まてばしいの旅
車のまどから、黒い道路の上を白いたくさんのたて線が、ななめにざぁっと走るのが見えた。
「いこまさん」
車を運転していたいこまさんは、前を見たまま、はい、とこたえた。
「たずねてもいいですか」
「はい」
いこまさんは、しつ問をしてもおこらない。前のまどには、だぶだぶと水が流れている。二本の黒いぼうが、いきおいよく動いている。これは、たぶん、前が見えなくなるのをふせいでいる。名前があるだろうか。
「あれは、「波」ですか」
ちょうど車が信号で止まった。広い道には、ほかに車は少ししかいない。どれですか、と言って、いこまさんはわたしの方のまどを見た。こちらへ体を向けたから、たたかれるかと思って、うでが一回びくっとしてしまった。でも、たたかれなかった。びくっとしてしまったことも、おこられない。信号がまた青に変わるまでそっちを見てから、いこまさんは、あれは、と言った。
「あれは、おそらく、「波」ではなく、「雨」です」
「……、どのように、ちがいますか」
緑色のかん板が見えた。あれは、高速道路だ。一度だけ、テレビで見たことがある。
「……私も、くわしいことはわかりませんが」
「……」
「個人的な見解ですが、「波」は下から、「雨」は上から、水が来るのではないでしょうか」
こじんてきなけんかい、とわたしは心の中だけで言った。初めて聞く言葉だった。
車の中はしずかであたたかかった。となりを、もっとスピードを出して走るほかの車が通りすぎて行って、そのときだけ、びゅんと音がした。あくびが出そうになって、口の中をぎゅっとかんだ。血の味がした。
「どうぞ、さしつかえなければ、ねむってください」
さしつかえなければ、というのも、初めて聞く言葉だった。ねむってください、はわかる。目がちくちくして重くなった。
「きょかですか」
「……、」
いこまさんが何か言ったのか、聞こえるまえに、まぶたがとじた。
いこまさんが家に来たとき、わたしは立ったままねていた。自分で立っていたわけではなくて、家の中の柱にしばられて、すわれないようにされていたのだった。
さっきまでは、自分で立っていなさいと言われていた。朝からずっとそうやっていて、「きょか」がないのにねむりそうになったり、たおれそうになったりすると、つめたい水をかけられる「ばつ」をされることになっていた。
そのうち、パパが出かけると言って、ママと一しょに出かけて行った。パパとママがふたりとも出かけるのはめずらしいことだった。いつもは、パパがでかけるときはママが、ママがでかけるときはパパが、わたしがにげたり、ねむったり、すわったりしないように見はる。そのかわりパパはわたしを、たたみの部屋に入るところの柱に太いひもでしばって、ねたらころすからな、と言った。
ひもをはずそうとしてあばれたりしたら、あとからもっとたたかれることがわかっていたから、そのままじっとしていた。
しばらくして、大きな音がして目が覚めた。ころすからなと言われてこわくてねむらないでいようと思ったのに、ねてしまった。目を開けると、ベランダのまどがこわれて、あなが空いていた。今度こそ、わたしはパパにころされてしまうと思った。
でも、そこから入ってきたのはパパではなくて、いこまさんだった。
いこまさんはこちらへ来て、ポケットから大きなはさみを出して、わたしと柱をしばっていたひもを切った。きつくしばられていたけれど、いこまさんはわたしの体を切らずにひもだけを上手に切った。
足がしびれていたから、立っていることができずにたおれそうになったわたしをいこまさんは受け止め、おしっこをもらすのがきたないと言われて着けさせられていたおむつをがばっと外した。
おむつは昨日の朝からずっと同じものを着けられていたから、とてもくさかった。そして、一生けん命がまんしていたぶんも、おしっこやうんちがたくさん出てしまった。自分でもくさいと思うほどだったのに、いこまさんはくさそうな顔もしないで、どこかから出したタオルで体をぜんぶふいてくれて、服を着せてくれて、そして、わたしを持ち上げた。いこまさんはそんなに大きくない女の人なのに、わたしはなんなく持たれた。
「遠くに行きます」
それだけ言って、いこまさんは入ってきたまどのあなから、わたしを持ったまま外へ出て、そして、車にのせて走り出した。
目がさめたら車は止まっていた。いこまさんはわたしが起きたのを見て、さーびすえりあです、と言った。
「さーびすえりあ」
「そうです、……サービスエリアというのは、高速道路で車を停めて、……食事をしたり、休憩する場所、です」
食事をしましょう、と言って、いこまさんは、わたしを車からおろして、今度は、わたしの体がいこまさんの体の前に来るようにだき上げた。あなたはくつをはいていないからこうします、すこしがまんしてください、と言われたけれど、いこまさんのうでにささえられた体はどこもいたくなくて、雨はまだ少し、ふっていたけれど、かさをさしてくれたから、ぬれなくて、わたしは、何もがまんしなかった。
いこまさんはそのままサービスエリアのコンビニに行って、おにぎりやサンドイッチや飲み物を買ってくれた。なにがいいですかと言われたけど、答えられなかった。 車にもどって、また、ならんですわった。どうぞ、とおにぎりをわたされて、わたしはたぶん、三日ぶりぐらいに、ごはんを食べた。
「ゆっくり食べましょう」
言われて、自分がせっかく着させてもらった服の上にごはんつぶとなみだと鼻水をたくさん落としながら、ごはんをのどにつまらせてせきこんでいることに気付いた。
「ごめんなさい」
えづきながら言うと、いこまさんはだまったままハンカチを出して顔をふいてくれた。
わたしはいこまさんに顔をふいてもらって、そして、もう一度おにぎりにかぶりついた。
ごはんをすっかり食べてしまうと、またねむたくなった。
「いこまさん」
「はい」
「ねむっても、いいですか」
いこまさんはこちらを向いて、たぶんだけどとても悲しそうな顔をした。だから、だめだと言われるのだと思ったけど、そうではなかった。
「あなたが眠るのに、きょかはいりません」
「……、」
「わたしは、これから一本、電話をかけます、……あなたのお父さんやお母さんではありません、別の人です、そして、すみませんが、今日はこれからもう少し遠くまで行きます」
「……」
「その間、あなたはいつ眠ってもいいし、起きてもいいです、……トイレに行きたいとき、おなかがすいたとき、ほかにも、なにか困ったとき、なにか言いたいと思ったときは、言ってください」
よろしいですか、と、まるで大人の人に言うようにいこまさんは言った。はい、とわたしは返事をした。おなかの中で、さっき食べたおにぎりとお茶が、ううっとあたたかくなるのを感じた。ああ、わたしはごはんをたべた、と思った。
いこまさんは、ひゅっと小さな音を立てて息をすった。
「あなたは、……あなたは、あなたが望まない限りは、もう、あの家には戻りません」
「……」
「殴られることも蹴られることもご飯を食べられないこともトイレに行かせてもらえないことも、もうありません」
「……、」
「……」
「すみません、……少し、大きな、声を出しました」
いこまさんは前を向いて目をとじた。少し、苦しそうだと思った。わたしも、目をとじた。そうしたらすごくねむたくなってしまって、わたしはすぐねむった。
さっき言っていたように、いこまさんがだれかと話す声が聞こえて、すぐ聞こえなくなった。パパでもママでもないべつの人に電話するとさっき教えてくれていたから、わたしは、こわくなることはなかった。
次に目を覚ますと、朝になっていた。なぜ、朝だと思ったかというと、明るかったからだ。雨は上がっていて、車のまどからは、海が見えた。
「あれが「波」です」
いこまさんが言った。「波」は近くからずっと遠くまで、きらきらと光りながら動いていた。
いこまさんは「しまむら」で服とくつを買ってくれた。「しまむら」にはわたしも行ったことがある。ママと二人だった。パパが
ママもよくパパにたたかれていた。ママがわたしをたたくとき、それは、そうしないと自分がパパにたたかれるからだとわかっていた。でも、そんなこと、どっちでも、たたかれたらいたいことにかわりはなかった。
しばらくしていこまさんは、小さな建物の横に車をとめた。
「ここは図書館ですね」
「としょかん」
「少し休みましょう」
新しいくつをはいて、わたしは地面におりた。外は風が強かったけれど、あまり寒くなかった。このまえまで、はだかでベランダに出されたり、おふろでずっと水をかけられたりしていたことにくらべたら、ぜんぜん寒くなかった。
図書館も、行ったことがある。小学校二年生の、社会見学だった。あのころは、まだ社会見学に行くことも、きょかされていた。本を借りるカードを作るための紙は、まえの夜にパパがやぶいてしまって、わすれたと言いなさいと言われたから、カードを作ることはできなかった。
図書館の横に、大きな木があった。下にどんぐりが落ちていて、あっと思って立ち止まって、あっと思って、出しかけた手を引っこめた。落ちているものをひろって帰るのも、いけないことだった。遠足でどんぐりをひろって帰ったとき、パパがすごくおこったことを思い出した。そうだ、それで、もう行くのをきょかされなくなってしまったんだ。こわくなって、わたしは止まってしまった。
どんぐりですね、と声がして、となりにいこまさんがいることを思い出した。顔を上げると、木には緑色の小さなかん板がかかっていて、そこには白の字で、まてばしい、と書かれていた。まてばしい、の、い、のところが少しけずれて、そこに、小さなクモが一ぴきくっついていた。
「ひろっていきますか」
いこまさんが言ったので、わたしはそっと地面にしゃがんで、どんぐりをひろった。どんぐりはたて長で、ぼうしもちゃんとついている。軽く、外がわに少し土がついて、かさかさしていた。
「い、こまさん」
「はい」
「もっていっても、だいじょうぶですか」
「大丈夫でしょう、たくさん落ちているようですから」
「……」
「その実は食べられます」
「え」
「虫が卵を産んでいるかも」
「え、」
「おっきな虫が出てきますよ、春になったら」
手のひらにのせたどんぐりをまじまじと見ていると、いこまさんは、じょうだんです、と言って、上を見た。まてばしいの葉っぱはつやつやとしていて緑で、上のほうには、まだ落ちていないどんぐりが、すこしついているようだった。
図書館の、じゅうたんのところでくつをぬいですわった。いこまさんが図かんを持ってきてくれて、ふたりでそれを見た。
「これがマテバシイです」
「まてばしい」
「外にあった木ですね」
つぎのページには、いろいろな木のどんぐりがのっていた。どんぐりにはいろんなかたちがあった。まるいのや、ちいさいの、まてばしいのように少し長いもの。
さっきひろったまてばしいのどんぐりを手のひらにのせながら、図かんのまてばしいを見た。知らないうちに、わたしは泣いていた。かさかさしていたどんぐりの外がわになみだがおちて、土がすこし手についた。
「あなたも、まあさという名前ですね」
「……、」
「私の下の名前も、まあさといいます」
「え、」
「
「……」
「おなじですね」
いこまさんは図かんをたなにもどして、すぐまたとなりに来てくれた。
「いこままあささん」
泣きながら、わたしは言った。はい、といこまさんは返事をした。
「どうして、たすけてくれたの」
しばらく考えて、いこまさんは、これが仕事ですから、と言った。
いこまさんと二人で、今度は大人の人ようのつくえに行って、地図を見た。わたしは見方がよくわからなかったけれど、ぜんぜん知らない場所だということだけはわかった。
そのあと、図書館のとなりのお店でごはんを食べた。今度はゆっくり食べることができた。カレーがからかったから早く食べられなかったのもあるけど、じょうずですね、といこまさんが言ってくれたから、うれしかった。それから、また車に乗った。
「いこまさん」
「はい」
「今日も、さーびすえりあに行きますか」
「……、いえ、今日は、ホテルに泊まりましょう」
「ほてる」
「サービスエリアがお好きでしたか」
「……」
しばらく考えて、うん、と言うと、いこまさんは、少し笑った。いこまさんの笑う顔を見るのは初めてだと思った。
「……また、行けるでしょう、きっと、人生で」
じんせい、というのが何か、わたしにはわからなかった。わからないことが、たくさんある。また行ける、はわかった。うん、とわたしは、もう一度言った。
その夜は、ホテルにとまった。ビジネスホテル、というのだそうだ。ビジネスというのは、仕事という意味なのだと教えてもらった。
そういえば、いこまさんは、わたしをたすけるのが仕事だと言っていたなと思った。ひとをたすけるのが仕事なんだ。いこまさんは、スーパーヒーローなのかもしれない。
夜中、おそくに、とまっていた部屋にひとりの男の人がたずねて来た。
わたしはそのとき、ベッドで、もう半分うとうととねむっていた。おふろは、パパにしずめられたことを思い出して、こわくて、どうしても入れなかった。そうしたらいこまさんがタオルをお湯でぬらしてきて体をふいてくれて、それで、気持ちがよくて、すごくねむたくなったところだった。
男の人の声がしたから、パパが来たのかと思って、こわくなって起き上がった。けれど入ってきたのはちがう人だった。体を丸めるようにして入ってきたから最初はわからなかったけど、パパよりずっとしん長が大きくて、いこまさんと同じような、黒い服を着ていた。
カカリチョウ、もうしわけありませんでした、と言って、いこまさんは深く頭を下げた。カカリチョウとよばれたその男の人は、いこまさんの頭をそっと上げさせて、そして、だまったまましばらくいた。
いこまさんは泣いていた。もうしわけありませんでしたは、わたしが何度も、パパに言わされた言葉だった。だからわたしは、いこまさんがカカリチョウにたたかれるのではないかと思った。でも、ちがった。カカリチョウは、いこまさんの顔を見、ベッドの上でカチンカチンに固まっているわたしのほうを見、また、いこまさんの顔を、まっすぐ見た。
いこま、と言った声は、想ぞうしていたよりずっと小さく、でも、よく聞こえて、やさしかった。
「そんなに泣くな」
「……、」
「車の鍵を、返してくれるか」
いこまさんはカカリチョウに、かぎをわたした。わたしたちが乗ってきた車は、カカリチョウのものだったのだ。
「一度、俺が話しに行ってこよう」
「……」
「君たちは電車で帰りなさい」
「……、すみません、」
「俺の責任だ」
「係長、」
「お前は何も悪くない、いいな」
「……、」
何も悪くない、と言ったとき、カカリチョウの声が少し大きくなった。いこまさんがわたしに、もうあの家にはもどりません、と言ったときと同じ声に聞こえた。
そのあとカカリチョウはポケットからハンカチを出して、サービスエリアでいこまさんがわたしにしてくれたように、いこまさんの顔をやさしく、そっとふいた。そして後ろを向いて、入ってきたときと同じように、せ中を丸めて、部屋を出て行った。
いこまさんはスーパーヒーローではなく、ヤクショの人だ。パパがそう言っていた。いこまさんの前にも、ヤクショの人は何人も家に来た。ヤクショの人や、ジソウの人。みんな、パパが何度かおこったり、大きな声でどこかへ電話をかけたりしたら、いつの間にか来なくなった。
いこまさんだけが、パパに何度どなられても、何度も何度も、来てくれた。
いこまさんに、もう来ないでほしいと自分で言いなさいとパパに言われたとき、わたしは、すぐに、はいと言えなかった。パパはとてもおこって、かた手でわたしのかみの毛をつかみ、もうかた方の手で、わたしの首をぐっとおした。息ができなくなって、苦しくて、ついにわたしはうなずいた。ああ、どちらでも死ぬんだ、と思った。
もう来ないでください、わたしはパパにギャクタイされていません、めいわくです、とわたしが言ったときも、いこまさんの顔は変わらなかった。
いこまさんは、ずっとそうだった。まえに来たジソウの人のように、わたしに向かってにっこり笑って見せることもなかったし、反対に、おこったり、泣いたり、こわがっているような顔をすることも、なかった。
いこまさんはしばらくじっとわたしの顔を見ていて、そして、わかりました、と言った。
そして、その日の夜、いこまさんはわたしを助けに来てくれた。
いこまさんだけが、わたしを助けてくれた。
つぎの日、起きたらもうお昼まえだった。一しゅん、どこにいるかわからなくて、はっとなって起き上がった。いこまさんは近くにいて、だいじょうぶですよ、と言ってくれた。
いこまさんがトイレに入っている間に、テレビをつけた。テレビをつけてもおこられないと思ったからだ。テレビでは、ニュースがやっていた。かちゃんと後ろで音がして、いこまさんがトイレから出てきたんだなと思った。いこまさんの音だとわかっていたから、こわくなかった。
テレビの画面に、見たことのある顔がうつった。ぼとんと音がして、ふり返ると、いこまさんがいて、足もとに、いこまさんのけい帯電話が落ちていた。
うつったのは、パパの顔だった。いこまさんは、すぐにとなりに来てくれた。パパの顔を見ると体がふるえてきて、わたしは、ベッドの上でおしっこをもらしてしまった。キー、と悲鳴が聞こえた。自分の声だった。
テレビからは、女の人の声で、パパの名前が聞こえた。田嶋陽一さん四十五歳が、コウツウジコでシボウしました。シボウという字のうち死だけは、見たことがあった。いこまさんは一度リモコンを持ち上げて、でも、テレビを消さずに、そのまま下ろし、自分の服もわたしのおしっこでよごれてしまうのに、ベッドの上にのって、わたしのことを強く、ぐっとだきしめてくれた。黒い服の、カサカサしたぬのが顔に当たった。
「真亜沙さん」
名前をよばれて返事をしようとしたけど、がっしりとだきしめられていて、うまく言えなかった。それに気付いたいこまさんはわたしの体を持ったまま、少し体をはなして、わたしの目を、まっすぐ見た。
「いまから、私たちは、もといた場所へ帰ります」
「……」
「あなたのお父さんは、亡くなりました……さっき、テレビでやっていたのは、そのことです、……このことは、わかりますか」
「……、はい」
テレビではもうべつのニュースをやっていた。その内ようは、わたしにはわからなかった。
「……、きのう、私は、あなたに、……あなたを、連れ出した、ことは、仕事だと言いました」
「……」
「それは、嘘です」
「……うそ、」
「全部、私が勝手にやりました、……私情です」
「しじょう」
「自分の、……私の、わたしの気持ちということです、……いいですか、あなたは、何も悪くない……ひとつも、少しも悪くないです、何があっても、それだけは、……それだけは、わかっていて」
どうかお願いします、と言ったいこまさんの口調は厳しかった。白いほっぺたを涙が幾筋も伝って落ちた。わたしは泣かずに、はい、と返事をした。いこまさんはもう一度、わたしのことを、力いっぱい抱きしめてくれた。いこまさんの体はやわらかくて、あたたかくて、少しだけ、夜の、雨の夜の匂いがした。
しばらくして、たくさんの大人がわたしたちのところへやって来た。いこまさんと離れたくなくて、わたしは泣いて暴れた。いこまさんを叩かないで、いこまさんを怒らないで、いこまさんは助けてくれたの、と何度も言っていたと、あとから聞いた。そのときのこと、そして、そのあとしばらくのことは、本当はあまりはっきりと思い出せない。
それから、わたしはいわゆる児童養護施設というところに預けられた。そのあともちろん父親には会っていないし、母は生きているはずだけれど、会っていない。父親は死んだとわかっていてもしばらくは、怖くて、何度も泣いたり暴れたり過呼吸を起こしたりして、先生たちを困らせた。でも、そのことで怒られることはなかった。皆、優しかった。
この春、就職して、ひとり暮らしをはじめた。施設ではたくさんの人が暮らしていたから、大変だと思うこともたまにはあったけれど、生駒さんがあのとき言ったとおり、殴られたり蹴られたり食事を摂らせてもらえなかったりトイレに行かせてもらえないようなことは、決してなかった。それはたぶん、ふつうの人が生きていくうえではごくふつうのことかもしれないけれど、わたしにとっては特別なことであったし、生駒さんがそうしてくれたのだと思っていた。意地悪な子もいたけど、施設を出るときはちょっと寂しかった。寂しいという概念を、知ることができたと思った。
車の窓の「雨」をぬぐうものの名前は、ワイパーという。それも、いつしか知った。
生駒さんにもあれから会っていない。ずっと会いたいと思っていて、先生や支援員さんにもそう言っていたけど、会えなかった。いつか、会える日が来るだろうか。生駒さんが救ってくれたわたしの人生で、いつか。
生駒さんと一緒に拾ったマテバシイのどんぐりを、施設の先生は、庭の隅に植えさせてくれた。施設に入ったとき、昼間はずっと人形のように動かず、夜になると過呼吸を起こして失禁しながら暴れていたわたしに、樹の育つのを、なにか命の育つのを、見せてくれようとしたのだと思う。
今では、もうあのころの悪夢を見て魘されることも、泣いたり過呼吸になってどうしようもなくなることも、ほとんどない。長い、長い時間がかかった。けれど、生きて、それだけの長い時間を、わたしは生きてこられた。
わたしが施設を出るころには、マテバシイはだいぶ背が高くなっていた。でも図鑑には、マテバシイはとても丈夫で、ずっと大きくなると書いてあったから、きっと、もっと長い時間を、生きて、大きく育ってくれるのだろうと思う。葉はつやつやとして、いくつも実をつけた。
あたらしく地面に落ちたマテバシイのどんぐりをひとつ拾って、持ってきた。アパートには樹を植える場所はないから、ときどき手のひらに載せて眺めてみる。縦長のどんぐりは、しっかりと重く、いのちの気配がする。今のところ、虫は出てこない。わたしはそれを、部屋のいちばんよく見える場所に、いまでも大切に飾っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます