第5章 旅の人、風の人(2)

「まことに、おいしゅうございます」

 思わずそう言ったカザトに旅人は満足そうに何度も頷く。

「そうであろう! わしの自信作だからな」

 と、自分も串を手に取り、よく焼けた肉にかぶりついた。

「まさか、中納言様御自らのお料理ですか……?」

 驚いてカザトがそう訊ねると、旅人は串を持ったままの手をぶんぶんと振り回し、

「ああ、そんな堅苦しい呼び方はせんでくれ! 旅人でいい、旅人で。わしは宮仕えには向いとらんようでのう。肩が凝ってしようがないわ。飯をこしらえるのはひそかな楽しみでの。旨いと言われるのは何よりの冥利じゃわい」

 と、笑ってみせた。

「しかし、カザトの話はよう聞いておったが、貴志麻呂の申した通りのいい男じゃわい。眼がよいのう、眼が。男はそうでなくてはいかん」

 そう言って一人何度も頷いている。

 どうやら初対面のカザトを随分気に入ったらしい。いつの間にかカザト、と親しげに呼びかける自然さも心地良い。

 それにしても、先ほどから貴志麻呂の旅人に対する遠慮会釈のない態度はとても主従関係にあるとは思えない。むしろ肉親にも似た親しみを感じさせるほどだ。

「時に貴志麻呂、姉君は息災か?」

「ええ、お蔭さまで。変わったことと言えば、カザトが来てくれるようになってからというもの、以前にも増して上機嫌です」

 冗談とも本気ともつかないような含み笑いをカザトに向けて、貴志麻呂は旅人の盃に酒を注いだ。

 確かに貴志麻呂の姉にはあれから様々な柔らかい技の手ほどきや、薬草の使い方などを習うようになり、随分親しくなっている。だが、それと彼女が上機嫌なのは関係あるまい。

「旅人様は姉上様ともお顔見知りなのですか?」

 これ以上水を向けられてはかなわない、そう思ったカザトは当たり障りのない質問を旅人に投げかける。

「おお、おおいにお顔見知りさ。なに、この子らの爺様とは竹馬の友でな。先ごろ身罷られてしもうたがそれはいい男じゃった。父母もはように亡くしてしもうたこともあって、この子らの行く末をよろしく頼む、としきりに言うておった。こおんな小さい頃から可愛がってきたのじゃ。あの娘も貴志麻呂も、わしの孫も同然よ」

 旧友を思い出してしんみりとした旅人の様子に、カザトはますます親しみを覚えた。

 なるほど、それで貴志麻呂の旅人に対する態度もあのように遠慮がないのか。口は悪くとも仕草の端々から言いようのない敬愛の念がにじみ出ていることにもこれで合点がいく。

 俯いた旅人は小さく肩を震わせ、何やらすすり泣くような声まで聞こえてくる。

 さすがにいたたまれなくなったカザトが酒を持って傍に寄ろうとした時、旅人は突如、

「お!」

 と叫んで顔を上げ、ぴたりと動きを止めた。

「一首できた」

 そう言ってやおら姿勢を正すと、朗々とした声で歌を詠みあげる。


  賢しみと 物言はむよは 酒飲みて


    酔哭(ゑひなき)するし 益(まさ)りたるらし

 

 腹の底にまで響くような、意外にも渋くいい声だ。

 ヤマトの言葉に堪能なカザトも、歌特有の微妙な言い回しや、それらが表す言葉の真意まで理解するのは困難なことだった。

 しかし旅人の歌はとても分かりやすい。

 分別くさくあれやこれやと理屈を言うよりは、酒でも飲んで酔いのままに泣いたりするほうがよいものさ、とでもいった意味だろう。

「あ、もう一首できた」

 興が乗ったのか旅人は続けざまにまた一首思いついたようだ。一言一句聞きもらすまいとしてカザトもいっそう耳をそばだてる。


  価(あたい)なき 宝といふとも 一坏(ひとつき)の


         濁れる酒に あに益らめや


 今度の歌もカザトにもはっきり意味が理解できる。

 「濁れる酒」という言葉がいまこの瞬間の酒席を表現しているようで何だか嬉しい。

「いや、我ながらいい歌を思いついたわい。宮中で急に詠めといわれても困るからのう。今度、さも今思いついたようなふりをして披露してやろう。貴志麻呂、書き留めておいてくれ」

 と言って筆と須恵の硯、木簡を貴志麻呂に手渡した。さすが歌人でもあることから筆記具はこんな隠れ家にも常備してあるのだろう。

「……おもしろくない」

 歌を木簡に書きとりながら貴志麻呂がぼそりとつぶやいたその言葉に、カザトは突然冷水を浴びせかけられたほどに驚いた。

「なんじゃと! おぬしにはこの大陸的とも評せられる風雅心の発現が分からぬのか! ありのままのことをありのままの言の葉で詠み上げるわしの歌は宮中でも新しい、と言われておるのを知らんのだな……?」 

 と、烈火のごとく怒りだした。

「いいえ、旅人さまの歌はあまりにも工夫がありません。しかも何ですか、酒の歌ばかりではありませんか。そんなことでは歌人として歴史に名を残すことは決してありますまい」

「うぬう、言うではないか貴志麻呂! これだから素人は困るのだ」

 そう言って歯噛みして悔しがる旅人だったが、あ、そうだ、などと言ってあっさり話題を変える。

「それはそうと飯もあるんだった。ちゃんと食いながら飲まんとな。酒だけ飲むのはいかんのだからな」

 そうして柏の葉に盛り付けた白いかたまりを差し出した。

 よく見るとコメを握り固めたもののようだ。

 手に持ってそのまま口にすることができるよう、少々いびつな球にこしらえてある。これもおそらく旅人の手作りだろう。

 一口かじってカザトは目を瞠った。ふっくらとしつつもほのかな歯ごたえを感じるコメは、一粒一粒が舌のうえで踊るような存在感を放っている。

 噛みしめると穀粒の中から甘い汁がほとばしってくるような旨味を感じ、よく干された稲藁がまとう日向の匂いが鼻腔を突き抜けた。表面には少量の塩がまぶしてあり、コメそのものの甘みとあいまって得も言われぬ幸福を感じるような味わいだ。

「こんなにおいしいコメは初めてです」

 カザトが思わずそう言うと、旅人はにっこりと笑って、

「さようか。それは何よりじゃ。コメは蒸すことが多いが、本当は炊(かし)いだ方がうまい。水加減がちと難しいが、もっとも旨い方法で食すのがその食物への礼だからな」

 そう言って自らも一つ手づかみし、大きくかじる。

 貴志麻呂も、もらい受けた握り飯を旨そうに咀嚼している。

「カザトに貴志麻呂、この世で最も尊い職は何だと思う?」

 突然の質問に旅人の真意を測りかね、二人とも顔を見合わせる。

 職には様々なものが存在するが同時に厳格な身分も定められている。そうすると位の高い者ほど尊いということだろうか。だが旅人の伝えたいことはそうではなかった。

「それはな、食い物を作り出す者たちよ。田を起こして米を育てる者しかり、舟をこぎ出して魚(いお)を漁(すなど)る者しかり……命の根源は食い物だ。どんな人間とて食い物なしでは生きてはいけん。当たり前のことだが富める者はそれすら忘れるものだ」

 旅人は指先に付いたコメの粒を一つひとつ丁寧にとって口に入れた。

「わしらのような官人がどれだけ偉そうにしておっても、己が食う物一つとして己で作り出してはおらん。ここにあるコメの一粒はおろか、塩の一粒たりともわしの手で作ったものなどない。真に尊きは里に生き、山野河海に生きる全ての民よ。ヤマトの主は、食い物を作ることのできる者たちなのだ」

 真っ直ぐにこちらを見つめながら語る瞳は、炉の炎を映して澄明な光をおびている。

 この人は、本当は酔ってなどいない。

 酔眼のふりをしながら、真実を見通そうとしているのだ。カザトはそう思った。

「だからこそ、わしらヤマトの人間が隼人や蝦夷を従え、この島の王であるかのように振る舞うのは間違っておるのだ。それを押し通そうとするから争いになる。戦が起こる。このままではその繰り返しよ」

 一息つくかのように、旅人は盃の酒を飲み干した。今度はカザトが酌をして濁った酒を注いでやる。

「じゃからの、わしは心底嬉しかったのよ。大陸に祖先をもつ秦氏の末裔である貴志麻呂と、誇り高き阿多隼人のカザトが、兄弟のように睦まじくしておることがな」

 旅人のそんな言葉にカザトは胸が熱くなる思いだった。

 ヤマトの中にもこのような考えの人がいるのだ。

 朝貢を強いたり、まつろわぬ者に兵を差し向けることを決して良しとはしない人がいるのだ。全ての仲間の隼人たちにも聞かせてやりたい。

 ふと、大隅のヒギトの顔が脳裏をよぎった。彼なら旅人の言葉にどう反応するだろう。

「時にカザトよ、カザトとは漢字でどのように書いておるんだ?」

 ヤマトの言葉での日常の会話に不自由はないカザトだが、漢字まではそう多くは書けない。

 名を告げた時、役人が木簡に書きつける「伽沙等」という字を思い出して炉の灰に粗朶で書きつける。

「ほうほう、役人の書きそうな通り一遍の表記よの。わしももとは多比等、などとつまらん字を当てておったのだがな。命令一つであっちへウロウロ、こっちへウロウロせねばならん宮仕えの身に皮肉を込めて旅の人、と記すことにしておるのよ」

 そう言って自分も粗朶をもって「伽沙等」の文字の横に何やら書きつけた。

 灰の上にはこんな文字が躍っている。


  風 人


「風の人、と書いてカザト。これでどうじゃ」

 風の人、とカザトは口の中で呟いてみる。

 風の人。風の人。右大衣のソバカリも、確か隼人の力と風のことを語っていた。

 旅人が自分のために選んでくれた文字だと思うとことさらに嬉しい。

「旅人さま、それはおもしろい!」

 貴志麻呂がすかさず相の手を入れ、今日初めて褒められた旅人は上機嫌だ。

 そのまま楽しい酒宴が続いた。旅人はそれ以後は改まった話はせず、相変わらずの勢いで酒を酌み続け、気持ちよく酔っていったようだった。

 やがて肘枕でごろりと横になると呂律の回らぬ舌で、

「お前たち……もっと食え……酒だけ、飲むのは……いかん」

 と、何度も繰り返している。

「とこしえに……仲良うせいよ……仲良うな……」

 そう言ったきり、やがてすうすうと寝息をたてて眠ってしまった。

「ありがとう、カザト。今日は来てくれて。こんなに楽しそうな旅人さまは久しぶりだったよ」

 そうして旅人にそっと自分の上着を掛けてやる。

「すまないがこの人をこのまま放ってはおけない。見送りは衛兵がするけど、気を悪くしないでおくれな」

 どうやら帰り道は邸の兵が先導してくれるらしい。

 カザトは丁重に今日の礼を述べ、出入口のスダレを捲り上げたところで振り返った。

 心地良さそうに眠る旅人は大貴族としてでも、ヤマトの高官としてでもなく、大伴旅人という一人の人間として自分と向き合ってくれたのだ。

 旅人の寝顔に深く一礼して、カザトは外へと踏み出した。クリとスダジイの葉陰に縁どられて、満天の星空が優しい光を投げかけている。

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