ラフレシアの家

伴美砂都

ラフレシアの家

 地下鉄の駅を降りて、閑静な住宅街を十分ほど歩いた角にリナちゃんの家はある。

 正確には、角を曲がるまでは隣の家とほとんど繋がった造りの塀で、角を曲がった向こうに玄関があり、そこからがリナちゃんの家だ。でも、曲がるどころか十数メートル先から歩いてくるだけでも、そこが否応なくリナちゃんの家だということがわかる。

 ジャングルのように生い茂った何かの樹、そこから垂れ下がる蔓や、蔓以外の人工物と思われるロープ、ロープともいえない長い布、角に立つ交通安全のためのミラーを覆い隠すように飛び出した大きな金属片。アニメ「風の谷のナウシカ」で腐海が砂漠や村に迫る様子のごとく道路を侵食したゴミ袋、ゴミ袋、それさえ突き破って飛び出したゴミの数々。生ぐさい臭いは、風向きによっては、その姿が見えるより先にもう感じられる。

 リナちゃんの家は、ゴミ屋敷だ。


 角を曲がったところの入り口から玄関までは、おそらく本当は石畳の短い通路になっている。おそらく、というのは、そこももれなくゴミに埋め尽くされているからだ。

 とはいえ、ゴミ屋敷の住人は、えてしてそれを自分では、ゴミと思っていないことが多い。慎重に合間を縫って進み、チャイムを押す。ギンゴン、と濁った音。風向きなど関係なく、ここまで来ると、何かが腐ったような臭気が全身を覆う。それでも、マスクはしないと決めていた。

 いつも返事はない。鍵はだいたい開いているので、そっと扉を開けて入る。玄関までの道のり以上に修羅の道と化している廊下を通り奥の部屋に辿り着くと、リナちゃんはいつものように、部屋の中央にほんの少しある平坦なスぺース(と言っても、そこも本来の床ではないのだが)に座り込んでテレビを見ていた。


 リナちゃんの家を訪れるようになったのは半年ほど前からだった。始まりは、大学のゼミのフィールド・ワークでゴミ屋敷の分布に関する調査をしていたときに出会ったことで、卒業し、就職してからも私はここを訪れている。


 「リナちゃん、高藤たかとうです、高藤知佳ちか、こんにちは」


 呼びかけても返事はない。いつものことだ。斜め後ろまで行って座る。麻痺しかけていた鼻に、リナちゃんの身体から発される饐えた臭いが突き刺さる。


 「差し入れ買ってきたよ」


 リナちゃんはやっと振り返り、駅前のスーパーで買ってきたおはぎの袋を眼光鋭くしばし睨み付けたあと、枯れ枝のような手を伸ばし私の手からバッと取る。すぐにテレビのほうへ向き直って、バキバキとパッケージを開け手づかみで食べ始めた。

 テレビの画面には密林が映されており、隅にテロップで、世界最大の花ラフレシア、幻の開花の瞬間を捉える!と書かれている。


 “ラフレシアは、スマトラの熱帯雨林の奥地に咲く花。葉も茎もなく、他の植物に寄生する形で花だけが現れます。大きい花は一メートル近くなるものもあり、その成長の過程は謎に包まれています。花は乾期で三日、雨期でも七日ほどで枯れてしまうほか、開花の瞬間を捉えるのはとても難しく・・・―”


 アナウンスが入り、画面上に大写しになった人間の頭ほどもある、薄赤色のキャベツのような蕾が、めしめしと音を立てて開く。

 ぶつぶつした白い模様のある、巨大な赤黒い花弁が五枚。その中央は口を開ける化け物のようにぽっかりと空いており、ぐじゅぐじゅとした黄色に、雌蕊なのか雄蕊なのか、無数の突起がそそり立っている。


 “ラフレシアの花は、肉が腐ったような、強烈な臭いを放ちます。これは、自分の花粉を運び、種を殖やすために必要な生物、ハエを呼びよせるためで・・・”


 最初に訪れたとき、NHKか何かでたまたま放送しているのだと思ったこの番組が、録画したものであると気付いたのは三度めの訪問のときだった。ゴミの上に載せられたテレビに、VHSかDVDを接続するためのコードが刺さっているのに驚いた。 よく見るとテレビは地デジ非対応のブラウン管で、通常のテレビ放送は見られないものだった。リナちゃんがなぜ、この番組だけを繰り返し観るのかは、いまだわからない。

 噎せかえるような臭いの中、黙ったまま、リナちゃんと二人でラフレシアの番組を見る。むちゃむちゃとリナちゃんがおはぎを食べる音がする。テレビの音は決して小さくはないのに、静かだ。リナちゃんと私の、二人だけで過ごす、静かな時間だ。



 外へ出ると、近所の主婦と思しき女性二人がこちらを見ているのに気が付いた。こんにちは、と言うと、二人は顔を見合わせる。

 このあたりは本来、わりと瀟洒な家が多い“お金持ちエリア”で、その二人も小奇麗な格好をして、髪もきれいに染めている。一人が、恐る恐るという感じで口を開いた。


 「あなた、・・・行政の人?」


 いえ、違います、と答える。


 「じゃあ、まさか・・・娘さん?」

 「いいえ、違うんです、ちょっと・・・ご縁があって」

 「・・・そう、・・・困ってるのよね、三島さんの家・・・道路も見通しが悪くなるし、臭いも・・・子どももいるのに、悪い影響が出ないかと思っちゃって」

 「ねえ、そうよ、子どもがいるのに」

 

 子ども子どもと言って、自分たちの都合で汚いとか臭いとか思っているのを隠せるとでも考えているんだろうか、馬鹿が。にっこりと、笑ってみせる。


 「少しでも、片付けてくださるように、説得しようと思っているんですけれど、なかなか難しくて・・・でも、また来てみますね」


 まあ、偉いわね、お願いしますね、と私ではなく互いの顔を見あって言いながら、主婦二人は去って行った。自分たちで注意しに行く勇気もないくせに、正しいことをしたような顔をしやがって。

 私は、リナちゃんを説得するつもりなどなかった。あそこに集めたものは、きっと、リナちゃんが大切に思っているものなのだろうから。誰も訪ねる形跡のないあのゴミ屋敷でひとり暮らすリナちゃんの心の隙間を埋めるのがあのゴミたちであるなら、それを片付けることの何が正義であるというのだろう。



 五月の連休明け、私はまたリナちゃんの家を訪ねた。研修期間が明けた会社の同期たちは、皆、群れるばかりで、学生気分の抜けきらない人たちばかりだ。

 サンドイッチの入った袋を提げてリナちゃんの家に入ると、先客がいた。


 「ですから、何度も申し上げていますが、道路は個人の敷地ではないのです」


 役所の人だろう。パンツスーツを着て、黒髪を後ろでまとめた、冷たい印象の女性だった。リナちゃんの家を片付けろというために来たんだろう。マスクなんてして。そんなことを言っても、無駄なのに。うるさいね、とリナちゃんが怒鳴る。リナちゃんの声を聞くのは久しぶりだった。


 「帰っとくれ」

 「・・・本日は失礼いたします。また参ります」


 振り返り、その人は私の姿を見る。一度、目が合うが、少しだけ眉を顰めただけで、脇をすり抜けて出て行った。

 私は、彼女を追った。


 「ちょっと」

 「はい?」


 玄関を出たところで、呼びとめた。新人で、私と同じぐらいの年齢なのかもしれない。振り返ってこちらを見た、細い縁の眼鏡を掛けた目に幼さが残っている。肌が陶器のように、不自然なほどつるんとしていた。


 「リナちゃんは、片付けないと思いますよ」

 「・・・」

 「リナちゃんの気持ちも考えずに、そういうのがお役所仕事って言うんじゃないですか?」


 彼女は表情を変えないまま、これが仕事ですから、と言った。喉の奥から耳の後ろまで、怒りでかっと熱くなる。


 「あなた名前はなんていうんですか」

 「・・・、」

 「名前、お聞きしてるんですけど」

 「・・・生駒いこまです」

 「生駒さん、私のこと訊かないんですか?リナちゃんの家を片付けてほしいんでしょう?私、高藤といいます、高藤知佳です、大学のフィールドワークでリナちゃんと知り合って、それからずっと通ってるんです、・・・あなた、せめてマスク外したらどうですか?そんな差別的な態度で、リナちゃんが片付けようと思うわけ、なくないですか?」

 「・・・」

 「なんとか言いなさいよ」


 しばらく沈黙して、生駒さんはすっとマスクを顎にずらした。口紅もつけていない、白い唇だった。


 「気持ち悪いですね」


 そう言って生駒さんは去って行った。私は、持ったままだったサンドイッチの箱を、地面に叩きつけた。



 それからも生駒さんは何度もリナちゃんの家にやって来た。そのたびリナちゃんは怒り、うるさいよ、片付けない、帰れ、と繰り返した。

 梅雨入りした日、生駒さんが帰ったあと、雨漏りがおはぎのパックに落ちる音を聴きながら私は言った。


 「リナちゃん、片付けることないよ、あんなやつの言うこと、聞くことない」


 リナちゃんは、何も言わなかった。



 梅雨の晴れ間のある日、いつものようにリナちゃんの家を訪れた。角を曲がる前からもう、異変に気付く。あれだけ道路を埋め尽くしていたゴミが跡形もない。リナちゃんの家は、空っぽになっていた。

 玄関の前へ回ると、業者の人たちが大量のゴミをトラックに載せて走り去るところだった。玄関の横に、上司らしき男の人と並んで、生駒さんが立っている。同じパンツスーツ。マスクもしたままだ。全身が燃え上がるような怒りに包まれ、私はそちらへ走り寄った。


 「ちょっと、何してるのよ、ねえ、何考えてんの」


 彼女の腕を掴む。お、おい、と隣から上司のような男が言う。柔らかい腕だった。他人の身体に触れたのは久しぶりだ。

 一瞬の間があって、生駒さんは無表情のまま、きっぱりと言った。


 「ご本人の許可がいただけましたので」


 すっきりとした玄関がからりと開いて、リナちゃんが顔を出した。太陽の下で見るとリナちゃんの顔はより黒ずんでいた。

 リナちゃんは、初めて外の世界へ足を踏み出す子どものように、そっと外へ出てきて、そして、生駒さんを見て、きれいになったね、と小さな、小さな声で言った。


 「そうですね」


 答えた生駒さんはマスクも外さず、表情も変えなかった。リナちゃんは私のほうを微塵も見ることなく、生駒さんに、ねえちゃん、ありがとね、と言って、そして、はにかむように笑った。



 私は、リナちゃんの家を訪ねるのをやめた。


 やって来た夏は、酷暑だった。

 リナちゃんは、綺麗になった部屋で、あっけなく死んだ。


 リナちゃんの訃報を、私は新聞で知った。地方欄の隅。三島利名子さん(75)が自宅で死亡しているのを市職員が発見、病死とみられる。

 新聞を閉じてテレビを点ける。同僚と上司に無能と陰口を叩かれていたのを知ってから、もう三日も会社を休んでいた。テレビから、あの日あの時、あの番組、とアナウンスが流れ、見覚えのある画面が映った。


 “ラフレシアの花は、肉が腐ったような、強烈な臭いを放ちます。これは、自分の花粉を運び、種を殖やすために必要な生物、ハエを呼びよせるためで・・・”


 めしめしと音を立てて、ラフレシアが開いた。

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