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2019年1月12日 23:33
開始おめでとうございます!北漢、講談における漢王朝の最期、見届けさせていただきます!これからも、事件の時期は史実とはかなり違うバラバラに「通俗続後三国志」では、記述されていきますね。ただ、これから先は私も余り詳しくは読んでいないので、楽しみです。今回の内容は資治通鑑では、東晋の建武元年(317年)の話ですね。涼州軍の話が中心ですな。相変わらず、涼州軍は強く、韓璞も名将で、二倍はあったと思われる北漢の大軍を圧倒します。呼延顥・黄臣がいて、劉曜・劉燦が諫言を聞かないという描写がないのに、この結果は北漢軍の蜀漢演義補正の神通力が完全になくなったと思われ、さらに史実を重視する展開になっております。また、張寔は張軌よりも晋王朝に対する不信感が強いようで、司馬保や司馬睿にも従う気はなく、晋王朝は奉じても、あくまで涼州の代表者としての意識は強いようですね。涼州は、晋というより、最後の漢民族の意地という存在と感じます。>『秦川の中、血は腕を没し、ただ涼州のみありて柱観に倚る』続国訳漢文大系では、『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』とありますね。この「柱に倚りて観る」の意味が分かりませんでしたが、おかげで理解できました。
作者からの返信
こんにちは。前二作よりは力を抜き、ゆるゆると進めてまいります。いよいよ三段目ということで、初手から漢の旗色はあまりよろしくないです。全体的に『通鑑』や正史を元に翻案した、いわゆる通俗歴史小説っぽくなってきたなーという印象です。涼州軍も大変ですね。張軌の跡を継いだ張寔は、叔父の張粛に押し切られて兵を出さざるを得なかったようで、本心から晋室に忠誠を誓っているかは相当に微妙な感じです。無理からぬくらい晋室がダメダメでしたからねえ。不信感も当然だろうと思います。それにしても、涼州はかつては異民族との抗争により難治とされており、董卓のような武人を生んだ土地ですが、中原が乱れると逆に安寧になってしまったのですよね。これはやはり、北方の異民族のうち、西に拠っていた匈奴の衰退と関係すると思われます。当時は涼州を冒すほどの騎馬兵団を擁する異民族がなかったのでしょう。しかし、涼州の冷孤亜や北宮純あたりは生粋の漢人ではないっぽいですし、涼州政権も漢人と異民族の連合政権だったのでしょうかねえ。河西回廊という特殊な立地を考えると、いろいろと想像が広がります。> 『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』『通俗』もそんな感じでした。これだと意味がよく分からないのですよねえ。「関中は血に塗れて腕まで浸かる。涼州だけは柱に掴まってただ見ている」という解釈もあり得ますけど。原文は「秦川中血滿腕惟有涼州倚柱觀」ですが、『晋書』張寔伝は「秦川中血沒腕惟有涼州倚柱觀」ですね。なかなか生々しい。ちなみに、道観という語は時代がもう少し下らないと用例が現れません。なので、個人的な解釈とご理解下さい。それ以前にも「観=建物、見晴らし台」と解されていたかは、ちょっと分からないのですよねえ。
開始おめでとうございます!
北漢、講談における漢王朝の最期、見届けさせていただきます!
これからも、事件の時期は史実とはかなり違うバラバラに「通俗続後三国志」では、記述されていきますね。ただ、これから先は私も余り詳しくは読んでいないので、楽しみです。
今回の内容は資治通鑑では、東晋の建武元年(317年)の話ですね。涼州軍の話が中心ですな。相変わらず、涼州軍は強く、韓璞も名将で、二倍はあったと思われる北漢の大軍を圧倒します。呼延顥・黄臣がいて、劉曜・劉燦が諫言を聞かないという描写がないのに、この結果は北漢軍の蜀漢演義補正の神通力が完全になくなったと思われ、さらに史実を重視する展開になっております。
また、張寔は張軌よりも晋王朝に対する不信感が強いようで、司馬保や司馬睿にも従う気はなく、晋王朝は奉じても、あくまで涼州の代表者としての意識は強いようですね。涼州は、晋というより、最後の漢民族の意地という存在と感じます。
>『秦川の中、血は腕を没し、ただ涼州のみありて柱観に倚る』
続国訳漢文大系では、『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』とありますね。この「柱に倚りて観る」の意味が分かりませんでしたが、おかげで理解できました。
作者からの返信
こんにちは。
前二作よりは力を抜き、ゆるゆると進めてまいります。
いよいよ三段目ということで、初手から漢の旗色はあまりよろしくないです。全体的に『通鑑』や正史を元に翻案した、いわゆる通俗歴史小説っぽくなってきたなーという印象です。
涼州軍も大変ですね。
張軌の跡を継いだ張寔は、叔父の張粛に押し切られて兵を出さざるを得なかったようで、本心から晋室に忠誠を誓っているかは相当に微妙な感じです。
無理からぬくらい晋室がダメダメでしたからねえ。不信感も当然だろうと思います。
それにしても、涼州はかつては異民族との抗争により難治とされており、董卓のような武人を生んだ土地ですが、中原が乱れると逆に安寧になってしまったのですよね。
これはやはり、北方の異民族のうち、西に拠っていた匈奴の衰退と関係すると思われます。当時は涼州を冒すほどの騎馬兵団を擁する異民族がなかったのでしょう。
しかし、涼州の冷孤亜や北宮純あたりは生粋の漢人ではないっぽいですし、涼州政権も漢人と異民族の連合政権だったのでしょうかねえ。
河西回廊という特殊な立地を考えると、いろいろと想像が広がります。
> 『秦川の中、血は腕を没す。ただ涼州のみ有り柱に倚りて観る』
『通俗』もそんな感じでした。
これだと意味がよく分からないのですよねえ。
「関中は血に塗れて腕まで浸かる。涼州だけは柱に掴まってただ見ている」という解釈もあり得ますけど。
原文は「秦川中血滿腕惟有涼州倚柱觀」ですが、『晋書』張寔伝は「秦川中血沒腕惟有涼州倚柱觀」ですね。なかなか生々しい。
ちなみに、道観という語は時代がもう少し下らないと用例が現れません。なので、個人的な解釈とご理解下さい。それ以前にも「観=建物、見晴らし台」と解されていたかは、ちょっと分からないのですよねえ。