ラフレシアの家(続)(1/2)

 地下鉄の駅を降りて、閑静な住宅街を十分ほど歩いた角に私の家はある。

 正確には、地下鉄よりも私鉄のほうが、最寄り駅からの距離は近い。けれど、私は必ず地下鉄を使うことにしていた。私鉄の駅から大きな通りを挟んでここへ来るまでは、ホームレスや日雇い労働者が多い地区を通る。殺風景なコンクリートの行政施設があると思えば、汚い簡易宿泊所や貧乏くさい長屋のような家が並ぶ土地で、だから私はできるだけそこに立ち入りたくなかった。地下鉄の駅のほうから来て、ガードの手前までは、まだ静かだ。

 本当はこんな場所に、こんな家に住むつもりではなかった。たとえば、大学を出てすぐ、就職と同時にひとり暮らしをしたアパート。白い外壁に、淡いクリーム色の内装で新築だった。たとえば、ちょっと前まで住んでいたマンション。コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションで、正門には常に警備員がいた。そこを不当に退去させられたせいで、一戸建てとはいえこんな古い、セキュリティもしっかりしていない平屋に住むことになってしまった。

 窓の外から子供の騒ぐ声が聞こえる。子供は分別がつかないし、とくにこの辺りは親も貧しい、きちんと教育などできない人たちだとわかっているからしばらくは我慢していたが、やまない声に苛立ちが募り立ち上がる。台所の窓から、うるさい、と怒鳴ると外は一瞬静かになり、わあ、というような声と同時に、遠ざかる足音がした。本当に無礼なガキども。テーブルの上から、淹れておいたハーブティーのカップを手に取り、息を整える。こんな町のやつらとは、決して馴れ合わない、絶対に。そう決めていた。



 デパートから外へ出ると、きつい夕陽が目を刺した。病院へ医療相談に行きたかったのに、もう窓口は閉まる時間だ。そう思うと一度収まった怒りがまたはらわたを焼くように、ふつふつと沸くのがわかった。

 デパートの地下階の化粧品売り場で、ちょっとメイクを直していただけなのに、新人なのか若いのに偉そうな女の店員に追い出されそうになった。ほかのお客さまのお邪魔になりますので、と言った言い方があまりにも感じが悪かったから注意してやっただけなのに、警備員を呼ばれた。死んだ母親にはずっと、人前に出るときはメイクはきちんと直しなさい、女の子なんだから、と教えられていた。それに、いつもなら家でアイシャドウやラインをして行くのに、今日はたまたま見当たらなかっただけ。見つからなかった日だけ、借りるようにしているだけなのに。店員、警備員、上司と名乗る女。あいつら、一度も私に謝罪しなかった。あそこのデパートは、駄目だ。まえ行っていたデパートでは、私が呼べば、すぐ責任者が来て話をすることができたのに。銀行だってそうだ。別室に通されて、お茶を出されて。

 そうだ、お客さまセンターに苦情を出せばいい。図書館のインターネットコーナーでお客さまセンターの番号を調べようと思ったのに、行政センターの前に着いたときにはもう五時を過ぎていて併設の図書館どころか、建物自体が閉まっていた。病院にも、外来診療は終了しました、という貼紙が鉄格子のような扉に揺れるのみ。

 行政センターも病院も、私が避けたい私鉄の駅のほうの通りにある。できるだけ周りを見回さないよう、俯いたまま早足で帰路に着いた。



 今年の夏は暑い。近くを汚いどぶ川が流れているからか、この家には虫が多い。川を埋め立てるよう市役所に何度も訴えているが、聞き入れてはもらえなかった。早く引っ越したいのにこの町は不動産屋も役立たずで、まともに相談に乗ってはくれない。


 不眠に悩むようになったのはずいぶん若い頃からだ。下等な番組ばかりだとわかっているから、テレビは部屋に置かないことにしていた。静かに、静かに夜は更けていく。寝転んでまんじりともせずにいると、いろいろなことが頭をよぎる。

 私はいつも不遇だった。大学では成績優秀で、同じゼミの子たちにはそれで嫌な噂を流されたり遠巻きにされていたけど、教授には好かれていた。ギリギリまで研究に時間を費やしていたから就職が決まるのは周りより少しだけ遅かったけど、それでも、入った会社は世間一般にいう、いい会社だった。社長が母方の祖父だったから、周りの子には親のコネを使ったと嫉妬からの陰口を叩かれたけれど、考えの甘い人たちといつまでも付き合う気はなかったから放っておいた。それなのに勤めた先では上司や同僚から陰口を叩かれるいじめに遭い、一年も経たずに辞めることになってしまった。それからいくつかの職を点々としたけれど、私のやりたかったクリエイティブな仕事ではないものばかりで、我慢して勤めても意識の低い人たちと一緒に仕事をするのが嫌で、私のせいではないのだけれど、長続きしなかった。先週まで勤めていた食品会社も、つまらない同僚に囲まれてつまらない仕事をさせられる、つまらない職場だった。何も悪いことはしていないのにクビを宣告され、抗議していたら警察を呼ばれた。

 こんなことが、こんなことがあっていいのだろうか。明日は必ず図書センターと、病院へ行こう。睡眠薬をもらわなければならない。それから、ハローワークも。失業手当がもらえるはずだし、解雇を不当だとして訴えることだってできるはずだ。ハローワークの窓口では、弁護士を紹介してもらえるだろうか。

 ふうっと息を吐く。窓の隙間から月明かりが入って、部屋のなかをうすぼんやりと照らす。何度か瞬きをして、目を閉じた。



 病院や老人ホーム、医療相談の窓口がある一角には、医療村と書かれた看板が立っている。何がどう村だというのだろう。すさんだこの土地に似合わない、鮮やかなオレンジ色の、安っぽいプラスチックの看板。

 看護師は派手な金髪の下品そうな女の子で、待ち時間が長いことの苦情を言っただけなのに、あからさまに迷惑そうな表情を表に出すので余計に腹が立った。よく見ると、手首に刺青なんて入っている。


 「あなた、こんなものつけて病院で働くなんて恥ずかしくないの?」


 手首を掴むと初めて彼女の顔に怯えが浮かんだ。怖がらせるつもりなど勿論ない。真っ当なことを言っているだけ、彼女のため、病院のために注意してあげているのに。おい、おかしいだろ、と後ろから、がらがらとした男の声がした。ほらやっぱり、と振り返ると、立っていたのは汚い身なりの、背の低い年配の男。ふだん話しかけられれば、躊躇してしまうような。それでも、人を見た目で差別はしないと決めていた。精一杯の笑顔をつくり、そうですよね、と言おうとしたとき、おかしいよ、ともう一度言った男の少し斜視がかった目は、こちらを見ていた。


 「その子、いい子だよ、いい看護師だ、やさしいよ、いじめるなよ、おばさん、うるさいよ、邪魔なんだよ」


 瞬間、燃え上がるような怒りに視界がかっと赤く染まった。なんという失礼な言いぐさだ。汚らしいじじいのくせに、おばさん、よく知りもしない人に対して、おばさんだなんて。それに、間違っているのは看護師のほうなのに。看護師の手を振り離し、近くに置いてあったチラシか何かを置くためのケースのようなものを掴む。降り上げたところで、それを後ろからがっしりと掴まれた。


 「落ち着いてちょうだい、わたしが聞きます」


 師長 唐木、という名札をつけた大柄な女性だった。年齢はおそらく私と同じか少し上、四十代前半ぐらい。もっと上かと思ったけど、たぶん老けて見えるだけ。こういう人をこそ、おばさんというのだろうに。ひっつめた髪はきちんと手入れをしていないのか、茶色に染めてあるにもかかわらず白髪が目立っている。化粧直しもしないのか、安っぽい色のファンデーションが浮いていた。

 個室に入るようにと促されたが拒否して、窓口のすぐ横のソファに座る。病院側が間違っているということを周りに聞かれたくないのはわかるけれど、私だってそこまでお人よしじゃない。


 しばらく話していると、彼女の相槌を打つイントネーションに、方言とは違う訛りがあるのに気付く。


 「あなた、外国の方?」


 え、と言って一瞬、間が空く。生活の疲れなのか二重が三重にもなった瞼が、ぱしぱしと瞬く。


 「外国の方なの?って、聞いてるんですけど」

 「……、そうですけど」

 「あのね、さっきから私が言ってること、わかってます?日本語、理解してます?悪いけど、日本の医療の制度とか、ちゃんとわかってやっていただいてるんですか?さっきの子も、あなたも、全然わかってなくないですか?」


 また、一瞬の間があった。ぐうの音も出ないのだろう。その証拠に彼女は一度目を逸らした。私の背後へ。視線を戻し、何か言おうとするのと同時に、おい、とさっき彼女が一瞬見た方向から、子供の声がした。


 「ばばあ、かあちゃんいじめんなよ!」


 小学生ぐらいの、汚らしい子供だった。日焼けしているのか汚れているのか黒ずんだ顔に、古びたTシャツに短パン。ジュンゴっ、と慌てたように唐木さんが言った。ろくな教育をしていないのだろうに、叱ってみせるところが親子そろって、と思ったら乾いた笑いすらこみ上げる。


 「かあちゃん、負けんなよ!」


 唐木さんはもう一度目をぱちぱちとして、そして、あろうことか、はっはっ、と笑った。これが患者対応中の態度か?馬鹿じゃないだろうか。しかし同時に、そうだそうだ、と横からヤジが飛ぶ。ばっとそちらを見ると、さっきとは別の太った男が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。


 「師長、そんなやつに負けんなよお」


 病院の関係者だったら訴えてやろうと思ったが、どう見ても患者だ。なんていう、なんていう病院なのだろう。どうして、私がいじめられないといけないんだろう。立ち上がる。ギェエエエ、と叫んで近くの椅子をなぎ倒すと、ガランガラランと大きな音が響き渡った。それが止んだとき、辺りはしんと静まり返った。周りを見回すと、皆、化け物でも見るような目で、ただ黙って、こちらを見ていた。



 帰路に着く頃にはほとんど日は暮れていた。曲がり角の手前で立ち止まる。私の家の前で、不審な二人組がうろうろしているのを見つけたからだ。

 きっと、行政の人だ。市役所の職員か何かだろう。スーツ姿で、玄関前に立ち、何事か話している。しばらく隠れて様子を伺っていると、二人は向こうの方へ去って行った。

 ふと、むかし会った、行政職員の女のことを思い出した。いま去って行ったうちのひとりによく似た、髪の毛を後ろでひっつめて結んだ冷たそうな風貌。あれから二十年ほども経っても、役所の人間というのは本当に変わらない。あのときの怒りは、今も昨日のことのように思い出せる。正義を振りかざして、弱者を虐げる人たち。


 役所の人たちはきのうも来た。私に、家を片付けろと言いに。


 角を曲がる。私の家を見る。私の家を、外から見る。

 ジャングルのように生い茂った何かの樹、そこから垂れ下がる蔓や、蔓以外の人工物と思われるロープ、ロープともいえない長い布、角に立つ交通安全のためのミラーを覆い隠すように飛び出した大きな金属片。道路を侵食したゴミ袋、ゴミ袋、それさえ突き破って飛び出したゴミの数々。生ぐさい臭いは、風向きによっては、その姿が見えるより先にもう感じられる。


 私の家は、ゴミ屋敷だ。


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