第4章 朝賀の儀

 その年もやがて暮れに近づいてゆき、時折雪も舞い散るような寒い季節が訪れた。 

 南国育ちのカザトには信じられないほどの空気の冷たさであり、仲間の隼人たちの間でも半ば畏怖をもってヤマトの寒さが話題となっている。

 吐く息がそのまま雲のように凝ってしまう様に呆れながらも、カザトはそれを追い越していくように足早に帰路をたどっていた。

 今日も秦姉弟の邸に招かれ、すっかり遅くなってしまったのだ。たびたび招待を受けるようになったカザトはよりいっそう姉弟と近しくなっていき、少しずつ彼らの身の上を知るようになっていった。

 早くに両親を亡くし、祖父に育てられたこと。

 貴志麻呂は貴人の近辺に仕える「舎人(とねり)」として勤めていること。

 貴志麻呂の姉は一度嫁いだものの、子ができないことを理由に離縁され家に戻ってきたこと……。

 極めて個人的なことまで話題に上るほどに親しみが増していたが、出仕の身であるカザトはさすがに自身の宿舎に姉弟を招くことは難しいため、心苦しい思いを持ちつつも厚意に甘えて招待に応じることにしていた。

 カザトたちのような今来の隼人には給与として、男の場合は春と夏に絹一尺(約三〇センチメートル)、布二端(一端は約七二センチメートル×一二・六メートル)、傭布一段、糸三絑、塩一斗が支給された。

 女の場合には塩がない代わりに布類がそれより多く割り当てられる。

 秋と冬には絹一疋(一疋は二反)、綿三屯、布二端、傭布一段、糸三絑、塩一斗が配され、女には傭布と塩がないが、やはり布が少し多めに配られるのは春夏の時と同じだ。

 また、月ごとに粮米も支給され、男は一日あたり黒米三升(一升は現在の約四合)、塩三勺、女は黒米二升に塩二勺と定められている。

 あとは三年に一度、布衾(ぬのふすま)と鋪設(しきもの)が与えられることになっているが、一人当たり調布一端、綿十三屯、蓆(むしろ)一枚、薦(こも)一枚、折薦二枚をもって充当されるとのことだ。

 したがってカザトは阿多で暮らしていた頃とは比べものにならないほど物持ちになっていた。しかしさりとて使うあてもそうはなく、元はといえば自分たち同様に各地からの租税や出仕によって賄われているものであることを思えば複雑な気持ちにならざるを得ない。

 そこで秦姉弟の邸をおとなう際には布や糸などを持参した。なかなか受け取ろうとはしなかったが、時服には充分間に合っているので、という理由で無理にも手渡すようにしていた。

 布や糸などは作るのに膨大な手間と人手のかかる貴重品だ。少しでも姉弟の役に立つならこんなに嬉しいことはない。

 さらに先の定期的な給与とは別に、もし今来の隼人が任地で死亡した場合、賻物(ふもつ)として絁(あしぎぬ)一疋、調布二端、傭布一段、白米五斗、酒一斗、腊一斗五升、塩三升が給せられることになっているのだ。

 畿内から出仕する番上隼人らにはこれらの時服や粮米が支給されないことを思えば、恵まれていると口に出す者も少なくはなかった。

 しかし、それらの品々はそもそも多くの民から租税として徴収したものなのだ。

 それにはもちろん、故郷に残る仲間の隼人たちや、あるいはカザトたち自身が納めた物も含まれているはずだ。そればかりか、はるか遠国から朝貢に来ていることも考え合わせれば、これらは決してヤマトから与えられている訳ではない。

 それは「国」という巨大な仕組みがもたらす欺瞞なのではないか。

 偽らざるそんな気持ちがカザトの心にいつも翳を落としている。

 半分ほどになった月は冷たく透き通り、いっそ白銀に見えるような煌々とした輝きで都を射すくめている。

 カザトが大通りにさしかかった時、月光に照らされた人の姿が街路樹の柳の合間に長い影を曳いているのが目に入った。

 影はゆらりゆらりと長くなったり短くなったりしながら、それ自体命を持ったかのようにたゆとうている。影の主はどうやら舞を舞っているらしい。

 だがその動きにカザトの眼は釘付けになった。左右に大きく動いているのにもかかわらず頭が常に一定の高さを保ち、見事なまでに水平に移動している。

 上下に身体を動かす時でさえもその律動はさざ波が汀を洗うような緩急を生み出し、何やらこの世ならぬものが人の姿を借りて舞っているような、幽玄の美しさを醸し出している。

 カザトはその舞いに見覚えがあった。

 朝貢にやってきた際、大隅の隼人たちが奏上した「隼人舞」だ。そして長身総髪の舞人は、こちらに背を向けた恰好なので顔はしかと見えないが大隅のヒギトに間違いない。

「この舞の意味を知っているか」

 ふいに声を掛けられてカザトは我にかえった。声の主は振り返りもせず語りかけてくる。

 都大路はまるで舞台のように月下に浮かび上がり、そこに佇むヒギトは孤高の俳優(わざおぎ)そのものだった。

 隼人舞の意味ならもちろんカザトも知っている。そう、隼人とミカドの祖先とされる海幸彦・山幸彦の兄弟神の伝説に由来しているのだ。

 海神の庇護を受け、潮の干満を操る宝珠の力を手にした山幸彦に屈服した海幸彦は、以後永遠に臣下として仕えることを誓う。

 隼人舞はその時、宝珠の力で押し寄せた波に海幸彦が溺れて苦しむ様を表しているのだと伝えられている。だから潮が足につけば足裏を擦り、膝に至れば脚をあげ、腿にまでくれば走り回り、腰に至れば腰をひねり、脇にまで到達すれば手を胸に置き、とうとう首までくれば手を上げて、段階的に上昇する水位と溺れる様子を表現しているという。

 朝貢の折などに奏されるこの舞は、ともすれば滑稽にも見える仕草と隼人がヤマトのミカドに仕えることの由来を演劇的に強調するため、誰ともなく「服属儀礼」と呼ばれていた。

 たしかに遠国より命をかけて足を運び、方物を納め、笑いを誘うような舞楽を奏するなど服従以外の何物でもなかろう。しかもそれは、全国各地からやってきた多くの人たちの前で行われるのだ。これみよがしのヤマトの示威行為として、まるで見せしめのようだとも思う。

「舞の意味はよく知っている。君が一人でその舞を稽古しているとは思わなかった」

 率直にカザトがそう言うと、ヒギトはようやくこちらを振り向いた。月明かりを反射して、強い眼の光がまっすぐに射貫いてくる。まるで両の眼に月を宿しているかのようだ。

「ああ、だがこの舞はいい鍛錬になる」

 そう言ってゆるりと一回転したヒギトの軸はいささかも揺るがない。

「朝貢などとたいそうなことを言うが、実に大がかりな茶番だとは思わないか。ミカドの徳に蛮族どもがひれ伏して、貢ぎ物と歌舞音曲を捧げに来る、という陳腐な筋書きのな」

 穏やかな口調とは裏腹な激しい言葉を吐きながら、ヒギトが拳を握りしめるのが分かった。

「俺はヤマトの連中の前で舞う時には、隙あらばいつでも躍りかかって一人ずつ頸の骨をへし折ってやるつもりでいる。一瞬たりとも気を許さず、大隅隼人の身のこなしを見せつけてやるのだ。だから、全身全霊で舞う」

 ヒギトの言葉は、ヤマトに朝貢に来た大隅隼人たち全ての思いを代弁しているのかもしれない。

 つい先ごろ大きな戦があったように、隼人たちの中で最も激しくヤマトへの抵抗を続けてきたのは大隅の一族だ。例え滑稽な舞で服属儀礼に甘んじていたとしても、心のうちではヤマトの喉元に突き付けた刃であろうとする矜持は失われまい。

 その点では同じ隼人でありながら、大隅の者と阿多の者は大きく立場が違う。

 阿多の一族の本貫地である薩摩半島はすでに薩摩公が掌握し、もはや阿多隼人は畿内において命脈を保っているほどではないだろうか。

 しかも先の戦では薩摩の隼人たちもヤマトの軍勢として大隅隼人の鎮圧に従軍している。

 大隅と阿多とは同じ隼人でありながらそんな複雑な軋轢を抱えているのだ。それに、ヤマトが真に恐れているのは大隅隼人の方だろう。

 飽くなき抵抗の闘志は未だくすぶり続けているはずだ。だからこそ、畿内隼人の統率者である大衣には大隅隼人を格上の左大衣に据えているのだ。

 朝貢という体裁は必ずしも降伏や絶対的な服従を意味するものではない。

 静かな戦いが、ヤマトと大隅隼人の間には続いているのだ。そしてヒギトも彼なりの方法で戦っている。

 そんな考えに思い至り、カザトは一層複雑な思いに駆られる。隼人とヤマト、真の和は実現されないのか―。

「何故ヤマトの人間に尻尾を振る」

 唐突な問いかけにカザトは言葉を詰まらせてしまう。

 ヤマトの人間に尻尾を振る? 

 秦姉弟との交誼や、衛士たちとの交流のことを言っているのだろうか。それがヤマトに阿ることだとでも言いたいのだろうか?

「ヤマトと隼人は決して相容れない。永久にだ。忘れるな、阿多のカザト」

 そう言ってヒギトは、月の光の届かない暗闇に溶け込むように消えてしまった。

 幕の引かれた舞台のような空っぽの大路は一層その白々しさを増し、カザトはしばし言葉もなく立ち尽くしていた。


 養老二年(七一七)の元旦をカザトは緊張した面持ちで迎えていた。ついにもっとも重要な任務の一つである「朝賀の儀」に供奉する日がやってきたのだ。

「平城京」と呼ばれる奈良の都は外郭を含めて三重の構造となっている。

 最も外側となる「羅城門」を正門とする第一の囲い、ここには外周よりに一般庶民の家々や市もたっており、宮城に近くなるほど貴族や高官の邸宅が集中するようになる。

 ヤマトの政を司る様々な機関が集中する第二の囲いは「朱雀門」を正門とし、四周に合計十二の門が設けられており、それぞれに各門を守る使命を帯びた「門号氏族」が常時睨みをきかせている。

 そして平城京の最奥部である「大極殿」や「朝堂院」の鎮座する第三の囲いには「応天門」が設けられている。朝賀の儀においてはこの応天門の前に隼人たちが左右に分陣し、門をくぐる百官たちに向けて「吠声」を発し、邪を払うのだ。

 この時隼人たちは独特の装束の着用を義務付けられる。

 今来隼人であるカザトも大横布衫(ひとえ)を着用し、襟袖と布袴には両面の襴(らん)を着けている。背中から両の腕には天女の羽衣のような緋帛肩巾(あかききぬひれ)をかけ、腰には横(た)刀(ち)を、頭には白赤の木綿(ゆう)でできた耳形鬘(かつら)を着けるという出で立ちだ。

 そして右大衣のソバカリいわく〝風〟を表しているのだという、独特の鉤模様を描いた楯と長い木ホコを手に執り、胡床に座って百官の入場を待ち受けているのだ。

 左右の大衣が番上隼人二〇名、今来隼人二〇名、白丁隼人百三十二名を従えて居並ぶ様はまさに圧巻だった。

 そして吠声を発するのは今来の隼人たちの任務だ。

 カザトは対面に陣取る今来の大隅隼人たちに視線を走らせる。ヒギトはもっとも応天門に近い側に端座しており、その貌からは何の感情も読み取ることができない。

 やがて朱雀門の方で人の動く気配があり、次々と文武の百官が入場してきた。位の高い順に、深紫・浅紫・深緋・浅緋・深緑・浅緑・深縹・浅縹の朝服をまとった色とりどりの官人たちの列が、粛々と進み来る様にカザトは息を呑んだ。

 五位以上の高官は皀羅頭巾(くりのうすはたのときん)・牙笏・金銀装腰帯・白袴・烏皮履(くろかわのくつ)を、六位以下は白袴と烏皮履は同じだが、皀縵頭巾(くりのかとりのときん)・木笏・烏油腰帯・白襪(しろしとうず)をそれぞれ身に付けていることでも位階の差が分かるようになっている。

 百官の先頭が応天門に至る時、隼人たちは一斉に立ち上がり、左側に配された今来の大隅隼人らが本声を発した。

 続いて右側、今来の阿多隼人らが末声を発して本声の後を受ける。合わせて大声を十遍、小声を一遍、それが終わると一人が細声を二遍発して吠声の作法が完了する。

「狗吠(くわい)」とも呼ばれるこの発声は狗の遠吠えに例える者もいるが、聖なる空間へと入場する百官を守るいわば最後の結界として、隼人の持つ呪力がもっとも期待される瞬間でもあったのだ。

 習い覚えた通りに初めての吠を発することができたカザトはようやく肩の荷が降りたように感じていたが、これから朝賀の儀が始まり、すべての式次第を終えて百官が退場するまで長い時間を待機していなくてはならない。

 むろん、応天門を隼人たちが警護するという意味合いも忘れてはならない。

 装束を着こんでいるとはいえ、さすがに元旦の奈良の都は芯から冷える。

 風もなく、日の光が照っていることがせめてもの救いだが、雪が舞い、寒風吹きすさぶ中で儀式が行われる年もあろう。

 改めてこの場に集った隼人たちを眺め渡してみる。

 この中で南九州から朝貢でやってきた今来隼人はたった二十人、ほかは全て畿内に居住する隼人たちだ。それもその父や祖父、あるいはもっともっと前の世代から畿内に住まってきた者たちの子孫も多いという。

 では、ヤマトで生まれヤマトで死んでいくであろう彼らはどこがヤマトの人々と違うというのだろうか。


 ―何故ヤマトの人間に尻尾を振る―。


 ヒギトの言葉がふいに蘇り、カザトは一層空気が冷たくなったような錯覚にとらわれる。

 隼人にもいろいろな立場のいろいろな人がいるように、ヤマトにもやはり多様な境遇の人たちがいるのだ。単純に「隼人」、「ヤマト」と一括りにして線引きできるような問題ではあるまい。

 ふと気付くとすぐ隣で胡床に座している男が、楯の裏に刀子で何やら彫りつけているようだ。

 驚いて見やるカザトの視線に気付いた男は、ニッと笑って楯裏をこちらに向けて見せた。よく見ると無数の線が刻まれており、どうやら絵が彫ってあるらしい。いぶかしんだカザトが、

「何を?」

 と小声で問うと、男は悪びれる風もなく、

「なあに、長い間じっとしているのも退屈なのでな。楯裏に彫刻して暇をつぶす者がおるのよ。ほれ、前にこの楯を持った者が彫った絵がこれだ。何の魚やら知らぬがよくできておるのでな。こいつを狙う鷺を彫っておるのさ」

 と言って、彫りかけの絵に息を吹きかけ、木屑を飛ばしてみせた。

 なるほど、よく見ると鳥らしき輪郭が線刻され、削られた木肌がそこだけ生々しく鮮やかに見える。しかし、それらの絵が妙に寒々しいものに感じてしまったカザトは黙って元日の晴天を見上げた。

 白藍に澄んだ上空では、風が強く吹いているのだろう。切れ切れになった雲が細長くたなびきながら早い速度で流れ過ぎてゆく。

 吠声やこの楯で、本当に邪を払えたのだろうか―。

 ふいに浮かんだそんな考えを振り払うかのように、カザトは冷たい空気を胸一杯に吸い込んだ。

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