walking in the rhythm.



 昨年の12月に小林建樹さんのワンマンライブのために3年ぶりに東京に行った翌月、12月のライブのアンコールで発表された高橋徹也さんと小林建樹さんの6年半ぶりのツーマンライブのために、たった一ヶ月のスパンでまた東京へと赴いた。

 先の見通しが立たない(おそらくいまよりも状況が良くなっているとは思えない)から、という理由から関西で行われるライブにもこの三年ほぼ足を運ばず、対面形式の同人イベントにも一切参加をしていないという状況の中、我ながら、金銭的な面でも健康へのリスクの面でも無謀だな、とは何度も思った。

 それでもその『暴挙』に出たのは、どうしてもこの機会を逃すわけにはいかない、という衝動に駆られたからにほかならなかった。

 無事に当日を迎えられるまでは、心から楽しみに思う反面、言葉では言いあらわせない不安に埋め尽くされ、ただひたすら心の中は混迷を極めていた。


 ライブに行けない(行かない)三年の間、おどろくほどに音楽を聴きたいという気持ちが抜け落ちてしまった。

 情報収集や交流のために使っていたTwitterのアカウントには、そもそも呟きたいことがないからログインすらしない、行き来が面倒だから、と創作用のアカウントからも大抵のミュージシャンをフォローしているために情報は入ってくるが、『その気』になれないから配信ライブがいくら行われていても滅多に見ない、新譜がリリースされたらしいが買わないし聴かない、プレミアム会員費が毎月引き落とされているSpotifyでも時折アニメのキャラクターソングをリピートするくらい、と、人生の一部分を預けていたはずの大切なものからぷっつりと脱落してしまったような日々を過ごしていた。


 ただどうしようもなく不安で、身動きを取れないまま、幾重にも折り重なった糸に絡め取られているかのような気分が続いていたのだと思う。

 頭を、心を預けて音楽に没頭したいと思う強い気持ちはすっかり薄れてしまったらしく、イヤホンから流すのはいつしか、軽妙なおしゃべりの繰り広げられるラジオ番組ばかりになっていた。

(親しい人たち同士の笑い声の行き交う他愛もない、それでいて時折ハッとするような確信をついてくれるような言葉の行き交う人間味あふれる優しいやり取りは、ぼんやりとした逃げ場のない息苦しい日々を何度となく救ってくれた。そのことにはとても感謝している。)


 不安な気持ちを抱えたまま、三年ぶりに訪れた東京、六年ぶりに開催された小林建樹さんの有観客ライブ(最後のライブとなった六年前に行われたのが、一月後に共演をを果たすことになる高橋徹也さんとのツーマンライブだった)はいまこの時、改めて自身の表現に向き合い、音楽を届けることへの信念をまっすぐにこちらへと手渡してくれる素晴らしいパフォーマンスだった。

 あまりにも強く心を動かされたこと、感情の奥底から溢れ出した大切な思いについて、きちんと順序立てて自分の言葉で書き残しておきたいという衝動に駆られたことをきっかけに、放置したままだったウェブサービスのアカウントを取り直し、元のサイトから過去の記事を移行して再構築した上で三年ぶりにライブの感想を綴ったブログを書いた。

 流れから足を止め、自分の時間軸に身を置いて文章を書くことはTwitterのつぶやきの流れの中に自身の中に溢れだして留まることを知らない感情を走り書きのように残していくことはまるで違っていて(あのスピード感の中でだからこそ打ち明けられる、自分の中から切り離してアウトプットできる言葉や想いがあることは読む側・書く側としてもとても面白く思っている)、のびのびと自由に思考を、感情を羽ばたかせることが出来る。

 そのようにして頭の中から取り出した言葉は、大切な思いに居場所を、感情を増幅させる装置としての役割を、幾度となく安心して帰ることの出来る場所をわたしに渡してくれる。



 頭の中ではいつも、気がつけば文章を組み立てていて、心の中は言葉で埋め尽くされている。

 それでも、わたしは芸術を生業としているわけではなければ、言葉と感情に向き合い、日常的にそれをアウトプットしようという気概も持ち合わせていない。(このエッセイらしき散文の更新がぷつりと途切れたかと思えば、年単位の間をおいてこうしてなぜか唐突にあたらしく投稿されるところを見てもそれは明らかだ)

 そんな自分が、どうしてもこのことを書きたい、書かずにはいられないという衝動を受け取らせてもらえたのは本当に大きなことだったのだと思う。

 音楽という芸術が、メロディに載せられた言葉から受け取る感情やそこから浮かび上がる景色がどれだけ自分にとってかけがえのないものなのかを改めて思い知らされた、とても大切な経験になったように思う。

 いまの自分には受け止められない、必要と感じられないから、とほぼ手放してしまっていた音楽への興味を、わたしは三年ぶりにやっと取り戻しつつある。

 散々悩んだ挙句、半年後に行われるライブのチケットも既に抑えた。

 不安はいまだに付き纏う、『もうここまで我慢してきたのだから元に戻っていいはずだ』とは思ってはいない。

 それでも――ゆっくりと確実に、この三年の時間の中で諦めてしまったもの、一時的に手放さざるを得なかったものへともう一度手を伸ばしたい、と思う気持ちがいまは大きい。



 基本的にブログとTwitterは口語体で書いているが、こういった形のかしこまった文章は比較的かっちりとした文体でしか書けない。

 意識して『作っている』わけではなく、自分の感情の中から『普段の口語体のわたし』が口に出すことをためらわれるような、あまり人に話す機会のない類の感情を紐解く場所を設けようとすると自然とこうなってしまう、としか言いようがない。

『自分にとって不都合で重荷にしかならないけれど切り離してしまうことのできない感情』は気づいた時にはいつもそばにあり、それらのいくつかは小説や短歌になり、物語にすらなることのできないいくつかの取り残された感情はこうして取り止めもない言葉になる。

 自分で言うのもおかしな話だが、つくづくアンバランスな人間だとは思う。実際に過去には、作品と当人のキャラクターに整合性がない、といった類のことをよく言われた。

 わたし自身が『表向きの自分』として表出させたい・させることのできるキャラクターと自身が作品を通して伝えたいこととの間の距離感に悩んだことはいくらだってある。

(このシリーズの最初に書いた文章は、そういった感情がいまよりもずっと強かった時期なのもあり、書いている間も書き終えた後もいつも頭痛がするまで泣いていた。それでも書かずにいられないほどに何かに掻き立てられていた、としか言いようがない)

 いまとなってはそういったことがらの幾つかを、色褪せた思い出のように懐かしむことができるようになった。

『なかったこと』には出来なくとも、作品として送り出すことで居場所を与えられたこと、小説や文章を書くこと、それらを通して出会えた人たちがたくさんの感情をわたしへと手渡してくれたことが、わたしを動かしてくれるきっかけになったのだと思う。すべての出会いに、心から感謝している。


 変わり続けること、心がとらえたことを留めるために、わたしはここで気まぐれに、物語になることすらできないことを書き残している。

 書き続けることは、同じ場所にいられないのだということの一抹の寂しさと喜びの両方をわたしに教えてくれる。


 いつかの先の未来では、もう少しばかりは口語のリズムや温度感で綴った言葉をあなたに聞いてもらえるようになる日がくるのかもしれない。

 もしかしたら出会えるのかもしれない『その日』のことを楽しみに待ち侘びながら、こうして『らしくない』文章をきょうはここで締め括らせてもらう。

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わたしは小説が好きなので小説にも少しくらいわたしのことを好きになってほしい 高梨來 @raixxx_3am

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