応援コメント

第三回 石勒は并州城を奪い取る」への応援コメント


  • 編集済

    王浚を失い、長安も陥落し、西晋の北側にいる孤立した諸鎮が鮮卑に手を借りてまで、北漢と激しい抵抗を繰り返しますな。邵続や劉琨も、劉聡や石勒が匈奴ではなく漢民族だったら、それほどの抵抗は起こせなかったかもしれません。やはり、当時は民族的な問題はかなり存在したのではないかと思えます。

    王浚の代わりに、段匹殫・段文鴦が石勒の強敵となりました。いよいよ匈奴・羯だけでなく、鮮卑も中原に入ってきており、本格的に五胡時代となったと言えましょう。

    史実上の時点としては、邵続の事件は、建興二年(314年)で本来は長安陥落前の話となります。また、劉琨の敗北は、建興四年(316年)の長安陥落後ですが、こちらも本来なら、「通俗続後三国志後編」九回・十回の拓跋氏の内紛後、むしろ姫澹が拓跋氏の兵を率いて劉琨へ帰還した後の話になります。

    渤海太守は三国志後伝では、張顕だったはずですが、別に史実上の劉胤昌を出さざるを得ないことも酉陽野史の苦労がしのばれます。

    複雑な五胡時代を史実上の時系列を曲げてまで、分かりやすくしようとした酉陽野史の工夫は成功しているかどうかは別にしても大変なものです。五胡時代は三国志に比べても、やはり複雑なんだなという印象は強く受けます。

    作者からの返信

    こんばんは。
    河北の戦は段部、拓跋部が存在感を増しておりますね。慕容部はまだ段部の東なので登場しませんが、さりげなくチョイ役で現れたりします。

    〉劉聡や石勒が匈奴ではなく漢民族だったら、それほどの抵抗は起こせなかったかも

    このあたり、どうなんでしょうね?
    定州界隈にはそれ以前から丁零がいたりしたみたいで、当時の民族意識が何によって規定されていたのかは、大変に興味深いです。
    楚人や呉人は東南アジア系に近かったりしたみたいですしねー。五渓蛮なんかは異民族扱いですが、ナシ族の祖先でしたか。

    匈奴のアタマからシッポまでが漢文化を受容したわけではないでしょうから、一般の兵士はやっぱり遊牧文化を濃厚に残していただろうしなー。

    色々考える余地がありそうですね。

    しかし、時系列の入れ替えをかなりやってるんですねー。『II』ではあからさまな入れ替えがあったので苦笑いでしたが、かなり細かくイジってるんですねえ。

    これだけ漢と晋のタッチポイントが増えると、たしかに話としてはややこしくなります。司馬睿、劉曜、石勒を軸に語った方が話としてはシンプルになりそうですけど、取りこぼしが多くてイヤだったんでしょうかね。欲張りですなあ。