第6章 天覧(1)

 どうやらミカドがお忍びでスマイの仕合を御覧になっているらしい、という噂話をカザトの耳に入れたのは、巨体の衛士ことオオヒコだった。

「嘘じゃありませんよ、カザトどの。そう、そこの角にいつまでも輿が止まっているので皆平伏しようとしたら、衛門府の役人がすっとんできて、いいから黙って仕合を続けろって言うんですよ」

 それも一度や二度ではなく、ふと気付くと輿が広場の角から突き出しているのが見え、幾重にも差しかけられた翳(さしば)の影から、仕合の様子をひっそりと伺っているような気配がするのだという。

 しかも輿に気付いた者が平伏しようとする度に役人が駆け付けて、仕合を続けるよう厳しく言い渡すのも毎度のことで、みんな戸惑いを隠せずにいるのだという。

 輿を使用できる人物は極めて限られている。

 ミカドその人と皇太皇后、皇太后、皇后、そして伊勢神宮に奉仕する斎宮のみだ。 

 生涯独身を通し、後に「元正」の漢風諡号で知られることになる今上のミカドは即位前には「氷(ひ)高皇女(だかのひめみこ)」と呼ばれており、思慮深く聡明な御方だという。しかし以前からスマイに高い関心をお示しになっていることが漏れ伝わっており、輿を止めてまでスマイ見物をするのはこの御方をおいてはありえない、とオオヒコは熱っぽく語った。

「諸国から腕の立つ者が集まっていますからね。カザトどのや貴志麻呂様の噂も、お耳に入っているんじゃありませんか?」

 古来、ヤマトのミカドはスマイに特別な思い入れを抱き続けてきたとされている。 

 伝説でも百済の使者をもてなすために諸国選りすぐりの兵が仕合ったり、大隅隼人と阿多隼人が戦ったりもしたという。

 もしオオヒコの言う噂話が本当だとしたら、期せずして事実上の天覧仕合が行われていることになる。カザトが仕合中にそんな輿を見かけたことはないが、いつかそういった場面に出くわすかもしれないのだ。

 オオヒコと別れたカザトは久しぶりに秦姉弟の邸へと足を運んだ。今日は手土産として、以前から用意していた竹の籠を携えている。

 隼人司で余った竹をもらいうけ、いつか持参しようと暇をみては少しずつ編んでおいたのだ。それだけではあまりに淋しいので、今朝がた早くに郊外に出て籠いっぱいのノイチゴを摘んできた。

 どこにでも生えるありふれた果実ではあるが、玉のように赤く透明で、甘酸っぱい春の恵みには心浮き立つような楽しさがある。

 カザトの訪いを出迎えた貴志麻呂の姉は、案の定大喜びしてくれた。ノイチゴの一粒をさっそく口に含み、籠の出来映えに感心しきりだ。あまりの褒めようにカザトの方が照れてしまう。

「ありがとう、大切にするわ。さあ、上がってくださいな。貴志麻呂もお待ちかねよ」

 いつもの部屋でカザトを待ち受けていた貴志麻呂は開口一番、さきほどオオヒコが語った噂話と同じことを話題にした。

「そうか、もう噂は広まっているんだな。なら話は早いや。実は今日はカザトに折り入って頼みがあるんだ」

 そういって貴志麻呂は意味ありげな笑みをカザトに向けた。

「ミカドが以前からスマイの仕合を御覧あそばしているのは本当だ。そこでこの度、特に腕の立つ者たちを組ませてミカドの御覧に入れようってことになったんだ」

 貴志麻呂の言う仕合とはこうだ。

 東方・西方に分かれ、双方五名ずつ手練れの者が進み出て一対一でスマイの勝負を行う。

 勝った者はそのまま残り、間をおかず次のものと戦う。つまり勝ち抜き戦だ。

 仕合そのものはいつも皆で集まってやっている要領で差配するが、肝心なのはミカドが御覧になるということだ。

 しかも己のために大がかりな催しとなることを嫌うミカドに配慮して、あくまでも偶然通りかかったところの仕合を見物される、という体裁で行わねばならないという。

 だが公式ではないにせよ、紛うかたなき天覧仕合にほかならない。

「で、お察しの通りカザトには是非出場してほしいんだ。旅人さまも強く推挙したみたいで、偉い人たちも楽しみにしているらしい」

 思ったとおり、やはり大伴旅人も一枚噛んでいるのだ。豪快に笑う旅人の顔が目に浮かぶ。

 貴志麻呂は、今回は出場者の人選や仕合の差配などを命じられているそうだ。むしろ自分が戦いたかったのではないかとも思うが、存外そんな役目も楽しんでこなしているのだろう。

「では他の候補者もすでに決まっているのですね。私の相手が貴志麻呂さまではなくて一安心です」

 カザトの冗談に笑いかけた貴志麻呂だったが、ふいに真顔になると、

「ああ、だが俺が仰せつかったのは東方の組の人選だけなんだ。だから西方にはどんな遣い手が選ばれたのかまではわからない。ただ、どうやら大隅隼人からも一名出るらしい」

 阿多隼人のカザトと戦わせるつもりかもしれないな、と呟いた。

 隼人同士のスマイならばまさに因縁の対決になるのではないか。

 朝廷のお歴々が考えそうな組み合わせでもあり、その可能性は高いといえるだろう。だが相手が誰であろうと全力で戦うだけだ。

 そこへ貴志麻呂の姉が坏のような器を手にして入ってきた。

 大陸の品だろうか、真っ白な焼き物に先ほどカザトが持参したノイチゴが盛り付けられている。

 目にも鮮やかな赤と白の対比がまぶしく、何やら彼女自身の雰囲気のようだとカザトは思った。

「ほら、カザトさんがこんなにイチゴを摘んできてくれたのよ。素敵な竹籠に入れてね。みんなでいただきましょう」

 改めて天覧仕合の話をすると貴志麻呂の姉も興味を示し、自分も是非応援に行きたい、と言い出した。

 彼女の眼の前で戦うことを考えると、どうにもやりにくいようにも思うが止めることなどできはしまい。

「姉上様、ではそろそろお願いいたします」

 ひとしきりの談笑の後、カザトはいつものように彼女に指南を請うた。

 秦姉弟に会うのも嬉しいが、その度にさまざまな技を教わることも大きな楽しみとなっていた。

 今日は人体の急所についての説明だ。貴志麻呂の姉がカザトの首筋や肩口、肘の付け根などを細い指で摘むように押さえると、耐え難い激痛が走って動くどころの騒ぎではなくなってしまう。

「人間の身体にはこのように、痛みの集中する箇所が無数にあります。ただし、ごく限られた一点を、過たず押さえなくては効き目がないわ。慣れないと一度で探り当てるのは難しいので、何度もお稽古しなくてはなりませんね」

 確かに、感覚だけで指の先ほどの範囲でしかない急所を攻めるのには熟練が必要だろう。カザトはしきりに自分の首や肘を押さえ、痛みの点を探ろうとする。

「急にはこの技を遣えなくても、知っているだけで大きく違うと思うわ。天覧仕合で役立つかどうかは分からないけど、私も必ず応援しに行きますからね」

 そう言って微笑む彼女に、カザトはもちろん否とは言えなかった。

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