わからないを知る

 あなたの言っていることは難しくてよくわからない、と言われたことが何度かある。

 もっともなことだと思う。


 わたしは言葉を使うことはあまり得意ではないし、なにかを強い言葉で言い切ってしまうことを意識的に避けている。

 自分の意識の中でふよふよ漂っていることをそのままにしておくと胸に石が詰まったように息が苦しくなってくるので思考の整理のために抱えきれないことを好きに書いていることがほとんどで、『わかるように伝える』ことを前提としていないそれはただの暴力だ。

 それでも残すのは、ただ『誰かに向けたもの』として存在してほしい、誰かに聞いてほしい、そうすれば安心できるからだ。

『あなたの言っていることがよくわからない』の後には大抵同じ言葉が続く。

『──あなたがなにかにすごく真剣に向き合っていたり葛藤していることは伝わってきた』

 優しい人に支えられてきたのだな、と思う。それらに対してなにひとつ報いることの出来ない自らの愚かさも、もちろん。



 わからない、と直接そう伝えられた時、もしくは暗に接する人の態度からそう感じた時は当然寂しいし、悲しい。

 それでもそれは、『わかるように伝える』ことを怠っているわたしが当然背負うほかない責任だ。

 もし、心と心で話したいとそう願うのなら『わかるように』話すべきなのだ。

 思考を投げ出す際には不親切極まりないことに定評のあるわたしではあるが、物語を語る際には『伝わる』ように書きたいと思っている。

『届けよう』とひたむきに綴られてきた言葉や想いにいくつも力を貰ったように、わたしもまた、そういったものを残せるようになりたいからだ。

 物語にすらならないことを『伝える』ことが果たして出来るのかどうかは、いまこうして考えている途中だ。


 わたしにだって、感性の問題ではなく、自身の知識や教養のなさに起因する『わからない』ことは幾らでもある。

『わからない』の壁にぶつかった時、自身の至らなさに向き合わなければいけない寂しさや無力感を感じる。

 それでも、『わかる、わからない』の壁を悠々と乗り越えて『伝わる』ものはある。

 心で感じる喜びや驚きをくれるものを、わたしは心から愛している。

『わかる』ようになるための知識や教養を身につけることとともに、『感じる』ことの出来る感性を身につけられたらいいのだろうか、と時折考える。





 以前知人と話をしていた時、あなたが以前話していたことが難しくて何を言っているのかよくわからなかった、と言われたことがあった。

 正直あまりいい気分ではないので、なぜそんなことをわざわざ言われなければいけないのだろうかと思った。

 それでも、その先に続いたのは『だからよければわかるように話してほしい』という旨の言葉だった。


『何を言っているのかよくわからない』に慣れてしまった身には、『わからないので説明してほしい』と言われたことはとても新鮮で、驚きと喜びがあった。そういった形で、一種の歩み寄りを得たのは自分で憶えている限りは初めてのように思えたからだ。


 おそらく当人は憶えていないのかもしれないし、憶えていたとしても、ただ自然に口をついて出た言葉に過ぎないのかもしれない。

 それでも、わたしはそのことをとても大きな出来事としてはっきりと『憶えて』いる。


 きっとそんな風に、わたしが何気なく口にした言葉にも、受け手になってくれた方の中で形を変えて残っているものはあるのだろう。

 いい意味でも、悪い意味でも。


 間違わないことや正しくあり続けることが無理でも、叶うのなら、大切にしたいと思える人には優しくありたい。

 自分がそうして何度だって救ってもらったように。

 そんなことを、よく考える。

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