第1章 阿陀の里

 夜が明ける少し前、カザトは目を覚ました。

 仲間たちを起こさないようにそっと小屋を出ると、身体を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。暁闇にほんのりと浮かび上がる山々の姿は、これまで見慣れてきたそれとは違う。

 生えている樹々の種類が違うせいだろうか、それともそこに住まう神々が違うせいだろうか。きっとその両方なのだろう。

 ヤマトの風景はやわやわと淡く、まるで夢うつつのようだ。

 そんなことを考えながら、カザトは今自分のいる場所が遠い異国であるということを己に実感させようとしていた。

 養老元年(七一七)、遠く薩摩半島の阿多の地から、カザトは仲間たちと共に郡司に率いられ、ここヤマトの国へとやってきた。隼人たちがヤマトで様々な職務を遂行すべく出仕を課せられた期間が、八年から六年に短縮されて最初の朝貢だった。

 だが、六年でもやはり長い。故郷を離れている間に父母や妻子、恋人らを失う者もいれば、任地や旅の途上で命を終える者もまた多かった。

 出仕に選ばれた者たちはみな悲壮な決意をもって、二度と故郷の土を踏めるものとは思わぬ覚悟で旅立っていったのだ。

 カザトもまた、そんな隼人たちの一人だった。

 齢十六にして父母とはすでに死に別れ、未だ妻も娶っていない身ではあったが、だからといって故郷への気持ちを振り切れるわけではない。

 どうあれ無事にヤマトに辿り着いたものの、その後いったいどのような生活が自分を待っているのか想像もできなかった。

 船の扱いに長けた隼人ではあるが、さすがにヤマトまでの道程ほどの長期間、船に揺られたことのないカザトは、大地に降り立った後もしばらくは身体が揺れ続けている感覚に閉口した。

 島伝い、津伝いに船を走らせ、やがて大きな河を遡って辿り着いたのが都の東南、カザトの故郷である「阿多」と同じ音をもつ「阿陀の里」だった。そこには古くから阿多を本貫地とする「阿多隼人」たちが移り住んできており、都の周辺にはその他にも大隅半島出身の「大隅隼人」らの集住する里など、複数の隼人の移住地があり、同じく朝廷への出仕を行っていた。

 阿陀の里に到着したカザトたちを残して、郡司は一人都へと向かった。

 この度の朝貢の首尾を報告し、各人員がこれから務めることになる職掌の割り振りなどを決定するのだ。

 今回の朝貢から、引率の功によって郡司は官位を賜るのだという。だが皆にとってはそんなことはどうでもよかった。郡司が都から戻り、今後の沙汰があるまでは見知らぬ土地で心許無いままに暇を持て余し、ある者は珍しげに方々を見て回り、またある者は黙然と酒を酌み続けた。

 長旅を共にしてきた仲間たちではあったが、特に親しく口をきく者もいなかったカザトは、今朝もこうして一人早起きしてヤマトの空気に自分を慣らそうと、そればかりを考えていた。やがて一人、また一人と起き出し、皆が揃ったところで朝餉(あさげ)が用意された。たいてい、コメが主食として出された。火山灰質の土でコメ作りには適さない阿多の地で育ったカザトには珍しいものだったが、その味も歯ごたえも何やら、ヤマトの山々を目にする時のように捉えどころがなく、美味いとも不味いとも判じ難いものだった。

 食事が済むと、カザトは真っ直ぐに里のはずれへと向かった。途中で行き遇う里の人々は隼人特有の彫りの深い顔立ちをしているが、中には淡泊なヤマトのような、あるいは隼人とヤマトの中間のような顔をした人も見受けられる。

 里のはずれ、細流(せせらぎ)のそばに小さな小屋がかけてあり、翁が一人、竹を割いている。翁はカザトを認めるとニコニコと破顔し、

「ここへ座れ」

と、手招きした。

 いったいおいくつなのだろう。随分と歳を召されているようだとカザトは思うが、翁の耳はもうほとんど聞こえないようで、こちらの問いかけはなかなか届くことがない。だが、カザトはこの翁の物語りに耳を傾ける時間が好きだった。

 阿陀に着いて間もなく、里の中をぶらぶらと散策していたところ、大量の竹の束を肩に担う翁に出会い、思わず小屋まで運ぶのを手伝ったのが縁だった。 

 翁は若い頃に阿多からこの阿陀の里に渡り、以来ずっとここで朝廷に献上するための竹籠を拵えているのだという。彼は自らの職務を心から誇りとしているようだった。

 翁の語る言い伝えによれば、隼人の祖先はヤマトの統治者たるミカドの祖先と、血を分けた兄弟であったというのだ。

 神話のあらすじはこうだ。

 ミカドの祖先神であるアマテラスオオミカミの御孫神であるニニギノミコトが地上統治のために天上界から今の九州島へと降り立った。そして薩摩の笠沙の岬でとても美しい女神に出会い、一目で互いに惹かれ合う。

 その女神であるコノハナサクヤヒメがお産みになった兄弟こそが、海幸彦―隼人の祖神と、山幸彦―ミカドの祖神であったのだという。

 しかし二人の兄弟は相容れず、兄の大切な釣り針を失くしたことを咎められ、難題を押し付けられた山幸彦は海へと追いやられてしまう。だが山幸彦は海の神の庇護を得て兄弟の争いを制し、敗れた兄の海幸彦は、以後永遠に弟の山幸彦に仕えることを誓った―。

 そのために隼人は今もミカドに捧げものをし、宮門をお守り申し上げているのだ、そう言って翁は胸を張り、笑った。

 自分たち隼人とヤマトの王であるミカドとの間に、そのような繋がりがあったということは驚きだったが、翁のように自分もそれを誇れるのかどうか、カザトには分からなかった。

 不遜ながら、神代の昔の盟約のために故郷を離れねばならない自分たちの境遇には釈然としない疑問が残る。そんな思いを振り払うかのようにカザトは刀子を手に取り、翁の竹を割く仕事を手伝い始めた。

 最初はヤマトの竹の細さに驚いた。阿多には筏にできるような太い竹が無尽蔵とも思える量で群生していたのに、細い篠竹のようなものしか見当たらない。阿多に生えている太い竹がヤマトにも根付くのはもう少し先の世になることなど、カザトはもちろん知らない。

 真っ直ぐな繊維をもつ竹だが、それを真っ直ぐに割いてゆくのはなかなかに難しい。途中で必ず左右どちらかへ偏ってしまい、均等な幅で割くのには技が要るのだ。 カザトは幼少の頃、父に竹の割き方を教わった。割いていく過程で均衡が崩れ、左右どちらかに逸れていきそうになったら、その逸れた方に向けて材をたわめるようにすれば、軌道を修正できる。理屈は簡単だが、微妙な力加減と繊細な手の感覚が必要とされ、不器用なカザトは人一倍、修得に時間がかかった。だがカザトの父は、

「上手くやろうとしなくていい」

 と、根気よく見守ってくれた。何度も失敗を繰り返しながら身に付けた技をもって阿陀の里で翁の作業を手伝い、良い腕だ、と褒められた時はただ純粋に嬉しかった。自分の習い覚えた技の中に亡き父の存在を感じることができたからだ。

 手際良く同じ幅に竹を割きながら、いつものように翁の話に耳を傾ける。今日は隼人たちの得意とする「スマイ」に関する話題だった。後の相撲の原型となるこの格闘技には、まだ細かい決まりごとがあるわけではなかった。

 伝説ではヤマトの暴れ者の神―当麻蹴速(たいまのけはや)と、それを誅するために出雲から招聘された力自慢の神―野見宿禰(のみのすくね)とが戦ったのがスマイの最初で、仕合は激しい蹴り技の応酬で始まったという。

 最後には宿禰が蹴速の腰骨を踏み砕いて勝利したといわれており、カザトたちの知るスマイではまさかそこまでの事は無いにしろ、拳での突きや蹴足が禁じられているわけではなかった。

 翁は若いころに、スマイの試合で相手の膝蹴りを脇に受け、あばらの骨を折ったまま戦いを続け、さらにその後も三人と勝負しこれを退けたという武勇伝を、身振り手振りを交えてカザトに披露した。カザトが驚き感嘆し、どのように痛みに打ち克ったのかを訊ねると、翁はその唇の動きから質問を読み取り、

「息を吐くのだ」

 と、実際にハアッと息を吐いてみせた。

 肋骨を傷めると特に息を吸うときに激しい痛みを感じるため、呼吸が困難となることを翁は説明した。故に、息を強く吐き、体中の筋肉を締めて傷めた骨を守り、吐き切った瞬間に短く息を吸うのだという。

 その技は翁が彼の祖父から学んだものだという。ひと通りその呼吸を繰り返し、作業もそっちのけでカザトにもやってみろという。

 カザトが翁を真似て息を吐いてゆくと、確かに身体中の筋肉が呼気と共に圧縮されるかのように締まっていくのを感じた。瞬間、翁の拳がカザトの腹に打ちこまれた。だが息を吐き切って締まった身体は痛みを感じることはなかった。

「それでいい」

 と、翁は笑って仕事に戻った。

 スマイを通して得られる、男同士の乱暴とも言えるこんなやりとりがカザトはたまらなく好きだった。

 互いの力と力、身体と身体をぶつけ合った末に生まれる絆のようなものは、信ずるに値するものだとカザトは思う。長い時間をかけて語り合うのもいいが、双方痛い思いをしながら全力を出して戦うと、何故か不思議と互いの事が分かり合えるような気がするのだ。きっとスマイを通じて、言葉よりも濃密な語り合いが無意識のうちになされているのだろう。

 またたく間に時間が過ぎ、カザトは丁寧に礼を言って翁の小屋を辞した。帰りすがら、宿舎の方向から常にない賑々しさが伝わってきた。どうやら一足先に都へと報告に向かった郡司が戻ってきたらしい。

 郡司を慕う気持ちというよりも、今後の自分たちの道がようやく示されるという束の間の安堵感から、皆が皆郡司に寄り添うようにして取り巻いている。

 旅装を解いた郡司は、すぐさま皆をひとところに集め、ぐるりと皆の顔を眺めてから切り出した。

「各々方、この度の栄えある出仕、まことに目出度う存ずる。はるか阿多よりの旅路には疲れ、遠い土地にての心許無い日々はさぞ心労だったであろう」

 思いがけない郡司の優しい労いの言葉に、すでに目頭を熱くしている者もいた。郡司はもう一度、皆の顔を確かめるように視線を巡らせ、こう続けた。

「誇るがよい。ミカドは我ら隼人の力を御所望である。神代の約を果たさんがため、我らは海を越え、ここヤマトへとやってきた。各々尽くせ。その力をもって務めを全うするのだ」

 そして、各自がこれから従事する職掌の割り振りが伝えられた。

 ある者は近衛兵としての宮門警護、またある者は細流の翁のような竹器などの製作、あるいは朝儀において行われる「隼人舞」と呼ばれる歌舞音曲の奏上などの任にそれぞれ就くこととなった。

 自分に与えられる役目は一体何なのか。固唾をのんで命を待つカザトに告げられたそれは、「朝儀への供奉」であった。朝廷における元日の儀式や大嘗祭の際、朱雀大路の両側に武装した隼人たちが居並び、入場してくる百官に向けて「吠声(はいせい)」という特殊な声を発する呪術を行うことが定められていた。

 さらにミカドの行幸にも供奉し、山川や国境、道の曲がりなどに至った時も同じくこれを行う。隼人の吠える声には邪霊を祓い、魔を退ける力があるのだ。その呪能をもって朝廷を守護する―それこそ隼人に求められた最大の務めであった。

思いもよらない大役を命じられてとまどうカザトに、郡司は皆が解散した後も残るように申しつけた。

「名誉なことだ、カザト」

 カザトの肩に手を置いて、郡司は力強くそう云った。

「ですが何故そのような大切なお役目に私などが……」

 訝るカザトにさも当然だとばかりに頷き、

「なんでも、大隅の大衣(おおきぬ)であられるサシヒレ様の強いご推挙があったと聞くが……」

 畿内に移住した隼人たちを統べる最高の位である「大衣」。阿多隼人と大隅隼人からそれぞれ一名ずつが任じられ、配下の隼人たちを導く役目を担っている。 

 その一人である大隅のサシヒレなる人物が、自分を朝儀に列せしむべく推挙したという―。カザトは驚きを通り越して事態がよく飲み込めずにいた。

 もちろん、ヤマトに来たばかりのカザトには面識どころかその名すら初めて聞くものだった。

「わしにも詳しい経緯はわからんが……善きにつけ悪しきにつけ、己が思う以上に人の眼というのはあるものだ。それにお前は訳者(おさ)の必要がないほどにヤマトの言葉に堪能だ。きっと大きな武器になるだろう。励めよ、カザト」

 カザトの預かり知れぬところで、すでに運命は動き始めていた。


 都へと向けて出立する前に、カザトは細流の翁のもとを訪ねた。再び会えるとも限らない、なぜか無性にそんな気がして別れの挨拶をするつもりだった。

 いつもと変わらぬ様子で竹を割く翁をみとめたカザトは、翁のほとんど聞こえない耳に届くように、ありったけの大きな声で、今度仰せつかった務めのことを伝えようとした。

 しかし、翁はそれを手で制し、何もかもわかっているというように何度も頷き、

「いつもお前に良い風が吹くよう祈っている」

 そう言ってカザトの肩を力強く叩いた。

 胸がいっぱいになったカザトは、翁に伝える言葉も見つけられず、ただ返事の代わりにハアッと強く息を吐き、固くなった腹に己の拳を突き立ててみせた。

 折しも細流に鋭い風が吹き渡り、笹の葉がさざ波の音でそれに応えた。

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