終章  吠声(はいせい)

 一年と四か月にも及ぶ大隅との戦は、幕を閉じた。大隅隼人らは斬首・捕虜合わせて実に千四百人、むろんヤマトの将兵にも数多の死者・負傷者を出しての終戦だった。

 カザトはヤマトへと帰還する船上、夢とも現ともつかぬ朦朧とした状態で過ごしていた。意識がはっきりしてくると、決まって幻のように眼前に現れるものがあった。それは朝賀の儀で携え、いつかソバカリが〝風〟を表していると語った、独特の鉤模様の描かれた隼人の楯だ。

 ただ宙に静止してそこにある楯を前に、カザトは幾度も自身に問いかける。


 この楯で、何を守ろうというのか。

 この楯で、何を守ろうとしたのか。


 だがそんな堂々巡りの思考に疲れると、明けることのない闇のような、苦しい眠りが訪れるばかりだった。


 帰還兵たちを迎える都の人々は、熱狂の渦にあった。生きて再び妻や子に会えた者が流す喜びの涙や、誇らしく歩む兵を称える光景がそこかしこで見られ、凱旋の列は長く広く朱雀大路に満ち満ちた。

 カザトはそんな喧騒から一人離れ、思うように動かない足にもどかしさを感じながら、真っ先に会うべき人のもとへと歩を進めていた。あと少しで、愛しい人に再会できる。ただその一念がカザトの胸を張り裂けそうなほどに満たしている。

 懐かしい秦家の門を遠目に見た瞬間、カザトは異変に気付いた。夢中で駆け寄ると、邸は荒れはて、あろうことか十字に組んだ丸太で門は固く閉ざされていた。邸の中に向かって何度も火乃売の名を呼んだ。だが、邸は静まり返り、人の住まう気配すらしない。

 背後に物音がして、カザトは咄嗟に振り向いた。

「カザトどの」

 立っていたのは巨体の衛士、オオヒコだった。顔中をくしゃくしゃにしながらカザトの無事を喜んだが、すぐに沈痛な面持ちとなって事の経緯を語り始めた。

 いわく、火乃売は呪詛の疑いをかけられて身柄を拘束され、囚獄司の獄舎に囚われているのだという。それも此度の戦でヤマトが敗れるよう呪禁の法を執り行った、というのが罪状で、証拠となる呪具も押収されたという。

 カザトは以前から火乃売が受けていた、悪質な嫌がらせを思い出した。呪詛など冤罪に決まっている。彼女を陥れようと、とうとう非道な手段が行きつくところまで行きついたに違いない。

 全身が震えるような怒りに覆われながら、オオヒコの先導でカザトは囚獄司への道のりを急いだ。囚われの身でありながらも、火乃売に会うことはできるらしい。

 オオヒコの顔なのか、獄舎へは誰何されることもなく入ることができた。

 薄暗く、陰鬱な雰囲気の漂うこのようなところに彼女がいることを思うと、胸が押し潰されそうだ。松明の明かりを掲げるオオヒコが示したその場所に、最愛の人はいた。

「カザトさん」

 牢の格子戸から手を差し伸べ、火乃売はまっさきにカザトの帰還を寿いでくれた。少し面窶れしたようではあるものの、以前と変わらぬ強い瞳と肌の艶を保っていることに、ほんの少しだけ安堵する。

 カザトは彼女の手を胸に掻き抱きながら、溢れる思いに胸を塞がれていた。

 話さなくてはならないことが山のようにある。だが、今の彼女に何から伝えればよいというのか。そんなカザトの胸の内を察したのか、火乃売は静かに口を開いた。

「貴志麻呂の、夢を見ました」

 驚いてカザトが眼を瞠ると、泣き笑いのような顔で彼女が続ける。

「にこにこと笑って……。姉上、カザトと仲良くやってください、と」

 火乃売は知っているのだ。貴志麻呂がすでにこの世の人ではないことを。貴志麻呂の魂魄は姉の夢枕に立ち、その幸せを祈る言葉を残して消えていったのだ。

 カザトは零れそうになる涙を悟られまいと俯いた。その時、松明の薄明かりに照らされて、ようやく火乃売の身体の変化に気が付いた。彼女の腹が、大きく膨れている。

 はっとしてカザトが顔を上げると、火乃売は恥じらうように眼を伏せた。

 結ばれたその日に授かった命であることは明白だ。

 こんな場所、こんな時でなければどれほどの祝福が許されただろう―。狂おしい思いに叫び出しそうになるのを堪えて、カザトはより強く火乃売の手を握り締めた。

「何か……何かほしいものはありませんか?」

 カザトの問いかけに彼女は一瞬言葉を詰まらせ、

「この子を産みたい」

 と、消え入るような声で囁いた。切れ長の眼から、ひとすじの涙が零れ落ちた。

 火乃売を奪って獄舎から抜け出せるか―。しかし、自分とて満足に足を動かすこともできない。万が一ここを出られたとしても、身重の彼女を連れて逃げおおせることなどできるのか。そして、その後は?

どうすればいい。どうすれば―。

その時、入り口からいくつもの足音が近づいてくるのが聞こえ、囚獄司の役人たちを引き連れた覆面の男が姿を現した。

 反射的に身構えるカザトに軽く手を上げて制しながら、男は覆面を外して素顔をあらわにした。

「旅人さま!」

「おじさま!」

 カザトと火乃売が同時に声を上げる。そこに立っているのは大伴旅人その人だった。近付いてきた旅人は二人の顔を交互に見やり、その双眸が見る間に潤んでいった。感極まったように、うん、うん、と一人何度も頷いている。

「火乃売、辛い思いをさせたな。カザト、よく帰ってきてくれた」

 そう言って握り合わさった二人の手に、自らの掌を重ねた。

「お前たち、添い遂げる覚悟があるのだな?」

 唐突な問いかけに面食らったものの、二人は同時に力強く頷いた。そんなカザトと火乃売に満足そうに微笑むと、旅人は声を低めて語りかける。

「あまり時間がないから手短に言うぞ。今から負傷兵を帰還させる隊が都を出る。お前たちは南へ向かう隊に紛れて飛鳥を抜け、吉野の川から舟で紀伊まで行くのだ」

 いかに冤罪であろうと、それを証明する手立てがない限り疑いが晴れることはまずないだろう。妊婦であれば赦免される例もあるが、罪状が国家転覆の邪法ということであれば、最悪の刑罰が言い渡されることは免れまい。

旅人の言う通り、脱出にはこの機をおいて外にないのだ。囚獄司の役人の一人が、牢の封を解いて扉を開けた。火乃売が走り出てカザトの胸に取りすがる。 大きくなった腹を圧しないよう気遣いながら、カザトは彼女を思い切り抱き締めた。

火明かりに眼が慣れてきたのか、牢内の様子がつまびらかに浮き上がった。思いの外衛生的で、身重の体を冷やさないようにか毛皮まで敷かれている。火乃売のまとう衣も、粗末ではあっても温かく清潔だ。ふと、囚獄司の役人たちの顔に見覚えのあることに気が付いた。そうだ、いずれも天覧仕合の折りに西方として出場した遣い手たちだ。みな一様に、やさしい眼差しで二人を見守っている。

旅人やオオヒコ、そしてこの人たちの尽力のお蔭で何とか火乃売は守られてきたのだ。カザトは胸が熱くなり、彼らにそっと頭を垂れた。

「歩けない者は馬で送り届けるゆえ、火乃売は重傷者に化けてもらおう。吉野の川まではオオヒコを付かせるから、カザトは一緒に火乃売を守れ。吉野から紀伊までの舟は、信のおけるわしの旧い友に託してある」

 そして、舟の着いたところに小さな寺がある。そこに住まう尼僧を頼れ。そう言って旅人は首にかけていた飾りを引き抜き、カザトに手渡した。黒く透き通った石でできた、いにしえの鏃のようなものだ。

「証拠の品として、これを見せて大伴旅人の縁者だと名乗れば、必ず力になってくれるだろう」

 そう言って火乃売に向き直り、幼い子をあやすように語りかける。

「ほの坊、わしは貴志麻呂を守ってやることができなかった。そればかりかお前がこんな目に遭うことも止められず、カザトを戦に巻き込んだ。ヤマトの兵も大隅の隼人も、実に多くの命が失われた。わしはこれほど己の無力を呪ったことはない」

 痛恨の面持ちで懺悔する旅人に、火乃売はおじさま、と声を詰まらせる。

「無念なことだが、戦の火種はこれからも絶えることはなかろう。半島の方でも何やらきな臭い動きがあるらしい。遠からずわしは大宰府に派遣されることが決まった」

 もうこの齢だ、かの地に骨を埋めることになろうて―。そう言って火乃売の腹に優しく手を置くと、慈しむように目を細めた。

「わしがしてやれることはこれが最後になるかもしれんが……この子は希望そのものだ。ヤマト、隼人の区切りではない、この日出ずる国の子どもなのだ」

 地に満ちればよい、このような希望の子らが―。旅人は二人の背中をそっと押し、出口の方へと導いてゆく。しかし、いかに旅人の力があるとはいえ、獄舎から人ひとり消えたとなるとここにいる役人たちが咎めを受けるのではないか。カザトは今更ながらそれに気が付き、彼らを見やった。その不安に気付いたかのように役人たちが目元をやわらげ、かぶりを振る。

「ご心配にはおよびませんよ、カザトどの。私どもはみな大丈夫です」

 そうそう、と他の役人が明るく相槌を打つ。

「ここしばらくは雨もなく、建屋は乾ききっておりますゆえ。火でも出ればよく燃えるでしょうなあ」

 さよう、火事には気を付けんといかん、とまた一人相の手を入れる。

 まさか、獄舎を燃やそうというのか。囚われの身の火乃売を事故で亡くなったものと扱い、追捕の手が差し向けられないようにするつもりなのだ。彼女を逃がすために何故そこまでしてくれるのだろう。

「カザトどの、我々はあなたがたの戦いぶり、またあなたがたとの手合わせを通じて、心底感じ入ったのです。人と人とが全霊をかけてぶつかり合えば、その先には必ずや互いに分かりあえる道が開かれる―。そう、信じることができたのです」

 だからこそ、生き延びてほしい―。そう言って役人たちはみな一様に頷いてみせた。

「秦の姫君も、どうかご無事で丈夫なお子をお産みください。お二人の子だ。さぞかし強くなりますよ」

 おどけたような言葉に、小さな笑い声が重なった。火乃売もカザトも、ようやく頬をほころばせる。

「さあ、時間がありません。お早く」

 火乃売に包帯や布をかぶせて顔を隠し、負傷兵に擬してカザトとオオヒコがその両脇を支えるように外へ出た。

眼に眩い日の光が遍く降り注ぎ、囚獄司の眼前をいましも通過する帰還兵たちの列に出くわした。振り返ると旅人と役人たちが眼だけで別れを告げている。感謝と惜別の念を込めて、カザトと火乃売はそっと一礼し、オオヒコの先導で隊列の最後尾に従った。無人の馬が二頭曳かれており、カザトとオオヒコが注意深く火乃売を鞍上に乗せた。後ろから彼女を支えるようにカザトが鞍に飛び乗るのを見届けて、オオヒコも馬上の人となる。

 朱雀大路をゆっくりと南へ逆行する隊列に、手を合わせる者たちもいた。もはや二度とこの道を通ることはあるまい。

 羅城門を抜け出たところで、カザトと火乃売は都を仰ぎ見た。まさに囚獄司の辺りから黒煙が舞い上がり、喧騒と共に人波がそちらへと流れてゆく。

 手綱を握り直した二人はもう、二度と振り返ることはなかった。

 

 かつての都である飛鳥の地を抜け、そして古くより聖地として崇められ、繁くミカドも行幸することで知られる吉野へと至った。ここを流れる川は阿陀の里ともつながっており、紀伊の国と河内・和泉の国を分かつように西流し、やがて海へと注ぐ大河となる。

「この先をまっすぐに降りると、舟着き場があります。そこに旅人さまのおっしゃっていた方がお待ちです」

 オオヒコは川の方を指し示すと、鞍上で居住まいを正し二人に向き直った。

「お名残り惜しゅうございますが……これにて。お二人とも、長久のご武運を」

 火乃売が顔を覆っていた布を外し、深々とオオヒコに頭を垂れた。カザトも同様に礼をし、馬首を返して立ち去る彼を見送った。

 長い夏の陽とはいえ、辺りはすでに薄暮の時を迎えていた。火乃売を気遣いながら船着き場への坂を下りるカザトは、そこで待つ人の後ろ姿に見覚えがあった。

「翁!」

 聞こえにくいはずの耳にもカザトの声が届いたのか、振り返ったその人はあの日と同じように、ニコニコと破顔した。阿陀の里で竹を割く、細流の翁だ。

 丁寧に頭を下げる火乃売にも笑顔を向けると、彼女の手をとって舟へといざなう。旅人がもっとも信を置くと言った旧友とは、阿陀の翁のことだったのだ。事情は全て把握しているごとく、乗り込んできたカザトにも懐かしそうな眼を向けただけでそれ以上の言葉はかけようとはしなかった。

「少々流れの早い箇所もある。奥方は船底に横になってもらった方がいい。暗い中の川下りになるが心配するな。この川が、我ら阿多隼人を拒むことはない」

 翁が言うのは古い言い伝えのことだ。最初のミカドである神武が、吉野に至った時、この川で漁をするニエモツという土地神に出遭った。その神が阿多の鵜飼の祖だ、という神話だ。たしかにこの川は阿多隼人とは関わりが深い。翁は何度も舟で上り下りを繰り返した経験があるのだろう。離岸した船は川の一部にでもなったかのように、滑らかに水面を走っていった。

 急激に陽はその身を隠し、空は茜から深い群青を思わせる色へと移ろっていた。川の両岸を守るように繁る樹々のはざまから、満ちつつある月が標のように昇ってきている。

 川浪は月明かりを映してあるいは剣のように、またあるいは銀鱗のように輝き、舟の進むべき水脈を示すかのように舞い踊っている。

「吉野から紀伊の港までは、この川の岸をゆくほぼ一本道だ。途中、河内へと峠越えのできる道が北へと切れ込む場所がある。古の王の大きな陵のあるところだ」

 カザトもその土地のことは聞いたことがある。たしか紀伊と大和の国境にあたる、真土の峠にほど近い場所のはずだ。その陵の麓に目指す寺が建っているのだという。

 気が付くと川幅が随分と広がっていた。たっぷりとした水の流れのためか、舟もゆっくりと進んでいくような錯覚を受ける。横たわる火乃売に目を転じると、祈るように両手を組んで一心に月の光を見つめている。

 やがて、右岸の果てに一点の光が認められた。川の蛇行に沿って舷側が傾くにつれ、その光は二つに分かれ、徐々に大きくなっていった。どうやら篝火が焚かれているらしい。旅人に示された寺がそこにあるのだ。

 翁は巧みに櫂を操ると、舟を川の右側へと寄せてゆく。近付くにつれて篝火に照らし出され、船着き場が設けられているのが分かった。

静かに舟を着けた翁は、揺れないように気遣いながら火乃売を引き起こした。舟を舫うことはせず、大きな手でしっかりと桟橋の杭を掴み、カザトと火乃売をそこに下ろした。

「この道なりに上っていけば、寺の山門に行きつく。必ず、寺の者が出てくるまで訪いを告げるのだ。もう、二度と会うことはあるまい」

 これを、と言って翁はカザトに細長いものを手渡した。月明かりにかざしてあらためると、翁が竹を割くために使っていた刀子のようだ。カザトは感極まって差し出された刀子ごと、翁の手を握り締める。

照れたように笑った翁は火乃売に向けて片眼をつぶってみせると、握った拳をカザトに向けて突き出した。それに応えるようにカザトも己の拳を突き出す。  

とん、と拳を打ち合わせると、その勢いのまま舟は音もなく岸を離れていった。

 拳を握ったまま見送るカザトと、その隣で深々と礼をする火乃売に、

「良い風を」

 と、それだけを言って翁は川の中ほどへと姿を溶け込ませていった。あとには川の流れがたてるやさしい水音だけが、何事もなかったかのように聞こえてくるのみだった。

 目指す寺へ向けて坂道を登ろうとした時、火乃売が苦しげに蹲った。驚いてカザトが支えると、彼女の額にはうっすらと汗が浮かび、息づかいも荒くなっているようだ。時折苦痛に耐えるように眉をしかめ、大きくなった腹に手をやっている。

 そうだ、この腹の大きさといい、身ごもってからの時間の経過といい、今がまさに産み月ではないのか。いつ産気づいてもおかしくない状況だったのだ。

 火乃売を支えるようにして、不自由な足を引きずりながらカザトは必死で坂道を上った。彼女も確かな足取りで一歩一歩を進め、不安げに顔を覗き込むカザトに気丈な笑みを返した。

 一対の篝火に照らされて、小さな山門が浮かび上がっていた。

 カザトは迷うことなく、訪いを告げる声を張り上げた。月下に門を敲く音が響き、やがてその内側にそっと人の立つ気配が感じられた。

「……どなたさまですか?」

 声の主は女性のようだ。話の通り、この寺を預かる尼僧なのだろう。

「夜更けに申し訳ございません」

 カザトが詫びながら、大伴旅人の縁者である旨を告げると、尼僧は門の内側で小さく息をのんだようだった。

「ご無礼ですが……何か証はございますか?」

 旅人から託された石鏃の首飾りを、カザトはそっと扉の節穴に差し入れた。掛け紐がするすると穴の向うへと吸い込まれていき、ほどなく閂の外される音に続いて山門が開かれた。

 その人は僧形ではあるが、どうやら隼人の女性のようだ。旅人の首飾りを胸に抱くようにしてぎゅっと握り締めている。門の前に佇む二人の様子を目にした瞬間、尼僧は全ての事情を悟ってくれたようだ。

「さあ、こちらへ」

 そう言いながらカザトの反対側にまわって火乃売を支え、屋内へと導いた。小さいながらもいくつかの瓦葺の建物が配されたその寺は静謐で、得も言われぬ安心感に満ちている。

 火乃売を板敷の間に横たえると、尼僧は炉に薪をくべて火を大きくし、湯を沸かす準備をした。物入れから清潔な布をいくつも取り出しながら、てきぱきとカザトに指示を出す。

「本堂の裏に、篠竹が植わっております。このくらいの長さに、三つほど切っておいてください」

 竹の繊維をはがすように噛み裂くと、薄く鋭い刃のようになる。清潔なそれで赤子の臍の緒を断つのはカザトにも馴染み深い習俗だった。やはりこの人は隼人の尼僧なのだ。

 篠竹を切ってカザトが戻ると、火乃売は苦痛に呻き声を洩らしていた。駆け寄ってその手を握ると、苦しい息の中うっすらと微笑んでみせた。既に本格的に陣痛が始まっているのだ。首だけをようやく尼僧に向けると、喘ぎながらも世話をかけることを心から詫びた。

「何も心配はいりませんよ。まずは、無事に赤ちゃんを産みましょうね」

 尼僧は励ますようにそう言うと、火乃売の額の汗をやさしく拭った。

「ここからは女の戦いです。あなたもお怪我をしているようですし、本当に大変なのはお子が生まれてからです。今は落ち着かれないでしょうが、別室でお休みください」

 カザトにそう言って、尼僧は暗に退室することを勧めていた。たしかに、男の自分にできることなど何もないかもしれない。しかし、こんな時にただじっと無事の出産だけを待っているというのか。カザトのそんな胸中を察したのか、尼僧は目元を和らげると、

「あなたの方法で、祈ればよいのです」

 そう言って、そっと両の掌を胸の前で合わせてみせた。

 自分の方法で、祈る―。カザトは頷くと、もう一度火乃売の手を握り、その額に強く口付けした。眼だけで彼女が微笑みを返す。

 室を出たカザトは、いつの間にか随分と傾いた月明かりの境内を見渡して、深く息をついた。

本堂の背後に小高い丘が盛り上がり、その頂点にはこんもりと丸い築山が認められる。古の王が眠るという、陵があれだろう。

 カザトはゆっくりと、その頂上へ向けての坂道を上りはじめた。傷めた脚は、この旅の途中でさらに動きが思うに任せないようになっている。片足を引きずるようにして、一歩一歩を踏みしめていく。露に濡れた下草や、思いがけず刺のある灌木などに足をとられながら、長い時間をかけて陵の上にまで辿りついた時には、カザトは汗と泥とに塗れていた。

 呼吸を整えて視線を巡らせれば、さきほど下って来た川がその身を横たえ、東天がほのかに藍の色を帯びているのが眼に入った。

 ―自分の方法で祈ればいい―。

そうだ、今の自分に許される精一杯の祈りが届くよう、ありったけの思いを解き放とう。

 カザトは大きく、胸一杯に息を吸い込んだ。これまでは、ヤマトの王権を守護することが任務だった。だが、自分が本当に守りたい、愛おしい命がすぐそこに息づいている。その命を守るためならば、狗にでも鬼にでもなって永久(とわ)に牙を剝くだろう。

 カザトは吠えた。狼の遠吠えにも似たその聲は低く長く、眼前の山間に木霊していった。息の続く限り、カザトは何度も吠を発し続けた。実体のない権力のためではない。今まさに生まれ出ようとする命を祝福し、その子の歩む道に魔が潜むことのないよう祓うためにこそ、吠えるのだ。

 ふいに瞼の裏に、満面の笑みを浮かべる貴志麻呂の顔が浮かび上がる。続いて静かな表情で目元を和らげる、ヒギトの顔が。

 藍色だった東の空は、やがてその色を水に溶いたかのように淡く白んでいき、世界を照らし出していった。

 カザトは吠えた。とめどなく溢れ出す熱い涙を堪えることもなく、ただただ吠え続けていた。

 そして―、

 山々に反響するその聲は、川面を小さく震わせながら上流へと遡っていった。

 無限に往くかと思われたそれは、やがて源流に至ると涼やかな湧水に導かれるようにくるりと向きを変え、小さな小さな風となって、今度は下流を目指して力強く吹き渡ってゆく。

 いましも呼び起こされたその風が、生まれたばかりの命の歌声を乗せてカザトの元へと届くのは、あと、もう少しのことだろう。



                       ―完―

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吠声(はいせい) 三條すずしろ @suzusirosanjou

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