リオン──知ったのは少女の名前と笑顔

「それよりこんなところに突っ立ってないで……ま、適当にどっか行こうぜ」

 な? と、リオンは顔を上げると、俯いたままの少女の手に静かに触れた。

 その手は自分の手よりもずっと小さくて、ひんやりとしていた。今日はすっきりとした青空だけれど、この時期に吹く強い風で冷えたのかもしれない。

 少女は一瞬ぴくっと動いてから視線を動かし小さく頷く。それから、リオンの手を握り返してきた。

 リオンは少女の手を引いていく。

 人混みを掻き分けて、近くにあった女子向けとひと目でわかる看板の店に入り、二人ね、と店員に言った。外のお席でもよろしいでしょうか? と尋ねられ頷いたら、案内されたのは日当たりのいい外の席だ。

 店内は満席だったが、賑やかな街路に面する席にはところどころ空席があった。

 ここの地区は良くも悪くも騒がしい。だから、静かな店内を希望する人間が多いのだろう。

 リオンは慣れているから気にならないし、街の様子も少しだが窺えるから良いのだが、この少女はどうだろうかと聞いてみたら、またも無言の頷きが返ってきたのでまあいいかと先に少女を椅子に座らせた。

 それからリオンが、着ていた上着を椅子の背に引っ掛けて向かい合わせに座る。

「アンタ、文字読める? 読めないならオレが代わりに読むけど」

「……たぶん、読める」

「そ」

 先に選んで良いぜ、とリオンは備え付けのお品書きメニューを少女に手渡した。少女は受け取ると中身を開いてじっと見た。端から端まで隅々までじーっと見ていた。

 その一般的に見て可愛いと言えるはずの顔が、眉間のしわが、眼力が、だんだんとすごいことになっていって、リオンは堪えきれずに噴き出してしまう。

 少女はそれに気づいたのか、怪訝そうな声をリオンに向けてくる。

「……どうしたの?」

「いや、ゴメン。笑うつもりはなかったんだけど、なんかおもしろくって」

「なにが?」

「……っ、なんでもない。注文決まった?」

 自覚のない少女に更におもしろくて笑ってしまいつつ、けれど失礼だなと思い、手の甲で口元を隠しながらリオンは問いかけた。

 少女はメニューをリオンに手渡しながら言う。

「お水」

「へ?」

「お水でいい」

 確かにメニューを開いてみれば、果汁をほんのりと効かせた飲料水が載ってるのが分かった。誰もあまり目にとめないようなページの片隅に。

 なるほど、とリオンは推測──というよりも邪推をしてしまう。彼女はあまりお金を持っていないのだという、少し不躾なことを。

「わかった。で、オレさ、いますっげー甘いもの食べたくってさ」

「……? うん」

「でもオレ一人だけで食べるのって恥ずかしいしつまんないしさ、一緒に食べてくんない?」

 もちろんそれは詭弁だった。




 果実水と一緒に配膳されたのは、冷たいコーヒーと焼き菓子バクラヴァだ。

 果実水は少女に、コーヒーはリオンに、バクラヴァは一口で食べられる大きさで、平たい木のお皿の上に敷き詰められていて、二人の間に置かれていた。

「じゃ、食うか」

「……」

 リオンは手を合わせてから、フォークを使って端からバクラヴァをすくいあげる。上から突き刺すと、表面の生地や中身の堅果ナッツが崩れて零れてしまうからだ。

 そうやってリオンはバクラヴァを口にする。

 サクサクとした食感のあとに濃い糖液シロップの味が口の中に広がる。噛み締めればナッツの香ばしい風味と歯ざわりがとてもうれしくあって、自然と笑顔になる美味しさだった。

「うん、美味い」

「…………」

 少女がグラスのふちをくわえながら、リオンをじぃーっと見つめてくる。

 強すぎる視線を感じたリオンは、思わず苦笑してしまった。

「なー、これさー、ひとりで食べるよりふたりで食べた方が絶対美味いと思うんだけど」

「……そうなの?」

「そうなんだよ」

 リオンがもう一口食べながら相槌を打つと、少女はやっと、そっと、フォークに手を伸ばした。

 そしてリオンの食べ方を真似るようにして、けれど片手は零れないようにと添えながら、ゆっくりと掬って口に運んでいく。

 少女がぱくりと一口で食べた。

 途端、みどりの瞳が驚きにだろう、ぱあっと見開かれる。

 そのまま咀嚼する様子をコーヒーを飲みながら見てみれば、少女の頬が紅潮して、見事に緩んでいくのがよく分かって、それがなんだか嬉しかった。

「……おいしい」

「だろ? いっぱいあるしさ、もっと食べようぜ!」

 そう言ってリオンはバクラヴァに手をつける。少女も、おずおずといった様子だが、バクラヴァをまた食べていく。

 ──リオンがこの焼き菓子を選んだのは、少女がこの街に不慣れな、『イオリスの街』の外からひとりで来た人間に見えたからだ。

 だから、この街ではどこにでも売っている、むしろ家でも作られているようなものを選んだ。──そのときの少女の反応を見るために。

 そして少女は、まるでこのお菓子を初めて食べたかのように、リオンのあかい瞳には映っていた。

 演技にしてはいささか過剰すぎると感じたから、素の反応だとリオンは判断した。それはリオンの推測を少し確信に寄せた。

 そうしてしばらくもしない内に、バクラヴァは無くなり、二人はゆっくりと飲み物を味わっていた。

 その弛緩した雰囲気の中で、リオンが少女に問いかける。

「ところでさ、アンタの名前は?」

「…………」

 途端に、緩んでいた空気がぴんと張り詰めるのが分かった。

 えー、まいったなー……と頬を指で引っ掻きながら、リオンは言葉を続けていく。

「いや、聞きそびれてたなーと思ってさ。あ、そういやオレの名前も言ってなかったっけか」

 グラスを両手で持った少女がこくりと頷いた。

 その肩や瞳には、警戒や怯えというよりも、緊張に近いものが浮かんでいる。なにに緊張しているのかは、リオンには分からない。

 人のこと、まして初対面の少女のことだ。分からないのなんて、そんなの当たり前だ。だけどリオンはそれがなんだか嫌だな、と思った。

 分かりたい、と思う。

 だから、リオンは正直に言った。

「オレの名前はリオン。リオン・ネリア・イオリス。──この『イオリスの街』の、街長まちおさの息子だよ」

 リオンが親と共に参加する儀礼的な集まりなど以外で、初対面の相手に正直に素性を言ったのは多分初めてだった。

 リオンは、親の威光を借るのを好んではいない。それでもきちんとした名乗りをあげたのは、この不思議な少女を試すものではあったけれど、真摯に向き合いたいと思ったからだ。

 少女が顔を上げないまま、表情を怪訝なものに変える。グラスを置いた手がそわそわと膝の上で動いている。

 リオンが表に出さない程度に身構える。

 なにを言われるのだろうか。

「……街長まちおさ、ってなに?」

「……簡単に言うなら、この街で一番偉い人。立場が立場だからあんまり融通は利かないけど、でも結構なんでもできる。で、その息子がオレ」

 あ、疑問にするのそこから? と思いながらリオンはあえて軽い調子で説明した。

 やはり少女はこの『イオリスの街』の外よりの人間なのだとなお思った。

 リオンは二十をいくつか前にした歳にして、名前だけなら街の人間の多くに知られている。顔見知りの人間もそれなりにいるほどだ。そんなリオンを彼女はまったく知らない。

 それにあの程度の人混みで、スリを生業にまではしていないような輩に簡単にスられるくらいだ。この街に来るのは初めてなのかもしれない。

 それに服装もよく見ればだが、ところどころ丁寧に繕った痕や、くたびれた雰囲気があるところから考えるに、少女はきっと遠くから来て疲れているのだろう。あんなに美味しそうに食べていたくらいだし。

「…………」

 少女がなにかを考え込むように俯く。

 陽射しはゆっくりと、だんだんと傾いていて、それはとても穏やかにリオンの身体をあたためる。

 陽の光を浴びた彼女の金の前髪がときおり吹く風で揺れ、リオンはその煌めきを、綺麗だな、と思う。

 それは彼女が身につけていたペンダントのチェーンにも似ていて。寒い夜にふと見上げたときに浮かんでいる明るい月にも似ていて。だけど、それよりもずっと眺めていたい綺麗さだった。

 たぶん、生まれて初めて見るたぐいの美しさ。

「──ディナ……ううん、ディアナ」

「え?」

「あたしの名前。ディアナっていうの」

 初めて顔を上げた少女の──ディアナの、小さな鈴のような声に、リオンははっとなった。知らず息を飲んでいたようだ。

 飛んでいた思考を集めながら言葉を発する。

「えっと……ただのディアナ?」

「ただのって?」

「オレみたいに、ネリアとかイオリスとか、名前のあとになんか付かねーのかなって」

「……知らない。分からない。ルナもデメテールも同じだし……」

 そう言ったところで、今度は少女がはっとなった。なにかを思い出したように。あるいは、致命的な過失ミスをしてしまったかのように、血色のいい顔色を青くする。

 リオンを真っ直ぐ見て、みどりあかの瞳が合って、でも困ったようにディアナはさっと視線を外した。

「忘れて」

 それは意外なほどに、強い声音だった。

「え? なにを」

「名前」

「ディ……キミの?」

 ディアナが目をつむって、ふるふると強く首を振った。

「あたしのはいいの。あたしのじゃなくて、そのあと言った二人の名前の方」

「えーと……あー、うん。分かったよ」

 まあ一発で覚えちまったんだけどな。とは言わずにおいた。ディアナが分かりやすくホッとしていて、まるで小さな動物みたいだ。

 なんでだろう、とリオンは思う。

 ディアナのことが気になるのはなんでだろう。

「……なあ、なんで?」

 リオンが聞くと、ディアナが戸惑った顔をした。

 ああ、違う。失敗した。そんな表情かおが見たいわけじゃないのに。

「なんで、ディアナの名前は覚えててもいいんだ?」

 ディアナがまた俯く。考え込むように指を顎に触れさせている。

 俯くとみどりの瞳がよく見えなくなる。瞳も綺麗だから、少し残念に思う。

「……名前には『縛る力』があるから」

「縛る力?」

「そう。物だったり、植物だったり、動物だったり……人だったりに干渉できちゃうの」

 よく、分からない。

 名前で物や人に干渉できる?

 ディアナが視線を果実水の入っていたグラスに向ける。自身の斜め掛けにしている鞄に触れながら、話し続ける。

「例えばね、このグラスには誰からも固有の名前を付けられていなくて、なのにあたしがこのグラスに固有の名前を付けたら、それはあたしのものになっちゃうの。あたしはグラスにどんな干渉でもできるようになっちゃう。形を変えたり、色を変えたり、材質をいじったり。でもそれは、グラスが生まれたときの、『そのままでいたい』って心を無視してできちゃうことなの」

 ますます分からない。

 グラスに、心?

 彼女は、ディアナは、一体なんの話をしているんだろう。

 リオンの顔に困惑が出ていたのだろう。ディアナが静かに苦笑した。それはとても、寂しげに。

「……わからないよね。あたしたちの『律』のことなんて」

「……ごめん」

 でも、とリオンは続ける。

 分からないなりにも、分かることがあったからだ。

「オレがディアナの名前を呼んだら、それはキミの心に無理やり干渉することにならないのか?」

「……本当なら、そうなんだけど……」

 手探るようにぽつりぽつりとディアナは言う。

「リオンはあたしたちとは違うから、大丈夫だと思ったの。それに、」

 ディアナが顔を上げた。リオンを真っ直ぐに見つめてくる。

 陽に照らされる薄桃色の頬。

 みどりの瞳にかかる睫毛が金色をしていて、その対比が綺麗だと思う。

「綺麗だと思ったから」

「……え?」

「リオンの瞳。あかくて、初めて見た色で、まるで夕焼けの太陽みたいで、綺麗だと思ったの」

 言葉は自然にこぼれていた。

「……ありがと、な」

 なんだか顔が熱い気がするが、どんな顔をしていいかリオンには分からない。

 嬉しいような、くすぐったいような、恥ずかしいような気持ち。

 だから笑った。上手くできているといい。

 外見や性格や家柄を褒められたことなんて何度でもあった。本音としてでも建前としてでも。

 けれど、こんなふうに初めて出会ったひとから、てらいなく真っ直ぐな言葉を向けられたのは初めてかもしれない。

 ディアナも、リオンに向かって微笑んでいた。




 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン──……。

 鐘の音が四回鳴る。

 ああもうそんなに時間が経ったのか。確かディアナに会ったときには三回、鐘の音が鳴っていたはずだ。

 彼女もなにか用事くらいあっただろう。商業地区にいたのだから買い物だとか。

 なのになんとなくの流れとはいえ、自分に付き合わせてしまったのは迷惑だったかもしれない。

 そう思ってディアナを見ると、彼女は街中を見ながら唐突に言った。

「──あたし、迷子なんだった」

「は?」

「リオンが不思議だから、楽しくて、つい話してた……そうだ、時計台に行かないと」

「え、ごめん待って。ちょっと待って悪いけど。ちょっとで良いから話聞かせてくんない?」

 リオンはまるで幼子に言い聞かせるように両手を向ける。

 ディアナはそわそわと落ち着きなさげにしていたが、やがてリオンに会うまでのことをぽつぽつと話し始めた。

 曰く、普段はに三人で住んでいて、今は珍しく三人で街中まで買い出しに出ていたこと。昨日今日で時計台のある中央広場や観光地区、商業地区を巡っていたこと。

 そして今日、ディアナは商業地区で物盗りにペンダントをスられたこと。同時に他の二人ともはぐれたこと。リオンがペンダントを取り返してくれて、今に至ること。

 ディアナは果実水を飲みながら簡潔に話した。あまりにも簡潔すぎて、リオンにとっては目新しい情報がほとんど存在しないほどに。

 しかし不可抗力とはいえ、それはディアナへの罪悪感が強まる情報だった。

 リオンはディアナに向かって手を合わせる。

「ごめん! ……つい誘っちゃってたけど、ディアナが親御さんたちとはぐれてたなんて、オレぜんぜん気づかなかった」

「別に、いいよ。あたしも言ってなかったし。それに怖かったから、ひとりでいたくなかった」

 バツの悪い気持ちになっていたリオンが渋い顔をして上げる。

 腕を組むと真剣な表情になって、ディアナを正面から見た。

「なあ」

「なに?」

「絶っ対に妙な奴に着いてったらダメだぜ? みんながみんな、オレみたいにお節介なやつばっかじゃねーんだからさ。厳しいこと言うけど、さっきスられたことで分かったろ?」

「……ふふっ」

「……なにがおかしいんだよ」

 ディアナが浮かべる小さな微笑みは愛らしい。けれどリオンはせっかくの心からの忠言を袖にされたようで、少し仏頂面になった。

「昨日、デ……にも言われたから。似たようなこと。悪い人もそうじゃない人もいるんだってこと。だから、リオンとメテルは似てるんだなって思ったら、なんだかおもしろくて」

 くすくすとディアナは声を立てている。リオンはなんだか毒気が抜かれてしまった。

 彼女に悪気が全くないことが充分に伝わってきたからだ。そして先程の自分も同じように、彼女の様子を見て笑っていたのだから、まぁお相子か、とも思う。

 リオンはテーブルに置いてあった伝票を取ると、ディアナに向かって笑いかける。

「じゃ、その二人を探しに行くか。時計台にいるんだろ?」

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