第3章 ヤマトの友(1)
「だからもう〝キシマロ〟でいいって」
そう言ってまた人懐こい笑みを浮かべる貴志麻呂に、カザトはつい苦笑してしまう。あの手合わせの日以来、すっかり打ち解けた二人だったが、カザトは「貴志麻呂様」と呼ぶことだけは止めようとしなかったのだ。
カザトにしてみればあまりにも当然のことで、朝貢のために出仕してきた身でありながらヤマトの官人と対等の物言いをしていては、さすがに周りにも示しがつかない。だが貴志麻呂はそれが気に入らないらしく、気さくに呼びかけるようしきりに言い立てているのだ。
「ではこうしましょう。皆の面前ではこれまでどおり〝貴志麻呂様〟、誰にも気遣いのない場所なら〝貴志麻呂どの〟とお呼びします」
困ったようにそういうカザトに貴志麻呂は、お前って結構堅いんだな、とふてくされてみせた。
カザトと貴志麻呂はあれからも度々手合わせを行っていた。ただ、最初の時のように全力に近い戦いを繰り広げるのではなく、お互いの技を確かめ合うような「稽古」の風情をもった和やかな雰囲気のものとなっていた。
時には貴志麻呂の突きや蹴りをまともに食らってカザトが悶絶したり、お返しとばかり今度は貴志麻呂が投げ飛ばされたりして、そのたびに観衆は声をあげて笑い、手を叩いて喜んだ。
さすがに、貴志麻呂と手合わせをしたいというもの好きはもう現れなかったが、不思議とカザトと戦いたがる者は後を絶たなかった。お蔭で随分と顔見知りも増えた。
貴志麻呂を初めて見かけた時に彼と対戦していた、あの巨体の衛士もその一人だ。「オオヒコ」と名乗る東国から出仕してきたその男は、あの仕合の後すぐに気が付いたものの、しばらく身体を動かすことができず朦朧としながらカザトと貴志麻呂の戦いぶりを見ていたのだという。
以来すっかり二人の技に感じ入ってしまい、カザトや貴志麻呂の姿を見かけるたびに声をかけてくる。
官人たちの職務は建前上、早朝から昼までという規定が設けられている。しかし部署によっては午後からも引き続き業務を行わなければならず、カザト自身も吠の教習や身につけるべきことが山のようにあったため、そう頻繁には仕合場となっている広場で貴志麻呂と顔を合わせるわけではなかった。
それでも、たとえ短い時間でも手合わせを行うと、夜通し語り合いでもしたかのように相手に対して親しみを感じ、また相手のことそのものも分かるような気がするのだ。本当に不思議なことだとカザトは思う。
それはきっと相手にしてもそうなのだろう。そんな下地があってこそ、貴志麻呂もカザトには気さくに呼びかけてほしいのだろうということが痛いほどよく分かる。
「しかしさすがに少し腫れてきたな」
カザトの顔を見やって貴志麻呂が申し訳なさそうに眉をひそめる。
今日の手合わせで白熱した貴志麻呂の拳がカザトの面を捉えてしまい、すでに目尻が青黒く変色してきている。
幸い眼球には何の異常もなく、大丈夫だと言い張るカザトを引っ張って貴志麻呂は自邸への道のりを歩いているのだ。打ち身によく効く家伝の薬があるのだという。
来客の旨はすでに人をやって屋敷に伝えさせたようで遠慮する暇とてない。
「大事な出仕の御身に傷をつけたとあっては、ミカドに申し訳が立たない」
まじめくさってそういう貴志麻呂にカザトは吹き出しそうになる。
二人してあれだけ殴ったり投げ飛ばしたりしあいながら、怪我のうちにも入らないこれしきのことで何を大げさな、と思ってしまう。
もっとも貴志麻呂とて官服の下には無数の痣や擦り傷をつくっているのだが。
「そこの角が俺んところだ」
貴志麻呂が指し示したその先には、ひっそりとした佇まいの屋敷が建っていた。
見渡せば周りはどれも似たような造りだが、他に比べると屋根などに少し傷みが見て取れる。
ただし門から入口にかけては塵一つないほどに掃き清められ、庭にはたくさんの草木が生い茂り清々しい印象を与えている。
「貴志麻呂がただいま戻りました。お客人もご一緒です」
奥に向かってそう声をかけるとほどなく人の動く気配がし、衣ずれの音がこちらに近づいてきた。
カザトがいぶかしく思ったのは、床が板張りなのにもかかわらず殆ど足音が聞こえないことだ。なにやら笹の葉の上を露が滑り落ちていくような不思議な情景を想い起こさせる。
奥から現れたのは、透き通るように真っ白な肌と、貴志麻呂によく似た切れ長の眼が涼やかな女性(にょしょう)だった。
「ようこそおいでくださいました。貴志麻呂の姉でございます」
板張りに手をついて出迎えてくれた美女にカザトは慌てて挨拶を返す。
貴志麻呂に姉がいたことなど、もちろん知る由もなく、思わぬことに少しばかりうろたえてしまう。
「カザトさまのことは愚弟より常々伺っておりました。仲良くして頂いているというのに大切な御身にお怪我をさせてしまったとか……伏してお詫び申し上げます」
貴志麻呂の姉がそう言って深々と頭をさげる。
あまりに優雅なその仕草に、そこに小さな白い花が咲いたかのような錯覚をカザトは覚えた。
「どうだ、美人だろう」
笑いをこらえたような顔をして、貴志麻呂が自慢げにカザトを見やる。
「存じ上げませんでした。貴志麻呂様に、その……姉君がおられたとは」
美しい、という言葉をようやく飲み込んだカザトの様子がおかしかったのか貴志麻呂とその姉は楽しげな笑い声をたてた。
「どうぞ、奥へとお上がりくださいませ」
先に立って部屋へと案内する彼女は、やはりするすると音一つたてずに足を運んでいく。
まさか女性の身で貴志麻呂のような拳足の技まで修めてはいないだろうが、この足さばきは相当の心得のあることを感じさせる。この家ではそういったことが一つの嗜みなのかもしれない、とカザトは思った。
炉の切ってある小さな部屋に通されると、すぐさま温かい飲み物が供された。
カザトに飲ませるつもりで一足先に貴志麻呂が屋敷の者に言い含めておいたのだ。
「打ち身に効く薬湯です。熱いのでお気を付けになって」
貴志麻呂の姉が差し出した小ぶりの木椀に、黒々と満たされたその飲み物は薬草特有の芳香を放っていた。いくつかの生薬を配合した煎じ薬なのだろう。
恐縮しながらも、遠慮してはかえって失礼にあたるだろうと考えたカザトは椀に口をつけた。瞬間、舌が痺れるほどの苦味が口中一杯に広がる。
「苦いでしょう。でも我慢して、ゆっくり飲みほしてください」
目を白黒させながらもどうにか一椀の薬湯を飲み終えると、今度は小さな皿に盛られた見慣れぬ食べ物が差し出された。
「唐菓子です。お口直しにどうぞ」
カザトは勧められるままに恐る恐る口にしてみる。何かの粉を練って油で揚げてあるのだろうか。噛み砕くとさくりとした歯ごたえと、品の良い甘味が口いっぱいに広がった。
「おいしいです」
思わずそう言ったカザトに姉弟も同時に顔をほころばせる。
「家に伝わる、姉上の得意料理なんだ」
麦の粉を練って紐状にのばし、一口大にねじってやはり胡麻の油で揚げるのだという。甘味の正体は蔦の液を煮詰めた甘葛煎(あまづらせん)だ。
揚げたてのものに、蜜のようなそれを絡めて冷ませば出来上がりだと貴志麻呂が説明してみせる。
貴志麻呂の姉はカザトの顔を覗き込むようにして目尻の傷の具合を調べた。「痛かったでしょうに」と、まるで自分が怪我をさせてしまったかのように眉を曇らせる。
「貴志麻呂、あのお薬を持ってきてちょうだい」
はい、姉上、と元気よく返事をして貴志麻呂が中座する。
「本当にごめんなさい。あのとおりの腕白者で。他にもお怪我をさせていないかしら」
と、確かめるようにカザトの身体へ視線をすべらせる。まじまじと見つめられてカザトは少しうろたえてしまう。
「滅相もございません。貴志麻呂様には常々お引き立ていただき、身に余ることでございます」
我ながら答えにもなっていないような妙な返事だと思ったが、カザトのそんな気持ちが伝わったのか貴志麻呂の姉はくすりと笑った。
「うちでは、そんなにお気を遣われなくてよいのですよ。あの子もお友達ができて本当に嬉しいの。ですから、どうかもっと肩の力を抜いて気さくにお付き合いくださいね」
心からそう言ってくれていることがひしひしと伝わり、カザトは胸が熱くなる。厚意に素直に甘えることが一番良いことのように思い、微笑んで深々と頭を下げた。
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