第7章 乱(1)

 カザトにとって養老四年(七二〇)は不吉な予感のする年明けとなった。

 朝賀の儀で吠を発し、つつがなく役目を終えて秦姉弟の邸に招かれ、ささやかに新年を寿いでいた折りに邸の庭に突如として何かが投げ込まれ、大きな音を立てて砕け散ったのだ。

 すぐさまカザトと貴志麻呂が外へと飛び出し、狼藉者を探したが既にその姿はなかった。帰って庭を検めるとどうやら素焼きの壺のようなものらしい。しかも器面には墨で何かの模様が付けられており、よくよく見ると人の顔らしきものが描かれているようだ。

「新年早々、いやな思いをさせちまったな」

 貴志麻呂は苦虫を噛み潰したような顔でカザトに詫びている。

 貴志麻呂の姉も強張った表情で壺の欠片を拾い集め、庭を清めた。人面を描いた壺のことはカザトも耳にしたことがあった。恨みのある人物に似せた絵を描いてその人に禍事が降り注ぐよう祈る、呪術だ。

 呪いなどただごとではない。嫌がらせにしては度が過ぎるうえに、そもそも姉弟が他人からそんな恨みを受ける謂われがあるとでもいうのか。

 あまりのことにカザトが問い質すと、最近はしばらく止んでいたものの、貴志麻呂の姉が婚家から戻ってきた頃を境にしてこれまで幾度もこのようなことがあったらしい。

 どのような事情があるのかは分からないが、卑劣な行いにカザトは総身の毛が逆立つほどの怒りを覚えた。自分が秦姉弟のためにできることがあるのならば、どんなことをしてでもこの二人を守ろう、そう強く心に思い定めた。

 だから後日、貴志麻呂の姉が市に薬の原料を求めに行くという際には進んで供を申し出た。護衛、とまで言っては大袈裟だが荷運びなど何かの役に立つだろう。

「カザトさん、お待たせしました」

 邸から出てきた貴志麻呂の姉は庶民が身に付ける白い衣をまとっている。

 市に出かける時はなるべく目立たないよう、いつもこの姿で通しているのだという。

 質素な服ではあるが何やらいつもより華やいでいるようにも見え、カザトは少し安堵する。思えば彼女と二人だけで出かけるのも初めてのことだ。

 平城京には羅城門寄りに東西二つの市が設けられている。

 月の前半は東の市、後半は西の市がそれぞれ開かれ、市司(いちのつかさ)の管轄のもと正午から日没までありとあらゆる物品が取引されていた。

 またここは、ヤマトの人ばかりではなくカザトたちのように遠国からやって来ていると思しき者や、外つ国からの来訪者であろう、肌や髪、眼の色までも異なる人々が坩堝のように往来している。

 月のはじめにあたる今日は東の市だ。貴志麻呂の姉は勝手知ったようにどんどん市の奥へと歩を進めてゆく。

 次第に市の様子も雑然とし、少々治安の悪そうないかがわしい界隈も散見される。カザトは油断なく周囲に目を光らせ、さりげなく雑踏から彼女を守るように気を配っている。

 お目当ての薬種を扱う店で必要なものを購った貴志麻呂の姉は、安心したかのようににっこりと笑うと明るい声を出した。

「ありがとう、カザトさん。お蔭さまで無事に買い物がすみました。あとは一人でも大丈夫ですから、ここまででけっこうですよ」

 だが、カザトはかぶりを振って彼女に早口で囁いた。

「誰かに尾けられているようです」

 先ほどから不自然な動きの二人組が、付かず離れずの距離を保ちながら追ってきているのだ。用心するに越したことは無い。

「気付いておられましたか……」

 貴志麻呂の姉は諦めたように力なく微笑むとそう言った。

 彼女も尾行に気付いていながらカザトを巻き込むまいと別行動をとろうとしたのだ。こんな時にまでそんな心遣いをすることにやるせ無いような思いに駆られる。

「巻きましょう。大路にまで出れば安全です」

 カザトは貴志麻呂の姉の手をひいて小走りに雑踏をかき分けた。

 籠売りを追い越し、大道芸で軽業を披露している一座の間をすり抜けた。しばらく進んだところでふいに疏菜を売る店の隙間を通って西へ折れ、じぐざぐに道をたどりながら大路の近くまで抜けてきた。

 あやしい二人組も、もう追っては来られまい。

 軽く息が上がっているが顔を見合わせた二人はどちらからともなく笑い出した。ひとしきり笑い合った後、貴志麻呂の姉はぽつりぽつりと事の成り行きを語り出した。 

 一連の嫌がらせは彼女のかつての夫と関係があるのだという。

 普段はおとなしい男だったが、酔いにまかせて人が変わったように乱暴になり、徐々に彼女に手を上げるようになったらしい。

 やがてその度合いは激しさを増し、ついに命の危険を感じることさえあるようになったという。ある時あまりの暴力に無意識に技を遣ってしまい、腕の上げおろしが不自由になるほどの怪我を負わせてしまった。

 無論、身から出た錆ではあるが、自尊心を傷付けられたその男は、貴志麻呂の姉に深い怨恨を抱くようになった。体面上は子ができないことを理由として離縁に至ったというが、その真相は男の醜い逆恨みによるものだったのだ。

「あの人はずっと私を怨んでいるのです。それでああして時折り嫌がらせをするのです。それもこれもみな……私の不徳のいたすところにほかなりません」

 貴志麻呂の姉は何度もカザトに詫びた。

「詰まらないことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。もっと楽しい時間を過ごせたはずなのに……。本当にごめんなさい」

 いたたまれなくなって、カザトは彼女の言葉をさえぎった。

「これからは必ず、どこへでもお供します。だから、お一人で背負い込むのはもうおやめください。これからは、私が必ずお守りします」

 驚いたようにカザトを見上げる貴志麻呂の姉に、やがてゆっくりと微笑みが戻った。そうだ、もうこの人に指一本触れさせるものか。自分がこの人の楯になるのだ。

 その時、馬のいななきが聞こえ慌ただしい蹄の音が近づいてきた。

「おられた。あそこだ」

 見ると衛門府の役人が二人、血相を変えてこちらへやってくる。

 騎馬の彼らには見覚えがあるが、随分急いでいたのか二人とも全身汗みずくだ。カザトの前で馬に急制動をかけるとドウドウ、といなしながら荒い息のなか叫ぶように要件を伝える。

「阿多のカザト殿ですな。中納言様より大至急のお召しです。すみませんが後ろにお乗りください」

(旅人さまからの呼び出し……?)

 それにしても彼らの様子からしてただ事ではないだろう。貴志麻呂の姉も不安そうな眼をカザトに向けている。

「秦の姫君は私がお邸までお送りしますゆえ。お急ぎを」

 もう一人の申し出をありがたく受けることにする。衛門府の役人が護衛につくのならまず帰りの心配はないだろう。後ろ髪を引かれるような思いは残るが、まずはとにかく行かねばなるまい。

「姉上様、御用をお聞きしたらすぐ戻ります。それまでお一人では出歩かないでくださいね」

 そう言い残すと、カザトは馬上に飛び乗った。待ち構えたように駆け出す馬の背で、不穏な空気に背筋が冷たくなっていくのを感じていた。

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