第3章 ヤマトの友(2)

 ふと見渡すと部屋の壁に設えられた棚には、いくつもの種類の薬種が収められている。草木を乾燥させたものや、何か動物の角や骨のようなものまで見受けられる。

 いずれもカザトが初めて眼にするようなものばかりだ。

「すごい数の薬草ですね。姉上様はお薬にとても明るくていらっしゃるのですね」

 カザトが興味を示したことが嬉しいのか、貴志麻呂の姉は立ち上がって棚にある薬種の一つを手に取った。

「我が家に伝わるお薬の作り方を守っているだけ。意外とどこにでも生えているようなものにも薬効があるのですよ」

 例えばこれ、といって干し草の一つをカザトに差し出す。

「何の草かお分かりですか?」

 受け取って矯めつ眇めつ眺めてみるが、しっかりと乾燥してちりぢりになった状態からは元の姿が想像しにくい。だが、幾重にも枝分かれしたような特徴的な葉の切れ込みには何となく見覚えがある。

「ヨモギ、でしょうか」

 ご明察、と言って貴志麻呂の姉が小さく手をたたく。

 ヨモギなら子どもの頃、擦り傷や切り傷をつくるたびに葉をもんで傷口に貼り付けたものだ。食用としてだけではなく、血止めの効果もあることを子どもたちはみな知っており、カザトにも馴染み深い薬草だった。

「うちでは煎じて使うことが多いのだけれど、ほら、あの通りの弟なものですから、血止めにもヨモギだけは欠かせなかったの」

 カザトさまもヨモギには随分お世話になったのでしょう、と悪戯っぽくいう彼女の様子がおかしくて、カザトは声を上げて笑った。

「なんだい、もうすっかり仲良しじゃないか」

 そう言ってニコニコしながら貴志麻呂が部屋に戻ってきた。手には何か貝殻のようなものを持っている。

「姉上、練り合わせてきました。加減をみてください」

 貴志麻呂の姉は貝殻を受け取ると、中に詰まったとろりとしたものを指先であらためた。

「よい固さです。じゃあカザトさま、傷に塗りますのでちょっとのあいだ眼を閉じてくださいますか」

 カザトの目尻がひんやりと揮発するような塗薬の清涼感で包まれ、なによりも薬を塗ってくれる彼女のすべらかな指先の感触が心地よかった。

 傷の痛みよりも何やら恥ずかしさで頬が熱くなっていくのがわかる。

「はい、おしまい。乾ききるまでそのままにして、あとは洗い流して構いません。お若いし、すぐに治るわ」

 心づくしの手当てにカザトは胸がいっぱいになり、丁重に礼を述べた。

 思えばこんな風に誰かに傷をいたわってもらったことなど、よほど幼いころを除けば絶えてなかったことだ。

 心安い気持ちでいることを許してくれるこの姉弟の前では、カザトも胸襟を開いて構わないように思い、不躾だが先ほどから気になっていたことを訪ねてみることにした。

「時に、姉上様も貴志麻呂様のように拳足の技を修めておられるのですか?」

 足音をたてずに歩んでいく身のこなしにただならぬものを感じたことをありのままに伝えると、彼女は少しはにかむように頬を赤らめた。

「さすが、よくご覧になっているわ。でも私は貴志麻呂のような技は身に付けてはいないのですよ」

「でも俺は一度も姉上に勝ったことがない」

 後を受けた貴志麻呂の言葉を冗談だと思ったカザトだったが、彼が笑っていないことに気付いて思わず表情を引き締めた。

「祖父は俺に拳足の技を、そして姉上には薬の知識と柔らかい技を教えたんだ」

 柔らかい技?と思わず聞き返すカザトに姉弟は同時に頷いてみせる。

「例えば…石と水、どっちが強いと思う?」

 貴志麻呂の発した突拍子もない問いにカザトは言葉を詰まらせてしまう。

 石と水などその強さの差について考えてみたこともない。

 質問の真意をはかりかねてその先を促すように耳を傾ける。

「もちろん、例え話なんだ。硬くて丈夫な石でも決して水を壊すことはできない。けど逆に、水滴は長い時間をかければ石に穴を穿つこともできるよな。優劣とか、強弱とかではなくて……何というかその……」

 言葉で説明することがなかなか容易ではないことを伝えようとしているのがカザトにもよくわかった。

 だがとても深淵な、とても大切なことを今耳にしようとしている。

「口では上手く言えないや。やっぱり身体で感じないことには。姉上、カザトにもあの技を見せてやってください」

 そう水を向けられた貴志麻呂の姉は激しくかぶりを振って弟を嗜めた。

「馬鹿をおっしゃい!お怪我をさせて、その手当てにわざわざお越しいただいているのよ。全然反省していないのね!」

 猛烈な勢いで叱られ、首をすくめている貴志麻呂の姿が何やら微笑ましくも感じられる。

 彼がこの美しい姉にまったく頭が上がらないのは事実のようだ。しかし、その柔らかい技がどんなものなのかどうしても知りたい。

「姉上様、貴志麻呂様、是非に、是非にご教授ください」

 カザトはほとんど無意識のうちにそう言って居住まいを正していた。

 何かに夢中になったり、血が騒ぐような出来事に出合うと考えるよりも先に身体が動いてしまう性分は持って生まれたものらしい。

「ほらほら、カザトもそう言ってるじゃありませんか。薬よりもそっちの方がよっぽど効き目がありますよ」

 調子よくけしかける弟を一睨みしながらも、貴志麻呂の姉はカザトの眼をじっと見つめた。彼が真剣であることが伝わったのか、軽く頷くと同じく居住まいを正してカザトに向き直った。

「わかりました。ほんの少しだけ、ご覧にいれます。では、私の手首をしっかりと掴んでくださいますか?」

 そう言って彼女は両の手をカザトに向けて差し出した。

力いっぱい握れば卵のように崩れてしまいそうなほどたおやかで、真っ白な肌だ。

 触れるのも躊躇われるような思いだが、そっとその手首を掴んだ。

「もっとしっかり掴んでください。決して離さないように、思い切り力を入れて結構です」

 さすがに本気で握ったら彼女の骨が潰れてしまいそうだ。しかし絶対に離れることがないだけの握力を指先に込めて掌を輪状にした。

 この枷は男の力でもそうは外せないだろう。

「それで本気ですか? 女だからといって遠慮されることはないのですよ」

けしかけるような彼女の言葉にさらに指先に力を込める。

 だが次の瞬間、無造作に振り上げられた彼女の腕はいとも簡単にカザトの手から自由になった。

 唖然とするカザトに向かって微笑みながら、ではもう一度、と再び彼女が手を差し出す。しかし何度やっても同じことだった。

 自分以上の力で強引に抜け出しているのではない。何やら手ごたえも感じられないうちにするりとカザトの手を逃れてしまうのだ。

「まいりました」

 気が付けばうっすらと額に汗が浮かんでいる。それに対して彼女は相変わらず涼しい顔のままだ。

 貴志麻呂を見やると真剣な表情で二人のやりとりを見守っている。

「姉上様、おみそれいたしました。こんな不思議なことは初めてです」

 すっかり感心してしまったカザトの様子にはにかみながらも、彼女は丁寧に言葉を選びながら技を説明してくれた。

「まず、どんなに強いものでもあらゆる方向に力を行き渡らせることは難しいものです。必ずどこかに弱い部分があるわ。それは人の身体の仕組みにもいえること。それと、力の均衡を崩すということ。どんな屈強な方でも小さな石につまずいただけで転んでしまうことがありますね。そのようにほんの少しだけ、力の流れを逸らせることが大切です」

 例えば、といって彼女はもう一度カザトに両の手を掴ませた。今度は躊躇なくしっかりと力を込める。

 すると、ふわりと円を描くように動かされた彼女の手に巻き込まれるようにして、カザトは横向きに転がされてしまった。

 信じられないような思いの後に訪れたのは胸を打つような感動だった。

 なんという技だろう。このような力の在り方がこの世に存在していたというのか。

「私ったら……つい夢中になってしまって。おゆるしください」

 カザトを抱き起こすようにしながら頬を赤らめる彼女の様子がおかしくて、カザトも貴志麻呂も声を上げて笑った。

 今度こそ本当のお口直しに、と言って小さな器が差し出された。

 中には目の覚めるような黄緑色の薬湯が注がれている。まるで新緑の頃に吹く微風のような爽やかな香りだ。

 瞬間、緑濃い阿多の風景が脳裏によみがえる。

 口に含むととろりと甘く、ほのかに苦みや渋みが混ざっているが、いずれも身体に沁みわたるように心地よい。

「お茶の若葉を煎じたものです。普通は蒸し固めて粉に削ったものを煮出して飲むのですが、私はこのほうが好き」

 お茶と一緒に、カザトがすっかり気に入った唐菓子もまた勧められた。今度はさきほどのものとは形が違う。様々に形作られた甘い菓子は、見ているだけでも楽しくなってしまう。

 ぜひ夕餉も一緒に、という誘いを丁重に辞してカザトは姉弟の邸をあとにした。

 そろってわざわざ門の外まで出てきて、姿が見えなくなるまで見送ってくれたことも心に沁みわたる。

 貴志麻呂の姉の名を聞いておきたかったが、ヤマトの女に名を問うことは固く戒められていた。

 なんでも、ヤマトでは名には魂が宿っていると考えられており、女に名を問うことはすなわち求婚を意味するのだという。

 それはともかくとして、遠い遠い、異郷の地で出自も立場も異なる人たちと心が通い合ったことがただただ嬉しかった。

 ヤマトの友の心遣いにどんな礼で応えようか、楽しい思いを巡らせながら、カザトは帰りの道をゆったりと歩んでいった。

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