すいかずらの恋(1/2)
電車は、初めて乗る私鉄だった。十五分ほども経つと、窓の外の景色はビル群から低い建物の多く建つ風景へ少しずつ変化していく。
空は、白く曇っている。降りた駅は寂れていた。駅舎の掲示板に貼られた人権啓発のポスターは、いっぽうの端が剥がれて垂れ下がっている。外に出ると、冷たく乾いた風が前方から吹きつけた。
ここに来たからといって、遠野さんに会えるという確証はなかった。もし確証があったとして、遠野さんはきっと私になど決して会いたくないであろうことは容易に想像がついた。だから、もし会えるとわかっていたら、私はここへ来なかったかもしれない。
それでも、私は遠野さんに会いたかった。だれかに会いたいなどと思うのは、このひとが初めてだった。
車窓から、今は枝ばかりの桜並木が見え、すぐに過ぎていった。染色に使われる桜の表皮は、花が咲くまえがいちばん鮮やかな色を出すのだと、いつか聞いたことがある。子どものころ、学校で習ったのだったろうか。あるいは、大人になってから本で読んだのだったかもしれない。
むかし、市役所に勤めていた。むかし、といっても、まだ数年しか経っていないはずなのだけれど、もう遠い昔のように思える。錯覚だろう。その市役所の周りも、桜の木に囲まれていた。四月の、花が咲くころには、市役所用の駐車場に花見客が車を停めたといって苦情が入り、五月になり葉が出れば、毛虫が落ちたといって苦情が来る。役所というのはそういうものだと、入職して間もないころ、食堂で相席になった知らない人たちが言っていた。
市役所の庁舎にはもうしばらく行っていない。あの部屋は今、どうなっているだろう。環境課道路衛生環境保全係。私が市役所に入職して初めて務めた部署だ。係長は、遠野さんだった。
道路衛生環境保全係の執務する部屋は、庁舎の一階にあった。環境課のほかの係は庁舎の六階にあり、新入職員研修が終わってはじめて自分の部署へ行く日、私は間違えて六階へ上がってしまったのだった。
迎えに来てくれたのは係長だった。係長は痩せて背が高く、猫背だった。出勤したばかりだったのだろう、黒い薄手のコートを着たままでこちらへ近づいてきて、道路衛生環境保全係長の遠野です、よろしく、行こうか、と言った。
私は手持ち無沙汰に座っていた隅の椅子から立ち上がり、はい、参ります、よろしくお願いいたします、と返事をした。行くべきところへ行くべき人が行くだけのことなのに、周りの人たちは少し不思議そうな顔をして、私と係長の顔を見比べていた。
エレベータの中で、お手数をお掛けして申し訳ありませんと言うと、少しの間があったあと係長はこちらを見て、気にしなくていいよ、と言ってくれた。それ以外は一言も喋らなかった。私は係長のことを、無口で穏やかな人なのだろうと思った。
道路衛生環境保全係の部屋は、東棟一階の通用口を入ったところ、業務用エレベータのすぐ隣にあった。小さいがきちんと表示も出ており、出勤した際に横を通ったはずなのに、私は気付かなかったのだ。
申し訳ありません、ともう一度言うと、係長はこちらを見て、ん、と至極不思議そうな顔をした。
「不注意で、ご迷惑をおかけしました」
「……、いや、こちらこそ……この部屋は、わかりにくいだろう」
「いえ、」
「あ、来た来た、おつかれさま」
部屋の奥からあかるい声がした。出入り口には、段差を埋めるようなかたちでベニヤ板が斜めに立てかけられており、踏むと、きし、と小さな音が鳴った。
「
まっすぐな黒髪を肩口で切り揃えた、四十代ぐらいの女性だった。係長と同じぐらいの年齢だろうか。鳴海さんと名乗ったその人は、部署付けの嘱託職員なのだといった。
「申し訳ありません、遅くなりまして」
言うと、鳴海さんはぱちぱちと何度か瞬きをして、そのあと、眉尻を下げてにっこりと笑った。
「こちらこそ、っていうかね、この部署がこの部屋なの、わたしのせいなの、ごめんね」
「え」
「あのね、トイレが……わたしが使えるトイレ、そこにしかないの、だから、こんな変な場所だからね、気にしないで」
部屋は本当に狭かった。職員も、係長と鳴海さんと私の三人だけなのだろうということは、室内の事務机の数から推察できた。けれど狭い執務室の中は片付いていて、片側に机の島を寄せるようにして通路を確保してある。鳴海さんはそこを、車椅子を器用に操ってこちらへ来、よろしく、ともう一度笑顔をみせた。
たしかに、道路衛生環境保全係の部屋の、エレベーターと反対側の隣には、多目的トイレがあった。はい、と私は返事をした。本当は、もう少し、何か言ったほうがよかったのかもしれないと思った。少なくとも私には、鳴海さんが謝罪する必要は一つも感じられなかった。あるいは、笑ってみせるべきだったのかも。しかし鳴海さんは気にしたふうもなく、私の机を案内してくれた。
私の席は係長と鳴海さんの間だった。係長は自席に戻りパソコンに向かっていたが、鳴海さんの方を見て、そちらを先にお願いしますね、と言った。
「え?」
「……」
「あ、こちらを、先にと」
「はい、さすがね、いこまちゃん」
「え」
係長のほうを見ると、係長はほんの少し照れくさそうな顔をして、小さな声でなにか言ってから、パソコンに向き直った。部屋は建物のせいだろう、と言ったようにきこえたけれど、それは本当に小さな声だったから、たぶん、独り言のつもりで言ったのだろう。
たしかに係長の話し方は、少しぼそぼそとしていて不明瞭なのかもしれなかった。さっき六階で、私と係長が会話するのを周りの人たちが不思議そうな表情で見ていたのは、もしかしたら、係長の話した内容が他の人たちには聞き取れなかったのかもしれない。
強張っていた背中の力が少し抜けたことを自覚する。私は、緊張していただろうか。鳴海さんは席に着いた私に、出勤簿の使い方や有給休暇の取得の手続き、そのほかさまざまな、業務に入るまえに必要なことを教えてくれ、その後、わたしが入れるとこだけね、と前置きをして、庁内の中を丁寧に案内してくれた。
環境課道路衛生環境保全係は、一言で言えば「ゴミ屋敷担当」だった。ゴミ屋敷というのは、自宅にさまざまな、多くの場合は本来廃棄すべきものを溜めてしまって、安全や衛生上問題があると見なされる家のこと。道路衛生環境保全、というのは、家から道路にはみ出したゴミを撤去して衛生を保全する、という意味なのだった。
毎日、市内のゴミ屋敷といわれる家や、その予備軍といえそうな家を訪問し、住民が自主的に片付けてくれるよう説得する、というのが私たちの仕事だった。
朝、出勤したら今日の予定を確認して、係長と私はそれぞれ対象となる市民の家に出かける。午前中の訪問を終えて一度帰庁する日もあれば、どこか外で昼食を摂って午後まで外にいる日もある。特別なことがなければ午後四時ごろには庁舎に戻り、係長にその日の報告をして、報告書や他部署へ申し送りをするための資料を作って帰宅する。鳴海さんは終日事務室で執務していて、私たちが帰庁すると、いつもなにか甘いものをひとつくれた。
四月に何軒かの家を係長と一緒に周り、連休前にはひとりで訪問するようになった。今では市民の家に行政職員がひとりで行くというのは考えられないことだと思うのだけれど、当時はまだそこまでのリスク管理はなされていなかったし、外回りをする人員が係長と私しかいなかったのだから、ともかく、そんなふうだった。
この係には本当はあまり成果は期待されていないのだと、私が初めて訪問に同行した日に係長は言った。市民に対して、何かしています、と表明することこそが重要になるときがあるのだ、と。
わかりました、と私は答えた。社会とはそういうこともあるものなのだろうと思った。それより、ゴミ屋敷あるいはそれに類する事案というのは想像していたよりたくさんあるのだなあ、とそのとき私は思っていた。もっと言えば、ああ、うちだけではなかったのだなあ、と。それは感慨ではなく、実感だった。
訪問先では歓迎されることはまずなく、拒否されたり罵られたりすることのほうが多かった。成果を上げられなかった日の帰り道は、係長のある種投げ遣りにも思えるような言葉を、意識して思い出すことにしていた。係長はおそらくその言葉を、励ましの意味で言ってくれたのだろうと推測した。どちらにしても、まだ務め始めたばかりだったからかもしれないが、落ち込んだり気に病むようなことは特になかった。
係長も鳴海さんも、私のことをいつも心配してくれているように見えた。なぜ心配されているのか、初めは、私が不慣れで業務がきちんと遂行されないかもしれないことへの心配だと思ったが、次第に、私のような新人がこの部署に配属されるのは珍しいということ、この部署の訪問先が、市役所の中でもとくに過酷な現場とみなされていることを知った。
ある日、訪問先の住民に便を投げつけられて汚物まみれになって帰庁すると、鳴海さんは自分のタオルを濡らして頭から身体まで丁寧に拭ってくれた。そうしてくれながら、彼女は泣いていた。床に膝をついて、車椅子に座った彼女の膝に頭を載せるような格好でいると、私のこめかみに鳴海さんの涙がぱたぱたと落ちた。
これが過酷というものなのかどうか私にはわからなかったが、それよりも、社会に出てからこういうふうに気遣ってくれる人が周りにいるということは、きっとありがたいことなのだろうと思っていた。
係長は、もうあそこの家には行かなくて良い、俺が行くと言ってくれたが、住民に明日また来ますと言ってしまったから、無理を言って次の日も訪問した。主張が折り合わないとき約束を破るのはとくに望ましくないことだと、まえの日に読んだ本に書いてあったからだ。
住民は私のことをまじまじと見、そして、ぜんぶ捨ててくれていい、と言った。あんたには負けた、と言われたが、私はただ仕事をしているだけで、勝負をしているわけではなかった。
市役所に就職した理由は、公務員なら定年まで勤められる可能性が高いと思ったからだった。そのときもう私には身寄りがなかったから、ひとりで食っていける仕事であればなんでもよかった。いろいろな福祉制度によってせっかく短大まで行かせてもらったのだからと思って、短大卒で受けられる枠の公務員試験を受けて、合格したので入職した。それは、いろいろな福祉制度に恩返ししたかったというわけではなく、ただそれを使ったというだけだった。
あるべき夢も希望もない姿なのかもしれなかった。生きていければそれでいいと思っていた。なぜ生きていたいと思ったのかは、今でもわからない。
係長も鳴海さんも口数は少ないほうだったから、部署はだいたいいつも静かだった。私にとってはそのほうが居心地がよく、日々は、淡々と過ぎていった。
公園にはそこここにブルーシートが張られている。風を防いでいても、この時期は冷えるだろう。しばらくの間、芝生と地面を隔てるコンクリートのブロックに腰掛けていた。底冷えのする寒さに歯が鳴った。
少し離れたところで炊き出しの準備が始まったのを見て、立ち上がる。行列に並ぶ人たちの、邪魔にはならなくても、並ばない人が意味もなく居る必要はない場所だろう。
高いフェンスの横を抜けて道路に出たとき、一度強く風が吹いた。ふと、知っている影が、向こうのほうに見えた気がした。
「係長」
決して呼んではいけない人だった。けれども彼は立ち止まり、そして、こちらを見てくれた。
「もう、係長じゃないだろう」
もともと細かった身体は、さらに痩せたような気がした。あのころのようにスーツではなく、大きめの作業着を着ているからそう見えるのかもしれない。当たり前だけれど、背が高いのは、変わらない。低い声も、少し猫背なのも、変わらない。
「ごめんなさい」
言ってはいけない言葉だった。ゆるすかどうかの選択を、相手に迫ってしまうから。係長は、遠野さんはしかし、少し笑ったように見えた。
「そんなに泣くな」
言って、ポケットをしばらく探る。少しの間があり、首に掛けていたタオルを取って、迷うようにそっと、私の顔を拭いてくれた。タオルは乾いていてつめたく、汗と金属の匂いがした。
「ごめんな、臭いだろう」
声が出なくて、ただ首を横に振った。そうしたらもっと涙が溢れた。座るか、と言って、背中をそっと押される。
少し歩いて、さっき出てきた公園の裏側の、縁石に腰掛けるようにして並んで座った。路上で生活している人たちが眠ってしまうのを防ぐためだろうか、このあたりにはベンチは無い。遠野さんは近くの自動販売機でホットコーヒーを二本買ってきて、ひとつ手渡してくれた。
しばらく、黙って座っていた。コーヒーの缶を持つ遠野さんの手を見た。節のある大きな手だ。見ていたら、指先がふっと動いた。
「きたねぇな」
「いえ」
短く切られた爪の間まで黒くなっている手。機械の油のようなものだろうか。触れたくて、触れてしまいそうになって、もう冷たくなりかけている缶を、ぐっと握りしめた。どれもこれも、あやまちだ。涙は乾いていた。息を吸うと、まだ少し嗚咽のような息が漏れた。
「生駒」
「はい」
「……いくつになった」
「三十二です」
「そうか」
おおきくなったな、と言われて、つい、遠野さんのほうを見てしまった。目が合って、子どもじゃねぇんだからおかしいよな、と言って彼は、困ったように笑った。
「遠野さん」
「うん」
「……私の、話をしてもいいですか」
遠野さんは少し驚いたような顔をした。何年も一緒に仕事をしたけれど、プライベートのことは一度も話したことがなかった。あんなことがあったのに、最後まで私たちは、互いのことを少しも知らなかった。
「うん」
「……」
「……」
道を歩く人が、ときどき怪訝そうに私たちのほうを見て通り過ぎて行く。この地域の人口比率は、いつからか男性の方が圧倒的に多いのだという。私ぐらいの年代の女性が居るということ自体が珍しいのかもしれない。
ふいに、あんたのいい人か、と声がかかった。乱暴な言い方だが悪意のある声ではないことはすぐにわかった。遠野さんは苦笑して、そう言った年配の男の人に片手を挙げて応える。そのひとはそれ以上なにも言わず、同じようにちょっと笑って、同じように片手を挙げてから、少しだけ足を引きずるようにして、ゆっくりと去って行った。
「すみません」
「いいんだよ、知り合いだから」
そう言って遠野さんは、私が話し始めるまで随分長い間待ってくれた。空はもう夕方のような色になってきている。ずっと曇っているのに、日が陰ってくることを感じるのは不思議だった。
「私」
「うん」
「ゴミ屋敷で育ちました」
「……」
そうだったか、と遠野さんは言った。優しい声だった。
「じゃあ、……つらかったろう、最初の仕事は」
「……いえ、そういう意味ではありません」
「……、そうか」
「ただ、聞いてほしかっただけです、係長に、……遠野さんに、」
「……うん、そうか」
遠野さんの背中のすぐ後ろ、錆びたフェンスに重なるように生えた植物に、黒い小さな実がいくつか熟していた。指先で触れると、ぷちんと皮が破れて、指先に濃い紫色の汁が弾けた。
「すいかずら、」
「うん?」
こっちを見た遠野さんは私の指先に目を留め、首からタオルを外しかけて、また少し、迷うような顔をした。そのあいだにすいかずらの実の汁は、私の手でもう乾いていた。
「よく知ってるな」
「図鑑で、見ました」
「そうか」
「係長」
「うん」
「三島さんのことをおぼえていますか」
「……、うん、憶えているよ」
いつの間にか、また係長と呼んでしまっていた。それについて、係長は何も言わずにいてくれた。ただ、私の話を聴こうと思ってくれたのだろう。
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