ディアナ──近づく季節。胸のうちに芽吹いているもの

 根雪もだいぶ溶け、手袋も襟巻きマフラーも使わなくなってきて、緑色のアンゼリカの芽があちこちの雪の陰から覗くようになった頃。

 ディアナが『結ぶ』魔法で縁を結び、『キオン』と名付けた鳩に二通の手紙を送ってもらった後で。

 デメテールには秘密だよ。と、しぃっと顔の前に指を立てたルナが連れていってくれたのは、森の向こうにある一面の花畑だった。

 白い雲の混じる青い空に数え切れないほどの色とりどりの花々。その組み合わせは息を呑むほどの美しさだった。黒いヤタと灰色のキオンは楽しそうにくるくると青空を飛んでいる。

 いつの間に? 誰から? と首を傾げて訊けば、ヤタに連れてきてもらったんだー、とルナは空を見上げてはにかんだ。

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

 ルナはディアナを見ずに笑う。まるで目を逸らしているみたいに思えて、ディアナはなんとなく心細いような気分になって、隣に立つルナの手を取った。ルナの指先が冷たくて、ディアナは握る手に力を込めた。自分の方があったかいから。

「ディアナ?」

 不思議そうにまじまじと見てくるあおい瞳をじっと見返す。

 そういえば冬の間に一度、泣き腫らした目で帰ってきたことがあったのを思い出す。あのときは心配するディアナとデメテールとは裏腹に随分と嬉しそうだったけれど、それはここを見つけたからなのだろうか。……泣くほど嬉しかったの? 確かにここはすごく綺麗だけど。でも、泣くほどのことかな? それともやっぱり何か嫌なこととか、悲しいことがあったんじゃないのかな。

 渋面になって色々考えていたら、ぷっ、とルナが吹き出した。

「ディアナすごい顔してる!」

 繋いでいるのとは反対の手で指をさして大笑いされた。ひどい。心配してるのに。ディアナはむっとなって頬を膨らませた。大げさな態度でルナから顔をそむける。

 繋いだ手をぎゅっと握り返されて、しぶしぶ視線だけを向ければ、ルナはやわらかく目を細めてディアナを見ていた。なんだか優しいときのデメテールみたい、とディアナは思う。

 花を踏まないようにしてルナはそっと歩き出す。その瞳をディアナから咲き誇る花に移して。

「ね、リオンと一緒に見たくない?」

 真っ直ぐ向けられたルナの言葉に、ディアナの胸がきゅうっと苦しくなる。まるで長い蔦が木の実に絡みくように締めつけられる感覚がした。

 ゆっくりと歩き出したディアナは、ペンダントのチェーンに触れてやっとの思いで声を出す。

「……うん」

「手紙に書いてみたら? 一緒に見ようねって」

「……無理、だよ。だってリオンはあたしたちの家だって知らないんだから」

「教えればいいじゃん」

「デメテールが怒るよ」

「そこはほら、二人だけの秘密って言って」

「絶対ばれる……」

 声から力を無くしてディアナが俯く。ルナは繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら話し続ける。

「ま、森にはデメテールの『選ぶ』魔法がかかってるから無理かあ。……そういえば雪でぐちゃぐちゃになってるだろうなー、魔法陣」

 あ、とルナの唇が動いた。

「魔法陣が壊れてる今なら、リオンも森に入れるんじゃ」

「呪文だけでもちゃんと魔法が成立するようにって、呪文の構築しなおしてたのあたし傍で見てたよ」

「うう……だよねー。さすがデメテール。っていうかディアナだけずるい」

「だってあたしはルナみたいに呪文だけで魔法を使うの苦手だもん」

「でもわたしと違って魔法陣だけでも魔法が使えるじゃない」

「ちょっとだけだよ」

「わたしだってそうだよ」

 そこで会話は途切れて、二人はなにも言わずに手を繋いだまま花畑をゆっくり歩く。

 空を飛んでいたヤタとキオンが二人の傍に舞い降りて、くちばしでつついたり頭を寄せてきたりしてじゃれてくる。背を撫でてあげれば嬉しそうにさえずってまた青空に飛んでいく。

 ときおり強く風が吹いてきて花をなぶる。その度に知らない甘さがつんと鼻の奥を突いてきて、深く息を吸えば全身にまで行き渡るような感じさえした。

 色んな花を見下ろしていると、揺れる赤銅色のチェーンが視界に入ってきて、どうしてもリオンを思い出してしまう。

 一緒には見られないかもしれないけど。少しだけなら、いいかな。

 ディアナはルナの手を引いて立ち止まる。その足元にあるのは、リオンの瞳みたいなあかい色をした花だ。

 名前は確か本で見た。そう──金蓮花カレンデュラ

 ディアナはしゃがみ込むとみどりの瞳でディアナを見上げた。小さく首を傾げる。

「この花、少しだけ貰っても大丈夫だと思う?」

 ルナの手がわずかに緊張したのがディアナには分かった。その理由は分からないのに。

「……なんでわたしに聞くの? 知らないよ」

「なんとなく。ヤタなら分からないかな」

「ヤタだって知らないよ。っていうか摘んでどうするの? 食べるの?」

「食べないよ。押し花にして、栞にしようかなって」

「それで、リオンにあげるの? この前作ったのはあげるのやめちゃったのに?」

「それは……でも、あたしが欲しいから……」

「リオンと同じ色だから?」

「……もうっ。ルナのいじわる!」

 恥ずかしくなってルナから目を逸らすと、ルナはくすくすと声を立てた。緊張していたことなんておくびにも出さずに。それから長い腕を伸ばして声を張る。

「ヤタ」

 呼び寄せたからすはルナの腕にまり、あおい瞳をルナに向けてちょこんと首を傾げた。

「この綺麗な花、ちょっと貰うねって」

 ルナが笑いながら言うとヤタはカァカァと鳴いた。黒い羽根を広げてばさりと飛び立った。青空の向こうに消えていく。

「……どこに行ったの?」

「お腹でもすいたんじゃない?」

 ルナは笑顔のまましゃがむと、金蓮花カレンデュラを摘み取り、はい、とディアナに手渡した。まるでその方がしっくりくるとでも言うみたいに。

「……ありがと」

 ディアナはしっくりとこない気持ちのまま受け取った。

 やっぱりルナはこの花たちが誰のものなのか知ってるんじゃないのかなと思った。ヤタじゃない誰か。さっきはそういう口ぶりだったから。

 でも、ルナはそれに触れられるのがどうしても嫌で、だからさっきから態度が少しずつおかしいんだろう。話し方だっていつもより早口だった。まるでなにかを誤魔化すみたいに。

 だから訊くのはやめておいた。すごく気になるけれど。この花畑に来てからずっと楽しそうな機嫌をそこねたくないから。ディアナだってリオンとやり取りを全部ルナに話している訳でもないのだから。きっと、ルナが話したいときに話してくれるだろう。

 ルナが先に立ち上がり、次いでディアナが立ち上がる。

「ちゃんと両手で持たないと落とすよ、ディアナ」

 ルナが苦笑してディアナの手を離す。

 ディアナは微笑んでルナの手を握る。

「大丈夫。ルナが一緒だから」

「……そっか」

「うん」

 ルナがディアナの手を握り返して上を見る。いつの間にか日差しが高くなっていた。

「そろそろ帰ろっか」

「うん。おいで、キオン」

 ディアナが声で灰色の鳩を呼び寄せた。キオンは二人の少し先を飛んでいく。まるで帰り道を案内するかのように。

 そうやって二人は並んで帰路につく。手を繋いだまま。




 そして日を置いてリオンからの手紙が届く。

 キオンと共に家に帰り、あたたかい部屋でキオンに餌をやってから木製のペーパーナイフで封をきる。便箋を取り出して、一枚一枚読んでいく。

 雪が溶けてきたおかげでまた人が街に出入りするようになって良かったということ。

 春にはお祭りがあってそのときはもっと賑やかになるから楽しみだということ。でもどうしても揉め事も起きるから同じくらい心配でもあること。

 勧められて読んだ子供向けの本が意外と面白くて読みふけってしまったこと。

 新しく出来た友達と別の街まで遊びに行ったこと。

 久し振りに料理をしたら少し失敗したので教えてもらいながら何度かやり直したこと。

 手紙の中のリオンはとても充実していて楽しそうで、それがディアナは嬉しかった。

 ディアナは自分のことを書くのがあまり得意ではないことを、リオンと手紙をやり取りするようになって知った。リオンの方がずっと上手だ。

 だから時間をかけて返事を書いてから、金蓮花カレンデュラで作った栞を添える。

 リオンにさいわいがありますようにと願いを込めて、持ち主の感情に干渉する『変える』魔法陣を描いた紙を使った。栞に触れている間だけ気分が軽くなる程度の、ささやかなものだ。

 栞の魔法陣はデメテールに気づかれないようにとても薄く小さな紙に描いて普通の紙で挟んだ。森の外では魔法を使ってはいけないと、前にデメテールが言っていたからだ。これが森の外で魔法を使うことになるのかは分からないけれど。だからバレないようにとそっと作っておいた。

 あのとき宿でわずかだけ見えた、辛さを堪えるような表情を思い出したから。

 リオン、使ってくれるかな。

 そう思うだけで胸はどきどきと高鳴ってしまう。

 封を開けて、便箋だけではない手紙の中身に気づいたら、一体どんな反応をするのだろう。

 驚くかな。喜んでくれるかな。笑ってくれるかな。

 瞼を閉じてみると思い浮かぶのはやっぱり笑顔で、それだけでディアナの胸は熱くなった。きゅうっと締めつけられるような痛みと共に。

 いつからだろう。リオンのことを考えるだけでこんなにも胸がいっぱいになってしまうようになったのは。いっぱいなのにもの足りないような気持ちになったのは。嬉しくて苦しくてもどかしくなったのは。会ったのなんて街に出た一度きりなのに。

 でも。

「会いたいな……」

 机の上で羽根を休めているキオンを指先で撫でながら呟いた。

 くー、とキオンがディアナを見て鳴いた。まるでディアナに同意するような優しい鳴き方だった。




 言い出したのはルナが先だった。

「わたし、街のお祭りに行ってみたい」

 三人で夕食をとっているときに、デメテールに向かって言った。ルナらしいはっきりとした調子だった。

 デメテールはルナを見ながらスープをすくう手を止めて、それから考えるように視線を上げた。

「ああ……『めぐるディティース』のことね。あら、でもなぜルゥが知っているのかしら」

 視線をルナに戻し、少し固い声音でデメテールが疑問形でない形で問う。

「リオンからの手紙に書いてあったから。ね、ディアナ」

「う、うんっ」

 話を向けられ、野菜のグラッセを噛み損ねてごくりと飲み込んだ。別に悪いことをしている訳じゃないのにこの後ろめたさはなんなだろう。

 デメテールは納得したのか、そう、と静かに口にすると再びスープを飲み始める。黙々と。

 ルナが目をぱちくりとさせてから、デメテールとディアナを交互に見る。

「ディアナだって行きたいと思わない?」

「思う、けど……」

 けれど、伏し目がちにスープを見下ろすデメテールの表情は明るくない。真っ直ぐな眉毛が真ん中に寄っている。怒っているのかなと思ってしまいつい肩がこわばる。

「けど、なにかしら、ディナ」

「えっ、その、やっぱりダメなのかなって……」

「なぜ?」

「……前はあたしが迷子になって迷惑かけちゃったから……」

「もー! まだ気にしてたの!? あれもう秋のことだよ!?」

「だって」

 あのときのデメテールこわかったんだもん。本人を目の前にして言えるはずもないけれど。スプーンの先を唇でくわえながらちらちらとデメテールの様子を窺ってしまう。

 隣のルナが呆れ顔でお肉に勢いよくフォークを突き刺して食べている。お皿とぶつかって、かん、と音が鳴るくらいに。

「ディナ、ルゥ。お行儀が悪いですよ」

「「──はい」」

 静かというよりも淡々としている声は余計に怖かった。二人して背筋をぴんと伸ばして黙って食事を再開する。

 しばらくしてから重そうに口を開いたのは、やっぱりルナが先だった。

「……デメテール」

「……」

「どうしても、ダメ?」

 デメテールがゆるく頭を横に振った。ルナとディアナが驚きでぽかんと口を開きかけたところで、デメテールは言う。食事の手を止めて目を伏せたまま、どこかためらうように。

「……少し、考えさせて頂戴」

 それから、お願い、と二人に向かって顔を上げたデメテールの表情は、無理やりに整えたような微笑みだった。

 食事を終えて、ルナとディアナで台所キッチンに行き、三人分の食器を水に浸ける。まだ夜の水はとても冷たいから、洗うのは明日の朝だ。

「なんで……」

 ルナがぼそりと話す。まるでデメテールに聞かれたくないように。少しだけ唇をとがらせて。

「なんで、デメテールはわたしたちが街に行くのを嫌がるんだろう。たまにだけど、村には連れてってくれたのに」

「……前に」

 ディアナは考えながら話す。ぽつりぽつりと、浮かんだことをそのままに。

「前にデメテールが言ってたよね。あたしたちの身体には種が埋められてる、って」

 ルナは一瞬だけ肩を揺らした。瞬きをして動揺を隠すように明るい声で返事をする。

「でも何もないじゃない。街では魔法だって使ってないし何人かとは目も合ったしちょっとは触っちゃったけど、でもわたしたちには何もない。今だって普通に元気じゃない」

「……ほんとにそうかな」

「どういうこと?」

 怪訝そうな表情で見つめてくるルナをちらりと見て、ディアナが握った拳を胸元に当てる。

「あたしね、時々胸が苦しくなるの。まるでなにかが締めつけてくるみたいに」

「……いつから?」

「リオンと、手紙で話すようになってから、だと思う」

 ルナが口元に手をやり考えるように視線を彷徨さまよわせた。少ししてディアナに焦点を合わせるが、

「それはディアナが、」

 言いかけて、やめる。震わせた唇を噛み締めるようにしてルナは斜めに俯く。身体の横で握りこぶしを作っていて、目元が赤くなっている。

 ディアナにはルナが今にも泣きそうに見えた。どうしようもない不安が内側から生まれるのを感じながら、それでも応えが欲しくて聞き返した。

「……あたしが、なに?」

「……ディアナは、リオンのことを好きだから、だから、そのせいなんじゃないの」

 明かりに照らされるルナの表情は、固くこわばっている。

「……なに、それ? あたし、リオンのことは好きだけど、ルナのこともデメテールのことも好きだよ?」

「だから、リオンだけ特別な好きなんじゃないのってこと」

 ルナの発言に困惑する。

 特別な好き? 好きに種類なんてあるの? なんでルナにはそれが分かるの? これはあたしの気持ちなのに。あたしのことなのに、あたしには分からないのに。なんで。

「わかんないよ……特別な好きってなに?」

「──わたしだって知らないよ! わたしはディアナじゃないんだから!」

 癇性に声を上げられ、ディアナは少し身を引いた。なにも言えなくて声を詰まらせる。

 ルナは顔を合わせないようにしながら外に続く方の台所キッチンの扉へと向かっていく。すれ違ったその背中に声をかけた。小さくなってしまう張り詰めた声で。

「……どこに行くの?」

「ちょっとだけ外出てくる。頭冷やしたいから」

「風邪、ひいちゃうよ」

「すぐに戻るから先に部屋に戻ってていいよ」

「でも」

「いいから」

 短く言ってルナは後ろ手に扉を閉めた。まるでディアナを突き放すみたいに。

 外に出たルナは扉から足早に離れ、雲でかげる夜空を見上げる。星も、月さえもよく見えない、暗くて悲しいくらいに嫌な空だ。

 ルナは自身の左頬に触れ、ディアナのいる方に顔だけで振り向いた。

「……フリーラエ、あなたなの? わたしたちに種を埋めた魔女は」

 震えるルナのささやきは、扉の向こうにいるディアナに届かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る