アマリリスの夜

 空が暗くなってから雨が降り出すまで、ずいぶんと長く時間がかかったような気がした。ずっと外を見ていたから、そう思ったのかもしれない。

 待ち合わせに指定された喫茶店の窓は大きく設えられていて、でも鬱蒼と茂った外の植物に半分ぐらいは隠れている。店の中にまで響くほどの雷鳴が聴こえ、雨の音は聴こえない。そしてわたしが名を知らぬ樹の、葉がぼたぼたと大きな雨粒に、降り始めてしまえばあっという間に、濡らされていくのを見ていた。


 今日は、暦のうえでは秋の大型連休の最終日にあたるはずだった。けれど、この街は静かだ。皆、どこへ行っただろう。残暑も昼間のうちだけで、朝と夜はぐっとすずしくなった。

 駅前の表通りから細い道を一本入ったところにあるこの店は、より静かだった。古い建物のようだけれど入り口は自動ドアで、テーブルとテーブルの間の通路も広くとられていて圧迫感はまったくない。地下鉄の駅のエレベータのあるほうの出口から出て、ここまで来る道はずっと平坦だった。

 鳴海さんは、そういう場所を選んでくれるひとなのだ。


 ドアベルではなく電子音のチャイムが鳴る。ぴんぽん、というより、てーてー、という響きで鳴る音は低く少し掠れている。入ってきたひとが向かいの席に座ったとき、水の匂いと湿った空気がいちどきに近くなった。


 「ごめんな、たいへんだったろう、こんな、雨で、」


 あまりにも息を切らせているから、笑ってしまった。スーツの右肩が真っ黒に濡れている。ハンカチを出して手を伸ばすけれど、あと少しで、届かない。真剣な顔のまま受け取って、拭いてくれた。


 「来たときは、降ってなかったの」


 そうか、と言って眉間の皺が少し緩む。いつの間にか外は雨のせいだけでなく、夜の暗さが混ざっている。


 「すごいな、雨」

 「うん」

 「……」

 「……」


 脱いだ上着を横に置いた、カッターシャツの肩に一本、短い髪の毛が落ちていた。最近とみに白髪が多くなったと自分で言う、肩先にくっついているのは、白と黒の間のような色の髪だ。

 これも、もし手を伸ばしたとしても、届かないなと思った。そう思ったらわたしの身体には雨は伝っていないのに、首筋がふっと冷たくなった。


 「車をな」

 「……うん、」

 「大学の、駐車場に置いてきたんだ」

 「……、」


 表通りに戻ってゆるやかな坂を少しのぼって行くと、このひとの勤める大学があるはずだった。鳴海さんと知り合って一年ほど経つ。わたしは、初めてここを訪れた。 ふだんなら、わたしものぼれる坂だろう。今日は、でも、雨具も持っていない。

 外がまた一度、ぱっと白く光り、間髪入れずにばりばりと雷鳴が鳴った。ここに居るのはこのひとだと、言葉にするようにして思って、肩先から顔のほうへ視線を移すのを、やり損なって一度、目を閉じた。


 「なにか食べたか」


 静かな声で問われて、今度はきちんと顔を見た。コーヒーだけ、と言った声が上手に出なかったような気がして、小さく咳払いをした。


 「ちょっと、早いけど、なにか食べないか」

 「……うん、」

 「通り雨みたいだ」


 目を細めるようにしてスマートフォンを操作して、一時間後の気象予報が、晴れを示す記号であることを示して見せてくれる。夜は太陽じゃなくて星なんだなあ、と独り言のように言うのがきこえた。


 「……車、持ってくればいいんだけどな、職場に、忘れ物して」

 「うん、」

 「飯、食って、悪いけど、付き合ってくれるか」

 「うん」

 「悪いね」

 「ううん、全然」


 今度はメニューをこちらへ向けてくれる。ナポリタンとサンドイッチを頼んで、少し、黙っていた。


 「あのね、」

 「うん?」

 「肩に、髪の毛、」


 うまく視線の先を追って、取った髪の毛を白熱灯に翳すようにして見る。目尻に皺がある。わたしも、このひとも、もう、いい歳だ。そう言うと、きみのほうが年下なのだからそんなふうに言うものじゃないと、率直にフォローしてくれようとするのだけれど。三十八歳と、四十五歳では、もう、そう変わらないだろう。言ったら、でもなあ、とまだ少し不満そうな顔をしてみせたのが可笑しかった。


 「やっぱ白髪だなあ」

 「グレーじゃない?」

 「よく言えばな」


 また空に白く、一瞬の光が走った。けれど少しずつ雷は遠ざかっているように思えた。雷鳴は小さく、音が鳴るまでの時間が、長くなってきている。

 店内は静かだ。ふいに、こーん、こーん、と鐘の音が鳴ったので、驚いて、そちらを振り返った。壁の、古い仕掛け時計が午後六時を報せていた。割れたオルゴールの音のような音で、聴いたことのあるメロディが流れてきた。


 「あ、」


 向き直ると向かいの席のひとは、少し笑っていた。ときどき来るお店と言っていたから、この時計のことも知っていただろう。わたしがびっくりしたのが、可笑しかったのかもしれない。


 「、まりりす」

 「うん?」

 「アマリリス」

 「この曲?」

 「……うん、たぶん」

 「そうか」


 知らなかったなあ、と言う。知らないことを知らないと、おだやかに言うひと。ぱりっとした黒いエプロンを着けた店員さんがナポリタンとサンドイッチを運んできて、しばらく黙って食事をした。サンドイッチは、たまごの焼いたものと、ハムときゅうり。


 「美味しい、これ」

 「うん」


 口数の少ない、鳴海さんの目が笑っている。笑っていると、わかるようになった。これを、信頼というだろうか。わたしは、信頼をできるようになったのだろうか。

 なにか、気持ちが揺らいでいるような気がした。いま、自宅でできる内職のような仕事だけをしているわたしは、ひとりでは滅多に外出しない。久しぶりに電車に乗ったから、緊張していたのかも。それとも、突然の雷雨のせいか。ただの、わたしの心持ちだけのせいかもしれない。



 食事を終えて外に出ると雨はあがっていた。風がすずしい。日はもう暮れている。空気はまだ、水の匂いがする。


 「押してもいいか?」


 そうやって、きちんと訊いてくれるひとだ。泣きそうになって、前を向いた。


 「うん」


 車椅子のグリップをぐっと握って、静かに押してくれる。しばらく、緩やかな坂をのぼった。

 鳴海さんは、車椅子を押すのが上手だと思う。息を切らしもしない。痩せ型だけど身体だけは頑丈なんだよと笑っていた。それを、嬉しいと思う。鳴海さんは無口だけど、よく笑う。大笑いはしないけど、目だけで、少し笑う。それも、嬉しいと思う。このひとのことを、とても好きだと思う。

 ほんとうに泣いてしまわないように、強く唇を噛んだ。ふと上を見ると月が出ていた。黒い雲と雲の合間を照らすように冴えている。目を閉じて、しばらく揺られていた。


 「着いたよ」


 目を開けると、研究棟と書かれた扉のまえにいた。辺りは暗いけれど、建物の中の通路は蛍光灯で照らされている。

 周りを見回すと、向かいにもう一棟ある似たかたちの建物の、いくつかの窓にだけぽつぽつと電気が点いているのも見えた。休日でも、仕事や研究をしている人がいるのだろう。わたしの位置からでは、いちばん上までは見えない。高い建物だ。


 「ごめんなさい、わたし、寝てたかも」

 「うん、……なんか、具合、わるかったか」

 「ううん、……なんかね、気持ちよかったから、寝ちゃった」

 「……、うん、そうか」


 鳴海さんがカードキーを取り出して、扉の横のリーダーにかちゃんと通すと、自動ドアが開いた。


 「いいの、わたしも入っても」

 「いいよ」


 部外者だからダメな気がするけど、断言されたのが可笑しいなと思ったので、そのまま一緒に行った。学校の廊下みたいな床(大学だから、本当に学校なんだけど)を進んで行って、エレベータで六階に上がる。

 エレベータの扉が開いたとき、向こうから学生さんと思しき数人の姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。先生、とそのなかの一人が言ったのをきいて、咎められるわけじゃないのだけれど、背中が少し緊張した。

 うん、と応えた鳴海さんの声はいつもと変わらなかった。担当する研究室に所属するひとたちなのだろう、二、三の会話を交わすあいだ、若い彼や彼女たちはわたしのほうを少し見たり、見なかったり、少し不思議そうな顔をしたり、好奇心の滲むような顔をしたり、しなかったりした。びっくりされているような気がして、俯いていた。わたしは本当にもういい歳なのにな、と思ったら、かなしかった。

 先生、とひときわあかるい声で、だれかが言った。


 「奥様ですか?」

 「うん」


 下を向いていたのに、思わず顔を上げてしまった。学生さんたちはみんなこっちを見ていて、やっぱり、びっくりしているように見えた。車椅子にすわっていたらひとの背丈の半分ぐらいしかないから、大柄でない人でも、目の前に立っていたらとても大きく感じる。


 「きれいなかたですね」


 だれかが言った。今度はわたしがびっくりしてしまって、なにか言うかどうか迷うより前に、うん、と鳴海さんがはっきり返事をした。学生さんたちの空気がふわっと華やいだものになり、もう二、三言、会話を交わして、彼らは帰って行った。


 研究室にも大きな窓があった。隣の建物より、こちらのほうが高いようだ。窓からは、住宅街の夜景がずいぶん遠くまで見渡せる。向こうのほうに灯りが固まって見えるのは、繁華街のビル群だろう。いちばん手前のほうは、暗い。大学の構内も、ふつうの講義をするような場所はもう閉まっているのだろう。

 鳴海さんの机は、パソコンのまわりはきちんと整頓されていて、でも、袖机のうえには書類が山積みになっていた。その中からファイルを取り出して鞄に入れている。

 わたしは、ゆっくり窓のところへ行って、外を見た。窓は、ぜんぶは開かないような造りになっている。開くぶんだけ、開けてみた。外から涼しい風が吹いてくるのと同時に、こーん、こーん、とまた鐘の音がきこえた。


 「あそこの店の曲と同じだなあ」


 いつの間にか隣に鳴海さんがいた。どこからか、音の割れたアマリリスの曲が流れ込んできていた。


 「どこから流れてくるのかな」

 「うん、」

 「なんだって言ってたっけ、これ」

 「アマリリス?」

 「よく知ってたね」

 「うん、……子どものときに、きいたことある」

 「そうか」

 

 実家に、わたしの部屋、というのはなかった。わたしは、ふだんは一階に住んでいて、家族に来客があるときは二階に上げられた。親戚の集まりがあるたび、あんたはここにいなさい、といって、祖父に負ぶわれて二階の部屋に寝かされていたのを憶えている。

 ひとりで階段を降りることはわたしにはできなかった。麻痺した脚に「くだり」の動作はいっとう難しい。夜、祖父が網戸にして行った畳の部屋の布団の上で、ひとり眠れずにいながら、アマリリスの曲が、割れた音で遠くから聴こえてくるのを何度も聴いた。

 あのアマリリスも、どこで鳴っていたのかわからない。ずいぶんと、夜遅かったように思う。なにのしるしだっただろう。


 「いつも鳴ってるはずなのにな、知らなかった」

 「うん」

 「どんな歌なのかな、知ってるか?」

 

 訊かれて、こたえられなかった。わたしも、何度もアマリリスを聴いた。ひとり、歌ってみもした。歌詞は、一部だけ知っていた。正しいかどうかは、知らない。わからないところは、音階でうたった。



  ソラソド ソラソ

  ララソラ ソファミレミド

  ソラソド ソラソ

  しらべは アマリリス


 

 その音階も、正しいかどうか知らない。しらべはアマリリス、というところだけをなにで知ったのか、わからない。誰か歌ったろうか。アマリリスを知っている人、アマリリスのことをわたしに語ってくれた人が、だれかいただろうか。

 家族が障害のある娘をあんなに恥じたのは、きっと時代だった。バリアフリーなどという言葉が正しい顔をして語られるようになったのは、もっと最近だ。そのまえは、見せないことが正しさだった。欠陥のあるものは恥として、かくすことが正しさだった。

 そう思っていなければ、わたしはたったひとりで、ただしく口ずさむこともできないアマリリスを聴いたあの日を、どういうふうに思えばいいのか、いまでもわからない。


 「わからない」

 「うん」

 「わからないの」

 「……、うん」

 「ごめんなさい」


 頬に触れられて、泣いていると気付いた。


 「泣かなくていい」

 「ごめんなさい、」

 「ごめんな、……悪かった、さっきは、」

 「……、」

 「今日、きみに、そう言おうと思ったんだ」

 「……」

 「さち、」


 もう片方の手が、うしろあたまに触れた。ちかくで急に動かれたりさわられたりするのを、どんなに隠そうとしてもわたしが怖がることを、このひとは気付いているのか、いないのか、ほんとうにゆっくりとわたしに触れてくれる。

 わたしにさちという名をつけたのがだれなのか、知らない。しあわせになどなれるものかと、たくさんの人にそう言われて生きてきたのに。


 「結婚してくれないか」

 「……」

 「……、」

 「……でも、……わたし、二度目だよ、まえのひとと、わかれて」

 「うん、知ってる、……僕もだ、一度結婚して、別れてる」

 「……うん、……知ってる、」


 まえのおとこはことばの暴力をふるう人だった。愛していると言いながら、なんでもないことで不機嫌になったりひどく怒ったり、わたしの姿を嘲笑したり、知らない人のまえではかいがいしく世話をするようなふりをするのに、一緒に居るところを友人に見られるのは恥ずかしいと言うような人だった。

 だからこの人がやさしいこと、めったに怒らないこと、ひどいことを言わないことを、わかっていても、機嫌が悪くないか、怒った顔をしていないか、いつも伺ってしまう。

 そのことを、まだ言えなかった。なぜそんな人と結婚したのかと、もし問われたとしても、答えられない。愛していると言われることに、飢えていただけだろう。


 「……」

 「……こどもも、できない、たぶん、わたし」

 「うん、……それはな、僕のほうも、たぶん、もう無理だな、……恥ずかしいけど」

 「ううん、それは、恥ずかしいとは、思わない、けど」

 「そうか、……わるいね、おじさんで」

 「わたしも、もうおばさんだよ」

 「……うーん……まあ、うん、」

 「それに、わたし、……わたし、」


 わたしの脚がうまくうごかないのは生まれつきで、それでもまだ、子どものころは、杖や歩行器具のようなものをつかって歩いていた。身体の不具合を愛嬌でカバーできるような子どもではなかったから、歩く姿が変だというのを筆頭に、さまざまな理由をつけてずいぶんいじめられた。けれどそのときは、そうしている以外に選択肢をもたなかった。

 大人になってからも、しばらくはそうやって歩いていた。あるときその、まえのひとに、おまえの歩く姿は滑稽だな、それに迷惑だ、といって笑われてから、わたしは歩くのをやめた。


 「いっしょに暮らしたら、迷惑かけるよ、たぶん、いっぱい」

 「……それは、僕もそうだよ、お互いさまだろう、そういうのは」

 「……、」


 そのひとと縁が切れたいまも、家の中でも、外に出るときも、車椅子に乗る。病院のリハビリにも最低限しか通わなくなってしまった。使わなくなった脚はもっと衰えているだろうと思うと、こわくなる。

 鳴海さんは、わたしが歩くことを知らない。器械にたよっても身体を大きく揺するようにしてしか歩けず、ひとの流れの迷惑になりながら、こわれたロボットのようにしてよろよろと歩く姿を、知らない。


 「わたしね」

 「うん」


 頬に流れる涙を何度も拭ってくれている手がいつもよりつめたくて、わたしは初めて、このひとも緊張しているのかもしれないと思った。鳴海さんの手はかさかさしていて、でも、痛くはない。


 「やってみたいことがあるの」

 「うん」

 「はたらきたい、外で」

 「うん、やってみたらいい」


 いとも簡単に言われて、鳴海さんのほうを見上げた。泣いた、みっともない顔で、そんなことは、忘れてしまって。

 鳴海さんはすこし緊張した顔をしていて、ああ、やっぱり、と思ったら、目の奥からまた新しく涙がこみ上げた。


 「ゆるしてくれるの」

 「……ゆるすもなにも、やりたいことなら、やってみたらいい」

 「だれも雇ってくれないかもしれない、でも」

 「……うん、あのね、……そうだね、きみの、身体のことを言うなら、もしかしたら、条件は厳しいかも、しれないね、……でも、どこも駄目なんてことは、ないだろう」

 「……、」

 「きみは、やさしくて、いろんなことによく気がつく、……すてきな人だからね、きっと、だれかの役に立つ」


 役に立つなどと言われたのも初めてだった。いつのまにか、ほんとうに久しぶりに声をあげて泣いていた。憶えているかぎり、初めてかもしれなかった。

 子どものころ近所の男の子に杖を取り上げられて放り投げられたとき、草むらに這いつくばって探したけれど見つからなくて、なんとか家に帰ったら母にすごく怒られたときも、さっちゃんはショウガイシャなんだからやさしくしてあげなさいと担任の先生がクラスのみんなのまえで言ったときも、若いころいっときだけ勤めていた会社へ行く途中、どんなに朝早く家を出ても後ろから来る人たちにどんどん追い抜かされていった道でも、大人になってから一度だけ、お手洗いまでうまくたどり着けずに排泄に失敗してしまったとき、それを見てそのとき夫だったひとが、きたないね、と言った目がどんなにつめたかったか、それでも、こんなふうには泣かなかった。

 これ以上みっともなくなりたくない、と思っていた。これ以上、負けたくない、と思っていた。でも、わたしは、ほんとうにみっともなかっただろうか。わたしは、なにに負けていただろうか。


 鳴海さんは怒りも笑いもせず、プロポーズの返事を急かすこともせず、自分のハンカチを出してわたしの顔を拭い続けてくれた。呼吸が落ち着いてやっと会話ができるようになるまで、ずいぶん長い時間がかかった。風が吹いて、窓が開いたままなのに気がつく。


 「ごめんなさい、こんなに、泣いて、」


 喉が詰まってまだ上手に声が出なかった。鳴海さんはティッシュの箱をわたしの膝のうえに置いてくれて、わたしがもう少しのあいだ、涙を拭ったり洟をかんだりするのを、また待ってくれた。


 「まえの妻は」

 「ん、……うん」

 「あなたは喋らない、笑わない、なにを考えているのかわからない、つまらない男だといって、それで、出て行った」

 「……」

 「幸も、そうやってつらくなることがあるかな」

 「え、わたし、……、わたしは、……」

 「……いや、これは、駄目だな、……プロポーズして、まえの、話なんか、なあ」


 すまん、ごめん、駄目だ、最悪だ、うう、とめずらしく唸るような早口で言って、鳴海さんは自分の机のところまで歩いて行き、机のまわりをぐるぐる回って、そのまま椅子に座ってしまった。

 鳴海さん、とそちらへ届くように大きな声を出そうと思ったけれど、うまくできなくて、咳が出た。立ち上がりかけた鳴海さんに、わたし、と、今度はもう少し大きな声で言う。


 「わたし」

 「……、うん、」

 「あなたはよく笑うと思う」

 「……」

 「わたしの、まえの夫は」

 「……、」

 「わたしのことを、醜いと言って、何の役にも立たないと言って、ほかの女の人のところへ行きました」

 「幸、」

 「わたし、結婚したい、鳴海さんと」


 ぼぼぼ、と音がして、鳴海さんの袖机からたくさんの書類が床に落ちた。それを拾わず、ぱたんと机に顔を伏せてしばらくして、ありがとう、と言った鳴海さんの声は泣いていた。

 コーン、コーン、とふいにまた鐘の音が響いた。夜が更けて街が静かになっていくぶん、大きく聴こえる。



  ソラソド ソラソ

  ララソラ ソファミレミド

  ソラソド ソラソ

  しらべは アマリリス



 「あのね」

 「……」

 「歌詞わからないから、こうやって歌ってたの」

 「……、うん、そうか」


 夜更けにこの街にアマリリスが流れていることを、皆、知っているだろうか。アマリリスは、なにの時を報せているだろうか。おそい時間に何度も鳴ったら、うるさがられてしまったりは、していないだろうか。鳴海さんはゆっくりと立ち上がってこちらへ来て、わたしの膝の上に置かれたままになっていた箱からティッシュを取って涙を拭った。そうして、ゆっくりとわたしの車椅子を回転させた。

 立っている鳴海さんに抱き締められると、わたしの顔はお腹のすこし下あたりに来る。スーツの上着からうすくうすく防虫剤の匂いがする。煙草を吸わないひとだ。ボタンが頬にあたって、そこだけひんやりとした。





 めぐってきた春は、あたたかくなるのが早い春だった。わたしは四月からの採用で、市役所の事務職員として働くことになった。嘱託職員の障害者枠、というのがあり、面接試験を受けて合格した。有期雇用ではあるが、ラッキーなことに年齢制限はなかった。

 事務手続きのために市役所を訪れた帰り道、歩道の脇に置かれたプランターに、アマリリスの花が咲いていた。ほんもののアマリリスだ、と思ったとき、携帯電話が震えた。着信のときの名前をいつまでも鳴海さんとしているので、きみももう鳴海だろう、とこのまえ言われたのだった。そのくせ、名前で呼べば照れるような顔をするくせに。


 「はい、どしたの」

 「……あのね、……らりらり らりら、らしいよ」

 「へ」

 「……あの、……アマリリスの」

 「え、……ああ、えっと、ソラソド、ソラソ」

 「そう」



  みんなで聞こう

  楽しい オルゴールを

  らりらり らりら

  しらべは アマリリス


  月の光

  花園を あおく照らして

  ああ 夢を見てる

  花々の眠りよ



 結婚するまで知らなかったけれど、鳴海さんは音痴だ。自分でもそう言いながら、最近はときどき、家で鼻歌を歌っている。なにの曲なのかは、あんまりわからない。音痴というよりは、小さい声で歌いすぎて、よく聴こえないだけなんだとわたしは思っている。

 わたしは、音程の上がり下がりが極端にすくない鳴海さんの鼻歌を、とても好きだ。


 今日も鳴海さんは大学に出勤しているはずだった。どこで電話しているのかわからないけど、もし、電話しながら歌っている姿なんて学生さんたちが見たらびっくりしちゃうんじゃないだろうか。そう思ったら可笑しくて、笑ってしまった。


 「近かったな」


 歌い終えた鳴海さんが真面目な声で言うから、携帯の受話音量をひとつ上げて、背筋を伸ばした。


 「え、なに?」

 「歌詞」

 「……、」

 「きみの、歌っていたのと、近かった」

 「あ、……、うん、そうかな」


 アマリリスには千種類以上の品種があるのだという。だから気がつかなかっただけで、これまでも見たことがあるかもしれない。仕事に戻るという鳴海さんに、またね、と言って電話を切った。

 外に出るようになって、落っことしてしまったらうまく拾えないからと思って、携帯はストラップをつけて首にかけておくようになった。子どもみたいで恥ずかしいかもしれないけど、結構、便利だ。

 カメラを起動して、アマリリスの写真を撮った。あとで鳴海さんに送ってあげようと思う。花はわたしの目線のすぐ近くにあった。


 こーん、こーん、と鐘が鳴り、今、思い浮かべていたちょうどその曲が聴こえてきた。

 見ると道路の向かいの、工場らしき建物の時計が正午をさしている。ここは大学からは結構、離れているし、あのとき聴いたのはここのものじゃないと思うんだけど、アマリリスは時報にするのにメジャーな曲なんだろうか。お昼休みを外で過ごすのだろうひとたちが、談笑しながら門を通ってくる。

 らりらり らりら、と口ずさんでみてから、わたしもゆっくりと前に進んだ。


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