ディアナ──すれ違うこと、かみ合うこと。
強く強く風が吹いている。
木々の間を通り抜けて梢をかき鳴らし水面を波打たせる風はほのあたたかく、季節が
凍っていた
雪の下で栄養を蓄えていた草花は雪解けと共に芽吹く。
木の
洞窟で冬眠していた獣は目覚めてのっそりと餌を探しに行く。
家の外に居たデメテールは『避ける』魔法で危険な生き物に遭遇しないようにしながら、魔法陣を描き換えていた。
太陽と月の光に晒し、粉末にした
家の周りと、家からかなり離れたところにあるもの三つとを。
「……どうせ、あの子には無意味なのでしょうけど」
独りごちた言葉には諦めが
伸ばした腕で服が
腕に感じる陽射しは強くあたたかい。どこかでがさりと小さな獣が
ぽたり、と爪先に雫が落ちた。
指先で目元を拭う。
顔を上げて木々の奥をじっと見つめた。まるで気配を探るように。その向こうにあるものを確かめるように。
「……リーラ」
その声は拒絶に満ちた響きがあった。
あれから、ディアナとルナはどこかぎくしゃくしていた。
あの日しばらくしてから部屋に戻ってきたルナはディアナの手を取って、
「いきなり怒っちゃってごめんね」
と俯いてしゅんとしていたけれど。ディアナは、いいよ、とだけしか返せなくて、すぐに手を離してベッドに潜り込んでしまい、背中を向けて丸まった。
ディアナからは見えなかったけれどルナが息をついたのが聞こえて、ランプの明かりが消える音がした。それからごそごそとシーツが
朝がきて、昼になって、夜がくる。
それを数度か繰り返したある昼前に、リオンからの手紙が届く。ディアナとルナの分だ。ルナはヤタを連れて笑顔で手紙を手渡してくる。
いつもなら嬉しくて、ありがとうと笑って受け取っていたはずなのに、……ん、と返事ともつかない声しか出せなくて、それがひどく後ろめたい。
ルナの手から引き抜くように受け取ると、すぐにディアナは背を向けて机に向かった。眉の下がった顔は見えなかったことにして。
ルナは自分の分の手紙を机の引き出しに入れると、黙って部屋を出ていった。
ディアナは机の上に置いた手紙から目を離せないまま長く息を吐いた。いつも楽しみなリオンからの言葉は、今は読める気がしなかった。こうして見ているだけなのに、まるで悪いことをしているような気分だった。
……悪いこと、なのかな。あたしがリオンを好きなのは。
だからルナはあのとき特別だからって言ったのかな。
だから、リオンのことを考えると胸が苦しくて痛くなるのかな。
ルナはどうしてあのとき怒ってたんだろう。あたしが悪いことをしてるから?
だからデメテールはあたしたちを森の外に出さないようにしてるの?
魔女に気づかれないようにじゃなくて、誰も好きにならないようにって。もしかしたら、ほんとは。
とりとめのない思考はてんでばらばらに頭の中を
ルナは部屋に戻ってこない。どこに行くのかも言わなかった。
デメテールは魔法陣を描きに行ってくると外に出たきりだ。
それぞれが別々の行動をしてひとりになることなんて珍しくないのに、今はただただ心細かった。
手紙を引き出しにしまう気にはなれなくて、机の上に立てていた本を取って挟んだ。
本を持ったまま部屋を出て書庫に向かう。そこにルナがいたら良いのにと思う気持ちと、ルナがいたらどんな顔をすればいいんだろうという気持ちが混ざったままとぼとぼと廊下を歩いて、扉を開けた。
書庫には誰もいなかった。窓から陽が差し込んでいて明るく、紙とインクの匂いが辺りに
中に入って扉は開けたままルナの好きな本を探した。何冊か取って、小さなソファに座る。心細さを誤魔化すように青いクッションを抱いて一冊の本を開いた。ディアナたちが生まれるよりも昔に書かれた本だった。
それは恋と冒険の物語。
魔法で獣に変えられた王子と美しい王女が愛し合い、二人の愛の口づけによって解けた魔法を再び掛けて貰うために王子の祖国に向かう、という出だしだ。
ディアナはその本を読んでいく。読み終わっては続きの本へと読み進めていく。
内容は何度か読んだから覚えていた。いろいろな人達が出てきて様々な思惑が絡み合い、時には取り返しのつかないことも起きてしまうが、最終的にはハッピーエンドで終わる話だ。
寂しさを埋めるように黙々と読んでいると、気づけば紙が橙色の陽に照らされて文字が読みづらくなっていた。窓から外を見れば日が落ちかけている。
今日の夕食はルナと一緒に用意するはずだったことを思い出す。本を閉じてどうしようかと迷っているとぱたぱたと足音が聞こえてきて書庫の前で止まった。
「見つけたっ!」
「……ルナ」
「読書は終わり! ほら、ご飯作ろ」
「……ねぇ」
「なーに?」
「……なんでもない……」
明るい声をしたルナの顔が見られないまま、ディアナは本から手紙を抜き、読んでいた本に差し込んで立ち上がる。
「これ、部屋に戻したら行くよ」
表紙を見せるように軽く本を持ち上げた。本棚から出しっぱなしにしていた本を元の位置に戻していく。
「……そ。じゃあ先に準備してるね」
ルナが書庫を後にするのが足音で分かった。
ディアナは動けずに、窓から夕陽が照らす背表紙を眺めていた。いつもなら見とれるくらいに綺麗な橙色。笑顔の似合う、好きなひとが持っている色。胸は痛いほど高鳴るのに、今は、思い出すのがつらかった。
リオンのことが特別に好きな──恋をしてるあたしは嫌い?
飲み込んだ言葉が胸の奥でわだかまる。
もしも、嫌い、なんて言われたらどうしていいか分からなかった。そんなことない、なんて言われても安心できる自信なんてなかった。だから訊けなかった。怖かった。
いつも二人で一緒だと思ってたのに。自分だけが変わってしまったみたいだ。実際、変わったのかもしれない。リオンに出会ったあのときから。知らない気持ちを知ったときから。
「……あたしは」
どうしたらいいんだろう。
ルナに嫌われるのはいやだった。でも、リオンを好きでいたかった。
わがままなのかな、あたし。
自分の気持ちだけははっきりとしているのに、どうしていいのかがどうしようもなく分からなかった。
二人で用意をした夕食が終わったとき、デメテールはナフキンで口元を丁寧に拭ってから静かに話し出した。端正な顔には微笑みが浮かんでいる。
「街のお祭りに行きたいと言っていたでしょう? ルゥ」
「──うん!」
大きな目を丸くしたルナが勢い込んで返事をする。全身でそわそわとしていて、今にも笑顔になりそうに見えた。デメテールの態度で察したのだろう。ディアナも、なんとなく予想がついてしまった。ダメって言ってくれたらいいのに。
「ルゥとディナと、二人で楽しんでいらっしゃいね」
「「え?」」
言い回しに違和感があった。それだとまるで。
「デメテールは街に行かないの?」
ルナの問いかけにデメテールがふふっと苦笑する。
「もちろん街までは一緒に行くわ。でも貴女達はリオンくんと会うのでしょう? そこにわたくしが着いていくのは、ね」
「あー、そうだよね。……じゃあわたしもデメテールと一緒にいようかな?」
ディアナを横目に見てからかうルナはいつも通りで、だからディアナはふいっと顔を反対に向けてしまう。頬が熱い。恥ずかしさよりも苛立ちで。
「ルゥ」
デメテールはたしなめるように名前を呼び、ルナは口を半開きにしてから、曖昧に笑う。
「……冗談だよ、わたしだってリオンと会いたいし。ねぇいつ行くの?」
お茶を飲んでルナが尋ねる。デメテールは指折り数えてから返事をした。
「
「えっ早っ明日すぐに手紙書いたら間に合うかな? お祭りって一日だけじゃないの?」
「確か三日間のはずよ。前祭り、本祭り、後祭り。儀式を行うのが本祭りね」
「儀式?」
「木を燃やすの」
「……木って、森の?」
ディアナは思わず口を挟んでいた。
この森から木を切り倒して、あるいは引っこ抜いてそれを燃やす。物心つく前からこの森に住んでいるためかあまり良い感じはしない。
デメテールが緩く首を振る。
「随分と昔はそうだったけれど、今は違うはずよ。まあ、実際に行ってみれば分かるのじゃないかしら」
「だねー。わ、なんだかすっごく楽しくなってきた! ね、ディアナ!」
「……そうだね」
肩に触れて身を寄せてきたルナは見られないまま、けれどほんの少しだけ口端を持ち上げてみせれば、それだけでルナは嬉しそうに笑った。気の早い子達ね、とデメテールも微笑んだ。
デメテールが三人分の食器を片付けにいこうとしたところで、ディアナは手伝うねと言って手早く食器を重ねた。
ルナも着いていきたそうな顔をしていたが、けれどすぐに諦めたようで、わたしはここで待ってるねと椅子に座り直していた。
食堂の隣にある
「ディナ」
「なに?」
「ルゥと喧嘩でもしてしまった?」
こちらを見るやわらかく静かな紅い瞳。ディアナは作業の手を止めてしまう。
「……わかんない」
俯いてぽつりと言った。
確かにあのときルナは怒っていたけれど、でもすぐに謝ってきたのだからそこで終わっているはずだ。喧嘩ではない、と思う。
ただ、ディアナの方が割り切れなくて、気まずくて、後ろめたい。そんな気持ちに勝手になっているだけだ。いつも通りのルナに苛立ちを覚えてしまったほどに。
「ルゥもね、同じことを尋ねたら言っていたわ。分からないって」
「え……?」
「ディナはルゥに怒っているの?」
ふるふると首を振った。
デメテールが困ったような笑い方をする。
「それもルゥと同じね。ルゥもディナに怒ってなんていなかったわ」
「ほんとに?」
「ええ」
ディアナが止めていた手を動かす。積まれていた灰の残る皿を一枚ずつ水で
「……ルナはあたしのこと嫌いになってないのかな」
「それはルゥに尋ねるべきことね。あの子にはあの子の気持ちがあるのだから。……何か嫌われるようなことをしてしまったの?」
少し躊躇ってからディアナは口にする。小さくしか唇は動かない。
「……あたし、リオンのことがすきなの」
デメテールがくすりと穏やかな声を立てる。眼差しを寂しそうに細めて。
「ええ、知っているわ」
ディアナの耳が熱くなる。なんだかすごく恥ずかしい。思わず顔を上げてデメテールを見る。
「でもね、あたしルナもデメテールも大好きなんだよ。でもその好きはリオンへの好きとは違うって、特別だからって、ルナに言われて……」
「わからなくなってしまった?」
ディアナはこくんと頷いた。再び俯いてしまう。
「……あたしはどうしたらいいのかな」
あのときと同じ疑問を今度は口にする。デメテールなら教えてくれると思ったから。
デメテールは乾いた布巾でカトラリーを拭いている。どこか寂しそうな表情のままで。
「そのままでいなさい、ディナ」
「そのまま……って?」
「そのままは、そのままよ。だって、ディナは何も悪いことなんてしていないのだから」
そうでしょう? と向けてくる濃く紅い瞳を
「デメテールは、ほんとは、あたしたちを街に行かせたくなかったんじゃないの?」
デメテールが息を呑むのが分かった。
「魔女に気づかれないようにって理由じゃなくて、ほんとは、あたしたちが誰も好きにならないようにって──」
「それは違うわ、ディアナ」
硬い声音で告げられる。寂しさはより濃さを増して、いっそ悲痛な面持ちになっていた。そんな表情をさせてしまったことに罪悪感が生まれる。
デメテールは表情を変えずに食器を片付けると
「……これは、ルナも一緒に聞くべきことね。ディナ、先に食堂に戻っていなさい。そこで話すわ」
デメテールは三人分の飲み物を持ってくると、食堂の席に着いた。ディアナとルナの前に。
ティーポットからそれぞれのカップに注ぎながら静かに、何かに堪えるような調子で話し出す。
「……貴女達の身体に種が埋められている、ということは前に言ったかしらね」
こくんと二人で同時に頷いた。
「そしてそれを行ったのが魔女……わたくしとは違う魔女だと言うことも」
「デメテールはその魔女のことを知ってるの?」
身を乗り出すようにして言ったのはルナだ。デメテールは、少しだけね、と短く返した。
「……わたくしはその魔女のことを知っているけれど、でも、貴女達に埋められている種を取り除くことは出来なかった。どこにどう埋められているのかも分からなかった。わたくしのものとは似ているけれど、違う独自の魔法式を使っていたから」
「どうして、その種を咲かせたらいけないの? 咲いたらどうなるの?」
「それは……、貴女達が害されるからよ」
デメテールはディアナの問いに僅かに言い淀む。ディアナは言葉の意味が分からず眉を寄せた。害される?
「怪我をするとか、病気になるとか……?」
「……もっと、取り返しのつかない、酷いことよ」
「その種って、どうしたら咲くの? っていうか、ほんとに咲くの? だってわたしたちこんなに元気なのに」
「花が咲くのは絶対よ。あの子がしたことなのだもの。……ただ、何を契機にして咲くのかがわたくしには分からない。あの子の法式を解くことも、わたくしの魔法で上書きしようとしても、星を『詠む』ことをしても……何をしても視えなかった。壊せなかった。ずっと」
ルナの問いに答えたデメテールが悔しげに唇を引き結ぶ。目線が二人から外される。まるで見ているのすら辛いとでもいうふうに。
「だから、あたしたちを街に出したくなかったの?」
「ええ。……最初は一緒に村に連れていくのすら怖かったわ。森の外に出すのだって」
「じゃあどうしてあのとき、街に連れて行ってくれたの?」
二人の言葉に答えるデメテールが、自らを抱くように肘に手を回して強く掴む。
「……せっかく生まれてきてくれたのに……わたくしの勝手で閉じ込めるような真似なんて、もうしたくなかった。少しだけでも普通の子達のように過ごさせてあげたかったの。なのに」
「……デメテールは、ずっと守ってくれてたんだね」
笑みを浮かべたディアナの声に、デメテールがはっとなる。
「違うよ。今も守ってくれてる。こうやって」
ルナが首から下げている
二人は立ち上がるとデメテールの方に向かっていき、それぞれが両側に立つと、
「「ありがとう」」
笑ってデメテールを抱きしめた。その肩が強ばっていることに気がついたのは二人同時にだろう。二人の腕におずおずと触れる手のひらが弱々しいことに気がついたのも。
「お礼、なんて……そんなの……っ」
デメテールが俯いて、
「……ルナ、ディアナ。……ごめんね……」
ぎゅっと二人の腕を掴むデメテールの白い手。二人を抱きしめる代わりみたいに。
三人はしばらくそのまま寄り添いあっていた。あたたかさを分け合うように。
ディアナはルナと自室に戻ると、閉じた扉に背を預けた。
「……ごめんね、ルナ」
机の椅子に手をかけていたルナが不思議そうな顔を作って聞き返す。
「……なにが?」
「その……いろいろ」
「わたしは気にしてないよ。わたしだって勝手に怒っちゃったからね。だからおあいこ。でしょ?」
首を傾けてにっこりと笑うルナの
「……ルナはあたしのこと嫌いじゃない?」
「なんで?」
「あたしがリオンを好きだから。その、」机の上にあるルナの好きな本をちらりと見る。頬が熱い。喉が詰まった感じがして声が上手く出なくなる。「……恋、って意味で」
ルナの鼻頭にきつくシワが寄った。
「……もしかしてディアナ、わたしがリオンに恋してるとか思ってる?」
「えっ? そうなの!? だから」
「だからじゃないよ! 違うからね!?」
もう、ばか! と言うと同時にルナがベッドに駆けて枕を投げつけてくる。ディアナはとっさに身構えて受け取った。手加減のない不意打ちにディアナはちょっと
「……でも、わたしが答えを言う前に自力で気づいたから、許してあげる」
肩を竦めて笑うルナはディアナに向かってくると、手を引いてディアナのベッドに座らせた。それから隣に座ってくる。
当たり前のように重ねてくる、手のひらの重みがして、そっと握り返す。
「お祭り楽しみだね」
「……うん」
「リオンに会えるといいね」
「……うん」
「リオンに会えたらどうするの? 好きって言っちゃうの?」
ディアナは座ったまま跳ねた。
「なっ、なんで!?」
ルナは楽しそうににやにやしている。
「だって本に出てくる女の子ってみんなしてるじゃない。だから」
「だからじゃないよ! ……そんなの、考えたことなかったし……」
「じゃあこれから考えたらいいじゃん。あと七日はあるんだし」
「えぇ……」
「えー、じゃなくて。だってリオンが好きな女の子、他にもいるかもしれないよ? いっぱい。本だとそうだし」
「……」
ディアナは渋面になってルナの枕に顎をうずめた。頬を膨らませる。ルナが頬をつついてくる。
「妬いてる?」
「わかんないし、知らないよ……もうっ、ルナのいじわるっ」
「いいなーディアナは。わたしも恋してみたいなー」
「……ルナが恋したら今みたいにしてあげるね」
「ディアナって根に持つよね。それやめた方がいいよ」
真横からのじとってした声は聞こえなかった振りをして、抱えていた枕をルナに渡した。きょとんとするルナに思いきり笑いかける。
「手紙、書こうよ。あたしとルナで一緒に。お祭りに行くんだって」
「そうだね。リオン、びっくりするだろうなー」
笑いながらそれぞれ机に行って、めいめいにペンやインクや便箋などを取り出して床に広げた。届いた手紙も一緒に。
額をつき合せるようにして床にうつ伏せになって、立てた両肘の手のひらに顎を乗せて笑い合う。
「リオンの友達とも会いたいな、あたし」
「わたしも! 女の子の友達ほしい! でもリオンの友達って男の子ばっかりな気がするなあ」
「そのときはルナが好きな人ほしいって言ってたって言うから」
「もうっ! 今度はディアナがいじわるじゃない!」
ルナが顔を赤くしてぽかぽかと叩いてくる。ディアナは笑いながらそれを受け止める。
明るい月が夜の真上に登るまで、二人は思い思いに話しながら手紙を綴いていった。
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