セイタカアワダチソウの町(2/2)
治まっていた花粉症がまた出はじめたのは、大学院を卒業して、学校の先生になってすぐでした。
私が最初に勤めた学校は、中央第二小学校でした(聞いたことはあるかな?今はもうない学校です。第一と第二が合併して、中央小学校になっています)。この市の中では、まちなかのほうの学校です。
赴任して、五月には、おぼえているかぎりいちばんひどかった小学生のころより、もっとひどい症状が出るようになってしまいました。病院では、就職して慣れない環境へのストレスで悪化しているのでしょう、というふうに言われました。花粉の飛ぶ時期が過ぎれば、落ち着くでしょうと。でも、梅雨になっても夏がきても、鼻炎はいっこうに治まりませんでした。
「子どもたちから顔が見えなくなる」という理由で、教員のマスクの着用は禁止されていました。ひとたびくしゃみが出はじめるとなかなか止まらず、授業を中断してしまうことが何度もありました。
毎晩、セイタカアワダチソウの夢を見ました。セイタカアワダチソウが花壇の花をぜんぶ枯らして、二階や三階まで伸び、教室の床や窓を割って入ってくる夢。中央第二小学校へ行く途中の道にも、セイタカアワダチソウはたくさん生えていました。そこをどうしても通れなくなって、遠回りをして出勤するために、朝は、早く家を出なければなりませんでした。
病院でもらった薬はよく効かず、強い薬に変えてもらい、規定の倍量飲むようになりました。眠気が出るので、栄養ドリンクか眠気を覚ますようなサプリメントを一緒に飲んで教壇に立っていました。目の前には、子どもたちがいたのに、一人ひとりと向き合うことすら、できなくなっていった。先生としては、一番いけないことです。
なにが駄目だったのか、いまでも本当のところはわかりません。何か嫌なことがあったのかと問われれば、答えられない。先輩も同僚も上司も、決して、嫌な人ではありませんでした。でも、あの学校の何かが、私に合わなかったのだと思います。
それは、昼休みにはだれひとり教室に残さず外へ遊びに出さなければいけないことであったり、マラソン大会や学力テストでクラスごとに競わなければならないことであったり、不登校の子のいるクラスは全員、皆勤賞がもらえないという決めごとであったり、給食の残飯量で掃除のペナルティが課されたり、そういうことだったかもしれません。あるいは、もっと別のことだったのかも。
ある日、授業の合間に職員室に戻ると、机の上に置いていたはずのティッシュ箱がなくなっていました。教室で使っていたぶんを使いきってしまって、取りに来たときでした。
きっと、だれかが私のものだと知らず、咄嗟に使ってどこか別のところに置いたりしたのでしょう。あるいは、風邪を引いていたり、私と同じように花粉症の人がいて、やむをえず持って行ったのだと思います。決して、嫌がらせなどではないとわかっていました。少なくとも、それまで同じようなことは、一度もなかった。
けれど秋の晴れた日、運動場での体育でくしゃみが止まらなくなってしまってチャイムより十分も早く子どもたちを教室に戻し、逃げるように職員室に戻ってきた私には、それは心が折れるのにじゅうぶんな条件でした。それから私は学校へ行けなくなり、そして次の春、あなたたちの小学校へ異動になりました。
中央第二小学校は、県の教育委員会のプロジェクトのモデル校になっている学校でした(何のことか、よくわからないよね。私もわかっていなかったし、いまでもピンときません)。だからなのか、そこへ赴任した先生は通常より長い期間、異動せずに勤めることになっていたようでした。だから一年で異動になった私は異色で、きっと、教頭先生や校長先生も、困って、悩んで決められたのだろうなと思いました。
異動が決まって荷物を取りに行った日、職員室でほかの先生たちが私のことを、弱いもんねえ、と言っていたのを聞いてしまいました。でも、そのときの私はなにも思わなかった。そうか、弱いからか、と思っただけです。
今、思えば、もっと怒ればよかった。弱いからあなたたちの学校に異動するだなんて、そんな考え方はあまりにも、あなたたちに対して失礼です。でも、言い訳するなら、そのときの私には、なにかに対して怒るような力が、なくなってしまっていた。目のまえに一枚、薄いのにどうしたってやぶれない、ぼんやりした膜が張っているような感覚が、ずっと続いていました。あるいは、ここにいるはずの自分のことを、どこか遠くから心だけが、ぼおっと眺めているような。
春、教室で初めてあなたたちのまえに立ったときも、わたしの心はまだ、どこか遠くに飛んでしまっていました。ただ、ただ、くしゃみが止まらなくなってしまうのがこわかった。鼻炎の薬をたくさん飲んで、カフェイン剤を飲んで、まともに眠っていないのに頭だけが冴えているような状態でした。ずっと、耳鳴りがしていた。
そんな状態で、よく教壇に立ったなと思います。あなたたちに、どう見えていただろうと。申し訳ない気持ちになります。
でも、あの日、あそこへ行ってよかった。それだけは、本当に思います。
最初のホームルームの時間でした。呆然としたまま黒板に自分の名前を書いたとき、教室のまえのほうから、ぐじゅん、と控えめなくしゃみの音がしました。そちらを見ると、一番前の席に座ったおとなしそうな女の子が、ガーゼのマスクをした上から両手で口もとを隠すようにして、真っ赤になって俯いているのが見えました。それが、美恩でした。
そのとき、私は我に返りました。教室の窓は閉まっていたのに、強い風が、ばあっと吹いたような気がしました。そして、私の周りにあった、消えなかった膜を、全部飛ばしていった。
急に、周りの景色がはっきりと見えました。教室のなかのいろいろな色は、あまりにも鮮やかだった。息を吸いました。それまでも当たり前にずっと呼吸をしていたのに、本当に、本当に久しぶりに、酸素を吸ったような気がしました。
「私の名前は」
クラスは二十八人でした。中央第二小学校は当時は規模の大きな学校で、一クラスが四十人もいました。そこに比べて、後ろの席に座る子の顔まで、ずっとよく見渡せました。
「野村奈南子ですが、あだ名はダダです」
みんな、私の顔を見てくれていました。どうしてでしょう。ホームルームが始まるまでは、ざわざわとした教室でした。
「ウルトラマンは知ってますか、ウルトラマンに出てくるキャラクターに、ダダという怪獣がいます、それに似ているので、私のあだ名はダダです」
後ろを向いて、デフォルメしたダダの絵を黒板に描きました。手が震えて線が歪みました。後ろで、知ってる、という声と、知らない、という声があがり、その声は、どちらも等しく、私に勇気をくれました。
「だから私のことは、ダダ先生と呼んでください」
中央第二小学校では、先生のことも子ども同士でも、あだ名で呼び合うことは禁じられていました。あるいは、それは最適解だったのかもしれません。この学校がどうなのか、私はそのときまだ知りませんでした。でも、誤りでもいいと思った。
「ダダ先生!」
最初に大きな声を挙げてくれたのは、潤吾、あなたでした。
ダダというのは私の子どものころのあだ名でした。いつも鼻が詰まっていて自分の名前を、ノムラナナコ、とうまく発音できずに、ドブラダダコ、になるのを同級生の男の子に聞き咎められてからかわれ、中学校を卒業するまでずっと、そう呼ばれました。最初はドブと呼ばれましたが、そのあと、その怪獣に似ているとだれかが言い出し、ダダになりました。
それは、私にとって決して、いい思い出ではありません。あのとき自分のことをダダと言ったのは、あるいはあのころの、美恩と同じようにマスクをして俯いていた自分を、救いたくなったのかもしれません。でも、わからない。
ただひとつたしかなのは、あなたたちが私のことを呼んでくれたときの、ダダ先生という呼び名は、むかしクラスメイトに言われたダダと同じ名なのに、まったくちがう響きで、ずっと、優しく響いたということです。
あなたたちのクラスは、優等生という意味の「良い子」ではなかったかもしれません。宿題は、やってこない子のほうが多かったかもしれないぐらいね。立ち入り禁止の場所には侵入し、山があれば登り、川があれば下りというほど、びっくりするような内容であちこちに呼び出されて謝ったりもしました。
謝るときには必ず当事者を連れて行ったし、宿題は、居残りしてさせましたね。なぜか、不思議なほど、建設会社や空き地の持ち主に謝りに行くのを拒む子も、居残りをさぼる子もいなかった。時代もあるかもしれないけど、この土地の人たちはあぶないことをすれば叱ったけど、いつもあたたかい目であなたたちのことを見てくれていました。
そういえば、あなたの勤務先の会社、ビルの建設現場に子猫がいると言って深夜に忍び込んで、足場にのぼって降りられなくなったときの、あの会社じゃない?社長さんから深夜に電話がかかってきて冷や汗をかいたのをおぼえています。まさか、あのときの社長さんの下で働いているの?なんか、すごいなあ。社長さん、自分が命綱をつけて足場を登って、あなたと猫を救出してくれたんだよね。かっこよかったな。平謝りに謝ったけど、内心、ちょっと嬉しかった。
宿題の居残りは、数少ない(!)、宿題をやってくる子たちが一緒に残って、本当に、びっくりするほど丁寧に教えてくれました。健斗、奈央、恵はとくに、宿題は皆勤だったんじゃないかな。潤吾、だいぶお世話になったね。六年生、三学期の最後に一回だけ、全員提出になって、思わずオオッと言って拍手しちゃったのを憶えています。
あのころ、この町には学習塾はありませんでした。今も、大手の塾はひとつもないかも。両親が共働きの子がほとんどだったから、ほとんどの子が放課後、公園に行ったり、学校に残って、日暮れまで遊んでいたように思います。五時のサイレンが鳴り、六時のサイレンが鳴り、最後に残った子たちが帰って行くのを、教室や職員室の窓から見ていました。
あなたはいつも六時まで、ずっと校庭にいたね。部活を終えたマリアと一緒に帰って行くことが多かったのかな。ときどき、お仕事帰りのお母さんが迎えに来ることがあると、わざわざ職員室のほうまで来て、丁寧に挨拶をしてくれたことを思い出します。
私鉄の沿線にあるこの町は、労働者の町といわれることが多く、それと同時に、荒れた土地とか、ガラが悪い、というようなことを、よく言われる場所でした。住んだこともないのに、失礼な話だよね。
たしかに、ときどきは怖いこともあった。五年生の夏、あなたも大変な思いをしたのだったね。あなたの家に不審者が侵入して立てこもる事件がありました。近所の人が通報してくれて事なきをえましたが、無理やり侵入してきた知らない人とふたりきりで、どんなに怖かったことでしょう。さすがのあなたも、あのあとずいぶん泣いていたと、お母さんから聞きました。あなたは学校を休むこともなく、翌日にはもう、平気なような顔をして、登校してきていたけれど。
事件のことを、あのあと取り立ててあなたと話すことはありませんでした。あなたはすぐ元気になったように見えたけれど、元気になったように見えたからこそ、怖かったことを思い出させてしまうのが嫌でした。
通勤路であなたと会った日、あなたから、その話をしてくれたのでした。
「ダダ先生、あのさ、おれんちに入ってきたばばあ、おぼえてる?」
ばばあ、という言葉は乱暴な響きでしたが、あなたの口調は悪意のあるものではありませんでした。おぼえてるよ、と私が言うと、そっか、と言ってあなたは、たぶん、少し安心したような顔をしました。
「あの人さ、施設に入ったらしい」
「そうなの?」
「うん、保護されたって、かあちゃんが言ってた」
「そっか」
「うん、……あのさ、よかったよな」
「え、」
「よかったよ、保護されてさ」
「……、うん、そうだね」
あの事件は全国ニュースでも報道されたから、そういうようなこともあって、悪いイメージがついてしまうのかもしれません。県内の先生たちが集まる研修会なんかに出掛けて行って、勤めている学校を言うと、怖いところ、なんて言われることもありました。
でも、あなたがあの日言った、保護されてよかったよ、という言葉は、きっとどのニュースでも報道されず、だれにも、伝えられなかった。私たちがなにかを見る目にはいつも、若かった私の眼前にかかっていたような、うっすらとした膜があり続けるのかもしれません。
あなたたちは「良い子」ではなかったかもしれないけど、本当にいい子たちでした。素直でやさしくて、好奇心旺盛で、いろんな、いろんなことを、言葉にせずとも見聞きして考える力があり、賢かった。
セイタカアワダチソウが花粉症の原因ではないと、あなたが教えてくれたとき、びっくりしました。ずっと、誤解していたから。
そうなんだ、と言って、美恩が笑ったのを憶えています。あの子の笑顔を見たのは、あのときが初めてだったかもしれない。そうなんだよ、と言ったあなたの声が、誇らしそうだったことも。花粉症がひどかった美恩に、わたしたちの町にたくさんあるセイタカアワダチソウが怖くないものなのだと、あなたは教えてあげたかったのでしょうか?違ったらごめんね。そのことも話したことはないけれど、あのとき、美恩はほっとした顔をしていたね。
あれから私も、セイタカアワダチソウのことがまた怖くなくなりました。ススキに負けそうになっているところを目にすると、ちょっと可愛らしく思えてきちゃうぐらい。
知るということは、学ぶということは、恐怖を減らしますね。ときには、知ることで、より怖くなるものもあるのかもしれないけど。それでも、正しい知識、よりたくさんの知識を得れば、それだけ、少しでも怖くなくなるための、ヒントを得られると思っています。知らないことが、いちばん怖い。知るための道がないことが、いちばん怖いことなのです。そのことを、この町で、あの教室で、図書コーナーで、私たちは学びましたね。
ちょっと、話がずれてしまったような気がします。おばさんの長話で、ごめんなさい。
先月、美恩と一緒に学校まで来てくれたとき、ふたりのこれまでのこと、これからのこと、たくさん話してくれたのが嬉しくて、私もつい、自分のことを伝えたくなってしまいました。聴いてくれて、ありがとう。
むかし五年二組だった教室で、結婚の報告をしてくれましたね。
美恩が隣のクラスの子にからかわれたとき、五対一の喧嘩で身体を張った姿が印象的すぎて(喧嘩は駄目なんだけど、よくやった!ってつい言っちゃった)、私は、潤吾、ずっと美恩のこと、守ってあげていたものね、と言ったのでした。そうしたら、あなたは笑って、ちがうよ、と言った。
「先生、美恩が俺のこと、守ってくれてたんだよ、ずっと」
そう言われると思っていなかったから、少し驚きました。あなたは、窓際のほうで懐かしそうに外を眺めている美恩のほうをちょっと見て、照れくさそうに笑いました。
「かあちゃん同士が同じ職場だからさ、ガキのころから、一緒にいたのもあるけど……四年生まで、おれさ、どの先生にも、めちゃくちゃ悪い子だって言われたよ、喧嘩も、もっとしてたし、……でもさ、美恩は、潤吾はいい子だって、潤吾は、優しいいい子だって、美恩だけ言ってくれてた」
「そうなの」
「うん、あのな、俺のこといい子だって言ったの、三人だよ、かあちゃんと、美恩と、あと、ダダ先生」
あなたたちのクラスを卒業まで受け持って、何年か勤めたあと、別の学校に異動しました。そのあとも、いろいろな学校へ行った。どこへ行ってもやってこられたのは、あなたたちと過ごした、あの日々があったからだと思います。もう、先生になりたての頃のように、身体や心が言うことをきかなくて、立ち上がれなくなるようなことはありませんでした。
先生を辞めてこの町に戻ってきたのは、だから、教員という仕事が嫌になったからではありません。この町で、この学校で、もう一度日々を過ごしたくなったから。そして、あのころのこと、あの、苦しくて立ち上がれなかったときのこと、あなたたちに出会って、また歩き出せたときのことを、ずっと忘れずにいたからです。
時代は変わり、先生も、親も、子どもたちも、少しずつ変わっています。あのころよりもっと、経済的にも精神的にも、厳しい家庭が増えたようにも思います。それでも、ここに居るのはただ、ひとりひとりの、大切な子どもたちです。潤吾や、美恩、勝成、恵、健斗、奈央、……私が出会ってきた、これから出会う、愛おしい子どもたち。
あなたと美恩があの日、私に、こんな時代だけど、幸せな家族になりたいんだ、と言ってくれたように、私は、こんな時代だけど、ひとりでも多くの子が穏やかで楽しい日々、幸せな日々を過ごし、学び、人生を羽ばたいていけるよう、できる限り寄り添いたいと考えています。そう思えるようになったのは、あなたたちのおかげです。
潤吾、ありがとう。そして、もう一度おめでとう。どうか、幸せな日々を生きてくださいね。
私も、これからまたこの町で暮らしていきます。セイタカアワダチソウの揺れる線路沿いの道で、もし、また姿を見かけたら、声をかけてください。
それでは、またね。
ダダ先生より
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