エピローグ「ロゼット」

 角を曲がって、礼音れおんは顔を上げた。空は、晴れている。乾いたつめたい風がひゅっと吹き、マフラーの中にしまっていた長い髪を少しだけ後ろへ飛ばした。

 つい先月までそこにあった古い家屋は、もうすっかり壊され、ぽっかりとした空き地になっている。もう、ここにはだれもいないのだろうか。


 「礼音」


 空き地と道路を隔てる簡易的なフェンスの向こう側から、従兄の圭吾けいごが顔を出した。ほっとして、礼音は笑った。圭吾の短く刈り込まれた髪は、今はヘルメットに隠れている。


 「風邪ひいてたんだろ、もういいのか」

 「うん、もう治った」


 そうか、と言いながら、礼音が差し出した手提げ袋を受け取る。母親に頼まれた差し入れの品物が入っていた。


 「おお、重かったろ」

 「家からここまでだけだから、大丈夫」

 「昼に事務所で食うわ、みんなで」

 「うん、そうしてって、お母さんが」


 ありがとうな、と言って、圭吾は作業服のポケットから紙パックのココアを出して手渡してくれた。


 「もらいもんでわるいけど」

 「ありがとう」

 「冷えてるからあっためて飲みな」

 「うん」

 「これからどっか行くのか」

 「おばあちゃんとこ」

 「病院?」

 「そう」


 圭吾はヘルメットをさっと外し、礼音と同じほうを向いて、隣に並ぶ。


 「なんもなくなったな、ここも」


 圭吾が勤めているのは建設会社だが、建物の解体も請け負う。この空き地にあったのは平屋建ての家屋だった。住人がいなくなってから半倒壊状態のまま放置されており、先月からやっと撤去に着手できたのだという。


 「ちょっと、びっくりした」

 「うん?」

 「からっぽになったから」


 礼音が言うと圭吾は、ああ、と言って、少し眩しそうな表情をした。


 「まあ、な、いろいろ置いてあったからな」

 「うん」


 通常であれば数日で解体されてしまうほど小さな家だったが、時間がかかったのは土地の権利などの調整のほか、この家にあまりにもたくさんのものが、所狭しと詰め込まれていたからだった。

 中学校の帰りにも通るこの道で、大きなトラックが何度も行き来し、どこにこんなに入っていたのかというほどの家具やゴミ袋や雑貨類や本や雑誌、その他、何に使うのか遠目には判別できないさまざまなものを運びだして行くのを、礼音はときどき向かいの歩道に立ち止まって、そっと眺めていた。

 腐ったものも多かった。相当な臭いが漂っていた日もあったが、この町を行き交う人たちは皆、動じていなかったと礼音は思う。ずっとあるものも、壊れて消えていくものも、腐ったものも、そうでないものも、ただ、そこにあるものとして、受け止める町。礼音が生まれ、育った町だ。

 あのさ、と圭吾が言った。


 「お墓あるだろ、ヤチオカの」

 「うん」


 ヤチオカは高台にある寺とその周りにある墓地で、ヤチオカが地名なのか、寺の名前なのか墓の名前なのか、正確なところを知る人に礼音は出会ったことがない。学校の、たとえば地理学の先生なんかに訊けば教えてもらえそうだな、と思ったこともあるが、これまで尋ねたことはなかった。

 ヤチオカの墓地の一角には、無縁仏の共同墓がある。自治体のもつ住民情報が一元データ化されて久しいいまでも、この町では身元不明で亡くなる人が少なくない。路上でも、病院でも。そんな人たちを埋葬する墓だ。


 「あそこにさ、最近来る人いるんだよ」

 「うん」

 「おばあさんなんだけど、ここんとこ、毎日」

 「そうなの」

 「うん、まあ、一応な、ジュリばあんとこ行くなら、言っといて」

 「うん」


 寒いから早く行きな、と言って、圭吾はまた空き地のほうへ戻って行った。これからフェンスや機材も撤去して、そして、ここは本当に空っぽになるのだろう。マフラーを巻き直して、礼音は歩き出した。



 地区の医療施設がある敷地の、入り口の看板には「医療」という文字が書かれている。看板の下のほうが割れてしまっているので、以前はなにか続きが書かれていたのかもしれないと、そこを通るたび礼音は想像してみる。壊れて色褪せてしまったその看板には、しかし夕方ごろになると、オレンジ色の電球がそっと灯る。

 病棟の裏口付近に見知った姿があるのを目にとめて、礼音は歩みを速めた。


 「リサさあん」


 呼ぶと、こちらを向いた里沙は笑顔になり、大きく手を振った。

 ベテランの看護師である里沙は四十代半ばを過ぎているはずだが、明るい色に染めてきっちりとくくられた髪も、笑う目もとも若々しい。

 グレーのカーディガンの袖口から、手首にある赤い薔薇の刺青が覗く。色のすくないこの季節に、あたたかい灯りのようだなと礼音は思った。「医療」の看板に毎日灯る、ちいさな光と同じように。


 「レオちゃん、もう冬休み?」

 「うん、そう、あのね、おばあちゃんに」

 「ああ師長、師長じゃなくて、うん、待ってて」


 父方の祖母であるジュリアは七十代半ばを超えたいまも元気で、若い頃からずっと勤めていたこの病院で医療ボランティアをしている。

 頭はもちろん、足取りもしっかりしているのだが、礼音は学校が長期休みに入るとときどき、昼までのジュリアの勤務時間が終わるのに合わせてここを訪れ、家まで一緒に歩くことにしていた。


 ジュリアが出てくるのを待つ間、礼音は病棟の庭にある樹を見上げた。二階建ての建物よりもっと高く伸びた、大きな大きな樹。ずっと、長く生きている樹なのだろう。この季節になっても、足もとにはつやつやしたどんぐりがいくつか落ちていた。まてばしい、と白い塗料で書かれた、小さな金属のプレートが枝に下げられている。

 礼音の母方の祖母も、むかしここに勤めていた。幼いころから身体が弱くてしょっちゅう熱を出した礼音は、ここの外来にはよく世話になった。父も母も仕事を休めない日は、休憩室のベッドに寝かせてもらっていたこともある。

 あのころの記憶はいつも、ふわふわした身体の熱さと、ぼんやりした息苦しさのなかにある。それでも、ふたりの祖母が側にいる安心感からか、ひとりでいるときよりずっとよく眠れた。看護師たちもときどき顔を覗かせて、礼音が苦しがったり泣いてしまったようなときは、そっと背中をさすってくれたことを憶えている。


 ほどなくして、里沙と一緒にジュリアが姿を現した。礼音の姿を見て、彫りの深い茶色の目がにっこりと笑う。


 「おばあちゃん、圭兄に会ったんだけど、さっき」

 「そうかい」

 

 ゆっくりと靴を履き替えるジュリアに、礼音は言った。


 「ヤチオカのお墓にね、毎日来る人がいるんだって」


 この病院を含む医療施設の中には、地域の医療相談や福祉相談を行う窓口もあり、また、地区の見回りや路上生活者の支援も行っている。

 圭吾が気にしていたのは、この寒い時期に毎日墓参りに訪れるという年配の女性が、道端で倒れてしまったりしてはいけないということなのだろうと礼音は思った。見回りをする部署の人たちに伝えておけば、墓地の周りを重点的に見回ってもらうこともできるのだろう。


 「ふうん、そうなのかい」

 「そう、あのね、おばあちゃん?だって、言ってた、毎日来るって、」


 「リッサ」


 ジュリアが、すっと背筋を伸ばした。近頃は少し腰が曲がってきたが、ジュリアは大柄で肩幅も広い。姿勢を正すと、ずいぶん大きく見える。その眼光は鋭かった。

 はい、と間髪入れずに里沙が返事をした。里沙がここに勤め始めたとき、師長を務めていたのがジュリアだった。だからいまでもうっかり師長って呼びそうになるし、呼ばれると緊張するのよねえ、といつだったか里沙が、冗談めかして言っていたことを礼音は思い出した。


 「マーサ呼んで来な」

 「はい」


 理由もなにも尋ねず、里沙は使い込まれたナースサンダルをきゅっと鳴らして、病棟の奥へ駆けて行った。


 「レオン」

 「はい」

 「ヤチオカまで、マーサと一緒に行けるか」

 「、はい」


 礼音も、理由を尋ねることはしなかった。

 しばらくして、真亜沙が姿を現す。介護病棟の職員である真亜沙とは、外来で会うことはほとんどない。それでもときどき顔を合わせると笑顔で声を掛けてくれ、小さなお菓子を手渡してくれたりする。里沙とは歳が近く、ここに勤めたときからずっと仲が良いのだそうだ。


 「あれ、レオちゃん、ひさしぶりだね、元気?」

 「うん、マーサさん、……あのね、おばあちゃんが、」

 「マーサ」


 はいっ、と、真亜沙も背筋を伸ばす。わけのわからないまま、礼音もそっと姿勢を正した。祖母の目は、少し潤んでいるように見えた。心臓がどきんとして、礼音は静かに、深く息を吸って、吐いた。


 「レオン、たのんだよ」

 「はい」



 真亜沙と並んで、墓地へ続く階段をのぼった。一息ついて後ろを振り向くと、正午を過ぎてもう夕方のような色になり始めた空に、さっと刷毛で描いたような幅広の雲が浮かんでいた。

 この何十年かで、世の中はまた大きく変わったといわれる。技術の進歩も、政策も、国同士の情勢も。けれど、この町は変わらない、ずっと変わらないのだと、父や母や祖母、町の大人たちは皆そう言う。まるで、取り残されているようだと言う人も。

 十三歳の礼音には、生まれたときからある、この町がすべてだ。変わったあとの世の中なのか、ずっと、変わらずにある、この土地の風景なのか。どの時代にも同じように過去があり、未来があり、人びとが生きて死んでいくということを、ときどき礼音は不思議に思う。


 「マーサさん」

 「うん」

 「おばあちゃんから、なにかきいてますか」

 「ううん、とりあえず、レオちゃんについてけって」

 「そうなの」

 「うん」

 「おばあちゃん、すごいんだね」

 「ふふ、うん」


 ざくざくと土を踏む音と、息を吸ったり吐いたりする音が響く。呼吸が苦しくならないように気を付けて、ゆっくりと歩く。そのうち手袋の下の指先まで、少しずつ温まってくるように礼音は感じた。



 ヤチオカの墓地は、がらんとしていた。例年、この時期は墓参りに訪れる人も少ない。住職の姿も今は見えなかった。奥の共同墓へ、礼音は歩を進めた。

 真亜沙も、ときどきはここを訪れているはずだった。だれのお参りに行くの、と尋ねたことがある。命の恩人、と言った真亜沙の目が遠くを見ていたから、それ以上のことは、礼音は訊かなかった。


 「マーサさん、最近、ここ来ましたか?」

 「ううん、このまえ来たの先月かな、わたしも風邪ひいちゃってたりして、ちょっと久しぶり……でも、どうして、」


 斜め後ろを歩きながら言いかけた真亜沙の声が、途中で止まった。

 共同墓の前に座り、手を合わせる年配の女性が圭吾の言っていた人であると、すぐにわかった。礼音の背後でバサバサと音がし、地面に落とした荷物をそのままに、真亜沙が礼音の横をさっと駆け抜けて、そちらへ走って行った。


 「 いこまさん! 」


 いつも落ち着いた調子で話す真亜沙の、そんな悲鳴のような声を礼音は初めて聞いた。老婦人が顔を上げた。その目が真亜沙の姿を捉え、ゆっくりと焦点を結ぶ。


 「あなた」

 「……っ、いこま、さん、わ、わ、たし、」

 「生きていたの」

 「……、」

 「生きていたのね」

 「、っ、はい、」

 「ありがとう」

 「い、こま、さ、」

 「ありがとうね」

 「あああああああ、あ、」


 地面に崩れ落ちるようにして座り込み、大声をあげて泣く真亜沙の背に、いこまさんと呼ばれた老婦人がそっと手を回し、抱き締めるようにした。その背中も、波打つように震えていた。

 真亜沙の落とした荷物を拾い、礼音は足音を立てないようそっと、そちらへ近づいた。共同墓は小さな、ほんのちいさな墓石に、それでもわかる限りは、一人ずつの名が彫られている。もう消えかけた、それでもかろうじて、遠、と思しき一文字が読める墓石のまえに、小さな花束が供えられていた。


 

 

 フェンスもすべて取り除かれ、空っぽになった空き地の前で礼音はまた足を止めた。もうすぐ暮れそうな空はしかし赤く燃え、夕陽の最後の一筋が、そこを照らしているように見えた。


 「礼音」


 振り返ると、仕事を終えたのであろう圭吾が立っていた。作業着の上にジャンパーを羽織ってはいるが、ずいぶん薄着に見える。


 「圭兄、さむくないの」

 「ん、俺は、平気だけど」

 「そう」

 「礼音は、いいのか」

 「うん、今は、大丈夫、でも、終業式は出れなかった」

 「そっか」


 今でも、礼音はあまり丈夫ではない。今年も十二月のはじめに風邪をひいて、学校が冬休みに入るころ、やっと熱が下がった。皆と同じことが、同じようにできない、と落ち込むこともある。けれど、ずっと幼いころに比べれば、少しずつ学校にも行けるようになってきたかなと、同時に思う日もあった。


 「でもさ、前よりは、行けるようになったんじゃねえの、学校」

 「え、うん」


 考えていたのと同じことを言われて、礼音は思わず圭吾のほうを見る。圭吾も、こちらを見ていた。


 「うん、それは、そう」


 空き地に視線を戻すと、くすんだ緑色のものがいくつか見えた。家の土台までぜんぶ掘り返して撤去したはずなのに、もう草が生えてきたのだろうか、と礼音は驚くような気持ちになる。


 「入ってもいい、ここ」

 「いいだろ、たぶんだけど」


 適当ともいえる返事に苦笑しながら、礼音は空き地に足を踏み入れた。圭吾も、後ろから一緒に入ってきたようだった。近寄るとさっき見たそれはやはり植物で、地面に貼り付くようにして、まるく葉を広げている。


 「ロゼットだ」

 「え?」


 顔を上げると圭吾は不思議そうな表情で、しゃがみ込む礼音と地面に生えた植物を見下ろしていた。


 「タンポポじゃねえの?」

 「うん、あのね、たぶんタンポポだけど、これは、ロゼット」


 ロゼットは、植物が冬を越すかたちだ。地面にくっつくようにしてまるく葉を広げ、太陽の光を集めて、春を待つ。


 「よく知ってんのな」

 「うん、本で見た」

 「へえ、お前さ、頭いいよな」

 「そんなことは、ないけど」


 この町は、ずっと変わらないと、皆が言う。しかし反面、住む人の数は少しずつ減っているのだという。私鉄の駅は廃駅になり、街のほうでは交通機関はずっと便利に、安全になったといわれるけれど、この町の住民が利用するには不便になって久しい。行政センターの図書コーナーは礼音が生まれるずっと前に廃止され、今は残った古い本だけを、それでも住民の有志が整理し続けている。学校も、礼音が入学したときには既に空き教室が多かった。

 礼音がロゼットのことを知った本も、もう何十年もまえのものだ。市民カードが作れなくて市立図書館の本を利用できない人たちのためにも、どうにか学校図書館だけはと、放課後の図書室で教師たちが会議していたところに出くわしたことがある。ふだん温厚な担任の、歯を食いしばるような表情がいまでも忘れられない。

 この町は、あるいは滅びに向かうのかもしれない、と礼音は思う。家族や友人たちにそれを言えば、皆、悲しむような気がして、口には出さないのだけれど。しかし、それと同時に、そんな簡単に滅びてしまうほど、この町は弱くない、と思うときもあるのだった。


 ロゼットは、冬の間に枯れてしまうものもあるという。それでも少ない光を必死にあつめ、冬を越したものは、春になれば茎や葉を伸ばして花を咲かせる。


 「礼音」


 呼んだ圭吾の声が近くて、隣を見ると目が合った。うん、と返事をすると、息が白かった。


 「お前みたいな」

 「え」

 「ロゼット」

 「……」

 「礼音、お前、これから、どんどん元気になるよ」

 「……、」

 「思うように動けないときもあったろ、でもさ、これから、茎も伸びるし、花も咲くよ、春を、待ってさ」

 「……、うん」


 空き地には、ほどなく新しい建物が建つのだと圭吾は言った。路上で寝起きする人たちが、宿泊することのできる小さな施設になるのだと。そこの庭で、ロゼットは伸びて、花を咲かすだろうか。この町にも、早く春が来ればいい、と礼音は思った。



〈了〉

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ラフレシアの家 伴美砂都 @misatovan

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