってくるようになった親方の息子からのがれたくもあって、歩き巫女の一行に身を投じました。

 先輩の巫女たちの中には、天涯孤独な上に内気で無口なわたしを憐れんで、妹のように可愛がってくれる人もいたのです。

 でも、4、5年もたつと、その人たちからも別れなければならなくなりました。

 わたしが、齢を取らないからです。

 仲良しだった友だちが、自分だけが齢を取ってゆくのに気づくと、わたしに嫉妬の目を向け、しまいに魔女だの化物だのとののしるのです。

 そのうちに、はるかな神代から、人でありながら不老の若さ、永遠の美を留めているという、最高の巫女、パンドーラさまの噂を聞きました。

 あなたこそ、わたしが誰なのか、なぜここにこの時代にいるのかを、教えていただける方ではないでしょうか」


 「憐れな乙女よ」パンドーラは、跪いたわたしに歩み寄り、手を取って言った。

 「この世におけるそなたの使命を教えるには、まず、わたくしが何者であるかを伝えねばなりません。でも、この時代の人々の言葉も概念も、あまりにも未成熟です。

 ですが、楽の音に、歌に、乗せれば伝えることもできましょう。

 アフロディーティの歩き巫女よ、立ちなさい。タンバリンを取って踊りなさい。

 わたくしが歌い、もの語るのに合せてーー」


 言われるままにわたしは背に負ったタンバリンを手に取って、シャラシャラと打ち振り踊り始めた。

 澄み切った歌声が、パンドラの紅い唇から流れ出す。


〔パンドーラの歌〕


我が故郷〔ふるさと〕は銀河の彼方

光が尽き光の生まれるところ

エックス線星は歌い

超新星は紫の輝きを放ち

はるか渦状銀河団がひしめき

ブラックホールが音もなく崩壊する

重力が生まれ重力の尽きるところ


銀河の彼方からわたくしは来た

宇宙開闢以来在る究極知性

情報統合思念体の、最初の対人コンタクト用

ヒューマノイド・インターフェースとして

獣と変わらぬこの星の人類に

知識と技芸を授けるために


こうしていつか人間たちは

鳥獣を狩り野苺を摘むのをやめ

牛と羊を飼い畑を耕すようになった。

洞窟を出て石造りの都市に住み

棍棒の代わりに青銅の剣と鉄の鏃で武装した。

天体を観測して暦を作り

三角測量を覚えてピラミッドを建てた。


けれど農耕は狩りの生活より労働がきつく

人口の密集した都市では疫病が流行した

富める者、力ある者は

貧しき者、力なき者を虐げ

巨大な軍隊を作りあげて圧政を敷いた

お互いがお互いを羨み、そしり

虚偽と巧言とが真実と廉直を覆い隠した

やがて人々はわたくしパンドーラこそ

あらゆる災厄をもたらした元凶よと

なじるようになった。


嫉妬深いオリュンポスの神々が

人類を懲らしめるべく、ひそかに

あらゆる悪徳と禍の種を詰めて

地上に送った開けるべからずの箱を

好奇心に負けて開いたパンドーラこそは

人類に災厄ををもたらした禍〔わざわい〕の女だと。


わたくしは人々の目から姿を隠し

神殿の廃墟の奥にひとり住まうようになった。

情報統合思念体はもはや人類に介入しようとせず

観測だけにわたくしの役目を限定した。

オリュンポス山から吹き下ろす風の音と

エーゲ海の波濤の響きを聞きながら

わたくしは生き続け、そして待った。


パンドーラの箱にただ一つ残った

最後の贈物を受け取るべき者の訪れを

わたくしに続く二体目の対人コンタクト用

ヒューマノイド・インターフェースが

黒い瞳と青みがかった銀色の髪の

小柄な体、薄い胸の

可憐な乙女として訪れる日をーー



「するとパンドーラさま」

 わたしは思わず踊りを止めて問うた

「わたしは普通の人間ではなかったのですね。銀河の彼方から、その、なんとか思念体さまに送り込まれた、ヒュ、ヒューマノイドフェースとやらだったのですね」

「ヒューマノイド・インターフェース」

 パンドーラが静かに訂正して頷く。

「それならどうしてわたしは、パンドーラさまのような、銀河の彼方の記憶がないのでしょうか?」

「あなたの役目は最初から観測だから」パンドーラは答え、そして付け加えた。

「でも、それだけではないーー」

 言い続けようとして傍らの石に腰を下ろす、最高巫女パンドーラ。

 なんだかひどく苦しそう。

「乙女よ。あなたの名をまだ訊いていなかった」

 わたしは、親方に付けられたどうでもいい名前をいう。

「パンドーラの箱に残った最後の贈り物は、希望ーー。

これをわたくしは、すべてを見通す情報統合思念体からも隠して、あなたを待っていた」

 話しながら、ますます苦しそうに身悶えする、最高巫女。

「パンドーラさま、お加減が悪いのですか?」

「有機生命体としての耐用期限が切れたのです。わたくしはもうすぐ砂になる‥‥」

「そんな‥‥」

「乙女よ。これからあなたは、有希と名乗りなさい。希望が有るという意味の‥‥これがわたくしからの最後の贈り物‥‥」

「有希、ユキ、ゆき‥‥」

 つぶやく間もなくパンドーラの美しい肢体は、手先と足先から崩れて砂に化しつつあった。

「有希‥‥やがてあなたは一人の平凡な人間の少年に恋をして手ひどく裏切られ、心に傷を負うでしょう。予言の力も失うでしょう。齢を取るようになって人間の女として死ぬかもしれません。でも、あなたには希望がある‥‥」

 崩壊が胴体に及び、頭が石畳の床に投げ出される。途切れ途切れの声が小さく続く。

「わたくしは、もう十分生きてきた。銀河の彼方には帰らない‥‥」

 半ば崩れた顔に、半分だけ残っている口から、最後の吐息のように微かな声が漏れた。

それは、次のように言ったようだった‥‥

「有希、あなたに賭ける‥‥」


      ☆☆☆


 チャイムが鳴っている。続いて、ドンドンと扉を叩く音。

「長門さん、長門さん、あたしよ、朝倉涼子よ。いつまで寝てんのよ」


 わたしは立ち上がって扉を開く。

朝倉涼子。わたしと同じ、銀河を統括する情報統合思念体によってこの惑星に送り込まれた対人コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースが、微笑みながら入ってくる。

 「今日はもう3月7日。北高の入試のある日。早目に準備しなくてはならないわ。ほら、長門さんの受験票も作ってきてあげたわよ」

 「いつカナダから戻ったの?」

 「暮れの12月18日。クリスマス・パーティに誘おうとしたけど、とても深い睡眠状態が続いていて、今日まで目が醒めなかったのね」

 すると、あの運命の七夕の日から2年と8ヶ月を、わたしは眠って過ごしてしまったのか。

 リビングで座ったまま、それも、セーラー服のままで。

 「涼宮ハルヒも北高に出願している。うまくいけば遠くからでも目にできるかもよ。さあ、早く、準備してきて」


 人間の少女らしく、シャワーを浴びて身繕いをする。

 北高の制服で行くわけにもいかないので、朝倉涼子の私服を借りる。

 手早く準備してくれたトーストと目玉焼きとコーヒーの朝食を済ませる。世話になりっぱなしだ。

 マンションを出ると、爽やかな日本晴れ。

 眠りにつく前の淋しい想いは、きれいさっぱりなくなっていた。

 これが、有機生命体における睡眠の効果、というものだろうか。

 七夕の夜に、自分の異時間同位体と同期して得た未来の記憶では、

 並んで歩く朝倉涼子は二か月の後に情報統合思念体の意に背いて”彼”を襲撃し、

 このわたしによって消滅させられる運命にあるはずだったけれど。

 もはや現実味がなかった。

 早春の爽やかな朝の空気の中を北高へ向かって歩む。

 文芸部室でハルヒと”彼”が来るのを待つために。

 これが、希望、というものかしら。

 長い長い夢の最後に、パンドーラが残した言葉がよみがえる。


 「有希、あなたに賭ける‥‥」



<続く>


(原作: Yuki Nagato /脳内口述筆記: アグリッパ・ゆうき)

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