ディアナとルナ──再会の春、変わらない心。

 時計台の正面側で。

 青空から視線を下ろしてリオンが入っていった天幕テントの方を見てから、どれくらい過ぎた頃だろうか。

 広場を行き交う人混みの中から、ちらりちらりと明るい橙色の髪の毛をした人影が見えてきて、ディアナのうなじがぴりっとなった。

 向こうも気づいたのだろう、手を上に伸ばしてひらりと振ってきた。

 どうして。

 どうしてこんなに溢れそうなくらいに人は居るのに、すぐに気づいてくれるのだろう。まるで初めて会ったときみたいに。あのときも、リオンは人混みの中にいるディアナに気づいて声をかけてくれた。思い出して胸がきゅっと締めつけられる。恥ずかしいような、懐かしいような。不思議な感覚。

 むずむずとする唇を動かしていて、思わず、声が出ていた。

「リオン!」

 人混みの隙間から見えたお日様みたいなあかい瞳は、変わらない真っ直ぐさでディアナのことを見てくれていた。

 リオンは器用に人混みをすり抜けていく速さを上げていく。どんどん近づいてくる。会いたかった姿に、ディアナの心臓がうるさくなっていく。周りのざわめきが遠く感じる。顔が熱い。思わず胸の前で両手を握りしめた。

 そうしてリオンはあっという間に、ディアナの前に辿り着いてきた。

 リオンは少し離れてディアナに向かい合う。そのまま、なにか言葉を探すような、自分の表情を確かめるような空気が二人の間にただよう。歩いている人の何人かがちらりと視線を向けては横を通り過ぎていく。

 先に口を開いたのはリオンだった。

「……よ。久し振り。元気そうだな」

 にっと歯を覗かせた笑顔。横に上げられた大きな手。大人っぽく着こなしている儀礼用らしき黒い衣装モーニングコート。なのにそこだけわざと崩したような襟周りアスコットタイ。男の子特有の少し低い声はなんだか甘いような感じで耳に響く。

 ディアナは肩をいからせるように身を縮こませながらこくこくと頷いて俯いた。

 どうしよう、言葉が出てこない。なんて言ったらいいんだろう。嬉しくて、恥ずかしくて、むずがゆくて、落ち着かない。今すぐここから走り出してしまいたい。そうしてあの大きな手に触れてしまいたい。あの手に優しく触れてほしい。そうしたら自分はどれほど嬉しくなれるだろう。

 思ってから、そんな自分に目を丸くした。……あたし、なに考えてるの?

 リオンが小さく笑い声をたてたのが聞こえて、勢いよく顔を上げる。いま考えていたことが伝わってしまったのかと思って心臓が強く跳ねる。

「それ」リオンが自身の首筋を指先でとんとんと叩く。「使ってくれてんだな」

 リオンから貰った赤銅色のチェーンのことだと遅れて理解した。

「う、うん! いつも身につけてるの、その方が落ち着くからっ」

 まるでルナみたいに早口になってしまって、それが恥ずかしくて口を押さえた。べつにやましいことなんてないのに。ただ、いつの間にか当たり前になっていただけなのに。

「……そっか」

 ディアナを見るあかい瞳が細められ、相好が柔らかくなる。その頬がわずかに赤く色めいているのはなぜだろう。不思議な気持ちで見つめていると、リオンは不自然なくらいの勢いで横を向いた。まるでなにかに根負けしたみたいに。

 リオンはどこをともなく見やり、赤い頬を指で引っ掻きながら言う。

「あー……ところでさ、ルナは? 一緒じゃないのか?」

「え?」



 ***



「あっ、気づかれたっ」

 周囲をおろおろと探し回るディアナの姿を見たルナは、覗き込むようにしていた体勢から時計台正面からの死角にさっと身を戻した。

 ロープと人混みの間に立って、目立ちそうな銀の髪をフードで隠すと腕を組んでむーっと頬を膨らませる。

 せっかくいい雰囲気だったのに。もうちょっとくらいそのまま二人っきりでいればよかったのに。っていうかいま好きって言っちゃえばよかったのに。

「……ディアナのばか」

「いや、リオンの奴が馬鹿なんだよ。ああいう時は耳元で優しくささやくところなのにさ」

「そうなの?」

「そうさ。──こうやって、ね」

「え?」

 ふっ、とルナの顔に高い所から大きな影が落ちてくる。視界の端に入ってくるのはフードを外す大きな手と長い指。耳朶に感じる誰かの熱。

 吐息。

「会いたかったよ、ルナ」

「──ひゃああああっ!?」

 足元から背中と首裏をい上がって頭のてっぺんまで知らない痺れが駆け抜けた。全身が一気に寒くなって熱くなる。

 腰が抜けて転びそうになって、けれど誰かが腕を引いてくれてなんとか体勢を立て直される。

「大丈夫……じゃ、なさそうだね」

 柔らかく苦笑する誰かは、力が入らず膝を震わせているルナの背中に腕を回し、自身に寄りかからせるようにして支えている。

 がっしりとした腕の感触。頬に触れる肩のあたたかさ。

 え、待って。なにこれ。なんでわたし抱きしめられてるの!?

「離してぇ!」

「立てる?」

「立てるからぁ!」

「そ。はい、気をつけてね」

 思いの外あっさりと身を離されて、ルナは二、三歩後ろへと後ずさってたたらを踏んだ。

 ロープと人混みで上手く身動きが取れない。違う。そのせいじゃなくて。わからないけど動けない。怖いわけじゃないのに。なんで?

 全身が熱くて背中が汗ばんでいるのが分かる。心臓が痛いくらいに耳の横で鳴っている。まるでさっきの耳に流し込まれた声をかき消そうとしているみたいに。

 ルナは深呼吸をしてから目の前の誰かに問いかける。声が上手く出てこない。

「……あなた、誰?」

「リオンの友達。よろしくね」

「だから、誰!? なんでわたしの名前知ってるの!?」

「秘密」

 黄色い榛色ヘイゼルの瞳でにっこりと笑う誰かを見上げる。あ、このひとデメテールより背が大きい──じゃなくて!

 ルナはふるふると首を振って誰かを見る。人懐っこい小さな獣のような柔和な微笑みにどこか安心感を覚えてしまう。なんなのこのひと。

「ルナ! 大丈夫!? なんで泣いてるの!?」

「え?」

 ディアナが背中から支えるように飛び込んできて、ルナの肩を掴んで顔を覗き込んできた。ルナは自分のワンピースの袖で目元を拭う。

「ほんとだ」

 袖に小さな染みが出来て初めて自覚した。泣いているなんて気づかなかった。驚きでそれどころじゃなかったけれど、どうしてだろうと不思議に思う。

 少なくともあの誰かのせいだということだけは分かって、そうしたらさっきのことを思い出してしまい、ぶわっと耳が熱くなった。ディアナが驚いた顔をする。

「ロウ! オマエ今度は何やったんだよ!?」

「落ち着けよリオン。まず僕が悪いと一方的に決めつけるのはどうかと思うよ?」

「オマエが女と関わるとロクなことが無いんだよ!」

「ひどい言われようだなあ」

 やれやれ、と両手を肩の高さまで上げつつ肩を竦める誰かと、その誰かの胸ぐらを掴んでいるリオン。一体何が起きているのか分からない。

 分かったのは、

「……ほんとにリオンの友達だったんだ」

「嫌だな、君に嘘なんて言わないよ」

 誰かはルナの呟きに、ぱちっと片目を閉じて笑ってみせた。




 リオンは親指で隣の青年を指さした。

「コイツはロウ。オレの幼なじみ。以上」

「雑な紹介をどうもありがとう」

 広場の空いていた長椅子ベンチにルナとディアナは座っていた。リオンと、ロウ、と呼ばれた青年が譲ってくれたのだ。

 青年はあらためてちゃんと見ると、結構格好良かった。癖のある胡桃色の髪に秀でた額。すっと通った鼻筋に細い顎。襟のない白い長袖シャツの袖口にさり気なく付けられた金色のボタン。羽織るように肩にかかっている薄いベージュのカーディガン。履いている黒のズボンや革の靴は一目見て分かるくらいに良い物だ。

 青年は左肩に背負っている黒いケースを路面に下ろしてシャツの襟を正すと、ルナとディアナに向かって綺麗に一礼した。癖毛がふわりと揺れる。

「初めまして。僕はアロウス・ルル・ウィンドナ。『ウィンドナの街』で音楽家をやっているんだ」

「『ウィンドナの街』って……」

「どこだっけ……」

 顔を上げたアロウスが呆気にとられたような表情でリオンを見て、リオンが半眼になってルナとディアナを見た。

 リオンはふーっと息をついてから口を開く。

「……『リトホロの街』は知ってるか?」

「鉱山の街、だよね」

 前にデメテールが言っていたことを思い出してルナが返事をする。ここ『イオリスの街』の隣が『リトホロの街』のはずだ。

「そこの隣が『ウィンドナの街』、音楽の街だよ。言っとくけどコイツみたいな女たらしばっかじゃねーからな」

「君さ、僕の印象を悪い方にねじ曲げるのやめてくれない?」

 アロウスは路面に膝をつくとケースを開けながらリオンにじとっとした目をやった。

「オマエの場合は事実だからいいんだよ別に。つーか今吹くのかよ」

「当然さ。彼女達という素晴らしい観客がいるんだから」

 ケースの中に入っているのは、真鍮で出来た管、に見えた。管の片方が細くなっていて、反対側は太く広がるように穴が空いている。全体的にはつたが絡まっている古い木のような外見だ。音楽家というのだから、きっとこれは楽器なのだろう。

 アロウスは手馴れた様子で部品パーツを組み立てていく。まるで魔道具を作るときのディアナみたいによどみなく。その動きがなんだか綺麗で、じっと見ていたらアロウスの榛色と目が合った。アロウスは瞳だけで柔らかく微笑んで、けれどルナは恥ずかしくなって顔ごと目を背けた。

 ディアナはルナをじぃっと見てから肩に手を置いて、耳元に唇を近づけたところで、ルナが耳を押さえて勢いよく身を引いた。リオンとアロウスがちらりとルナを見る。アロウスだけがくすりと小さく声をたてた。ディアナが眉根を寄せてルナに身体を近づける。

「……ルナ?」

「なっなんでもない! なにっ?」

 思い切り訝しんだ表情をしてディアナは小声で訊ねる。

「……あの人にほんとになにもされてない? 痛いこととか、怖いこととか、変なこととか」

「ないよ。ほんとに、べつに。それに変なことってなに」

「それはわかんないけど……」

「だからべつに大丈夫だから。ね?」

 ルナは安心させるように笑顔を浮かべて、ディアナの肩をやんわりと押さえて身を離させた。だからべつに大丈夫ってなにそれ意味わかんないと自分で思いながら。また耳が熱くなっていくのは気のせいだと言い聞かせながら。

 リオンはルナから目を離して、腰に手を当ててアロウスを見下ろした。

「で? なんでロウは時計台に居たんだよ。オレ今日は構ってやれねーぞって昨日言ったよな?」

「うん? 聞いたよ? だから本祭りはミネールと回ろうかって話してたんだけどね。サーヤちゃんの話聞いたら気が変わっちゃって」

「は? サーヤの?」

「『リオン様、今日の儀礼が終わったらディアナちゃんかルナちゃんのどっちかとデートするみたいなんです! 私はルナちゃんだと思うんですけど、アロウス様はどちらだと思われます?』って」

 アロウスは器用に声色を変えて話す。組み立てる手は止めずに。

 リオンとディアナが全く同時にむせた。

「こんな面白そうなこと聞いたら誰だって見てみたくなるだろう? だからミネールはサーヤちゃんにお願いして、僕だけ先に見学しに来たんだ。そうしたら偶然ルナちゃんを見つけたから声をかけたってわけ」

「……なんで、わたしがルナだって分かったの?」

 アロウスが組み立ての手を止める。

 ルナを見て笑み、再び手を動かし始める。

「リオンのところのサーヤちゃんに色々教えてもらったんだ」ついっと視線だけでリオンを見上げる。「あの可愛いし記憶力もいいね、リオン」

「……うっせ」

 小さな声でそっぽを向いているリオンの顔は、果実みたいに真っ赤になっていた。もちろん、ルナの隣にいるディアナも同様だ。ディアナは両手で顔を隠して俯いて足をぱたぱたとさせていた。

 楽しそうに部品パーツの組み立てているアロウスをちらりと窺って、ルナは思う。

 ……この人、けっこう悪趣味だ。

 ディアナとリオンを二人きりにして覗いてた自分が言えることじゃないけれど。

 あとサーヤちゃんって誰なんだろう。手紙には書いてなかったけれど、リオンの姉妹とかだろうか。

 組み終わったのだろう、アロウスがケースを閉じて、吊り紐ストラップを首からかける。その先に繋がっているのは完成された金色の楽器。よく手入れをされているのだろう、弾いた光が眩しいくらいに輝いている。

 とても、綺麗だ。

「……それ、なに?」

 興味を惹かれたルナがそっと指をさして訊ねてみる。

 アロウスは立ち上がるとルナを優しく一瞥して、

「ソプラノサクソフォーン」

 短く返すと、瞳を閉じた。

 リオンが静かにアロウスから離れてディアナの傍に立つ。まるでアロウスを引き立てるように。

 アロウスは楽器──サクソフォーンに長い指を置いたまま動かない。

 あたたかい春の風が通り過ぎて胡桃色の髪を揺らす。

 広場を満たす喧騒。

 小さな音なんて聴こえないはずなのに、アロウスがすぅっと息を吸ったのがルナには分かった。

 アロウスがサクソフォーンに口付けたときに。

 ひとつの音が現れて、

 増えて、

 溢れて、

 流れて、

 その場を満たすように広がった。

 音は動き出している。

 それはいくつも連なって旋律メロディとなり、高らかにひとつの曲を奏でていく。

 知らない音が新鮮な驚きを連れて、いくつも入り込んでくる。

 音は止まらない。

 明るい音が次々に飛び跳ねていく。

 軽快な調子がどこまでも響き渡る。

 呼吸の音さえ、鼓動の音さえ、奏でられる曲のひとつのようだ。

 楽器が、指が、全身が、律動リズムを刻んでいく。知らない曲を形作っていく。

 そして音は長く長く空を切って、一瞬の静寂を生み出した。

 アロウスがサクソフォーンから唇を離す。ゆっくりと瞼を開く。

 耳を打つ拍手が盛大に巻き起こった。

 いつの間にか、アロウスを中心として人集りが出来上がっていた。笑顔を浮かべた人達の。

 アロウスはゆるりと人々を振り返り、微笑んで感謝の言葉を口にして礼をする。そこでまた拍手が起きる。硬貨コインを握った子供が人集りから飛び出し手を差し出して、けれどアロウスは受け取らずに瞳を細めると、しゃがんで子供の頭を撫でてやった。

 やがて集まっていた人達はそれぞれに散っていく。アロウスに向かって手を振りながら。あるいは笑顔で口々に何かを話しながら。充実した雰囲気が、大きな広場の一部を満たしていた。

 アロウスがこちらに振り向く。ふーっと深く息を吐いた。

「……すごい」

 言葉は吐息と一緒になって、ルナの口から滑り出ていた。何も考えなかった。思い浮かばなかった。人々のような拍手すらしていなかった。ぎゅっと手を握り締めていた。

 ただただ、心が震えている。肌がぴりぴりしている。体が熱を帯びている。知らない刺激に。初めての感動に。

「すごい……わたし、初めて聴いた。こんなに綺麗な音」

 真っ直ぐにアロウスを見上げて、言った。自分がどんな表情をしているのかも知らないまま。彼から、目が離せなくなっていた。

 黄色みがかった榛色の瞳が、優しく蒼の瞳を映し出す。

「ありがとう」

 微笑みが、春のようにあたたかい。

 それがなんだかひどく胸につまって、ルナは思わずディアナの手を探していた。すぐに知っている温もりが隣から返ってきてほっとする。ディアナの手も熱いくらいだ。

 アロウスは瞬きをしてルナから視線を外すと、ディアナにウィンクを飛ばして、そのせいでぎょっとするリオンに顔を向けた。

「何か聴きたい曲はあるかい?」

「まだ吹くのかよ」

「一曲だけだとなんだかさみしくない?」

「いやさみしくはねぇよ。……ま、でもオマエがしたいなら良いよ。オレも聴きたいし。二人とも良いよな?」

「うんっ」

 ディアナが弾んだ声で返事をした。わくわくとした笑顔で。リオンから笑みが返ってきて、ディアナはますます嬉しそうになる。

 それからくるりと隣に顔を向けると、途端に困惑でいっぱいの表情になって一度固まり、俯いていたルナの顔をおそおそと覗き込んだ。

「……なんで、泣いてるの?」

 ルナは何も言えずにふるふると首を振った。自分でも分からなかった。だから分からないまま、浮かんできた言葉を紡いだ。

「なんだか、嬉しくて」

 蒼い瞳から涙をひとつ零し、静かに顔を上げると、ルナは心から微笑んだ。

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