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  • 編集済

    跋─本編完結にあたって─への応援コメント

    完結おめでとうございます。
    長い間、お疲れ様でした。
    日本のおける中国文学歴史小説の大きな一歩であったと思います。

    あの蜀漢に対する思いの塊である劉諶の子である劉曜にも漢王朝再興の夢は受け継がれることはなく、国家というものに寿命があることを痛感いたします。

    酉陽野史が三国志平話に比べ、世代を一つ上げたのはそういう意図があったのかもしれません。

    改めまして、通俗二十一史最大の大作翻訳の完結、おめでとうございます!

    【追記】

    >何しろ、この30年ほど三国志以降を知りたいという希望には
    >誰も応えてくれませんでしたから。

    >それが、自分が中国史を学んだ理由でもあります。

    ああ、私と同じ動機だったのですね。意外と同じように考える人は少なくて驚いています。五胡十六国を知りたい人はまた違いますからね。

    電子書籍の件がまだですが、時が来て、また、お互いにその時にネット上でもお会いできることがあれば、また、よろしくお願いします!

    ご苦労さまでした!

    作者からの返信

    こんばんは。
    重ね重ねありがとうございます。

    とりあえず、読みたい人が読めるようにはなりました(笑
    今はそれでよいかと思います。

    何しろ、この30年ほど三国志以降を知りたいという希望には誰も応えてくれませんでしたから。

    それが、自分が中国史を学んだ理由でもあります。まあ、商業的には成り立たないでしょうから、仕方ないのですが。

    そういうわけで、自分なりに満足できた感じがあります。

    これはこれとして活用を考えつつ、別に何かできないかも考えてみたいと思います。

    永らくのお付き合い、誠にありがとうございましたm(_ _)m

  • 史実では、杜曾の乱は、胡亢の乱から数えると312年に始まり、319年に終わる8年渡る大反乱でした。これは司馬睿の即位を途中で挟んでおり、あまり尺を割くと分かりづらくなるため、ここでまとめたのは正解でしょうね。

    陶侃も杜曾も敗北し、名将と言われた朱伺も戦死しており、杜曾は流民勢力の長として、李特にも負けないほどの実力があったのではないでしょうか。杜曾が降伏の後、反乱を起こしたのも、流民の扱いが相変わらずひどかったことなど同情できることも多かったかもしれません。

    軍事能力では王惇や陶侃を上回っていたのではないかと思える杜曾も北漢に組み入れて、杜瓊あたりの孫にして、小説としては関連付けて欲しかったですね。

    陶侃は結構、敗北が多いので、私としては祖逖や周訪に比べれば、軍事能力は劣る、統率や人望にすぐれたタイプかなと考えています。


  • 編集済

    三国志大戦と田中芳樹氏の小説のおかげで、意外な知名度がある少女英雄「荀灌」の活躍ですね。荀灌は荀彧の五世の子孫にあたります。

    史実では、列女伝に『荀崧小女灌,幼有奇節。崧為襄城太守,為杜曾所圍,力弱食盡,欲求救于故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數十人,逾城突圍夜出。賊追甚急,灌督厲將士,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又為崧書與南中郎將周訪請援,仍結為兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽俱救崧。賊聞兵至,散走,灌之力也』とありますので、田中芳樹氏の言う通り、荀灌の判断で、周訪までの援軍を頼みに行ったかは分かりませんが、三国志後伝よりその活躍は目覚ましいですな。

    京劇にもなっている荀灌ですから、創作をしてでも活躍させて欲しかったところですが、500も兵を連れて、深夜に出て行っているのに、遊学と言って敵が信じて道を通すという「誰得」な展開になっているのが残念です。

    ここらは、もっと講談の面白さ、あるいは史実に即した緊張ある描写が加わって欲しかったところですね。

    作者からの返信

    こんばんは。
    面倒な漢詩を解釈しているとこんな時間。ワケが分からないよ。少年老いやすく学なりがたしです。

    〉荀灌

    田中芳樹さんが小説化されていましたか。中国物は『隋唐演義』から追っていませんでした。ある程度読めるなら原文にあたる方がやはり楽しいです。小説はどうしても文化的な違和感を丸めますからね。

    少女が包囲を抜けて救援を求めに行く筋は小説にもしやすかったでしょう。酉陽野史が講談調に面白くしなかったのはナゾです。
    実は個人的にこのテのネタには興味薄なので、酉陽野史さんも単なる歴史趣味の人かも知れませんね。

    しかし、京劇になっているなら、元代からネタになっていたんじゃないかなあ。これだけアッサリした感じだから、劇作されていなかったのかな。

    中国の農村遺跡の調査資料を見ていると、社にはだいたい劇を演じる舞台があったりします。これは、演劇がいかに民間に浸透していたか、娯楽として親しまれたかを表しています。

    秋祭りや新年の祭りでは劇が必須だったわけですね。劇は娯楽であり、教化の手段であり、政治宣伝でもあったわけですが、このあたりもなかなか興味深いものがあります。

    元代からの講談や演劇ネタがあっても、この話だけをガッツリ講談やられても困りますから、バランスをとってネタを殺したのかも知れませんね。

  • ここは三国志演義の劉備が皇帝になる話の転用ですね。現代から見ると、パロディって感じになりますが、こういう話の使いまわしも講談小説の面白さです。人物が人物だけに君臣の美談では終わらないところが違いますが。あんなに皇帝権が弱く、補佐する王導が司馬氏より琅邪王氏を優先している疑惑があるのでは、即位するのをためらうのは当然です。

    酉陽野史が文筆に信念があり過ぎて遊び心が少なく、パロディが少なすぎた感は否めず、個人的には北漢の子孫にはもっと蜀漢人物のパロディをやって欲しかったです。幼い劉曜を守って晋の大軍を突破する趙染とか、晋の大軍を橋の上から大声で止める張敬とか、多くの関所を突破する関防とか、空城の計を行う諸葛宣于とかも読みたかったですね。

    北漢が衰亡していく中で、司馬睿がどうあれ劉備のエピソードを受け継ぎ、東晋を建てたのはストーリーの中でこれから東晋が上り調子になることを示すものですね。久々にこのリストを出し、残った司馬氏についても新たにリストをつくります。ここは晋書の細かな内容を受け継ぎ、一気に人物が出てきて分かりづらいところですから。つくっても多すぎて分かりづらいですが。

    東晋がはじまったのは、司馬睿が晋王に即位した建武元年(317年)ですが、ここではすでに即位しているので、大興元年(318年)になります。顧榮はすでに312年に死んでいるのでリストでははずします。周玘は313年に死んでいますが、三国志後伝では事件の前後の問題を受けて、まだ生きているのでリストには残します。『元帝』十六翼士なのに、全員揃うことも、皆で即位を祝うことも無く、我ながら少し名前倒れです。

    (東晋・司馬氏)
    皇帝・司馬睿(元帝)
    太子・司馬紹
    瑯琊王・司馬裒
    西陽王・司馬承
    譙郡王・司馬丞

    (瑯邪王家の五虎)
    ✕ 王衍
    王導
    王敦
    王澄
    王含
    (諸・瑯邪王氏)
    王彬

    (元帝十六翼士)
    ✕ 顧榮
    周玘
    甘卓
    賀循
    卞壷
    紀瞻
    劉遐
    戴淵
    刁協
    庾亮
    周訪
    周顗
    劉隗
    桓彝
    郗鑒

    作者からの返信

    こんにちは。
    作中では漢の劉淵、成の李雄につづいて三つ目の建国譚でした。三たび辞するのはお約束ですが、司馬睿は進むも退くも地獄ですから、本気で逃げたくもなりますよね。

    〉三国志演義の劉備が皇帝になる話の転用ですね

    それは気づきませんでした。
    儒家は述べて作らず、故事を大事にして創作を卑しむ風があるように感じますが、パロディはどうなんでしょうね。
    換骨奪胎なんて言葉もありますし、詩賦では本歌取りのように過去の名詩を下敷きにもしますので、文人にはあったのかも知れません。

    講談におけるパロディは、聴衆の反応から他作の盛り上がる箇所を自作に取り込むことで、より受けるものに練り上げる過程だったのかなあ、とか思います。後伝はたぶん机上の作品であり、講談の現場で練られたものではないので、結果、未完成の原石のままなのでしょうね。惜しいことです。

    ここからは河北のゴチャゴチャと江南の内紛で、両者が交錯するのは超人・祖逖さんの活躍くらいですかねえ。三分の後も三国の争いから焦点がブレない三国志とは違い、視点が拡散してしまうのがこの時代の難しいところです。

    理解も難しければ、全土を扱う創作も難しい。そういう時代に入っていきます。

    16翼の顧榮さんは顧雍の孫、陸遜の孫の陸機や陸雲と近しい世代なんですよね。甘寧の曾孫にあたる甘卓さんとは年代が一つ違う感じで。周訪が陶侃と一つ違い、世代はさまざまかもですね。

    周玘さんは史実では北人と南人の対立の先駆となってしまうわけで、悲しい巡り合わせです。このあたりは作中ではほとんど触れられていないので、酉陽野史さんとしては、東晋は漢人政権として一丸であって欲しかったのかなあ。生々しい方が面白いのに。

  • 河東さんが楽しみにしていて、拓跋鮮卑の話ですね。本来なら本筋より離れた話であり、「拓跋猗盧が息子に殺され、内訌の末、拓跋鬱律が擁立された」と数行で説明でもいいところだと思いますが、資治通鑑よりずっと詳しく、かなりの脚色されているのが分かります。これは酉陽野史が細かいところでも書きたがるところと、本来なら書くはずだった北魏の伏線のためでしょう。

    遊牧民の後継者争い問題は、類似事件としては冒頓単于が有名ですが、母親の部族も関わるので単純に父親の調査だけの問題でもないようです。史実では、六修が拓跋猗盧を殺し、普根が六修を殺すなど、かなり激しい争いであったようです。また、史実では賓六須と六修は同一人物であるようで、なかなか把握が難しいところでもあります。

    ところで、こういった拓跋氏や西晋の内訌については、諸葛宣于の反間の計の仕業とすれば、陰湿ではありますが、諸葛宣于の大軍師たる地位は確保されたと思いますが、酉陽野史が史実をそこまで曲げるのをいやがったのか、賈詡や呉用のようなやり口は諸葛亮の神性をゆがめると思ったのか、ただ単に思いつかなかったのか、あるいは、陳年希先生の言う通り、三国志後伝のテーマは「好殺者必亡、寡謀者必敗」ですので、国が外部的な要因で滅亡に至る展開を嫌ったのか、少し気になるところです。

    作者からの返信

    こんばんは。
    鮮卑族拓跋部擁護派です。拓跋部は五胡のサバイバーなんで、勝ち馬に乗った感ありありになってしまいますが、最初な買った正史が魏書だから仕方ないです。

    〉かなりの脚色されている

    けっこうフィクションですよね。史実ままのが面白い気もしますが、長くなるから割愛したのかも知れません。

    〉遊牧民の後継者争い問題

    そうですねー。柔然の内訌なんかも巫覡が絡んでいたり、なかなか複雑だったりします。
    昔の日本みたいにそういう職の人が技術者として重用される素地があるみたいですね。陳舜臣『耶律楚材』でも、耶律楚材はチンギス・ハンに占星の技術者として用いられていました。生活が豊かではない遊牧民は実利的なんでしょうね。

    〉賓六須と六修

    魏書の特に初期にはそういう混乱が随所にあるようです。伝承されるうちにひとりの逸話が分離したり、表記が違うために後世には別人として扱われたり、扱いが難しいようです。全然分かりませんでしたけど。
    たぶん口承に負うところが大きかったんじゃないですかね。崔浩の国史が残存していればなあ。。。

    〉反間の計

    これをやってしまうと、陳腐なご都合主義に陥ってしまいますね。だから、陰謀論を排除したのは正解だろうと思います。作品を陳腐化したくないなら、なるべく大勢は史実に沿う方が納得感があります。
    当時の創作技法の進展はよく分かりませんが、そのあたりは明確に一線が引かれていたように見受けられます。
    そういえば、冒頭に現れた孫秀の復讐譚も結局は強調されませんでした。何らかの見直しがあったのかも知れませんね。

  • 呼延顥も趙染の代わりに死に、劉義も退場、諸葛宣于もここでほぼ退場でいよいよ決起に加わった人物が北漢から去っていきます。

    諸葛宣于は余り冴えないままで終わりましたが、戦略家としても中途半端で、ほとんど元ネタの宣于修之の預言者と忠誠心を果たして最後に諫言する役割だけが与えられた感じですね。劉邦が危険である警告だけで終わった史記の范増みたいな感じに見えます。ここでは石勒(後趙)と鮮卑(前燕、後燕、代)の勃興を予言しただけで劉聡の心を翻す有効な諫言を行うこともできませんでした。

    諸葛宣于がさえないのは、河東さんからは史実上の諸葛亮が政治家であったからと御説をいただきました。確かに正史と資治通鑑の方を読んだであろう酉陽野史は、魔法使い的な演義の諸葛亮要素を取り除き、酉陽野史が得意とする戦術要素を張賓に与えてしまったため、これといって有効な活躍が大会戦の外交ぐらいしかなくなったものでしょう。

    といいつつ、同時に、明代は清代と違って、諸葛亮の神格化への余り懐疑はもたれない時代でしたから、魔法使い要素を除いて、三国志演義の諸葛亮に負けない軍師を描くのは、預言分野ぐらいでしか可能ではなかったと思われます。大会戦の時に劉曜に有効な発言をできなかったのは、諸葛亮の孫に恥じない軍略はどうしても思いつかなかったものと考えます。

    それでも、書き上げた上、話を進めることができた酉陽野史の思い切りは褒め称えたいです。完璧主義の余り未発表で終わるよりずっといい結果であるのは、間違いないでしょう。

    作者からの返信

    こんにちは。
    まさに斜陽というわけで、水滸伝チックな前半との対比が際立つ章であります。

    陳元達の死、関氏の離脱、それに続く宿将の離脱は、龐統の死、荊州失陥=関羽の死から劉備の死までの寂寥感がありますね。

    諸葛宣于の造形の失敗は、逆に史実における諸葛亮の偉大さを際立たせるように思います。魔術要素を抜いても、やはり諸葛亮なしで三国志は成立しませんから。

    これは、名将や名軍師を創作する難しさですね。事実は小説より奇なりと申しますから、史実のが面白くなりがちです。

    諸葛宣于を際立たせるために荒唐無稽になる危険もありましたが、踏みとどまった酉陽野史は創作に対して一貫した美学のようなものがあったのでしょうね。

    おっしゃる通り、ある面では大した人であります。


  • 編集済

    謎であった関山と関河の血縁関係が、ここでなんとか分かりますな。私もこの部分は理解できず、読み飛ばしていて勘違いしていました。

    原文では、
    山曰:「臣之二兄,用力成癯,相繼而故,臣姆年已八旬有五,每每與吾兄弟哭泣,言百年後,得與臣伯夫妻一處而葬,則不枉育汝弟兄矣。今二兄已亡,臣又不得奉姆歸於故土,則有負向日之所付託矣。且臣兩鬢已星,生不能怡悅晨昏,老又不能承其夙志,既不孝於親,又焉能忠於君哉?況臣母年七十有九,思鄉之心切於夢寐,故此冒瀆天威,乞賜殘軀,奉二母前往錦屏山,以慰其所願。若天不殺臣,再來謝恩陛下,是大幸也!」漢主揮涕而謂山曰:「卿欲全孝,朕當從之,關繼忠與關河可在此間,少慰朕念,亦以見君子不忘故舊之心。」山未及對,只見關河上奏言:「臣父防、叔謹相繼遐棄,以朝廷多事,從征關西,不獲服制,終天之恨,迄今無已。茲者臣母痛父成疾,毀脊骨立,飲食少進者四十餘日矣,乞賜放臣侍疾終制,生死感恩不泯矣!」漢主方欲開言,只見關心出班頓首面奏曰:「臣兄關山年過六十,筋力已憊,且有二嫂,非臣不能以終餘年。臣安敢獨留,以貪榮祿,而忘晨昏定省之勞乎?乞求並放歸田,以贍母兄之倚,勝荷寵沐之恩矣!」

    名前から、関山と関河は兄弟と思っていましたが、関河は関防の子ですね。関心は関索の子であることは分かります。

    問題は関山ですが、
    まず、関山の嫂(姆)は85歳。これは関防か関謹の妻のことでしょう。
    続いて、一緒に葬って欲しい伯父夫妻(伯夫妻)ですが、通常は、関防・関謹の父である関興夫婦だと思われます。とすると、関山は関興の子ではなく、関平か関索の子となりますね。この場合、関平の一族は、龐会に皆殺しにあったと言われているので、父は関索となり、関心の実兄となります。

    「通俗続後三国志」の首巻において、関心を関山の弟としているのはこのためでしょう。

    ただ、関山の母は七十九歳とあり、年の差が離れているのが気になりますが、これが鮑三娘となるのでしょう。この年齢差を納得できず、この部分は読み飛ばしていたのが勘違いにつながりました。

    馬場信武さんが間違えていたと思っていましたが、馬場さんの方が正しかったようです。まだまだ、精読が足りませんな。

    とにかく、関氏の血縁関係はこれでなんとか判明したようです。

    【追伸】
    >「伯」は伯仲叔季幼の最年長にあたりますので、
    >「長兄夫妻」の意味に解される可能性があると見ています。

    それも考えたのですが、そうすると関謹の妻が85歳なのに、弟の関山の母の年齢が79歳で、母が違うにしても余りにも離れすぎているのですよ。年数から計るのは無意味ですし、正直、どっちの形でも納得はしにくいですね。

    【再追伸】
    関河の血族関係、調べましたが、やはり、関河が関防の子とするには解し難いですね。

    ①関防が死んだとき、『二子關勇、關曼襲職』と明言されている。(三国志後伝、第94回)
    ②典升に迫る時、『乃其(関防のこと)從弟關河字繼遠也』と記述されている。(三国志後伝、第43回)
    ③字が継遠と『継』の字が関防や関山と共通。親子関係は考えられない。
    ④劉淵が即位した時、任じられた役職が関河は建威將軍であり、関山の役職、護軍都尉より格上である。護軍都尉は楊興寶も入っているのでなんとなく、『才能はあるが若くて地位をあげられない人たちの役職』ってイメージですね。

    関河が、辞職する時だけの設定で、多分、酉陽野史が忘れているだけだと思われます。

    ということで、関防・関謹は関興の子、関河・関山・関心は関索の子とします。

    私としては、関河・関山は関平の子の方がイメージにあうのですが、関平の一家は滅亡したと明言されているので仕方ありません。


    作者からの返信

    こんばんは。
    関氏の血縁関係は難しいですね。調べきれていないのですが、「伯夫妻」の解釈により変わりそうな感じですよねえ。

    ご承知のとおり、「伯」は伯仲叔季幼の最年長にあたりますので、「長兄夫妻」の意味に解される可能性があると見ています。そうすると、伯夫妻は関防夫妻、兄嫁は関謹の妻となりますかね。用例を調べていないので、確定できないのですけど。

    翻訳の際はけっこう気持ち悪く感じておりましたので、気が向いたら詰めてみたいと思います。

  • 西晋の完全滅亡とともに、いよいよ、東晋の建国がはじまり、北漢もまた衰亡へと進んでいきます。

    劉聡は、おそらくは漢の後を継いだ天下統一をあきらめるとともに、保全を考えたのでしょう。このまま、北漢が勝って行っても、石勒と劉曜の勢力が強くなるばかりで、北漢自体がどうやっても弱体政権であることは免れないからです。例え天下を統一しても、中国の東半分を石勒に、西半分を劉曜にやったのでは、韓信と項羽を王として臣下にしたようなもので、安定は得られません。石勒と劉曜の後継者となるであろう石虎と劉胤もまた、優秀な人物で、劉燦では対抗できません。そのため、積極的な姿勢はあきらめ、守りに入ったものと考えます。

    とはいえ、そんな後ろ向きな姿勢では緊張を保てるはずもなく、元々、好きな酒と淫楽にふけったものでしょう。また、遊牧民に多く見られる一族での後継者争いに、漢人の謀略が加わったわけですから、朝廷が伏魔殿となったのは、ある意味当然でしょう。

    今回の劉聡の堕落は、封神演義の紂王を想起させるほどのもので、演義補正を失った蜀漢功臣子孫たちの上奏は無力であり、陳元達もついに自殺して果てました。続三国志演義─通俗續三國志─第六十九回の意気揚々と北漢に仕えることに決めた彼を思い出すと悲しくなります。

    劉義については、本来なら、劉淵の兄弟?であったはずですが、ここではすでに劉聡の弟となっていますね。ここは史実通り、劉聡の弟は劉乂にするか、難しいところです。あえて、そのままにしておくのがいいかもしれません。

    作者からの返信

    こんにちは。
    確かに、漢はなんか急激に弱くなりましたねえ。作中では劉聰の放漫と宿将の離脱で説明されるわけですが、実際はどうだったのかなあ。

    史料を読み込んだわけではないので、史実には印象論くらいしかないのですが、五胡時代の遊牧民にとっての河北の成長限界点だったかも知れないなあ、と。

    騎馬を主体とする軍勢には沼沢地や山岳での優位性がありませんから、これらが入り組んだ土地では、平野部を線的に押さえられても面的制圧は難しかったのでしょう。

    結果、河北や関中の渭水沿岸は押さえられても、淮水南岸や漢沔地域では水に阻まれ、漢中や隴西界隈では山に防がれて領域を拡大できなかった、のかも。

    こう考えると、晋人は騎馬が攻めにくい空白地域に拠って抵抗を続けられた、とも理解できますかね。

    『中国歴史地図集』で五胡の版図をボケーっと眺めていると、淮水の南は前秦や北魏でさえ安定確保できていないですね。

    一方、漢中方面の軛は氐族の前秦により破られて巴蜀をも押さえていますが、氐族は羌族と同じく山間の半農半牧民だったようですし、仇池や武都あたりにいたわけですから納得。山岳戦は得意分野だったはず。

    あと、匈奴漢は興隆期の鮮卑に北を押さえられたのも大きいですかね。遊牧民の勢力は短期間に急成長しがちですから。しかも、勢いもありますし。

    このあたりは、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』 (東洋文庫)で色々と検討されていて楽しいです。文化的なミクスチャーは社会に活力を与えるようで。

    英雄譚は創作としては楽しいですが、史実の裏側にある大きな流れは顔がないような気がしますね。
    だからこそ、歴史小説は顔を与えるために英雄譚として単純化されるのかも知れません。

    いいこと言った。


    〉陳元達

    残念ながら退場ですね。
    この先を見ずに済んでよかったのか、彼の退場が北漢の終焉を意味したのかは解釈次第です。
    前半の流浪の時代を経た方々の退場が続きます。


    〉劉義

    あー、久々だったから油断してました。暇を見て揃えておきます。チョイ役なんで、無用の混乱は避けたいところです。

  • >司馬睿、劉曜、石勒を軸に語った方が話としてはシンプルになりそうですけど、
    >取りこぼしが多くてイヤだったんでしょうかね。
    >欲張りですなあ。

    前回のこのコメントは今回の馮睹や李回の話まで入っているところを見ると、つくづくそう思いますね。少なくとも資治通鑑のエピソードはできるだけ含めようと思い、小説としては段々と軸がぼやけてきている感じはします。歴史小説において、小説を書いている人が陥りやすい弊害ですな。

    その点、宮城谷氏や北方氏はさすがだなあ、と感じます。

    「三国志後伝」は、あの時代にしては「かなりの文才」といってもいい酉陽野史ですが、小説の先行研究が少ない時代において、はじめはともかく、ほとんど一人の構想で書いた場合どうなるかを考える作品とも思えます。

    尾田玄古さんの筆が滑ったために(笑)一度死んでいた司馬鄴も、劉聡・劉燦親子に殺され、西晋の完全滅亡とともに、少し史実より前倒し気味ですが、北漢も滅亡への展開がはじまりました。

    司馬鄴殺害は、余裕の無さを外部に伝えてしまう愚策だとは考えますが、実際、北漢も関中を奪うぐらいしかできていないのに、石勒と曹嶷はどうにもならず、かえって弱体化しており、本当に余裕はなかったと思われます。

    作者からの返信

    こんにちは。
    ついにお待ちかねの郭璞さんが登場、チョイ役の干宝さんも常識人チックでよいですね。
    この二人は史実でも交流があったみたいですから、中華ファンタジーにはうってつけだと思いますけどねー。誰か書かれませんかね。

    〉少なくとも資治通鑑のエピソードはできるだけ含めようと思い、小説としては段々と軸がぼやけてきている感じ

    通俗歴史小説の通弊ですね。
    『東晋演義』や『南北朝演義』あたりもだいたいこんな感じです。テンコ盛りで読者の記憶からこぼれ落ちますよね。


    〉宮城谷氏や北方氏

    北方作品はテーマありきですから読みやすいですね。『三国志』『楊家将』『水滸伝』、どれも面白かったです。スゴイ生産力です。
    宮城谷作品でも『三国志』はそのキライがありましたかね。群像劇って感じでした。
    演義世界では杜畿とか、普通に省かれますよね。


    〉小説の先行研究が少ない時代

    元代に民間文芸の発達が急激に進んだようですが、やはり、歌曲や講談のような芸物が先行したのでしょう。読み物は大半が清代に入ってからみたいですね。特に、フィクションは弱かった印象です。

    本作は成立が早い作品ですから、仕方ないですね。


    〉司馬鄴

    ハデに二回死んで頂いております。
    また折りを見て注釈を入れて訂正しないと。。。獄死したんちゃうかったんかいな。

    しばらくお待ちください、です。


  • 編集済

    王浚を失い、長安も陥落し、西晋の北側にいる孤立した諸鎮が鮮卑に手を借りてまで、北漢と激しい抵抗を繰り返しますな。邵続や劉琨も、劉聡や石勒が匈奴ではなく漢民族だったら、それほどの抵抗は起こせなかったかもしれません。やはり、当時は民族的な問題はかなり存在したのではないかと思えます。

    王浚の代わりに、段匹殫・段文鴦が石勒の強敵となりました。いよいよ匈奴・羯だけでなく、鮮卑も中原に入ってきており、本格的に五胡時代となったと言えましょう。

    史実上の時点としては、邵続の事件は、建興二年(314年)で本来は長安陥落前の話となります。また、劉琨の敗北は、建興四年(316年)の長安陥落後ですが、こちらも本来なら、「通俗続後三国志後編」九回・十回の拓跋氏の内紛後、むしろ姫澹が拓跋氏の兵を率いて劉琨へ帰還した後の話になります。

    渤海太守は三国志後伝では、張顕だったはずですが、別に史実上の劉胤昌を出さざるを得ないことも酉陽野史の苦労がしのばれます。

    複雑な五胡時代を史実上の時系列を曲げてまで、分かりやすくしようとした酉陽野史の工夫は成功しているかどうかは別にしても大変なものです。五胡時代は三国志に比べても、やはり複雑なんだなという印象は強く受けます。

    作者からの返信

    こんばんは。
    河北の戦は段部、拓跋部が存在感を増しておりますね。慕容部はまだ段部の東なので登場しませんが、さりげなくチョイ役で現れたりします。

    〉劉聡や石勒が匈奴ではなく漢民族だったら、それほどの抵抗は起こせなかったかも

    このあたり、どうなんでしょうね?
    定州界隈にはそれ以前から丁零がいたりしたみたいで、当時の民族意識が何によって規定されていたのかは、大変に興味深いです。
    楚人や呉人は東南アジア系に近かったりしたみたいですしねー。五渓蛮なんかは異民族扱いですが、ナシ族の祖先でしたか。

    匈奴のアタマからシッポまでが漢文化を受容したわけではないでしょうから、一般の兵士はやっぱり遊牧文化を濃厚に残していただろうしなー。

    色々考える余地がありそうですね。

    しかし、時系列の入れ替えをかなりやってるんですねー。『II』ではあからさまな入れ替えがあったので苦笑いでしたが、かなり細かくイジってるんですねえ。

    これだけ漢と晋のタッチポイントが増えると、たしかに話としてはややこしくなります。司馬睿、劉曜、石勒を軸に語った方が話としてはシンプルになりそうですけど、取りこぼしが多くてイヤだったんでしょうかね。欲張りですなあ。

  • 開始おめでとうございます!
    北漢、講談における漢王朝の最期、見届けさせていただきます!

    これからも、事件の時期は史実とはかなり違うバラバラに「通俗続後三国志」では、記述されていきますね。ただ、これから先は私も余り詳しくは読んでいないので、楽しみです。

    今回の内容は資治通鑑では、東晋の建武元年(317年)の話ですね。涼州軍の話が中心ですな。相変わらず、涼州軍は強く、韓璞も名将で、二倍はあったと思われる北漢の大軍を圧倒します。呼延顥・黄臣がいて、劉曜・劉燦が諫言を聞かないという描写がないのに、この結果は北漢軍の蜀漢演義補正の神通力が完全になくなったと思われ、さらに史実を重視する展開になっております。

    また、張寔は張軌よりも晋王朝に対する不信感が強いようで、司馬保や司馬睿にも従う気はなく、晋王朝は奉じても、あくまで涼州の代表者としての意識は強いようですね。涼州は、晋というより、最後の漢民族の意地という存在と感じます。

    >『秦川の中、血は腕を没し、ただ涼州のみありて柱観に倚る』
    続国訳漢文大系では、『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』とありますね。この「柱に倚りて観る」の意味が分かりませんでしたが、おかげで理解できました。

    作者からの返信

    こんにちは。
    前二作よりは力を抜き、ゆるゆると進めてまいります。

    いよいよ三段目ということで、初手から漢の旗色はあまりよろしくないです。全体的に『通鑑』や正史を元に翻案した、いわゆる通俗歴史小説っぽくなってきたなーという印象です。

    涼州軍も大変ですね。
    張軌の跡を継いだ張寔は、叔父の張粛に押し切られて兵を出さざるを得なかったようで、本心から晋室に忠誠を誓っているかは相当に微妙な感じです。
    無理からぬくらい晋室がダメダメでしたからねえ。不信感も当然だろうと思います。

    それにしても、涼州はかつては異民族との抗争により難治とされており、董卓のような武人を生んだ土地ですが、中原が乱れると逆に安寧になってしまったのですよね。
    これはやはり、北方の異民族のうち、西に拠っていた匈奴の衰退と関係すると思われます。当時は涼州を冒すほどの騎馬兵団を擁する異民族がなかったのでしょう。

    しかし、涼州の冷孤亜や北宮純あたりは生粋の漢人ではないっぽいですし、涼州政権も漢人と異民族の連合政権だったのでしょうかねえ。
    河西回廊という特殊な立地を考えると、いろいろと想像が広がります。


    > 『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』

    『通俗』もそんな感じでした。
    これだと意味がよく分からないのですよねえ。
    「関中は血に塗れて腕まで浸かる。涼州だけは柱に掴まってただ見ている」という解釈もあり得ますけど。

    原文は「秦川中血滿腕惟有涼州倚柱觀」ですが、『晋書』張寔伝は「秦川中血沒腕惟有涼州倚柱觀」ですね。なかなか生々しい。

    ちなみに、道観という語は時代がもう少し下らないと用例が現れません。なので、個人的な解釈とご理解下さい。それ以前にも「観=建物、見晴らし台」と解されていたかは、ちょっと分からないのですよねえ。