遠ざかる光
日々流れていくツイッターのタイムラインでは、ほかの人からはきっとそうとはわからなくとも、忘れられないかけがえのない瞬間に立ち会える時がある。
わたしにとってのそれは、数年前に見た一枚の写真だった。
四十歳の誕生日は自然の中で充実した時間を過ごしたという報告とともに添付された写真には、初めて出会った時には二十代だったその人が、明るい日差しの中で水遊びをしている姿が映し出されていた。
途方もない安堵感とともに胸がいっぱいになったあの感情の鮮やかさを、わたしはいまだに忘れられずにいる。
十代で出会ったその人の生み出す音楽や言葉は、いちばん苦しかった時の自分の心に静かに寄り添ってくれる宝物のような存在だった。
穴が開きそうなほどに真摯に自分を見つめ、内面の奥深くに潜っていくことでしか生まれえない切実さを孕んだ美しい音楽と歌声、少年のように無邪気な初期衝動と喜びに身を任せてギターを奏で歌う姿、痛ましいほどに華奢な身体のどこから生まれるのだろう、というエネルギーの塊のようなその佇まいはわたしを強く惹きつけて離さなかった。
新しい作品を発表するごとにあらたな音楽スタイルを手にしていく彼のすべてを受け入れることは出来ず、やがて自然と離れていってしまったわたしは決して良いファンとは言えないのだと思う。
それでも、人生の大切な時間のひと時に寄り添い、抱えきることの出来ない痛みや不安や迷いをそっと救ってくれた作品を生み出してくれたその人は本来ならはるか遠い存在でありながらも、まるで身近な友達のようにかけがえのない特別な想いを寄せる相手であることは変わりはないままだった。
音楽雑誌やインターネットの情報サイトの片隅で彼の活動のようすを見るたび、縁を繋ぎ続けることが出来なかった大切な友人の近況を耳にしたような、どこかしら晴々とした寂しさと不思議な穏やかさをしばしば感じていた。
ソロユニットの活動を終了したそののち、新しく立ち上げられたプロジェクトでの彼のSNSのアカウントを見つけてフォローしたのも、ひとえにもう会えなくなってしまった大切な友人の近況をそっと盗み見るような、そんな気持ちからだった。
2011年、3月18日。
東日本大震災の一週間後に彼のブログが更新された、とSNSに投稿されていた。
「最愛の人を亡くされた方へ」と冠されたその記事を読んだわたしはひどくショックを受けた。
自身もまた、数年前に最愛のパートナーを亡くしていたこと。
その際にも決められていたリリースやイベント、レコーディングの日程をキャンセル出来ずに活動を続けていたこと。
いっそのこと後を追って命を絶ってしまいたい、と思うほどに思いつめ、『地獄の日々』を過ごした彼が愛する人から受け取った大切な宝物と向き合い続けたその結果、生きる意味を見出し、絶望の淵から希望へと手を伸ばすことが出来たのだということ。
そうした自身の実体験を語ることで、悲しみの淵にいる人にすこしでも希望を届けたかったということが、まっすぐでやわらかな意志の込められた言葉でそこには綴られていたのだ。
あんなにもナイーブで優しい人が、なぜそんなにも辛い目にばかり遭わなければいけないのだろう。
ずっと敢えて公言せずにいたこれだけの悲しく痛ましい過去を告白することはどれだけの勇気が必要だったのだろうか。
それでも敢えてそれを「選んだ」彼の強さと優しさに、胸が引きちぎられるような苦しさを憶え、どんなふうに気持ちを整理すればいいのかがわからなくなってしまった。
ただひとつ言えることがあるのだとすれば、「途方もない優しさを分け与えてくれてありがとう」の気持ち、ただそれだけだったように思う。
衝撃的な、それでいてなによりもの勇気と愛を手渡してくれた『告白』を受け取って暫く経ったころ、SNSにアップされたのが四十歳の誕生日を迎えた報告とともに、川縁で水遊びをする写真だった。
そこにいたのはあの頃の、新しい作品を発表するたびに身体も心も限界まですり減らしていたことがありありと伝わってきた二十代の頃の彼とはまるで違う、陽の光を浴びて健やかに笑う彼の姿だった。
どれだけの痛みや苦しみや困難にうちひしがれても、どれだけの悲しみに襲われても、それでもこの人はあんなにもまっすぐすぎるほどの切実さで自分に、愛する人から受け取った想いに向き合い続け、自らの手で困難を打ち砕くことを、『希望』を形にして行くことを選んでくれた。
そうしていま、こんなにも晴れやかな姿を見せてくれている。
遠く離れた場所で生きる人のその姿は、まばゆいほどの希望の光に満ちて見えた。
お誕生日おめでとう、わたしを幾度となく救ってくれたあなたがいまこうして健やかに日々を過ごしていることを知ることが出来てほんとうに嬉しいです。
生きていてくれて、ほんとうにありがとう。
心からそう思ったのと同時に、どうしようもなく複雑な感情に襲われたことを、いまでもはっきりと憶えている。
言うまでもなく、その人の人生はその人のものだ。
遠い場所で生きる、会うこともないはずの他人に一方的に幸福を祈られることは果たして『正しい』ことだと、ほんとうにそう言えるのだろうか。
それは他者の痛みや苦しみに寄り添おうとせず、一方的に自分の痛みを都合よく他者のそれとすり替えての搾取行為に過ぎないのではないだろうか。
それは結局のところ、呪いとどう違うと、そう言えるのだろうか。
途方もない安堵感と共に味わった息が詰まるような想いは、それからも暫くの間、ずっと向き合い続けなければいけない感情のひとつだった。
正体不明の見えない怪物のようなその存在に傷つき、怯え、自らの手によって手に負えない『怪物』を生み出してしまった自身のことを責め続けてさえいれば一旦はそこから『逃げる』ことが出来るはずだと、きっとそう考えていたのだと思う。
そんな風にして振り返ることが出来る程度に、わたしはもうあの頃のわたしを自分の中から喪ってしまった。
それはすこし寂しいことではあるけれど、決してただ虚しく悲しいことではないのだと、いまただそう思っている。
人は絶えず移り変わり続ける生き物だ。
そんな風にして『変わってしまった』ことで喪うものがあり、共にいられなくなってしまう人はどうしても現れる。
それでもなによりも大切なことはきっと、ただ悪戯に喪ってしまった悲しみに溺れることや後悔にしがみつくことではなく、通り過ぎてきてしまった大切な時間、そこで得た宝物が自分に残してくれた感情をきちんと見つめ、『いま』を生きていくことなのだと思う。
どれだけ遠ざかってしまったとしても、会えなくなってしまった人が残してくれたやさしい光は、いまだまばゆくわたしの中で輝き続けている。
それらを見上げるたび、わたしのいびつな冷たい心はかすかなぬくもりを憶えるのだ。
どんなにかすかな物でも構わない、わたしもまた、そんな風に、すれ違ってきた誰かの心にかすかな光を残せる人になりたい。
それがきっと、わたしがなによりも願って止まない『希望』なのだと思う。
幸福であれとあなたを祈るとき冷たい棘は虚空に浮かぶ
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