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2019年1月19日 20:49
西晋の完全滅亡とともに、いよいよ、東晋の建国がはじまり、北漢もまた衰亡へと進んでいきます。劉聡は、おそらくは漢の後を継いだ天下統一をあきらめるとともに、保全を考えたのでしょう。このまま、北漢が勝って行っても、石勒と劉曜の勢力が強くなるばかりで、北漢自体がどうやっても弱体政権であることは免れないからです。例え天下を統一しても、中国の東半分を石勒に、西半分を劉曜にやったのでは、韓信と項羽を王として臣下にしたようなもので、安定は得られません。石勒と劉曜の後継者となるであろう石虎と劉胤もまた、優秀な人物で、劉燦では対抗できません。そのため、積極的な姿勢はあきらめ、守りに入ったものと考えます。とはいえ、そんな後ろ向きな姿勢では緊張を保てるはずもなく、元々、好きな酒と淫楽にふけったものでしょう。また、遊牧民に多く見られる一族での後継者争いに、漢人の謀略が加わったわけですから、朝廷が伏魔殿となったのは、ある意味当然でしょう。今回の劉聡の堕落は、封神演義の紂王を想起させるほどのもので、演義補正を失った蜀漢功臣子孫たちの上奏は無力であり、陳元達もついに自殺して果てました。続三国志演義─通俗續三國志─第六十九回の意気揚々と北漢に仕えることに決めた彼を思い出すと悲しくなります。劉義については、本来なら、劉淵の兄弟?であったはずですが、ここではすでに劉聡の弟となっていますね。ここは史実通り、劉聡の弟は劉乂にするか、難しいところです。あえて、そのままにしておくのがいいかもしれません。
作者からの返信
こんにちは。確かに、漢はなんか急激に弱くなりましたねえ。作中では劉聰の放漫と宿将の離脱で説明されるわけですが、実際はどうだったのかなあ。史料を読み込んだわけではないので、史実には印象論くらいしかないのですが、五胡時代の遊牧民にとっての河北の成長限界点だったかも知れないなあ、と。騎馬を主体とする軍勢には沼沢地や山岳での優位性がありませんから、これらが入り組んだ土地では、平野部を線的に押さえられても面的制圧は難しかったのでしょう。結果、河北や関中の渭水沿岸は押さえられても、淮水南岸や漢沔地域では水に阻まれ、漢中や隴西界隈では山に防がれて領域を拡大できなかった、のかも。こう考えると、晋人は騎馬が攻めにくい空白地域に拠って抵抗を続けられた、とも理解できますかね。『中国歴史地図集』で五胡の版図をボケーっと眺めていると、淮水の南は前秦や北魏でさえ安定確保できていないですね。一方、漢中方面の軛は氐族の前秦により破られて巴蜀をも押さえていますが、氐族は羌族と同じく山間の半農半牧民だったようですし、仇池や武都あたりにいたわけですから納得。山岳戦は得意分野だったはず。あと、匈奴漢は興隆期の鮮卑に北を押さえられたのも大きいですかね。遊牧民の勢力は短期間に急成長しがちですから。しかも、勢いもありますし。このあたりは、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』 (東洋文庫)で色々と検討されていて楽しいです。文化的なミクスチャーは社会に活力を与えるようで。英雄譚は創作としては楽しいですが、史実の裏側にある大きな流れは顔がないような気がしますね。だからこそ、歴史小説は顔を与えるために英雄譚として単純化されるのかも知れません。いいこと言った。〉陳元達残念ながら退場ですね。この先を見ずに済んでよかったのか、彼の退場が北漢の終焉を意味したのかは解釈次第です。前半の流浪の時代を経た方々の退場が続きます。〉劉義あー、久々だったから油断してました。暇を見て揃えておきます。チョイ役なんで、無用の混乱は避けたいところです。
西晋の完全滅亡とともに、いよいよ、東晋の建国がはじまり、北漢もまた衰亡へと進んでいきます。
劉聡は、おそらくは漢の後を継いだ天下統一をあきらめるとともに、保全を考えたのでしょう。このまま、北漢が勝って行っても、石勒と劉曜の勢力が強くなるばかりで、北漢自体がどうやっても弱体政権であることは免れないからです。例え天下を統一しても、中国の東半分を石勒に、西半分を劉曜にやったのでは、韓信と項羽を王として臣下にしたようなもので、安定は得られません。石勒と劉曜の後継者となるであろう石虎と劉胤もまた、優秀な人物で、劉燦では対抗できません。そのため、積極的な姿勢はあきらめ、守りに入ったものと考えます。
とはいえ、そんな後ろ向きな姿勢では緊張を保てるはずもなく、元々、好きな酒と淫楽にふけったものでしょう。また、遊牧民に多く見られる一族での後継者争いに、漢人の謀略が加わったわけですから、朝廷が伏魔殿となったのは、ある意味当然でしょう。
今回の劉聡の堕落は、封神演義の紂王を想起させるほどのもので、演義補正を失った蜀漢功臣子孫たちの上奏は無力であり、陳元達もついに自殺して果てました。続三国志演義─通俗續三國志─第六十九回の意気揚々と北漢に仕えることに決めた彼を思い出すと悲しくなります。
劉義については、本来なら、劉淵の兄弟?であったはずですが、ここではすでに劉聡の弟となっていますね。ここは史実通り、劉聡の弟は劉乂にするか、難しいところです。あえて、そのままにしておくのがいいかもしれません。
作者からの返信
こんにちは。
確かに、漢はなんか急激に弱くなりましたねえ。作中では劉聰の放漫と宿将の離脱で説明されるわけですが、実際はどうだったのかなあ。
史料を読み込んだわけではないので、史実には印象論くらいしかないのですが、五胡時代の遊牧民にとっての河北の成長限界点だったかも知れないなあ、と。
騎馬を主体とする軍勢には沼沢地や山岳での優位性がありませんから、これらが入り組んだ土地では、平野部を線的に押さえられても面的制圧は難しかったのでしょう。
結果、河北や関中の渭水沿岸は押さえられても、淮水南岸や漢沔地域では水に阻まれ、漢中や隴西界隈では山に防がれて領域を拡大できなかった、のかも。
こう考えると、晋人は騎馬が攻めにくい空白地域に拠って抵抗を続けられた、とも理解できますかね。
『中国歴史地図集』で五胡の版図をボケーっと眺めていると、淮水の南は前秦や北魏でさえ安定確保できていないですね。
一方、漢中方面の軛は氐族の前秦により破られて巴蜀をも押さえていますが、氐族は羌族と同じく山間の半農半牧民だったようですし、仇池や武都あたりにいたわけですから納得。山岳戦は得意分野だったはず。
あと、匈奴漢は興隆期の鮮卑に北を押さえられたのも大きいですかね。遊牧民の勢力は短期間に急成長しがちですから。しかも、勢いもありますし。
このあたりは、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』 (東洋文庫)で色々と検討されていて楽しいです。文化的なミクスチャーは社会に活力を与えるようで。
英雄譚は創作としては楽しいですが、史実の裏側にある大きな流れは顔がないような気がしますね。
だからこそ、歴史小説は顔を与えるために英雄譚として単純化されるのかも知れません。
いいこと言った。
〉陳元達
残念ながら退場ですね。
この先を見ずに済んでよかったのか、彼の退場が北漢の終焉を意味したのかは解釈次第です。
前半の流浪の時代を経た方々の退場が続きます。
〉劉義
あー、久々だったから油断してました。暇を見て揃えておきます。チョイ役なんで、無用の混乱は避けたいところです。