第7章 乱(2)
カザトが通されたのはいつもの旅人の隠れ家ではなく、正殿の方だった。
すでに旅人と貴志麻呂が待ち受けていたが、二人とも初めて眼にするような険しい表情だ。特に旅人はいつもの好々爺の印象とはまるで別人のようで、いやがうえにも緊張感が高まる。
着座したカザトが知らされたのは、まさしく衝撃的な出来事であった。
大隅国でふたたび大規模な武装蜂起が勃発した。
これまでヤマトの同化政策に反発しつつも朝貢に応じていた大隅の隼人らが、大隅国守・陽候史(やこのふひと)麻呂(まろ)を殺害、総力を挙げてヤマトへの徹底抗戦を行うという意思を示したのだ。これまでの戦では国守が殺されるということはなかった。
この行為はヤマトの地方統治の執行者である国守を贄とした、事実上の宣戦布告にほかならない。大隅の隼人らの不退転の決意に朝廷内は一挙に緊迫した。
大隅からの急報を飛駅(ひやく)がもたらしたのが昨日二月二十九日、その後夜通しの軍議ののち本日三月一日の午後、大伴旅人によって貴志麻呂とカザトが呼び出されたのだ。
旅人は苦渋に満ちた表情のまま、ことのあらましを語った。
「……そこで大隅隼人たちに対しては停戦・投降を呼びかける宣撫工作を第一に行うことが肝要となる。そのためにはヤマトの言葉にも堪能な隼人を訳者(おさ)として随行させることが望ましい、というのが朝廷の考えだ。候補として真っ先に名を挙げられたのがそなただ、カザト。先の仕合ぶりでもお歴々の眼に止まっていたらしい」
カザトを仕合へと推挙したのは旅人自身でもあるため、責任を感じているのだろう。沈痛な面持ちを隠そうとはしなかった。
「そなたを大隅へと送ることは貴志麻呂が頑強に反対しておる。だが朝廷の意向は有無を言わせん。連中が血を流すことはないからな。後はそなたの意思次第だ。もちろんはっきりと断ってくれて構わん」
むしろ本心ではそうして欲しいとでもいうように、旅人はじっとカザトを見やった。
だが大隅に向かう隼人は一人だけではないだろう。よしんばカザトが断っても、他の誰かが代わりに従軍することになるだけだ。
戦の早期終結を願うのならば、自分にできることはただ一つだ。
必ず守る、と約束した貴志麻呂の姉の不安そうな顔が脳裏をよぎる。だが、彼女のためにも戦火を拡大させないことこそが大切だとカザトは覚悟を決めた。
「参ります。大隅の隼人に話が通じるとしたら、同じ隼人の私どもをおいてほかありません。一刻も早く戦を終わらせましょう」
貴志麻呂が無念そうに眼を閉じた。
旅人は小さく頷くと威儀を正して宣告した。
「あいわかった。そなたの覚悟はしかと朝廷に伝えよう。此度の戦ではわしが全軍の指揮を執ることになった。貴志麻呂とともにわし直属の兵として随行せよ」
貴志麻呂とカザトは驚いて二人同時に旅人を見上げた。
なんと旅人自身が総司令官として大隅へと軍を率いるのだ。高齢でありながらも、もう事態を収拾できる人材は旅人しかいないのだろう。
「下命、阿多風人(あたのかざと)。訳者として大隅隼人らの慰撫・鎮圧に努め、もって戦線の拡大を防ぎ戦闘の速やかな終結に寄与せよ。畏くも……勅命である」
カザトは深々と平伏した。
やはり本当はミカドの命が下っていたのだ。そうでありながら、旅人や貴志麻呂はカザトが否と言えば勅命に逆らう気で選択の余地を与えてくれたのだ。
この人たちのためにも、できる限りのことをしたい。 そして必ずここへ帰ってくるのだ。カザトにとって、ヤマトはすでに異郷などではなくなっていた。
三日後の三月四日、中納言・大伴宿禰旅人を「征隼人持節大将軍」とする、対大隅の遠征軍派遣に関する要綱が正式に下命された。
さらに副将軍として授刀助(じゅとうのすけ)・笠御室(かさのみむろ)、民部少輔・巨勢真人(こせのまひと)が同時に任命され、旅人はミカドより総司令官の証でもある節刀を賜った。
大将軍一名に副将軍二名という指揮官の編成はごく限定されている。
すなわち、一万人の兵士を動員する軍を発することを表しているのだ。
この大規模な派兵はヤマトにとっても大隅との最終決戦を覚悟してのことだろう。大隅が徹底抗戦の姿勢を崩さない限り、ヤマトは容赦なく兵を繰り出し、かの地を灰燼に帰することさえ厭わないのではないか。
出兵までの準備期間のうち、カザトはもう一つ気がかりなことを耳にしていた。
事件の報がもたらされた直後、大隅のヒギトが都から姿を消したのだ。
これまでも脱走を企てたり、実際に逃亡する隼人たちがいたらしい。だが、カザトは何か不吉な予感に苛まれながらも戦の準備を急いでいた。
ヒギトはいったい何を思ってこの時期に都を抜け出たのだろう。出仕の隼人に欠員が出た場合は、畿内および紀伊・丹波・近江のいずれかに住まう隼人から補充の要員を割り当てる決まりのため、間もなくヒギトの代わりが着任するという。
カザトが隼人司を通りがかった時、大隅の隼人らが舞の教習に励んでいる光景が眼に飛び込んだ。
つい先ごろまで、ヒギトも屈辱の思いを胸に封じ込めてこの舞を鍛錬していたのだ。
ふと、長身の人物がこちらを振り向き、眼が合った。左大衣のサシヒレだ。
カザトを認めると表情をやわらげ、手招きをする。
「少し、かけないかね」
そう言って殿の階(きざはし)に腰をおろす。カザトもならってサシヒレの横に腰かけた。
「そなたも……発つのだな」
穏やかで端的な口ぶりはいつもと変わりないが、言いようのない淋しさや無念さといった感情がサシヒレから感じ取れる。
カザトは黙って頷いた。
「ヒギトは、そなたをとても高く評価していた」
どこか遠くを見やるような眼で、サシヒレがそう呟いた。
「出仕のためにヤマトへとやってきたヒギトが真っ先に私に言ったことは、どうか阿多のカザトに舞をさせぬよう、ということだったのだよ」
軽く微笑むサシヒレに、カザトは驚いて眼を向けた。
そうだったのか。
左大衣サシヒレが、自分を吠を発する任のみに推挙したというのはヒギトがそう頼んだからだったのか―。
カザトは眼の前が白く霞んでいくのを必死で止めようとしていた。
ヒギトは好敵手と認めた相手が服属儀礼を行うことが許せなかったのだ。
だからせめてカザトにだけは、最低限の誇りを保つことのできる任務についてほしかったのだろう。だからこそ、天覧の仕合でカザトが本気で立ち合わなかったと感じた時にあれほど激昂したのだ。
言いようのない後悔や自責の念にカザトは包まれていた。
「いつか、来るとよいな。阿多も大隅も、ヤマトすらも手を取り合う世が……」
はい、と力強く頷いて立ち上がると、カザトはサシヒレに一礼して踵を返した。
そうでなければあふれる涙をこらえることができそうになかったからだ。
「良い風を!」
カザトの背中にかけられた短い言葉が、今は何よりのはなむけだった。
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