リオン──冬が始まる前、冬の終わる前。
開けた窓から夕陽が射し込む自室。その木扉をノックされる。
「リオン様、今日はいらっしゃいますか?」
若い使用人の声がした。サーヤの声だ。明るく気の回る女性で、長い間この邸に務めてくれている。
机に向かっていたリオンは顔を上げずに、いるぜー、と声だけで返事をした。にしてもまるでいつも居ないみたいな言い方だな。まあ、居ないけどさ。
今日は口うるさい家庭教師が風邪をひいたと休みを取っているから、好きな外国史をのびのびと勉強できてたんだけどなあ。思いながら目は教科書から離さない。
夏に古書店で古すぎないものを買ったはずの教科書はすっかりくたびれていて、
今度新しい教科書を見繕いに図書館に行くかな。それからどっかの古書店で探そう。
そんなことを思っていると、また、扉の向こうから声をかけられる。
「リオン様、お手紙が届いておりますよ」
いつも通りの丁寧な口調だったが、どこか楽しげな明るい声音だった。なぜだろう。手紙が届くなんていつものことなのに。なにか良いことでもあったのかな、サーヤのヤツ。
椅子の背もたれに手をついて立ち上がり、扉へと向かう。開ければそこに居たのはリオンと歳の頃がそう変わらない女の子だ。身長はリオンより低くて、肩まである焦げ茶色をした髪のつむじが少し見える。青い目がにっこりと笑った。
リオンは両手で差し出された幾通かの手紙を片手で受け取った。
「ありがとな、サーヤ。なんか楽しそうだけどなんかあった?」
「いえそんなことは。決して。ただ……」
「なになに?」
「リオン様にもアロウス様のようなことが出来るのだと思いましたら、逆に少し安心いたしまして」
「は? オレ? っつーかなんでロウ?」
ほうっと頬に手を添える仕草を見ながら、思わず自分自身を指さしてしまった。全く話が見えない。あの音楽タラシ野郎がなんだって?
体の前で手を重ねて姿勢をただすサーヤは、なおも楽しそうに笑っている。
「あら、違いました? リオン様宛のお手紙のご署名が女性の方ばかりだったので、てっきりアロウス様のように街で浮き名でも流し始めたのかと」
「はあ!?」
身に覚えのないことに動揺して、その場で即座に手紙を確認する。花柄の封筒にミネール。茶色の封筒にメテル。橙色の封筒にディアナ。動物柄の封筒にルナ。
確かに全部女の人か女の子だけど。だけどさ。
「……ミネールはオマエだって知ってるだろ!?」
つい全力で突っ込みを入れてしまった。サーヤは、はい、存じ上げておりますね。としれっとした表情でいる。
「ウィンドナの方々とは随分とお会いしておりませんが……ミネール様はお元気でいらっしゃるのでしょうか?」
「元気なんじゃねーの。わざわざ手紙よこすくらいだし?」
つまんだ花柄の封筒をひらひらさせてリオンが言うと、サーヤはわざとらしく溜息をついた。じろりと強い目で見てくる。
「リオン様、減点。もう大減点です。
「し……って。あのなあ、ミネールのはそんなんじゃないって。お互いガキの頃からよく知ってるってだけ。腐れ縁だよ腐れ縁」
リオンが呆れたように半眼になって見返す。その眉根は片方斜めに上がっているが、サーヤはさして気にしたふうもなく頷くと手紙の方にちょいと顔を寄せる。
「ふぅん、そうですか。そういうことにしておいてあげても良いですけど。では他の方は? 初めて見るお名前ばかりですけれど?」
「こ、れは……」
「これは?」
「……オレにだって色々あるんだよ」
バツの悪い気持ちでサーヤから視線を外した。お
ふぅ、とサーヤが細く息を吐く。背筋を伸ばしてリオンに向き合う。
「……僭越なことを申し上げますと、リオン様が頻繁に街にお顔を出されることも、そこでどのようなご友人を得られることも、個人的には良いことだと思っております。ですが旦那様のお立場も汲んでいただけますと……昔ほどではありませんが、やはり奥様も心配なさっておられますし」
「……わかってるよ」
視線を外したまま、苦い気持ちで返事をした。苦さが胸の内でわだかまって喉が詰まるような気さえした。
リオンはごくりと喉を鳴らすといつも通りの笑顔を作ってサーヤを見る。軽く手を挙げた。
「じゃ、オレもうちょっと勉強するからさ、サーヤもそろそろ仕事に戻れよ」
「……はい。それでは失礼いたします。ご夕食の時間になりましたらお呼びいたしますね」
深々と一礼して、サーヤはリオンの部屋を後にする。リオンはその背中を見送ってから、はあ、と息を吐いた。
部屋に戻って鍵を閉める。なんだか少し気疲れした感じがして、歩きながら結んでいた髪の毛をほどいた。長い襟足が広がって肩にかかる。
その足で机に行き、引き出しからペーパーナイフを取り出した。青銅製で、螺鈿の細工がされている。工業地区と
それからベッドに向かった。勉強するとは言ったけれど、そんな気分は
リオンは仰向けになって手紙を見た。花柄。茶色。橙色。動物柄。
どの手紙から読もう、なんて、迷うことはなかった。
けれどなぜか胸はどきどきしてうるさいから、何度か深呼吸をしてみた。新しい
ごろりとうつ伏せになって手紙を置き、その中から一通の手紙を取る。その色はリオンの髪に似た橙色。
ディアナからの手紙だった。
『リオンへ。
久しぶり。それとも手紙だから初めましてになるのかな? あたし誰かに手紙をもらったのも返事を送るのも初めてで、だから変なこと書いてるかもしれないけど、でも、すごく嬉しい。リオンから手紙をもらえて、本当にすごく嬉しいの。
文字はね、メテルに教わった文字なんだけど、これでリオンに伝わるかな? たぶん大丈夫だって思うけど。だってあのとき連れて行ってくれたお店のメニューも、リオンがあたしにくれた手紙も、ちゃんと読めたから。だからあたしの書いた文字もリオンにも伝わるよね。
何から書けばいいかぜんぜん分からないけど、本当にありがとう。大事なペンダントを見つけてくれたことだけじゃなくて、あの日あったこと全部、ありがとう。あたしもリオンと会えてすごく楽しかった。あっという間にペンダントを盗られたのは驚いたし、いきなりひとりぼっちになったのは怖くて、メテルにもルナにもたくさん心配かけちゃったけど、でもリオンが一緒にいてくれたから、あのときのことは全部、楽しかったなって思い出に変わっちゃったんだ。
もしまた『イオリスの街』に行ったら、またリオンに会えるのかな? リオンが嫌じゃなかったらだけど、あたしは会いたい。そのときは貸してくれたリオンの
同じ部屋でね、ルナもリオンに手紙を書いてるんだけど、何を書いてるのかぜんぜん教えてくれないの。だからあたしも教えないんだ。だってなんだかくやしいから。でも、きっとルナの方が上手に書いてるんだろうな。
リオンは手紙にどんなことを書いたらいいのか知ってる? メテルはね、お礼を書いたら少し自分のことを書いたらいいと思うって言ってたけど、でも、それでリオンは喜んでくれる? あたしがすごく嬉しかったみたいに、楽しいって思ってくれるのかな?
あたしはリオンのことをもっと知りたいって思うけど、リオンはどう思ってるんだろう。分からないから、今はあたしのことは書かないでおくね。もし、リオンから返事が来たら、そのときはがんばって書くから。
じゃあ、ばいばい、リオン』
手紙のディアナは饒舌だった。
意外に感じたが、でもそういえば我の強いようなところはあったし、口数は多い印象は無くてもはっきりと物を言うところはあったから、やっぱりそういう地なんだなと感じる。
手紙のやり取りが初めてとあった通りにたどたどしいところとか、文字の書き方に不安を覚えているフシがあるところとかは、相変わらず不思議なやつだなと思うが、彼女は街の人間ではないからそんなものなのかもしれないとも思う。リオンだって『イオリスの街』やそれに近い街以外のことは知識くらいでしか知らない。
ディアナは確か、あの森の近くに住んでいると言っていたはずだ。それが本当かどうかは、実はリオンはまだ信じていないけれど。あの近辺にある村に住んでいるのなら『イオリスの街』と同じ国に属するはずで、それなら名前の後に住んでいる村の名前が付くはずだからだ。この国はそういう慣習を持っている。
なのにディアナはただのディアナだった。なぜだろう。ただ単に何らかの理由から隠しているのか。それともどこか名前のない土地で生まれたのか。それともこの国の生まれではないのか。考えても分からないけれど、考えてしまう。
それにしても、だ。
せっかくあげた
でも、なんでアイツにあの
リオンは紺色のシャツの下からペンダントを取り出して触れた。
そういえばこれを渡してくれたときの祖母は、なんと言っていただろうか。目を閉じて思い出そうとしたが、うまく出てこない。あたたかい記憶はただ遠くて、残酷なくらいにひどく朧げだ。眉根に力を込めて思い出を手繰り寄せようとする。
しばらくそうしていて、やっと手探るように思い出せたのは、たった一言だ。
これはね、お前が心から願ったときに、大事なものを護ってくれるんだよ。
そんな感じのことを、祖母は言っていたような気がした。
瞼の裏に人影が浮かぶ。
緩やかな金色をした二つに結われた髪と長いまつ毛。瞳と胸元のペンダントは大きな
ふ、っとリオンは目を開けた。
そのまま窓に目を向ければ、
唇を少しだけ動かした。
「もしかして、オレ……」
危なっかしくて真っ直ぐでなんだか放っておけない、どこか不思議な女の子のことを。
一度会っただけなのに、こんなに気になるのは、気にしているのは何故なんだろう。
ディアナがリオンのことを知りたいと思ってくれているように、リオンも、ディアナのことが知りたかった。
彼女のことを知れば、この言葉にならない気持ちがなんなのか、はっきりと分かる気がした。
『イオリスの街』に雪が降る。
それは湿って重く、しんしんと静かに積もっていく。
今年の冬は寒くて厳しいと
そのせいか街の出入りをする人の数は例年よりも少なかった。冬が来るよりも前に早めに大量の品を仕入れて街を出て行った行商人も居れば、冬に備える支度をして街に訪れ短期の仕事を得て留まった吟遊詩人も居る。
この街の活気も秋よりは落ち着いていた。雪の積もる通りを歩く馬車や人の数はやはり少ない。ある意味で一番賑わうのは宿泊地区だろう。誰でも暖かな屋根の下に居たいと思うものだ。
もっとも、『イオリスの街』が一番活気づくのは『
数百年前から毎年行われていて、今でこそほとんど民間行事になっているが、元々は豊穣への感謝を奉り、春、夏、秋、冬、そしてまた春へと
リオンは住宅地区の端にある
そういえばディアナは春の祭りのことを知っているのだろうか。
いや知らないだろうなと一瞬で結論づける。少なくともそんな素振りは感じなかった。おそらくはルナもだろう。デメテール……メテルは知っていてもおかしくはないだろうが。
本当に、彼女たちは不思議だと思う。
いったいどんなふうな時を過ごして、なにに触れて、なにを知って、なにを思ってきたのだろう。
ぼんやりと考えていたら、リオンの髪がいきなり引っ張られた。
「いって!」
「なにぼーっとしてんだよリオン兄!」
「悪かったよ、ちょっと考えごとしてた」
頭をさすりながら隣の少年に顔を向ける。リオンの反対側から少女が少年へと顔を飛び出させた。
「ちょっと! リオンお兄ちゃんのこといじめないでよ!」
「いじめてねーよ! リオン兄の尻尾が引っ張りやすかっただけだし!」
「おいオマエら喧嘩すんなよー? あとオレの髪は尻尾じゃねぇ」
リオンが両隣の少年少女の頭を手のひらでわしゃわしゃと掻き乱す。少女は楽しそうにきゃあきゃあと笑い、少年は笑いながらリオンから逃げ出そうと立ち上がる。それをリオンがふざけて追いかければ、あっという間に追いかけっこの始まりだ。
そうしていたら、いつの間にか追いかけられる側になっていたリオンが外に出る。
外では雪遊びをしている子供たちがいて、そこに混ざるようにして逃げれば今度は雪合戦に変わっていく。リオンは子供相手だからと少しだけ手加減をしながら雪玉を投げる。上着をはおって来なかったせいで寒いが、それでも汗ばむくらいには暖かくなる。
「オマエらも風邪ひきたくなかったら後でちゃんと着替えろよー!」
雪玉と一緒に、思い思いの、ばらばらの返事が来てリオンは笑った。ここの子供たちはいつ来ても元気だ。
「なーリオン!」
「ん? なんだーウィル」
少し年下の明るい栗色の髪をした背の高い少年が、笑顔でリオンの髪を引いてきた。そんなにオレの髪って引っ張りやすいのかなと思いつつ振り向く。
「俺、郵便屋の仕事に決まった!」
「え、いつから? やるじゃん!」
雪玉が飛び交う場所から移動しつつリオンもつられて笑顔になる。褒めながら大きな背中を叩くとウィルは照れくさそうにそばかすのある頬を掻く。
「実は二週間前から頑張ってる。リオンが口添えしてくれたおかげだけどな」
「なに言ってんだよ、オマエがちゃんと出来るやつだからだって」
「あははっ、ありがとな! で、俺住宅地区の配達担当になったし」
「オマエならこの雪でもひとりで配達しちまいそうだな」
「そんな早くねぇよ。先輩と一緒だし、まだ細かい地理だって覚えきってねぇし」
「じゃあ今度一緒に勉強すっか」
「うーん、リオン教えるの上手くねぇしなー」
「悪かったな」
煉瓦の塀に寄りかかって、子供たちが遊ぶ姿を並んで眺めて話す。今度はなにかを作り始めている。ウィルはリオンの横顔をちらりとだけ見て前を向く。
「でさー、リオン」
「うん」
なんか雪玉のでっかいの作ってっけど、あれどうするんだ? あっちはなんだろ、動物か? うわ、
「……ディアナとルナってリオンの恋人?」
ずるっと足を滑らせてその場ですっ転んで尻もちをついた。塀にしたたかに打ちつけた後頭部がめちゃくちゃ痛い。飛び散った雪が頭や顔にかかって冷たい。それ以上に顔が熱い。それがなんだか恥ずかしくてリオンは腕で顔を隠すようにしてウィルを見上げる。
「……はあ!?」
子供たちが揃ってリオンを見ているのに気づかないまま大声を出してしまう。それが余計に注目を引くが、リオンは気づかない。ウィルだけが気づいていて、リオンを見る目だけで笑う。
「違うん?」
「違ぇーよ!! っていうか、なんで、名前」
「いや封筒に書いてあるし」
「勝手に見んなよ!」
「無茶言うなっての。そっかーリオンにはまだ恋人いないのかー」
「には、ってオマエまさか」
リオンはなんとなく立ち上がれない。尻から寒さが
にやにやと口端を上げるウィルが得意げな表情をして腕を組んだ。
「いやーさっき言った先輩がかわいい上に超いいひとでさー、俺一瞬で惚れちゃって。休みの日に時計台の下でダメ元で告白したら嬉しいって返事されて」
「惚気かよ!」
「自慢だよっ」
くっそ、なんかすげーくやしい。
がしがしと頭を掻いてから立ち上がろうとすると、
「てつだうー」
と、ひとりの女の子がリオンの手をぎゅっと引っ張ってきた。その手は雪に濡れる手袋に包まれている。
リオンは小さな手を握り返して立ち上がり、身体についた雪を払うと女の子の頭をぽんぽんと撫でてやった。
「ありがとな、クルル」
「えへへ」
「おっクルル、リオンの恋人になるか?」
「こいびと?」
「おいウィル!」
「リオンが大好きな奴のことだよ」
「なる!」
クルルが手を挙げて宣言すると、それを見ていた子供たちの中から、あたしもー、わたしも、といくつか声が挙がる。クルルがリオンの足にしがみつくようにズボンの裾を握った。
リオンはこの野郎という気持ちを存分に込め、ウィルの肩を強く掴むようにして腕を置いてうなだれた。
「リオン、浮気だけはすんなよ」
「言ってろこの馬鹿」
熱かった顔がやっと冷めてきたリオンの声はウィルだけに届く。
わざと大げさに溜め息をついてからリオンはクルルの手を取った。
「なあクルル。先に中に戻るか」
「うん!」
リオンはクルルの手を取って室内へ向かう。いいなーとかずるいーとかの声は聞こえなかったことにした。
クルルの、溶けた雪に濡れる手袋は冷たくて、それでリオンは思い出す。
あの日初めて出会った
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