薔薇のリボン

 病棟から屋上へ行く階段は暗い。座っていると寒く感じるほどだけど、上のほうを見ると錆びた金属の扉の四隅を、強い太陽の光が縁取っている。夏の、今はもう夕方のはずだった。

 左手に着けた腕時計の、時刻は五時半を指していた。日勤が終わるまで、あと三十分。今日は患者さんの急変もなくて、このままいけば定時で仕事を終われるはずだった。けれど今、この時にもナースコールが鳴っているかもしれないし、夜勤の人たちが出勤して来る前に、引き継ぎの準備を終わらせなければならない。頭ではわかっていたけど、立ち上がることができなかった。

 腕時計は、雑貨店で千円で買ったもの。汗をかいて、布のベルトが湿っている。早く、戻らなければいけない。反対の手を目の前に挙げて見る。まだ、震えていた。これじゃあ注射もできない、と思ったら、泣きすぎて熱をもった目からまたぼろぼろと涙が出た。ここで役に立たなかったら、あたしにはもう行く場所は、ひとつもないのに。

 

 「里沙りさちゃん」


 しばらく時間が経った。呼ぶ声がして、顔を上げた。


 「まあちゃん」


 立っていたのは、同じ病院の介護病棟で働く同僚の、まあちゃんだった。手に、茶色の紙袋を持っている。


 「行っていい、隣」


 頷くと彼女は階段を上がってきて、隣に座った。まあちゃんが近くに来ると、まあちゃんの匂いがする。まえにそう言ったらまあちゃんは、それ、くさいってこと、と言って笑っていたのだけれど、そうじゃない。何の匂いかは、わからない。でも、ほっとする匂いだ。植物の匂いに、近いかもしれない。


 「どうして、こっち、」


 同じ病院の中で働いていても、介護病棟勤務のまあちゃんが、あたしの勤める急性期病棟へ来ることは滅多にない。言いかけて嗚咽したあたしに、持っていたタオルを渡してくれる。受け取って、顔を埋めるようにして涙を拭うと、病棟の洗濯機の洗剤の匂いがした。


 「あのね、師長が、里沙ちゃんに届けてって」

 「……、」


 これ、と開けて見せた紙袋の中には、ビニールに包まれたパンがたくさん入っていた。病院の駐車場に、週に一度来る移動販売車のもの。紙袋の紐には、赤いリボンが結わえてある。


 「たぶん仮眠室か、階段のとこだからって」


 返事をしようとしたけれど、泣き声しか出なかった。さわるね、と小さな声で言ってから、まあちゃんはそっと側に寄って、隣から腕を回して、ぎゅっと抱きしめるようにしてくれた。


 「まあちゃ、あ、のね、あたし、」

 「うん、」

 「……、」

 「……うん、あのね、ちょっとだけ聞いた、松見まつみさんから」


 松見さんは同じ病棟の先輩だ。まあちゃんはあたしの背を、ゆっくりとひかえめに撫でてくれながら、松見さん、心配してたよ、と言う。病棟を空けて迷惑をかけているのにと思ったら申し訳なくて、もっと涙があふれた。


 初めて見る、女性の患者さんだった。病棟から外来に書類を届けに行ったとき、呼びとめられた。年齢は、たぶん四十代ぐらい。はじめ待ち時間が長いと苦情を言ったその人は、こちらへ向かって来たときからもう、すごく怒っているのがわかった。

 病院に勤めていると、苦情を言ったり怒ったりする人も、ときどきはやって来る。待ち時間が長いということは、そのなかでもいちばんよく言われることだ。みんな具合がわるくて来ているから、待っているのもつらいだろうし、ふだんより気が立っているのかもしれない。

 診察にかかる時間はどうにもできないけれど、順番をきちんと確認して教えてあげたら落ち着く人もいるし、あとのほうの順番の人には、呼び出しのポケベルを渡すこともできる。それを説明しようとあたしが口を開くのよりも早く、その人は強い力で、あたしの右手首を掴んだ。そうされると思っていなかったから、ひ、と思わず悲鳴をあげてしまった。


 「あなた、こんなものつけて病院で働くなんて恥ずかしくないの?」


 あたしの右手首の内側には、赤い薔薇の刺青がある。たぶん、それが原因で、国家試験は通ったのに看護学校を卒業して一年、あたしは行き先が決まらなかった。

 自分でも、それはそうだろうなと思う。さすがに半袖は着ないけど、ギリでも見えるところに刺青のある看護師なんて、あたしもほかに出会ったことがない。やっと面接試験に受かったのが、ここだった。

 卒業してからやっていた清掃のアルバイトは、一年契約で雇用が切れていた。だから初日、ここをクビになったら暮らしていけないと思って、一応、これ隠したほうがいいですか、とあたしは、師長に尋ねた。

 そのとき師長があたしの方を大きな目でぎろっと見て、そんなことより注射の練習しな、と腕まくりをしたのを、よくおぼえている。あたしはそれからずっと刺青を隠さずに勤めているし、注射はめちゃめちゃ練習して、どんなに血管が細い人にも、相当上手にできるようになった。

 勤めてみれば、刺青のことでなにか言われることはこれまでまったくといっていいほど、なかった。この土地には、あたし以上に全身に刺青を入れている人がゴロゴロいる。だから、特別なことじゃないと思ってくれたのかもしれなかった。

 でも、そうだよな、と思った。医療職の人が刺青なんて、と思うほうが普通なのかもしれない。それよりも、こちらを睨み付けたその人の表情があまりにも憎々しげな怒りに満ちていたこと、すごい勢いで手首を掴んで振り上げられた動作、そのあと激高した彼女が、窓口に置いてあったチラシ置きを掴んで、こちらへ向かって降り上げた動作に、あたしは息もできないほど怯えてしまった。

 もしあのとき、師長が後ろからその患者さんを止めてくれなかったら、あたしはこの場所に来るまで我慢できずにその場で泣いて、走って逃げてしまったかもしれない。もっとも、師長が対応してくれている間に黙ってその場を去ってしまったのだから、どっちも、そう変わらないのだろうけれど。


 あたしの手首の刺青は、十五歳のとき入れた。家を出て、看護科の全寮制の高校に入ったとき。

 そのときにはもう、あたしに暴力を振るった男は、母と別れていて、家にはいなかった。殴られた痣は、ほとんど消えた。ただ右の手首の裏側の、煙草を押し付けられた火傷の跡だけが、どうしても消えなかった。それを消すために、入れた。

 今でも、あたしは怖い。大声で怒鳴られること、腕を掴まれること、自分に向かって、なにかを振り上げられること。煙草の火も、煙も、お酒も。でも、あたしだけじゃない。あんなふうに怒鳴られたら、師長だって、怖くないはずがない。

 あたしは、甘えてしまった。師長の優しさと、強さに、それから、自分の過去とか、そういうもの、ぜんぶに。


 初めて勤めた病院だから、ほかのところのことは知らないけど、この病院に来るのはほとんどこの土地の人だからか勤めている人と患者さん、患者さん同士も顔見知りだったりして、そのぶんトラブルやクレームは少ないような気がする。そのことにも、あたしは甘えていたのかもしれない。

 少なくとも、看護師である以上、怒ってくる人であっても治療を受けられるように、そして、怒っていない周りの人たちには迷惑がかからないように、きちんと対応するべきなのに。

 

 ウゥーウー、と外からサイレンの音が聞こえた。この町では正午と、どうしてか、夕方五時と六時にサイレンが鳴る。

 まあちゃんのタオルでもう一度顔を拭いて、あたしは立ち上がる。まあちゃんはそっと背中を支えるようにして、一緒に立ち上がってくれた。


 「パン、たべる?」

 「ううん、持って帰る、まあちゃん、たくさんあるから、はんぶん持って帰って、よかったら」

 「え、いいよ、里沙ちゃん、……あのさ、じゃあさ、今日、夜、うち来て、一緒に食べようよ、パン」

 「……、うん、行く」


 じゃあ、あとでね、と言って、まあちゃんは先に階段を降りて、介護病棟へ続く渡り廊下のほうへ歩いて行った。後ろでひとつにくくった黒髪がさっと揺れる。

 まあちゃんはいつも、仕事のとき白のズックを室内履きにしていて、足音をたてずに静かに歩く。まあちゃんの姿が見えなくなるまで見ていてから、あたしも階段を降りた。



 ナースステーションには師長がひとりでいた。眼鏡をかけて、パソコンに向かっている。ホワイトボードに貼られた引継ぎの表の、あたしが書かなければいけなかったところは師長のきちっとした字で埋められていた。

 近くに行って、申し訳ありませんでした、と頭を下げると、師長は眼鏡を外して、こちらを見た。師長の目の色は、近くで見ると黄がかった焦茶色のような色をしている。


 「リッサ」

 「はい」


 師長があたしを呼ぶときの発音が、あたしは好きだ。

 師長は、きびしい人だ。でも、優しい。師長の名札には、師長 唐木、と苗字だけ書いてあるけれど、裏側に一枚入った名刺には、唐木ジュリア、とフルネームで名前が書かれている。Julia。uの上に点がひとつ、ある。

 師長の生まれた国の話を、聞いたことはない。でも師長が、ほかの人が呼ぶのと少しだけ違うイントネーションであたしの名を呼ぶとき、もしかしたら師長のふるさとにも、あたしと似た名前の人がいるのかもしれないと思い、そしてそのときあたしは、ふだん好きでもなんでもない自分の名前を、少しだけ大切なもののように思うことができる。


 「怖い思いさせてごめんな」

 「え、」


 叱られると思ったのに、師長の言葉は優しかった。師長が謝らなければいけないことなんて、ひとつもないのに。


 「明日来れるか?」

 「はい」

 「ダメだったらここで寝ててもいいから」

 「え、」

 「とりあえず一回、ここ来なさい、いい?」

 「……、っ、はい」


 一度、自殺未遂をした。そのときは患者さん同士の喧嘩に巻き込まれてしまって、怒った人が酒瓶を振り上げたのに怯えて今日みたいに泣いてしまって、そのあと。師長は、だから心配してくれたのだろうと思った。

 そのときの傷あとは、左手の、時計のベルトの下にある。それは、隠したほうがいいですかと、あたしは誰にも尋ねなかった。尋ねないまま、隠した。時計の、花柄の布ベルトは幅広で、金具を調節すれば、動いてもずれないようにきっちりと留めることができる。

 もう一度、すみませんでしたと言おうとして、師長の顔を見て、はっとした。師長の茶色の目が、少しだけ、潤んでいた。胸がぎゅっと苦しくなって、また涙が零れてしまわないように、力を入れて一度、唇を噛み、ゆっくり息を吸った。


 「師長、」

 「うん?」

 「ありがとうございました」

 「リッサ」

 「はい」

 「死ぬなよ」

 「え、……、はい」

 「いい?」

 「はいっ」



 夜、パンの袋を持って、まあちゃんの部屋に行った。まあちゃんの顔を見たらまた涙が出てきて、あたしはわんわん泣いた。それは、安心の涙だった。

 まあちゃんは泣くあたしの手を取って部屋の中へ連れて行ってくれて、そして、夕方に階段でそうしてくれたように、ゆっくりと背中を撫でてくれた。


 まあちゃんは、去年この病院に来た。勤める病棟は違うけど寮が隣の部屋で、歳も近いのでよく話すようになった。ここに来るまでも介護や病院事務の仕事で、いくつかの病院や施設を点々としてきたのだと言っていた。

 まあちゃんに介護は、天職だなとあたしは思う。ゆっくり話す、少し低くて聞き取りやすい声とか、小柄な見た目以上に力持ちなところとか、でも、いちばんは手だ。まあちゃんの手には不思議な力がある。まあちゃんの手に触れられると、痛いのも怖いのもぜんぶほどけるようにして、すごく楽になる。

 たぶん、きっと、それは、でも、魔法とかではない。まあちゃんは、きっと、どこかですごく痛い思いをしたことがあるんじゃないかと、あたしは思っている。まあちゃんの手は痛みを知っているから、痛くないように、痛みが治るように、他人に触れることができるのだと。本当はどうなのか、尋ねたことはないけれど。


 まあちゃんが電子レンジでパンを温めてきてくれて、あたしたちは床にふたつ並べたクッションに座った。まあちゃんのテーブルはひとり用の低くて小さいもので、うちにあるのと似ている。アイスコーヒーを入れてくれたマグカップはふたつ乗り切らなかったから、床に置いた。

 師長がくれたパンは甘いのも、しょっぱいのもあった。クッキーもある。まあちゃんは照り焼きチキンのパン、あたしは、ハンバーグの入ったのを食べた。


 「おいしいね、パン」

 「うん、おいしい」

 「コーヒーに、牛乳入れる?」

 「あ、もらう」

 

 冷蔵庫から牛乳を出して戻ってきたまあちゃんは、紙袋についていた赤いリボンをあたしがほどいて床に置いていたのを、そっと拾ってテーブルの上に載せた。


 「里沙ちゃん」

 「うん」

 「あのね、里沙ちゃんの、その」

 「うん」

 「刺青のお花、なんていう花か、聞いてもいい?」

 「え、……、これ?」

 「うん、……あ、えっとね、……わたし、幼稚園とか、学校、あんまり、ちゃんと行ってなかったときあって、いろいろ、知らないの、ものの、名前、……お花の、名前とか、まだ、よく知らないのもあるんだ」

 

 小さな小さな音でつけたテレビからは、知らない人たちの笑い声が、かすかにしていた。

 こおおん、とエアコンの音がした。この寮は建物は古いけど、寮費に電気代も含まれていて、冷房も暖房も使っていいことになっている。思えば学校の寮もそうだったかもしれないけど、あたしはずっと家にお金がなかったから、電気代を心配せずにエアコンを使ってもいいということに長いこと慣れなかった。


 「これ、薔薇の花」

 「ばら」

 「そう、ばらっていうの、これ」

 「そうなんだ」

 「うん」

 「きれいだね」

 「……、ありがとう、まあちゃん」

 「うん、里沙ちゃん、教えてくれてありがとう」

 「うん」


 あ、と言ってまあちゃんは、テーブルの上のリボンを手にとった。


 「これも、ばらかな」


 よくよく見ると赤いリボンには、薄くうすく、同色の薔薇の模様が織り込まれていた。ほどくとき気付かなかったけれど、もう一度触ってみると、花の部分が少し、ぽこぽこと膨らんだような手触りがある。


 「そうかも」

 「へえ、なんかさ、お洒落だよね」

 「ね、ローゼのくせにね」

 「ふふ、うん」

 「あ、ローゼって、薔薇って意味?」

 「そうなの?」


 ローゼ、というのは移動販売のパン屋の名前だ。紙袋にも、よく見ると薔薇の花のイラストがある。


 「うん、たぶん、そう、……あ、でも、ちがうかも、薔薇は、ローズ?」

 「ローズは、きいたことある」

 「どっちかな」

 「あのさ、きっと、もしかしたら、ちがう国では、ローゼって読むのかも、しれないよ」

 「あ、そうかも」


 師長の生まれた国では、薔薇のことをなんて言うだろう、とあたしは思った。ローゼのパンは同じ種類のはずのパンでも大きさも形も微妙に違って、ハンバーグパンの上に、ヤキソバパンの名残の焼きそばがちょっとだけ乗っかっていたりする。でも、どれもとても美味しい。

 まあちゃんが、蝶々結びのやり方を教えてほしいと言ったので、薔薇のリボンでしばらく練習した。


 「え、めっちゃ、上手じゃん」

 「ありがと」

 「まあちゃん」

 「うん」

 「あのね、あたし」

 「うん」

 「まあちゃんに出会えて、よかったな」

 「里沙ちゃん」

 「うん」

 「わたしも、里沙ちゃんと会えて、よかった」


 あたしたちは二人してちょっと泣いて、そしてそれから、甘いパンをひとつずつ食べた。



 日付が変わる前に、自分の部屋に帰った。まあちゃんと、おやすみ、と言い合って、同時にドアを閉める。暗かった部屋に、電気を点ける。エアコンのスイッチを入れて、シャワーを浴びた。

 

 互いの部屋を、あたしたちはよく訪れる。まあちゃんはいつも日が暮れるまえに、ベランダに面した窓のカーテンをしっかりと閉じる。網戸にしないの、と一度、訊いたとき、夜のベランダが怖いんだ、と言っていた。それから、あたしもまあちゃんが夜に自分の部屋に来るときには、カーテンは必ず閉めることにしている。

 あたしが煙草が怖いのと同じように、まあちゃんはベランダが怖い。どうしてと尋ねたことはない。あたしが手首を切った理由も、まあちゃんは尋ねなかった。あたしたちはきっと、聞かなくても、知らなくても、ぜんぶ知っている。あたしが薔薇の刺青を入れた理由も、まあちゃんが薔薇の名前を知らなかった理由も、あたしがあんなふうに泣いてしまう理由も、まあちゃんが、蝶々結びのやり方を知らなかった理由も。

 ドライヤーで髪を乾かす。お湯を浴びると、身体が温まるせいか刺青の薔薇の色はより鮮やかになる。その下にほんの少し、薄く薄くだけ消えずに残ってしまった煙草の跡も、左手の、カッターナイフの傷あとも。

 まあちゃんが、この花の名前を聞いてくれてよかった、と思った。まあちゃんが、蝶々結びのやり方を聞いてくれて、よかったと思った。明日も日勤だから、早起きできるように、眠ろうと思った。


 まあちゃんの部屋には、ローゼの紙袋だけ持って行っていた。まあちゃんの部屋で外していた腕時計を、仕事に持って行くかばんに戻そうとして袋の中を見ると、文字盤のすぐ横に、ローゼの薔薇のリボンが蝶々結びに結わえられていた。

 薔薇のリボンが結ばれたままの腕時計をローゼの紙袋から出して、かばんの中にそっと入れた。それからベッドの上で丸くなって、あたしはすぐ眠った。

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