応援コメント

第八回 諸葛宣于は漢主劉聰を諌む」への応援コメント

  • 呼延顥も趙染の代わりに死に、劉義も退場、諸葛宣于もここでほぼ退場でいよいよ決起に加わった人物が北漢から去っていきます。

    諸葛宣于は余り冴えないままで終わりましたが、戦略家としても中途半端で、ほとんど元ネタの宣于修之の預言者と忠誠心を果たして最後に諫言する役割だけが与えられた感じですね。劉邦が危険である警告だけで終わった史記の范増みたいな感じに見えます。ここでは石勒(後趙)と鮮卑(前燕、後燕、代)の勃興を予言しただけで劉聡の心を翻す有効な諫言を行うこともできませんでした。

    諸葛宣于がさえないのは、河東さんからは史実上の諸葛亮が政治家であったからと御説をいただきました。確かに正史と資治通鑑の方を読んだであろう酉陽野史は、魔法使い的な演義の諸葛亮要素を取り除き、酉陽野史が得意とする戦術要素を張賓に与えてしまったため、これといって有効な活躍が大会戦の外交ぐらいしかなくなったものでしょう。

    といいつつ、同時に、明代は清代と違って、諸葛亮の神格化への余り懐疑はもたれない時代でしたから、魔法使い要素を除いて、三国志演義の諸葛亮に負けない軍師を描くのは、預言分野ぐらいでしか可能ではなかったと思われます。大会戦の時に劉曜に有効な発言をできなかったのは、諸葛亮の孫に恥じない軍略はどうしても思いつかなかったものと考えます。

    それでも、書き上げた上、話を進めることができた酉陽野史の思い切りは褒め称えたいです。完璧主義の余り未発表で終わるよりずっといい結果であるのは、間違いないでしょう。

    作者からの返信

    こんにちは。
    まさに斜陽というわけで、水滸伝チックな前半との対比が際立つ章であります。

    陳元達の死、関氏の離脱、それに続く宿将の離脱は、龐統の死、荊州失陥=関羽の死から劉備の死までの寂寥感がありますね。

    諸葛宣于の造形の失敗は、逆に史実における諸葛亮の偉大さを際立たせるように思います。魔術要素を抜いても、やはり諸葛亮なしで三国志は成立しませんから。

    これは、名将や名軍師を創作する難しさですね。事実は小説より奇なりと申しますから、史実のが面白くなりがちです。

    諸葛宣于を際立たせるために荒唐無稽になる危険もありましたが、踏みとどまった酉陽野史は創作に対して一貫した美学のようなものがあったのでしょうね。

    おっしゃる通り、ある面では大した人であります。