ルナ──羨望と憧憬、白い彼女と絢爛の花畑。

 よく晴れた空の下でしゃがみ込み、いいなあ、と思いながらルナは流れる川面かわもを覗き込んでいた。

 ここ数日は雪も降らずにあたたかく、太陽も雲間から照らしていたが、ここまで雲ひとつなく晴れたのは久し振りだった。降り積もって硬くなっていた根雪がみるみるうちにそのかさを減らしていくのが分かるほどに。

 今年は帽子に耳当てに手袋に襟巻きマフラーなどを必ずしなければ外に出るのも辛いほどの寒さだったが、もしかしたらこの冬の一番の冷え込みは過ぎたのかもしれない。

 今日のルナは冬にしては比較的軽装だった。

 長袖シャツの上に首まである紺色に染めた毛糸の衣服セーターを重ね着して、同じ毛糸を使った靴下と冬用の長ズボンを履いている。

 ブーツと同じ色をしたブラウンの厚手の上着コートは膝まであって、ディアナが編んだ手袋は指先だけを出す事も出来るようになっていてルナのお気に入りだ。

 普段は背中に流している真っ直ぐな銀髪は、今は高い位置で一つ結びにしている。くくっている青い飾り紐は街の雑貨屋に行った時に買った物で、それはディアナと二人でお揃いになる物を選んでいた。

 耳当ても襟巻きマフラーもしていないので少し冷えるが別に気にならなかった。

 森のどこかから鳴き声がする。遅れて何かがざざっと動く音が遠くから聞こえて木から雪が落ちる。

 空を飛ぶ鳥の影が思い出したように薄く落ちてはふっといなくなる。

 動物ってけっこう冬でも元気よねとルナはぼんやり思った。視線は川面かわもから動かさないまま。

 きらきらと揺れる水面に映るのは自分の顔だ。

 ルナは睫毛にかかる銀の前髪を上げたり下げたり分け目を作ったりすると無理やり笑顔を作った。それから、わたしなにしてるんだろう、と嫌になったので前髪を戻した。代わり映えのしない、いつもの自分になってしまった。

 両膝に両肘をついた手の上にあごを乗せてため息をつく。白い吐息は緩やかな風に流されてすぐに消えた。

 いいなあ、と再び思う。

 浮かぶのは自分の片割れであるディアナだ。

 双子のはずなのに自分とはまるで違う存在ディアナ

 月の光と太陽の光をいいとこ取りしたみたいな金色の緩やかな髪と睫毛。

 森の木で一番綺麗な葉を水に溶かしたようなみどりの瞳。

 春に咲く薄紅の花びらのような小さな唇。

 肌の色は自分よりも黄色みがあって、けれど身長や手足の長さは同じくらいだ。

 胸は、昨日比べたら自分の方が少し大きかった。脚はディアナの方が細かったけれど。

 性格はちょっと子供っぽくて、こうと思ったら譲らないところがあって、口でのケンカなら自分が勝つけれど無言の長期戦になるとディアナは強くて、好きなものは最後に食べる方で、知らないものが好きで、何かを作ることが好きで、デメテールのことが大好きで、

 そしてきっと、リオンのことが好きで。

 たぶん、物語に出てくる主人公みたいに恋をしていて。

 もしかしたら、リオンもディアナの事を好きなのかもしれなくて。

 だから、いいなあ、とルナは思う。

 今日、リオンへの手紙を送る役目を買って出たのはルナだった。

 デメテールから教えて貰ったやり方は難しくはあったが、自分にもディアナにも出来る魔法だった。

 最初は晴れた朝に、雪の上に『結ぶ』魔法陣を描いて立ち、空を飛ぶ鳥を遠くから『呼ぶ』魔法で呼び寄せた。舞い降りたそれは黒いからすだったから、前に本で見た『ヤタ』という名前を付けた。

 魔法陣が発光して、からすの瞳の色があおに変わったから、自分との間に縁を『結ぶ』事が出来たのだと分かった。

 それからヤタの足には目印になる脚輪を付けた。それはルナの意識とヤタの意識を『繋ぐ』ための魔法陣が刻まれたものだ。

 意識を繋ぐといっても明確に言語化などが出来る訳ではなく、朧げに感情や雰囲気が伝わったり伝わってきたりする程度だが、それだけでも充分だった。

 意識が繋がっている間はヤタの感情がルナに、ルナの感情がヤタに伝わる。だからヤタが嫌がるような事はしないし、出来ない。逆に、ルナが嫌な事をヤタもしてはこない。

 紐で結んだ二つの手紙をヤタの首に下げ、ルナはヤタの名前を呼んでお願いをする。命令ではなくお願いなのは、ルナが描いた『結ぶ』魔法陣には支配や強制力を意味する文字を入れなかったからだ。デメテールなら入れているかもしれない。

 ルナはこの手紙を近くの村にある郵便差出箱ポストまで届けてほしいと言った。

 ぽつんと外に立っている赤い箱の上に置いてくれれば良いと。そうすれば配達人が気づいてただしく届けてくれると。

 デメテールが赤い箱の下に魔法陣をこっそりと刻んであるから、もしそこに手紙が張りついていたらそれを持ってきて欲しいと。

 対価は一回につき一日のあたたかいねぐらと充分な餌だと付け加えて。

 ヤタは一声高く鳴いた。了承したのだと『繋ぐ』魔法が伝えてくれる。ルナがありがとうと背を撫でるとヤタは満足げに鳴き、それから羽根を広げて飛び立っていった。

 そういえば鳥は赤色が分からないと書いてあったのは、どんな本だっただろうと、後になって思い出した。

 そしてルナは家に戻るでもなく、こうして森の中にある川の傍でしゃがみこんでいる。

 どうしても、今はディアナと離れていたかった。いつも一緒にいるけれど、今だけは。

 本当は、ちゃんと手紙を送れた事を伝えたくはあるのだけれど。きっとディアナは頬をほんのりと紅くした顔を綻ばせて喜ぶのだろうけれど。

 せめて、ヤタが戻ってくるまでの間だけでもルナはこうしていたかった。自分の気持ちがこの水面のように静かになるまでは。

「いいなあ……」

 思わず口からこぼれていた。

 ディアナのことがうらやましかった。

 自分も、あんなふうに恋をしてみたいと思った。

 リオンはいい人だと思う。困ってるディアナを助けてくれて、デメテールには真っ直ぐに向き合って、宿の奥さんとも仲が良さそうだった。

 あかい瞳が印象的で、髪に透ける眉がきりっとしていて格好いいと思う。

 笑顔はちょっとかわいくて、友達になろうと言ってくれたのは嬉しかったし、繋いだ手はあたたかかった。

 手紙でのやり取りだって面白くて、だからルナはリオンを好きだと思う。

 でも、この気持ちはきっと恋じゃない。

 ディアナみたいに何度も何度も手紙を下書きしては何枚もの便箋に丁寧に書いたりしないし、リオンからの手紙を読んだと思ったら涙目になってベッドに潜り込んだりしないし、リオンにあげようとする贈り物の全部にディアナの色を使ったりしないし、またリオンと会いたいと幾度も口にしたりはしていない。

 ディアナはそれが気恥ずかしいのかデメテールの前ではリオンの話題を出さないようにしているけれど、きっとデメテールだって分かってる。じゃなきゃわざわざ自分達の家を森の外にある村の住所だと偽ってまで、リオンからの手紙が届くようになんてしないだろう。

 はあ、とため息が零れる。

 ディアナみたいにかわいかったら、誰かがわたしのことを好きになってくれたのかな。

 そうしたらわたしもその人のことを好きになれるのかな。

 恋ができたのかな。

 ディアナみたいに。

 胸の奥がぎゅっと痛む。顔が泣きそうに歪んだのが水面に映って、思わず両手で覆い隠して俯いた。

 こんな気持ちは知らなかった。知りたくなかった。

 うらやましくて、さびしくて、くるしい。

 いつも二人で一緒にいたのに、まるでディアナだけ違うところにいってしまったみたいだ。『イオリスの街』でいきなりいなくなった時みたいに。

 だけど、いま迷子になってるのはルナの方だ。こんな気持ちを抱えたまま、こんな所で動けなくなっている。

 誰かがわたしを見つけてくれたらいいのになと、らしくない事を思った。リオンがディアナを見つけたように。

 でも、わたしがディアナと同じ経験をして、本当に恋ができるのだろうか。




 ばさばさと羽音が聞こえてきたのでヤタが戻ってきたのだろうと、俯いていた顔を上げる。

 足元に降り立ったのは、

「……フクロウ?」

 白いふくろうだった。その隣には黒いヤタが居る。

 白いふくろうあかい瞳をルナに向けてきて、ヤタはあおい瞳を向けてきてひと鳴きすると、二羽は同時に飛び立った。そして少し先にある枝にまり、またこちらを見てきた。

「……もしかして、着いてこいって言ってるの?」

 カァ、とヤタが鳴いて肯定した。その鳴き声と『繋ぐ』魔法から伝わってくるのは楽しげな、弾んだ調子だ。なぜだろうとルナは思う。

 逆にふくろう身動みじろぎせずに、静かに紅い瞳を向けてくる。その色に、ルナは見覚えがあった。そうだ、あのときの。

「あなた、前に『テーマパーク』にいなかった? 『イオリスの街』の」

 ふくろうが二度鳴いた。まるで人間がうんうんと頷くように。

 どうしてあの時のふくろうが、ここにいるのだろう。

 何かがあって『テーマパーク』の人間が森に放した? 徒歩と馬車で数時間はかかるここまで、わざわざ? それとも捕まっていたところを自力で逃げ出してきた? 檻の中の姿はおとなしかったように見えたけれど、実は気性が荒いのだろうか? その割には、ヤタと馴染んでいるように見える。

 考えても自分には分かる気がしなかった。

 だから、着いていってみよう、と思った。

 立ち上がって森の奥を見る。雪と、木々だけがよく見える。ペンダントムーンストーンがある位置を服の上からそっと撫でた。

 何かあった時は、きっとデメテールのこの石が護ってくれるだろう。

 そう思うと、不思議と怖さはなかった。魔導書は持ってきていないがルナは呪文だけでもある程度は魔法を使える。それにヤタも一緒だ。

「……大丈夫。きっと」

 ルナは髪の毛を結んでいる飾り紐をほどくと、二羽がまっている所まで歩いていった。

 ヤタがルナの元に降りてくると、ルナはヤタの首に飾り紐を掛けた。青い飾り紐に触れたまま、呪文を紡ぐ。ルナは銀色の輝きをその身にまとう。

「わたしは世界の魔法によって、あなたをただしく導き『伝える』。あなたの名前はただの青い紐。あなたにわたしの記憶をただしく『伝える』。あなたはわたしの記憶をただしく『伝える』。正当なる対価はこの身の魔力。これを糧にあなたは変わる。──『伝える』魔法があなたを変える」

 青い飾り紐が僅かだけ銀色に輝いて、その光はすうっと消えていく。まるで紐に吸い込まれるように。

 身体が、少し重い。目一杯走った後みたいだ。

「……ヤタ。わたしになにかあったら、これをディアナに届けてね。わたしの双子の女の子に」

 カァカァとヤタが得意げに羽根を広げた。ディアナが誰でどこにいるかは、今かけた『伝える』魔法でヤタにも伝わっているはずだ。

 この魔法は無機物に対して一時的に任意の記憶を埋め込み、物体に触れている生物に対してその情報を『伝える』魔法だ。持続時間は法式の正確さ、込めた魔力量、埋め込んだ情報量などに左右されるから、呪文だけの今回はそんなに長続きはしないだろう。

 だから、早く行かないとね。

 ルナがふくろうを見ると、ふくろうは奥の枝へと飛び移った。ヤタが追うように飛んでいき、それをルナが追いかける。

 ルナがふくろうのいる枝の元にたどり着いては、ふくろうとヤタが飛んではまる。膝下まである雪を踏みしめて歩くルナが、ちゃんと見て追いつける距離で。

 いったいどこへ行くのだろうと思いながらルナは歩く。森の奥だろうか。それともその先だろうか。

 見えるのは雪と木々。聞こえるのは羽音と自分が雪を踏みしめる音と吐息。

 風はあまり吹いていないが耳は冷たい。今は晴れているけれど森の天気は変わりやすい。また雪が降るのだろうかと思う。

 川からすっかり離れたこの辺りは、積もった根雪、それか雪を被る木々ばかりで景色は代わり映えしない。帰りの目印になるような植物なんて生えていなさそうだ。

 さっき音がしていたように冬眠していない動物くらいいるはずだが、獣の足跡は見当たらない。おそらくはまだ安全だろう。

 そうやってしばらく歩いていると、段々と木々が薄くなっていくのがなんとなく分かった。

 そして不意に色が見えた。

 雪の白でも木々の緑でもない色が。

 思わず駆け出して木々を、森を抜けて、けれどたたらを踏んで止まった。

 目の前には、一面の花畑があった。見渡す限りに、深く白い雪に全く埋もれていない花々が、澄んだ青空の下で美しく咲いていた。

 鮮やかな、様々な色が一度に視界に入ってきて目がくらみそうだった。

 丁度良く風が吹いてきて、知らない沢山の香りにむせ返るようだった。

 その中心に、真っ白い人がいた。

 雪よりも白く輝く髪の毛は長く、ドレスのように白い裾が降りているスカートも長く、どちらも足元まであった。後ろ姿だけだが、女の人だ、と反射的に思う。

 遅れて羽音が耳に届いてきた。ふくろうとヤタのものだろう。

 ヤタはルナの足元へと舞い降り、ふくろうは白い女性の元へと飛んでいく。

 白い女性は振り向いてその腕にふくろうまらせる。

「リリィ。契約は一旦解除。お疲れさま」

 寒い日の真夜中の空気のように、凛とした声だった。

 その声が、言葉が終わった途端、ふくろうの瞳の色があかから本来の黄色に戻り、羽根を広げて女性の腕から飛び立って行く。女性はそれを僅かだけ見送ると、すっとルナに目を向けてきた。

 綺麗な、紅い瞳だった。

 ルナが知っているどの花よりも、どの果実よりも熟れた紅い色が、真っ直ぐにこちらを見ている。

 紅い爪をした細い手が、白い頬にかかる髪を払う動きをする。

 艶やかな紅い唇が柔らかな笑みの形を作り、そっと開いていく。

「元気そうね、ルナ。わたくしも嬉しいわ」

 見惚れるほどの絢爛の花畑の中、幻のように真白い女性が微笑んだ。




「え……?」

 混乱で、か細い声が勝手に零れていた。

 ここはどこだろう。こんなに綺麗なところをわたしは知らない。

 この人は誰だろう。こんなに綺麗な人なんてわたしは知らない。

 でもこの人はわたしを知っている。わたしの名前を知っている。でもわたしはこの人を初めて見たのに。

 この人は誰なんだろう。

 この人は魔法を使っていた。あのふくろうに名前を付けて干渉していた。きっと、わたしよりもずっと上手に。そうやってわたしをここに連れてきた。

 でも、なんのために?

 まるで春を貼り付けたみたいなこの場所はいったいなに?

 この人はここでいったいなにをしているの?

 ルナが動けずにいると、ヤタはカァと鳴いて飛び立った。はっとなってヤタを見ると、ヤタは白い女性へと向かっていた。女性はふくろうにしたようにヤタをまらせる。

 その背を撫でて、首にかかっている青い飾り紐に触れた。

「……ルナは本当に魔法が上手ね。まさか姉さんの教え方が上手いのかしら。あの姉さんにしては意外だけれど」

「どうして……」

「ん?」

「どうしてわたしのことを知ってるの? なんでわたしを呼んだの? あなたは誰? ここはなに?」

 感情のまま、矢継ぎ早に尋ねても女性は微笑んだままルナを見てくる。

「ふふ。質問をするときは手を挙げてひとつずつですよ、って、姉さんに教わらなかった?」

 聞き覚えのある口調に、ぱちん、と弾けるように脳裏に浮かんだのは、一人の女性。

「……姉さんって、デメテールのこと?」

「ええ」

「どうしてデメテールを知ってるの」

「わたくしが姉さんの妹だから」

「え……?」

 話せば話すほど分からなくなる。デメテールに妹がいるなんて聞いていない。たぶん、ディアナだって聞いていないだろう。

 それに、デメテールと彼女の顔は似ていない。髪の色も違う。瞳のあかは似ているような気はするけれど。

 揺るがない彼女の微笑みがなんだか薄ら寒く感じた。

「ねぇ、貴女はここの花をどう思う?」

 唐突に話を変えられて、ルナは思わず周りを見ていた。

 赤い花、黄色い花、紫の花、黒い花にめずらしいような青い花。複数の色がまだらになった花もある。

 春に見る花、夏に見る花、秋に見る花、冬に見るめずらしい花。本でしか見たことのない花もあれば、けれど全く見たことのない花の方が多かった。

 それらは葉の大きさも茎の高さも花びらの形もばらばらで、どうやったらこんな所で一箇所に咲くのだろうと不思議ではあった。けれど綺麗だとは思ったので、ルナは思ったままを口にして頷いた。

「ありがとう」

 女性の微笑みが深くなった。本当に、本当に嬉しそうな、それこそ花が咲くようなあたたかい笑顔だった。ルナは少しほっとする。

 不意に女性が輝いた。彼女は白よりも白い光の膜を帯びる。紅い瞳は煌々としている。

「──わたくしの『創る』魔法であなたを作る。あなたはただの土にしてただの椅子。わたくしの魔力を苗床に、わたくしがあなたをただしく『創る』」

 唄うような声の後に、ぼこぼこと土が盛り上がったかと思うと、みるみるうちに彼女の側に椅子が出来上がっていた。それは並ぶ形で二つ。

 椅子に触れながら彼女はルナに笑みを向ける。

「わたくしはフリーラエ。ねぇ、わたくしと少しお話をしてみない? 花はいつでも美しいけれど、たまには誰かと一緒に見たくなるの」

 ことん、と首を傾げるあどけない仕草。白い髪の毛がきらきらと流れる。

 ルナの名前を強調して呼ぶ声には魔力が込められていた。ルナへと干渉しようとしていた。けれど感じる圧力はささやかなもので、だからルナでも干渉を弾くことは出来るだろう。でも、しなかった。きっと、わざとだからだ。試されている気がした。

 それにルナも、フリーラエのことが気になっていた。

 ルナは引き寄せられるように彼女のところへ歩きながら静かに声をかける。

「……いいよ、

 バチッ!

 二人の間に白銀の閃光が散った。まるでほんの少し触れただけで駆ける静電気を大きくしたような一瞬の光だ。

 ルナは衝撃に少し立ち止まって瞬きし、落ち着いてからまた歩き出した。

 ルナからの干渉は見事に弾かれた。そして分かる。彼女が自称したフリーラエは偽りの名前ではないと。本当なら魔女は名前を隠すものなのに。隠さないのは彼女が強いからだろうか。

 ふふっとフリーラエが声を立てる。

「いけませんよ。初対面の相手にいきなり干渉しようとしては。まず驚かせてしまいますし、下手をすれば害意を持っていると思われてしまいますから。……姉さんならこう言うかしら?」

 確かに結構昔に似たようなことを言われた覚えがあったので、ルナは唇をとがらせた。ちょっとぞんざいに椅子に座る。

「あなただってわたしに干渉しようとしてきたじゃない」

「貴女にどれくらい耐性が出来たのか知りたかったのよ。ルナはわたくしと違って他者の魔力でも受け容れやすいみたいね」

 フリーラエはドレスの裾をさばいてルナの左隣に丁寧に座った。

 ヤタがルナの膝へと飛び移る。

「……聞きたいことなんていっぱいあるのに、なにから聞いたらいいのかわからないよ……」

 膝の上に座るヤタを撫でながら、ルナは独りごちる調子で言った。目線はフリーラエから外している。目の前に広がるのは多種多様な花々だ。

 隣のフリーラエが口元に手をやってくすくすと綺麗な声を零した。

「そうね。姉さんは貴女達になにも言わなかったみたいだから。なんでも一人で決めて抱えるのは、あのひとらしいけれど」

 フリーラエはルナを見つめながら言葉を返す。苦笑の混じる声音にルナが顔を向ける。少しだけ眉根を寄せて。

「……あなたは本当にデメテールの妹なの?」

「ええ。貴女達みたいに血が繋がっているわけじゃあないけれど」

 貴女達、という言い回しにルナは引っかかりを覚える。

「……ディナのことも知ってるの?」

「もちろん。ディアナのことも知っているわ」

 あえて愛称の方を出したが、隠しても無意味だったようだ。

 フリーラエは本当にわたしたちのことを知ってる。さっき触っていた青い紐の『伝える』魔法とは無関係に。

「どうしてわたしたちのことを知ってるの?」

「ずっと見てきていたもの」

 ルナを映す眼差しは穏やかなままだが、なぜか背筋がひやりとした。

「いつ、から……?」

「貴女達が小さな頃から。ときどきね」

「ときどき?」

 フリーラエはおどけるように肩を竦めた。

「姉さんとは喧嘩中なのよ。長い間、ね。だからわたくしと会ったことは内緒にして頂戴」

 ね? と手を合わせるフリーラエを見ながら思う。だからデメテールはフリーラエの話を一切しなかったのだろうか。でも、自分達の物心がつくかつかない頃からずっと喧嘩中だなんて。そんなの。

「……長すぎない?」

「姉さんもわたくしも、お互い頑固なのよねぇ」

 ルナから目線を前に移したフリーラエは、ふぅ、と疲れたような溜め息をつく。その横顔を見ながら、ディアナにもかたくななところがあるけどあれはデメテールに似たのかな、と思った。

 フリーラエの紅い唇がそっと開く。

「……わたくしはね、ずっと恋をしているの」

 どくん、とルナの胸が鳴る。どくんどくんと胸が響く。

 恋を。

 このひともしてるんだ。

 ディアナみたいに。

 そう思ったら今度は胸がぎゅっとなった。痛みのひとつ手前のような苦しさ。

 前を見る綺麗な横顔を見ながら、少しずつ指を伸ばすように問いかける。

「……どんなひと?」

 フリーラエは瞬きをしてくすりと笑った。

「花よ」

「花?」

「そう。わたくしは花に恋をしているの。ずっと……ずっとね。ここにある花も、全てわたくしが咲かせたのよ」

 すごいでしょう? と紅い瞳を輝かせて笑いかけてくる姿はとても誇らしげで、ルナはこくんと頷いていた。

 雲ひとつないまっさらな青空の下で、思い思いに咲いている色とりどりの花々を見る。まるでフリーラエのように誇らしげだと感じた。

「だから貴女も恋ができるわ」

 ふわりと。

 フリーラエが左の頬に触れてきた。

 びくりとなって白い手を見る。頬を包むように撫でる白い指先は、どこか泣きたくなるほど優しかった。

 長袖から白い腕がちらりと覗いている。腕には何かの模様のようなものが見えた。

 ルナが視線をフリーラエに移せば、真っ直ぐに見つめてくる眼差しも弧を描く唇も、この場にあるどの花よりも一際紅く見えた。

「貴女がどんな人とどんな恋をするかはわたくしには分からないけれど、きっとすごく素敵な恋よ。だってルナは可愛いもの」

 思いがけない言葉に胸が詰まる。

 何かがこみ上げてくる感覚がして、ルナの言葉まで胸に詰まりそうになる。

「……ほん、と、に……?」

「ええ。貴女がその綺麗な銀色の髪を一日に何度もく癖も、あおい瞳に合わせて服を選ぶ癖も、魔法を丁寧に扱うところも、姉さんやディアナを大切に想っているところも、貴女だけの愛らしさよ。だから自信を持ちなさい、ルナ」

 涙がこぼれていた。

 デメテールでもディアナでもない、知らない誰かにこんなふうに言われたのは初めてで、だからそのいきなりをまったく受け止めきれなくて、代わりに涙があふれて止まらない。

 でもそれをフリーラエに見られるのは恥ずかしくて、下を向いて上着コートの袖で涙を拭う。何度も何度も拭う。羽根を濡らしたヤタが心配そうに見上げてくるけれど何も出来ない。

 そうしたら今度は頭を撫でられて、それがなんだかデメテールみたいに思えてきて、余計に涙が出て仕方がなかった。

 しばらくそうして貰っていたら落ち着いたので、ありがとう、とルナは顔を上げて真っ直ぐに笑ってみせた。

 フリーラエがもう一度ルナの頬を撫でて微笑んだ。真白い睫毛のかかる紅い瞳を、やわらかく細めて。

「……とても楽しみだわ。貴女達がどんな恋を咲かせるのか」

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