花びらの舞う春の日
去年まで住んでいたところでは毎朝の通り道でそれは立派な桜並木を見ることが出来たため、どこかに改めて花見に出かけようという気には特にならないまま、満開の桜を見送る日々を過ごしていた。
桜の花はいつもそんな風にして視界を当たり前のように通り過ぎ、生き急ぐように去っていくものだと感じていたから、今年は花見のために出かけた場所以外でもほうぼうで桜を目にする機会に恵まれ、まるで一生ぶんの桜を堪能したような心地でいる。
青空の下で淡く溶けるような薄桃色の花があちらこちらで咲き乱れ、風に揺れ、花びらは軽やかに宙を舞う。
視界いっぱいに満開の花が咲き誇るその光景はどこかしら現実感を希薄にさせる、夢の中の景色のようだった。
今年の春に、特に印象に残った桜の風景がふたつある。
いまの家のまわりでは桜をあたりまえのように目にすることが出来ないから、と桜の名所にはるばる出かけた日の帰りのことだ。
選挙の投票日だったその日、初めて訪れた投票所は数年前に少子化のあおりを受けて廃校になったという小学校だった。
なにもかもがこじんまりとしておもちゃのように見えた見慣れない小学校の校門をくぐってすぐに迎えてくれたのは、満開の桜と花壇の花々だった。
どこもかしこもぴかぴかの建物はもう通う子どもがいないのだということなど微塵も感じさせない白々しさで、そんな空間に、きっと何十年ものあいだ、子どもたちと、彼らを見守っていた大人たちを迎えていたのであろう桜が満開になって咲き誇っているのはどこか寂しくて、それでいてとびきりのあたたかさを秘めているように感じられた。
あのきれいに咲き誇る花壇はいったい誰が手入れをしているのだろう。
本来の役目を終えたその後も、この場を守る人がいるのだと感じさせてくれたあの光景は、風に揺れ、花びらを舞わせる満開の桜の花々とともに、忘れられない春の風景として胸に焼きついたままだ。
桜はもうあれで見納めだろうとたかを括り、ぼんやりと頭の片隅に満開の花々の姿を焼き付けて過ごしていたある日、会社帰りに電車を降りたその時、ホームのアスファルトの上に点々と落ちている白い紙くずのようなものが目に入った。
誰かが散らかしたのだろう。そう思って見過ごしてしまいそうになったその時、よくよく見ればそれが、線路の脇で満開になった桜が散らした花びらであることに気づいた。
ああ、あの花々はここまで春を運んできたんだ。
そう気がついた途端に目の前に広がった景色は途端にあたたかな色を帯びてくるのだから不思議だ。視線を上げたその先には、街灯に照らし出された桜の花が映し出されていた。
二度とない今年の春、今年の桜を思う存分に満喫したその後、目にしたもの、感じたものを形にして残しておきたい衝動に駆られ、短い小説を書いた。
わたしの生きているこの世界と地続きのどこかで生きているはずの『どこにもいない』彼らもあの花を見ていれば、そこで感じられるものをわたしに見せてくれればと思ったのかもしれない。
どうしてそれらが現実のわたしのまなざしをなぞらえるものではなく、架空の存在である彼らの捉えたものでなければいけなかったのかは、わたし自身にもなぜなのかなんてよくわからない。
ただどうしようもなく物語というものが好きで、物語という存在に救われている証なのだろうと思う。
昼間、仕事をしているあいだはもっぱら持ち込んだiPodで音楽を聴きながら過ごしている。
ある日ふと、ランダム再生にしていたイヤホンから流れてきたのは、さくらの花びらの舞い散る日の一場面を軽やかなハミングで歌う高野寛さんの歌声だった。(MEMORANDUM#1 「ハルノヒ」)
高野さんがいつか目にした風景と同じ季節をわたしもまた目にしながらこうして生きているのだと思うと、その偶然の導きになんだか胸がいっぱいになってしまった。
時を超えて、『いつかの春』が重なり合う。まなうらでは、光に包まれるようにしながら無数の花びらが舞う。
花びらの舞い踊る、穏やかな春の日。
言葉とメロディに載せて届けられたその光景に導かれるようにして、わたしの中でもいつしか、聞いたことのないフレーズがやさしく鳴り響いていた。
心の奥で静かに鳴り響くメロディを携えながら、導かれるままにわたしは言葉を紡ぐ。
そこには、わたしだけが鳴らすことのできるやわらかく響く音色が刻まれていて、それはいつだってなによりも、わたしを安堵させてくれる。
願うことが許されるならそれが、誰かの胸の中でもやわらかく優しく響き、共鳴してくれるような音色として届いていればいいのにと、そう願わずにはいられない。
その願いをより確かなものにするために、わたしはきょうもまた、心に響いたこの音を鳴らすための言葉を探している。
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