第7話 ミニヨンの物語、そして謎の吟遊詩人

●サーカスの少女ミニヨンの回想


 いつ、どこで生まれたかも知らない。

 父と母の顔も名も知らない。

 自分のほんとうの名前さえ知らない。

 気がついたら旅回りのサーカス団にいて、ミニヨンという名で呼ばれていた。

 微かに、夢のように思い出せることは、

 イタリアのどこか、湖の畔に住んでいたこと。

 レモンの花が咲き、暗い木陰には黄金色のオレンジが燃えていた。

 青い空からやわらかい風がそよいでいた。

 ミルテは静かに、月桂樹は高くそびえていた。

 あたしが暮らしていたのは、湖畔の漁師の家だった。

 母親が近くの町に住んでいたけど、めったに会わせて貰えなかった。

 母親は罪深い女で、お前は罪の子だからということだった。

 侯爵家の次男坊の修道僧と通じて生まれたのがお前だから、ということだった。

 その父親は山の彼方の修道院に、今も囚人のようにして生きているというのだった。

 漁師の夫婦は親切だったが、村の子どもたちはあたしを見ると、罪の子、罪の子、と言って石を投げて来た。

 青みがかった銀色という風変わりな髪の色、そして人形のような表情のない顔が、罪の印だというのだった。

 あたしは子どもたちを避けて、湖岸を回って反対側に建つ大きな家の玄関先で過ごすようになった。

 円柱と円柱の間から奥をのぞくと、広間はかがやき、いくつもある小部屋がきらめいていた。

 円柱に刻まれている男女一対の大理石の像を、あたしは、聖母マリア様の像とまだ見ぬお父様の像だとひとり決めしていた。

 向かい合っていると大理石の像たちは、「かわいそうな子、どんな目に遭ったの」と、問いかけてくるのだった。

 そんなある日の夕方。いつものように円柱の像とことばを交わしていると、背後に近づく乱れた靴音があった。

 振り返ると、数人の男たちが迫っていた。逃げる間もなく、頭から布をかぶせられ、抱えられて連れ去られた。

 近くに待機していたらしい馬車に積み込まれると、布が取り去られ、何人もの髭面がのぞき込んだ。

「まちがいない、この子だ。噂に聞いた通りのミニヨンだ」

「青みがかった銀色の髪、大きな黒い瞳。こんな子、見たことないぜ。どれだけの値段になるか見当もつかないくらいだァ」

「こりゃ、あのサーカスの親分が喜ぶぜ。一座の看板の舞姫を育てたいと言ってたからな」

 馬車は夜通し走り、(後で知ったのだけれど)フランスの国境に近い町はずれで、サーカスの一座に引き渡された。

 親方はフランス人らしく、あたしの顔を見ると、

「ミニヨン、ミニヨン」と叫んで狂喜した。

 これも後で知ったけれど、ミニヨンとはフランス語で可愛い子ちゃん、という意味だった。


 こうしてあたしは、本当の名前も忘れ果て、ミニヨンと呼ばれて旅回りのサーカス団の中で育てられることになった。


 四頭立ての馬車を4台も5台も連ねた、大きなサーカス団たった。

 30人ほどの団員は、イタリア人フランス人スペイン人とさまざまだった。あたしのように、幼くして売られてきた子ども達も何人かいた。

 サーカス団での待遇は悪くはなかった。

 ミニヨン、ミニヨンと言って可愛がって貰えたし、

早くから歌と踊りとそして玉乗りの芸を教え込まれたけど、

同じ年頃の子ども達がやらされているような危険な軽業は、顔に傷が付くからという理由で免除されていた。

 水仕事や馬の世話など、手の荒れる雑用も免除された。

「俺はお前を、一座の花形の舞姫に育てあげたいんだ」

 親方は、舞台で華やかに踊っている看板の踊り子に目を注ぎながら、少し声をひそめ気味にして言うのだった。

「あの、フィリーナを見なよ。申し分なく美人で愛嬌もあれば歌も踊りもうまい。玉乗りだって達者だし綱渡りもできる。けど、何かが足りないんだ」

 そしてあたしに目を向けて、言葉を継いだ。

「お前を一目みて、それが分かった。あの娘には品格がないんだ。お前にはそれがある。侯爵家の姫君にしてもおかしくないほどの気品というものがな。ミニヨン、あと5年もすればお前は女になる。パーッと花がひらくようにな。そうなったらこのサーカス団も、世界一になるってエもんだ。なにしろ、落ちぶれてサーカスに身を売った侯爵家の姫君が歌って踊って玉乗りをするんだからな」


●「男爵」の魔手は逃れたけれど「自動人形」へ格下げされて‥‥


 5年が過ぎた。

 あたしは歌も踊りも上手になった。背も伸びた。

 フィリーナがあたしを脅威と感じ始めていることが、何となく分かった。

 その間にもサーカス団はフランスの南部をめぐり、スペインに入り、またフランスに引き返してパリに暫くとどまって、次はドイツを目指すということだった。

 ドイツとの国境に近い、天を突くように高い大聖堂のある町で興行をしていた時のこと。

 舞台で踊るあたしを、連日、かぶり付きでジッと見ている男の人がいた。何となくお忍びの貴族らしい気がした。

 ある日、親方はあたしを呼んで、言った。

「聞いて喜べ。男爵様の目に留まったぞ。お前もいよいよ女になるんだ。丁度、おとつい初めての月のものがあったと、ジェリーに聞いたしな」

 不安げなまなざしを向けるあたしに、親方は畳みかけた。

「手付金は貰ってる。だから、お館に行って渡された金はみんなお前のものになるんだ。自分の財産ができるんだぞ。フィリーナだってそうやって相当貯めこんでやがる。それで自分を身請けして、パリでつかまえた男といっしょになって商売を始める算段らしいがな」

 何も分からないまま、夜になって迎えにきた馬車に乗せられて、館に連れていかれた。

 かがり火に浮かび上がった玄関の円柱の彫刻は、記憶にある湖畔の家を思い起こさせた。

 けれども、寝室に連れていかれ、入ってきた「男爵」に着衣を剥がれると、羞恥と恐怖と嫌悪がいっぺんに襲ってきた。

「嫌です、やめて下さい!」

「なにをいうんだ、この玉乗り娘が。いくら払ったというんだ」

 あたしは力任せに押さえつけてくる腕に噛みついた。

「痛たた、この淫売っ子が離せ!」

 腕をねじ上げられた。目が回った。手足が勝手に動き、痙攣した。口から泡が出てきた。

 ひきつけを起こしたのだった。

 慌てて「男爵」は人を呼んだ。

「お前はまだ、女になっていなかったのだよ」

 医者を帰すと、男爵は言った。「あのサーカスの団長め。いい加減なことを言いおって」

 そして、金貨の入った小さ目の袋を渡して言葉を継いだ。

「約束のお金の4分の1だけ渡しておくよ。あと一年たてばお前は確実に女になる。そうしたらまた迎えを出す。なんといっても私はお前を気に入ってるんだからな。珍しい髪の色、黒い大きな瞳、陶器の人形のような整った顔。あのルネ・デカルトの有名なフランシーヌ人形もかくや、ていうもんだ」

 男爵の予言は実現しなかった。

 月のものはそれっきり止まってしまった。膨らみかけた胸も、それ以上大きくならなかった。

 背丈は少し伸びたが、それがかえって、少女というより少年っぽい感じを与えるようになった。

 団員の同じ年頃の少女たちが日増しに女らしくなっていくのに引き比べ、あたしはいつまでたってもちょっと開きかけた蕾のままだった。

 親方の落胆と怒りはたいへんなものだった。

「いったい何時になったら女になるんだ、エエッ? お前にいくらはたいたと思ってるんだよ」

 そのうちに抜け目のない親方は、あたしの新しい売り込み方を思いついたらしかった。

 髪を短く切られ、少年の服装をさせられた。

 少年が習うものとされていた、ギターを習わせられた。

 エッグ・ダンスという、少年のやる難易度の高い軽業踊りも覚えさせられた。

 そのうちに、しばらくパリに行くといっていなくなったかと思うと帰ってきて、奇妙なことを言い出した。

「パリじゃ、ヴォ―カンソンっていう時計師が大評判だ。背中のネジを巻いただけで、ぜんまい仕掛けで踊ったり笛とかギターを演奏したりの人形を作ってな。オートマトンって言うらしいんだが。妙ちきりんなこったが、ヴォーカンソンの自動人形オートマトンはみんな男の子なんだ」

 そして、あたしにチラッと目をやって、周囲に言うのだった。「このミニヨンそっくりの自動人形もあったぞ。それで思いついたんだが、背中に大きなネジのついた服を作ってこいつに着せろ。それでギターを弾きながら踊らせるんだ。わがサーカスの看板オートマトン、ミニヨン少年のギターと踊りでござ~い、てなわけでな」

 団長の思いつきは実行された。


●運命の人との出会い


 サーカス団がドイツに入って二年目のこと。

 その年の冬は経験したことのないような厳しいものになった。

 ストーヴの傍にいても、体のふるえがとまらなかった。

 あたしは風邪をこじらせて、春になっても小さな咳をいつもするようになった。

 イタリアへ行きたい、帰りたい、と心から思った。

 故郷の町がどこかも分からない。

 両親の顔も名も知らない。

 それどころか自分の本当の名も知らない。

 それでも、思い出の中の湖畔の風景は忘れることがなかった。

 レモンの花が咲き、暗い木陰には黄金色のオレンジが燃えていた。

 青い空からやわらかい風がそよいでいた。

 ミルテは静かに、月桂樹は高くそびえていた。

 行きたい、帰りたい、南の国へ。

 想いはつのった。

 サーカス団から脱走してでもイタリアをめざしたかった。

 南の地平を白い壁のようにさえぎるアルプスを越えてでも。

 おそろしい山賊や人さらいの噂が絶えることがなく、

単身向かっても、もっとひどい境遇に沈められることは火を見るよりあきらかだったけど。

 やがてサーカス団は南ドイツの大きな町についた。

 そこで腰を据えて、1週間ほど興行を打つということだった。

 その町でのことだった。

 運命の人、ヴィルヘルム・マイスターさんに出会ったのは。


 それは、この町でのサーカスの興行が始まって二日目のこと。

 頭痛がするといって宿舎にしていたホテルの部屋に籠っていると、勢いよくドアがあけられて、鬼のような形相で親方が入ってきた。

「ミニヨン、いつまで寝てるんだ。今日はお前の晴れ舞台をお客さんに見せる日なんだ。ピエロのジャン=ポールがいう口上も用意してある。

 サアサアこれなるは、ルイ十五世ご用達の世界一の時計師ヴォーガンソンが、造化の神に祈って作り上げたオートマトンの最高傑作、ミニヨンでごさ~い。背中のネジでゼンマイをまいただけでギターを弾きながら歌って踊る、絶世の美少年の姿をかたどったミニヨン人形の、晴れぶた~い。じゃじゃじゃ~ん、てな」

 そして、「さあ、早くこれを着るんだ」と、背中に大きなネジの模型のついた衣装を投げつけた。

「頭痛がするし。それにそんな恥ずかしいものを着てインチキな踊りはできません‥‥」

「なんだとこの役立たずのデク人形が!」

 親方は烈火のごとく怒って、あたしの髪をつかむとベッドから引きずりだした。力任せに階段を引きずり降ろし、ホテルの通用口から連れ出そうとした。

 あたしは手すりにつかまって抵抗した。

 親方は鞭を取り出し、あたしの肩といわず背中といわず、全身を打ち据えた。「この役立たずめが。お前に幾らはたいたか、分かってるのか!看板の舞姫に育て上げるつもりだったものが、デク人形なんかになりやがって!」

「やめてーッ、痛、痛~い、許してーッ」

 騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。

「やめるんだ、こら!こんな小さな女の子に何するんだ!」

と、止めに入った若い人がいた。

 それがヴィルヘルムさんだった。

「なんだと、この若造。俺のサーカスの子どもだぜ。大枚はたいて買った俺の財産なんだ。ひっこんでろ」

 そういうとなおも、鞭を振り下ろし続けた。

「やめろってのに、この悪党!」

 若い人の仲間らしい何人かが加勢して、親方を羽交い絞めにして鞭を取り上げた。

「警察を呼ぶぞ」若い人が、仲間に目配せした。

「そうだ、その子だってどっからさらってきたか知れたもんじゃない」

群衆の間から声があがった。

「け、警察だけは勘弁して下せえ、旦那」

 親方は急におとなしくなると、若い人の裕福そうな身なりに目を留めて、伺うような口調で続けた。「それとも何ですかね、このデク人形を買った値段と育て上げた費用いっさいがっさいを、払ってくれるとでも言うんですかね」

 その間にあたしはその場から逃げ出していた。

 ホテルの角を走って曲がったところで、竪琴を背負った男の人にすれ違った。

「サーカスの子じゃないですか。そんな恰好でどこ行くのです?」

 振り返るとホテルのヴァイオリン弾きだった。

 事情を話すと、他に行き場もないだろうからと、ホテルの楽師専用の控室にしばらく隠れているよう勧められた。


●吟遊詩人


 控室には他に誰もいなくって、ヴァイオリンだけが立てかけてあった。

「楽師さんの得意はどっちなのですか?ヴァイオリン?それとも竪琴?」

「私は元々、竪琴で歌う旅の吟遊詩人。この町では、たまたまヴァイオリンの楽士の空きがあったので、これで弾いてますけどね」

 そして、ヴァイオリンを取り上げて、スペインの情熱的な曲を弾いてみせた。今は何とか完璧に踊れるようになった、エッグ・ダンスの伴奏に使う曲に似ていた。それから仕事だといって出て行った。

 その夜はひとり、控室で夜を明かした。

 翌朝になるとウィルヘルムさんが、仲間と4,5人で、楽師さんに聞いたといってやって来た。

「ミニヨンって言ったね。あの団長にはお金を払った。君はもう自由なんだよ」

「幾らだったのですか?」

 ひどく高い金額がかえってきた。あたしのわずかな貯えの、何百倍という額だった。

「一生懸命あなたのところで働いて、返します」

「ミニヨン、君を買ったわけじゃない。もう自由なんだよ。どこへでも行っていいんだよ」

「あたしには行くところなんかありません。どこで生まれたかも、親の顔も名も知りません。さらわれた子なんです。自分の齢も、本当の名前だって知らないんです。どうか、あなたのそばにおいて、働かせて下さい」

 ヴィルヘルムさんは、仲間と顔を見合わせた。みんな、深い同情を覚えたらしかった。仲間のひとりらしい美しい若い女性の目には、涙が光っていた。

「いいじゃないの、置いてあげれば。あなたぐらいの大金持ちのボンボンなら、給仕役のボーイをひとり雇ってもおかしくないでしょ」

 女性が言った。

 こうしてあたしは、ホテルに小さな一室を与えられ、ウィルヘルムさんの身辺の雑用をすることになった。


●エッグ・ダンス


ウィルヘルム・マイスターさんは北ドイツの大きな商会の跡取り息子で、商用でこの町に来ていたのだった。

 元々、商売よりは演劇に関心があり、たまたまこの町で出会った役者の一団と意気投合し、新しい劇団を旗揚げしようと相談していた。美しい女性はアウレーリアという名の女優で、劇団の中心メンバーとなる予定だということだった。

 演劇の話になると生き生きとしていたけど、商談がうまくいかないらしく、難しい顔をすることが多くなっていた。

 あたしはサーカスから解放して貰った恩にもっと報いたかった。思いついたのはエッグ・ダンスの披露だった。

 楽師さんのところへ行って伴奏を頼んだ。ギターはサーカス団に置いてきてしまったし、ヴァイオリンは弾けなかったので、あたしの歌で伴奏のメロディーを覚えてもらった。

 準備が整うと、夜おそく帰ってきたヴィルヘルムさんを捕まえて言った。

「エッグ・ダンスはサーカスで覚えた、たった一つの得意芸です。きっとびっくりします」

 そして、自分の部屋から絨毯と大きな籠に一杯入れた卵を、ヴィルヘルムさんの広いルームに持ち込んだ。

 絨毯を敷き、四隅にロウソクを立て、卵を絨毯いっぱいに並べた。

 ヴァイオリンを持って入ってきた楽師さんが、「私がミニヨンのエッグ・ダンスの伴奏をします」とあいさつした。

 あたしは、白い布で自分で目隠しをした。

 そして、ヴァイオリンの楽の音に合わせて、絨毯の上で踊り始めた。

 親方に鞭うたれながら必死で練習しているうちに、両足に目が付いたように、卵のあるところを感知できるようになっていたのだった。

 ヴァイオリンの速度が最高になったところで、何度も高く飛び上がった。

「あ、あっ」というヴィルヘルムさんの驚きの声が上がった。

 それでも卵は、一つも踏みつぶすことはなかった。

「ありがとう。素晴らしい踊りだったよ。こんな踊りは見たことがない」

 楽師さんが帰ると、ヴィルヘルムさんはあたしを抱きしめて言った。

「今まで忙しくて構ってやれず悪かった。そうだ、明日、街で新しい服を作ってあげよう」

 そして、他に欲しいものがないか尋かれたので、ドイツ語の読み書きを教えて欲しいと頼んだ。

 ウィルヘルムさんに手紙を書けるようになりたかったから。


●時空をわたる吟遊詩人


 相変わらずヴィルヘルムさんの身辺の雑事をし、時々ドイツ語の読み書きを習いながら、日が過ぎた。

 楽師さんとはその後、すっかり仲良しになり、毎日のように楽士控室を訪れるようになった。

 ある日、竪琴でいちばん好きな歌を歌って聴かせて欲しいと頼んだ。

 すると、竪琴をつま弾き小唄をいくつか歌って聴かせてから、「ミニヨン、次はあなたと合作で、二重唱ができる歌を作って歌おう」と言うのだった。

 そうやってできたのが次の歌だった。


  語れと言わず、黙れと命じて下さい

  秘密を守るのがわたしのつとめです

  こころのすべてをあなたにお見せしたいのですが

  運命はそれを望まないのです


  時がくれば、太陽がのぼり

  くらい夜を追いはらい、明るく輝きを増す

  かたい岩根も、その胸をひらき

  ふかく隠れた泉を地上に溢れさせましょう


  人はみな友の腕にやすらぎを求め

  そこに胸の嘆きをそそぎます

  しかし、わたしの唇は誓いにとざされ

  これを開くことができるのは、神さまだけです


 歌いながらあたしは、謎めいた思いに胸を閉ざされた。

 竪琴を弾いて歌う楽師さんは、老人だと思っていたのにずっと若く、あたしといくらも違わない少年のような気がしてきた。

 それも、いつかどこかで会ったことのあるような。

「楽士さん、あなたはだれ?」あたしは思わず問うていた。

 不思議な答えが返ってきた。

「時空をわたる吟遊詩人。」そして一言つけ加えたが、それは次のように聞こえたようだった‥‥。

「名は古泉一樹」


● 君よ知るや南の国、あるいは、また図書館に


 ヴィルヘルムさんが町を去る日が近づいた。

 もっと大きな町へ行って、この町でできた演劇仲間たちと、新しい劇団を旗揚げするということだった。

「ミニヨン、悪いけど君は連れて行くわけにいかないんだよ」

 そう言われてあたしは、目の前が真っ暗になった。

 胸が苦しく、息ができなくなった。

 仰向けに倒れた。

 ひきつけの発作を起こしたのだった。

 ヴィルヘルムさんはひどく驚いて言った。

「分かった。何とか連れて行くことにしよう」

 あたしは、あの竪琴弾きの吟遊詩人も一緒に連れて行って欲しいとお願いした。ホテルでの仕事が終わって、また放浪の旅にでるということだったから。

 その願いも聞き入れられた。

 あたしは天にも昇る心地だった。何とかしてお礼をしたかった。

 翌朝、古道具屋で貯金をはたいて買っておいたギターを抱えて、ヴィルヘルムさんの部屋のドアの外に陣取った。

 そして、ギターにあわせて、以前から用意していた歌をうたった。

 一目でいいからもういちど故国を見たいという願いをこめて。


  君よ知るや南の国。レモンの花咲き、

  暗き木陰に、黄金なすオレンジ燃え、

  青き空より、やわらかき風のそよぎ、

  ミルテ静かに、月桂樹ローレルは高くそびゆる。

  君よ知るや、かの国を。

    かなたへ、かなたへ、

  おお、いとしき人よ、君と共に行かまし。


 ここまで歌ってきて唐突に、これは夢だ、と気がついた。夢ならば自分で好きなように変えられるはずだった。

 あたしは、二番を次のように変えて歌った。


  君は知るかの図書館を、円柱まるばしらに屋根は安らい、

  広間はかがやき、書棚は列なしてそそり立ち、

  ひしめく書物たちは、我をいざなう、

  おいで、手に取って読んで、一冊一冊が宇宙、と。

  君は知る、かの図書館に我を導きしは君なれば。

    かなたへ、かなたへ、

  おお、いとしき人よ、君と共にまた行かまし。


 歌い終わったところで、眼が覚めた。


●現実への帰還、ミニヨンの死、窓辺にて


 昼休みに文芸部室で『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の続きを読んでいると、彼が入ってきた。

「あなたと涼宮ハルヒは二時間三十分、この世界から消えていた」

とだけ言って、また読書を続ける。

「貸してくれた本な、今読んでるんだ。あと一週間もしたら返せると思う」

「そう」

 一呼吸おいて、彼は問うた。

「教えてくれ。お前みたいな奴は、お前の他に地球にどれだけいるんだ」

「けっこう」

「なあ、また朝倉みたいなのに俺は襲われたりするのかな」

 顔をあげ、彼を見つめて答えた。

「あたしがさせない」

 図書館の話が出ることもなく、彼は出て行った。あたしの胸に、かすかな疼きを残して。

 古泉一樹はその日は部室に現れなかった。

 会ったとしても、夢の中で吟遊詩人として出てきた、などという話をするつもりはなかったけれど。

 次の時間はあたしの組は自習だったので、そのまま部室に残って本を読み続けた。

そして、ミニヨンの死の場面まで来た。

 ヴィルヘルム・マイスターがミニヨンのいる場で、他の美しい女性と結婚の約束をかわすのだ。

 ミニヨンは、「アッ」と小さく叫び、胸をかきむしって倒れた。数日後には息を引き取った。

 ヴィルヘルムさんと共にイタリアへ行くという、願いがかなうこともなく。

 この頁を読んで、胸に鋭い痛みを感じた。胸郭いっぱいに何かが詰まって膨れ上がるような苦しさだった。

 痛い、胸がいた~い、どうしたの?

 あたしは、このところ黙らせておいた脳内装備型日本語変換辞書を呼び出した。

――悲しみ。胸の張り裂けるような悲しみ。あなたはミニヨンの死を悲しんでいるの。あなたは、ミニヨンは自分だと感じていたから――

 これが悲しみ?でも、どうして涙というものが出ないの?人間が目から流す、水ではないもっと淋しい粒が。

――あなたの初期設定が、そうなっていなかったから。だから、あなたは待たなければならないの。窓辺でたくさんの小説を読んで、涙の訪れを待たなければならないの。そんな日が来たら、きっと微笑みもまた、あなたの口元に浮かぶようになるの――

 


 だから今日も窓辺で本を読みながら、水でないもっと淋しい粒が目からこぼれ落ちる、その日を待っている。

 いつか微笑みが、陶器の人形のようなこの顔に浮かぶ日を待っている。



(原作:Yuki Nagato/ 脳内口述筆記:アグリッパ・ゆうき)

*口述筆記者註:原作者長門有希が読んだ版は『ゲーテ全集7:ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(前田敬作・今村孝 (訳)、潮出版社、2003)で、詩もそこからの引用です。

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