ラフレシアの家(続)(2/2)

 いちばん近くのコンビニは店員の感じが悪く、じろじろと睨んできたり、追い出そうとしてきたりするので、避けて、最近は遠くのコンビニまで歩くようにしている。クリームイエローのサマーニットに、ベージュのスカート、ウエッジソールのサンダル。女の子らしくしなさいと言って、私が大学生のころ、母が選んだものだ。そこに、日焼けを防ぐためにレギンスと長袖の上着を重ねた。

 道を歩いていると、行き過ぎる人たちが振り返っていくのがわかる。若い頃より、今のほうがそういうことが増えた。母の選んだ服は、私の趣味にも合っていた。胸もとに控えめにビジューのあしらってあるニットは、私に似合っているはずだった。あるいは、こんな薄汚い土地で、私のような格好をしている人はほかにいないから、目立つのかもしれない。


 日焼け防止のためとはいえ、重ね着して歩くとさすがに汗をかいた。コンビニの店内で汗が引くまで休み、立ち上がる。レジの店員は、金髪の若い男の子だった。初めて見る顔。ゆっくりカウンターに近づいて、すみません、と声をかける。仕事が面倒なのかしかめっ面の男の子は、はい、と低い声で返事をした。


 「私、高藤といいます、高藤知佳です、今、ホームレスの支援をしていて……裏にある廃棄のお弁当、よろしければ、いただけないでしょうか?」


 丁寧に頼んだのに店員は、は、と怪訝そうな声を出す。ここの店も教育がなっていないんだろうか。少々お待ちください、と言って彼は店の奥に引っ込み、代わりに、以前からいる女性の店長が出てくる。


 「どうぞ、お好きに持って行ってください」


 その声に少しだけ、蔑むような声音が混ざっていたような気がして、胸のうちが苛立ちに満たされる。善いことをしようという人間に対して、どうしてそんな態度が取れるのだろう。でも、私は感情を露にするようなことはしない。化粧もせずに単純労働に従事することに疑問ももたないような人間に、怒ったって意味はないだろう。店の裏のボックスから廃棄のお弁当をもらい通りに出ると、さっきの金髪の店員が、缶チューハイを持ったおじさんと立ち話しているのが目に入った。浮浪者だろう、昼間からお酒なんか飲んで。

 自分で食うんだろ、とだれかが言ったのが聞こえて、勢いよく振り返る。もし声の主が店員だったら戻って苦情を言ってやろうと思ったのに、そのときにはもう、そこには誰もいなかった。


 家に帰り、お弁当を食べながら本を読む。『好かれる女になるための百の約束』。図書館のリサイクルコーナーにあったのをもらってきた。くだらない本だけれど暇つぶし程度にはなる。

 一、いつも笑顔を絶やさないでいましょう。六、歩くときは、大股になりすぎないように。十三、大きな声で下品に話さない。十四、人の話を聞くときは、ときどき目を合わせて、適度に頷きましょう。七十、指先まで神経をつかって、きれいにして。ジジ、と音を立てて部屋が暗くなる。電球が切れたようだった。ストックは、どこにあっただろう。立ち上がり後ろを振り向いた拍子に手がなにかに当たり、さっきまで食べていたお弁当の上に、本や雑誌が積み重なるようにして倒れてきた。電球は見つからない。そのうち足もとに落ちていたなにか丸いものに足をとられ転んでしまう。腹が立って、ギイイと叫びながらさっきまで読んでいた本を壁のほうに投げつけた。いけない、三十八、感情的に怒らない。四十二、部屋は誰も見ていなくても、いつもきれいに。本と雑誌を積み重ね直して、お弁当の容器を横に避ける。心を落ち着けるため、座ってヨガのポーズを取った。ふう、と深呼吸をして、窓のほうを見上げる。キッチンの上の小さな窓からは、月が見える。月明かりに照らされながら気持ちを整えるのは、女の子としては素敵なこと。さっきの本には、書いてなかったけど。目を閉じて、私はいつしか眠っていた。



 雨が降ると、この町はより汚らしくなる。道が悪いから、雨上がりの水たまりがひどいのだ。コンビニへ行くまでに足もとが濡れてしまった。

 蒸し暑い日が続いている。店に入ると、また、あの金髪の感じの悪い店員がいた。それでもちゃんと笑顔をつくり、こんにちは、と挨拶をする。


 「すみません、私、高藤知佳といいます、今、ホームレスの支援を」


 最後まで言い終わらないうちに、あの、と店員が言った。くっと喉もとに怒りがこみ上げる。人が話しているときに割り込んではいけないということを、小学校で習ってこなかったのだろうか。だからコンビニなんかで働くことになるんだ。だらしなく伸びた前髪で、顔が半分ほども隠れている。


 「いいです」

 「え?」

 「しません、それ」

 「……え?なによ、どうして?廃棄のお弁当、あるんでしょ?食べものも無駄にならないし、弱い人に、」

 「だから」


 ふっと彼は頭を振った。現れた目は、まっすぐにこちらを、強く睨んでいた。


 「直接あげてるんで」

 「え」

 「廃棄の弁当、おっさんらに直接あげてるんで、あなたに渡す意味ないです」

 「え、え……だって、」

 「自分で食べるんでしょ?」

 「えっ……え、違うのよ、ホームレスの、」

 「だから、それは直接渡してるんで、必要ないです」

 「え……いえ、違うのよ、あの、」

 「なんですか」

 「……っ、て、店長さんは、いらっしゃらないの?」

 「いません、今日は」

 「……、」

 「もういいですか」

 「っ、なによ、失礼なのよ、あなた、」

 「あなたのほうが失礼だと思いますけど」


 黙ったまま自動ドアを出た。湿った、夏の夕方の空気。肌がべたつく感覚。不快、不快、不快、なんて不快だ。振り向くとあの店員はもうこちらを見てすらいない。店の裏手へ行く。廃棄のお弁当が入っているはずのボックスはかたく閉ざされていて、どれだけ押したり引いたり叩いたりしても、こじ開けることはできなかった。



 見覚えのある子供の姿が目に入ったのは、通りに戻ってすぐだった。

 色褪せたタンクトップの男の子は、向こうのほうへ帰って行く別の子供に、じゃあな、と手を振ったところだった。歩いて行く、ボロボロのランドセル。あいつの子だ。あの、失礼な看護師、唐木とかいう外人の看護師の、息子。たしか、ジュンといったか。


 あとをつけて、家に入ろうとする瞬間に後ろから近づき腕を掴むと、ジュンは、ぎゃ、と悲鳴を上げた。扉を閉めようとするのを押しとどめ、玄関に押し込むようにして一緒に入り、内側から鍵をかける。一瞬、何が起きたかわからないという顔をしたジュンは、しかし泣くかと思ったが、泣かなかった。


 「なんだおまえ」


 私が黙っていると、ジュンは、あ、と口を開いた。 


 「おまえ、かあちゃんいじめたばばあか!」


 言って、私が少し手を緩めた瞬間にぱっと振り払ってくるりと向こうを向き、靴を脱いで部屋の中に入って行ってしまった。ばたんとドアが閉まる音がして、ジャーとトイレの水の流れる音。何を考えているのだろう。怖くないのだろうか。男とはいえ、十歳そこそこのガキだ。私がその気になれば殺すことだってできるのに、どうして怖がらないんだろう。そこまで思い至らないんだろうか。まさか警察に通報するまでの頭はないと思ったが、私も靴を脱ぎ部屋に上がった。


 「なあ、おばさん」


 ジュンが顔を覗かせた。部屋は本当に狭い。もっと散らかっているかと思ったが、意外なほどものは少なかった。ボロボロのランドセルは部屋の隅に放り出されている。ジュンはちゃぶ台の前にあぐらをかき、リモコンを取ってテレビを点けた。テレビをいつも点けっぱなしにするような家。私は子供のころ、決められた時間だけしか、テレビを見てはいけないことになっていた。

 目の前にガラスのコップが差し出された。あのおばさんが家で作ったお茶なのだろう、少し金属がかった麦茶のにおい。にっこりと、笑ってみせる。


 「ジュンくんっていうのよね?」


 言うと向かいにあぐらをかいて座ったジュンは、自分のカップに注いだ麦茶をグッと一気に飲み干した。


 「ちげえよ、ジュンじゃなくて、オレ、ジュンゴだ」


 よく見るとジュンゴは精悍な顔立ちをしていた。睫毛が長い。母親と同じように外国の血が入っているのだろうに、あまり似ていない。父親は日本人だろうか。どうしているのだろう。その瞳に、不思議なほど、怯えは見えない。

 危害を加えるつもりはなかった。どうしたいのか、自分でもはっきりとはわからなかった。ただ、でも、もし私がこの息子を殺したら、私を馬鹿にしたあの看護師は、あの女は、どういう顔をするだろうか。


 「なあ、おばさん」

 「……おばさんじゃないわ、私、知佳、高藤知佳っていうのよ」

 「なんでもいいよ、それは」

 「……」

 「茶、飲まねえの?」

 「ジュンゴくん、こわくないの?こんな、知らない人と、同じ部屋にふたりで」

 「勝手に入ってきたの、そっちじゃん」

 「……、あなた、強いのね」

 「しらねえよ、っていうかさ、おばさんのこと、知ってるよ、オレ」

 「……、」


 こちらを見るジュンゴの目は、まっすぐだった。やっと、と思った。やっと、私のことをバカにせずに、話してくれる人と出会えた。そうだ、これまで私は不遇だった。幼いころから母の言う通り、身だしなみをきちんと整え、勉強も運動も頑張り、医師だった父は、大企業の社長令嬢だった母とは離婚してしまったけれど、父の言っていた通り料理の練習もし、習い事もした。いつも私は、周りより高いところにいた。それが仇になって、いつも周りの、その他大勢の女の子たちからは遠ざけられていた。大人になってからも、いろんな人にいじめられた。仕事も辞めざるをえなくなり、住まいも、あんな場所に。でも、そんなのは本当の私じゃない。わかる人には、わかるんだ。こんな子供にだって、私のことを、わかってくれる人はいる。しかしジュンゴは、だってさ、とぞんざいな口調で言った。


 「おばさんのこと、学校のやつらも、近所の人も、みんな知ってるよ、ゴミ屋敷の、ヤバイやつだって」


 ヤバイ、と言ったジュンゴの顔は至極真面目だった。心臓がどくどくと波打つ。心臓病かもしれない。医療村に、行かなくては。でも、あの病院は駄目だ。別の病院を探さなくては。ちがうのよ、と私は言った。できるだけ穏やかな、やさしい声で。ジュンゴにだけは、誤解されたくなかった。


 「ちがうのよ、あのね、私だって、住みたくてあんな家に住んでるわけじゃないのよ、たまたまなの、前に住んでた家、七階建てのきれいなマンションだったんだけどね、そこを、追い出されちゃったの、何か悪いことをしたわけじゃないのよ、ちょっと偶然が重なっちゃって、意思疎通がうまくいかなかったのね、意思疎通って、わかる?」


 ジュンゴは黙っていた。難しい言葉はわからないのだろう。麦茶がまだほとんど入ったままのコップを、きゅっとにぎる。キャラクターの顔がはげて、茶渋のついた側面。


 「この間のもね、決して、お母さんをいじめたかったわけじゃないのよ、お母さんだけが悪いって言いたいわけでもないの、ただ病院の体制に、納得がいかなかっただけなのよ、ねえ、」


 わかってね、と言おうとするのにかぶせるように、あのさ、とジュンゴが言った。遠く、どこからかサイレンの音が聞こえる。もう、夕方だろうか。


 「さみしいんだろ、おばさん」

 「え、」

 「人いじめるやつはさみしいんだって」

 「……、」

 「さみしいやつは、大きな声で怒るんだよ」

 「……っ、なに、それ、どうして、」

 「先生が言ってた」

 「先生、」

 「学校の先生だよ」

 「……、そんなの、まちがいよ、私は、さみしくなんて、ない、こ、このへんの小学校でしょ?先生の、知識だって、たかが知れて、」

 「オレらの先生ばかにすんなよ」

 「え、」

 「オレらのことばかにすんな」

 「え、そ、そんな、」

 「そうやってひとのことばかにしてっからよ、だから、ヤバイやつだってばかにされんだよ、ひとのことばかにするやつは、ばかにされんだよ、なあ、ばかにすんなよ、おまえにばかにされるすじあい、一個も、ねえんだよ」


 ギイイイイヤアアアアアア、と叫んだ声は私のものだった。そのあと、部屋は静かになった。ジュンゴは、じっとこちらを見ていた。少しの間があって、勝手口のドアが、ばりんと割られた。にわかに辺りが騒がしくなり、たくさんの知らない人が、土足で部屋に入ってきた。


 ふと、テレビの方を見た。ずっと点けっぱなしになっていた、テレビの画面には密林が映されており、隅にテロップで、世界最大の花ラフレシア、幻の開花の瞬間を捉える!と書かれている。


 入ってきた男たちの胸には警察の文字があった。やはりジュンゴは通報していたのだ。きっと、私が部屋に入る前の、ほんの少しの時間に。あるいは、近所の住人が通報したのかもしれない。ガラスのコップが畳の上に落ち、しかし割れずに、麦茶だけが円を描くように零れた。私を羽交い絞めにした刑事の顔に頭突きを食らわすと、うっ、と短い悲鳴を上げ、歯で口を切ったのか、血が流れた。それでも手は緩まない。だれかの足がリモコンを踏みつけ、テレビの音量が上がった。


 ――ラフレシアは、スマトラの熱帯雨林の奥地に咲く花。葉も茎もなく、他の植物に寄生する形で花だけが現れます。大きい花は一メートル近くなるものもあり、その成長の過程は謎に包まれています。花は乾期で三日、雨期でも七日ほどで枯れてしまうほか、開花の瞬間を捉えるのはとても難しく……――


 アナウンスが入り、画面上に大写しになった人間の頭ほどもある、薄赤色のキャベツのような蕾が、めしめしと音を立てて開く。ぶつぶつした白い模様のある、巨大な赤黒い花弁が五枚。その中央は口を開ける化け物のようにぽっかりと空いており、ぐじゅぐじゅとした黄色に、雌蕊なのか雄蕊なのか、無数の突起がそそり立っている。


 私は、いつかどこかでこの番組を見た。遠い、遠い昔。いつだっただろう。小学校のとき友達グループの子たちに、突然仲間外れにされたことを思い出した。一人、頭が悪いくせに生意気な子がいたから、無視しようと提案しただけなのに。

 中学校のとき、親友だった女の子の親から、もううちの娘にかかわらないでくださいと電話がかかってきたことを思い出した。貧乏でかわいそうだったから、服やアクセサリーのおさがりを譲ってあげていたのに。

 高校のとき、好きだったクラスの男の子から、殺すぞ、と言われたことを思い出した。彼も私に気があるようなそぶりをしたから、毎日お弁当を作ってあげて、彼が部活に専念できるように、授業のノートをまとめてあげていたのに。

 大学のとき、ゼミの教授の家に行ったら、無下に追い出されたことを思い出した。教授は独身だったから、研究の相談に行くついでに家事の手伝いをしてあげようとしただけなのに。そのときの先生の、これまで見たこともないほど怖い顔と、目の前でバタンと閉まったドア。

 就職した先で無能と言われ、たのむから辞めてくれと言われたことを思い出した。私は有能だったし、同期にひとりどんくさい女の子がいて周りに迷惑をかけていたから、彼女を辞めさせることでコストカットをしようと頑張っただけなのに。

 このまえまで勤めていた食品会社で、チーフとマネージャーが私の悪口を言ったことを思った。高藤さんでしょ、あの人はやばいですよ、プライドなのか知らないけど、偉そうなことばっか言って、本っ当に仕事できないですもん。

 私が町を歩くとき、周りを歩く知らない人たちが、私を避けて歩くことを思った。私が店に入ったとき、店内がしんと静まり返り、店員が数人集まって、ひそひそと話す姿を思った。行政職員が私の家に入るとき、かならず二人一組で、マスクを外さずに来ることを思った。離婚するまえ父が母に私のことを、あいつどこかおかしいんじゃないか、と言っていたことを思った。母がいつも私に、きれいにしていなさい、人からよく見えるように、きちんとしていなさい、と言ったことを思った。バッグはブランドものを持ちなさい、化粧品はデパートコスメを使いなさい、スカートは、膝丈のフレアにしなさい。そして私はいつも、そうしてきたのに。

 ジュンゴっ、と叫ぶような声がした。ものすごい勢いで部屋に駆け込んできた唐木さんは、一度も私のほうを見ることなく、まっすぐ、部屋の隅で数人の警察官に保護されていたジュンゴの方へ走って行き、そして、力いっぱい抱き締めた。ジュンゴ、ジュンゴ、ジュンゴ。かあちゃん、と言ったジュンゴの声がはじめて震え、泣き声が漏れた。もう大丈夫ですよ、と誰かが言った。それは、私に向けられた言葉ではなかった。背中で、私を羽交い絞めにしている警官の腕に、力が籠もった。


 ああ、さみしい、と思った。テレビから、あの日あの時、あの番組、とアナウンスが流れ、見覚えのある画面が映った。


 ――ラフレシアの花は、肉が腐ったような、強烈な臭いを放ちます。これは、自分の花粉を運び、種を殖やすために必要な生物、ハエを呼びよせるためで……――


 めしめしと音を立てて、ラフレシアが開いた。



〈了〉

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