明日

 まるでやけ酒でも呑んだみたいに、僕は泥のように眠った。

 翌朝、いつもより早く目覚めて不図ふと思い出したのは、昨夜忍び込んだ教室に落し物をしてきたことだった。眼鏡だ。慌てて飛び出して帰ってきてしまったから、まったく気がつかなかった。

 迷った挙句、私服で取りに行くことにした。

 誰かに見つかったら、正直に忘れ物を取りに来たと言えばいい。黒板の書き込みとは関係ない振りをして行けば済むことだ。


 吹っ切る為に夢中で書いたことの効果なのか、少し頭がすっきりした気分だった。

 悲しみというか虚しさというか、やるせなさは拭いきれないけれど、とりあえず冷静に動くことは出来る。

 なるべく目立ちにくい服を選んで、授業が始まる時間を狙って学校へ行った。昨日卒業したばかりの母校へ行くのは何だか変な気持ちだなと今更思いながら、自転車に乗って風を切る。春の陽射しが暖かい。


 さり気なく自転車を停めて、静かに教室へ入ると、剥がした飾りも昨夜のままの状態で置いてあり、黒板には痛々しい長文が書かれたままだ。当たり前だが、卒業式の明日の黒板とは思えない禍々しいまでの情念が貼り付いているようで、我ながら、ちょっと引く。

 だが、やや後ろめたい気持ちで見た黒板の後ろのほうに、僕は、覚えのない文字が書き込まれているのを見つけた。

「えっ?」

 思わず、黒板に顔を近づけて、物語の続きのように書き足された文章を読んだ。


 ◇


 春子は、幼い日々の思い出に縋るのは未来の為にならないと思い、心を鬼にしてさよならと言いました。あの日の小さなナツくんに向けて。

 もうどんなに足掻いても間に合わないけれど、目の前に居て、柔らかな眼差しで私を見ている少し背の高い男の人は、私のよく知っている幼い子供のナツくんではありませんでした。

 いつの間にか、彼はすっかり大人になって、私の手を温めてくれた大きな手は、がっしりと硬くて本気で握れば私の手なんか潰してしまえるくらい力強くて、それなのにふんわり優しく大切なものを包むように握ってくれた感触を、私は死ぬまで忘れないでしょう。


 夏男、私も好きだったよ。


 私は、両親について行く形で海外に旅立ちます。一人では暮らせないとか、親の言いなりとかではなくて、ちょうど良いタイミングだから。

 私は語学を極めたい。そしていつか、またここへ戻って、習得した力を活かして自分なりに生きたいと思うから。

 心残りが嫌だと言ったのは本当です。

 誰にも縛られたくないし、縛りたくもない。約束とか、期限とか、そういう足枷みたいなものを残したくなかった。私は、自由にあなたを想っていたい。我儘を許してください。

 また会えたらいいね。気持ちでは、どこかでそう思っています。でも、約束はしないで。


 あなたの未来が素晴らしいものになりますように。二人の未来が、良いものでありますように。ずっと、祈っています。


 春子


 ◇


 僕は、野山を駆け回るハルちゃんが大好きだった。そして、世界に羽ばたく春子が、やっぱり大好きだと思った。

 忘れることなんて出来ない。だったら僕も、またいつか会えたらいいねって、どこかで思いながら、のんびりここで生きるよ。

 誰も居ない教室で、黒板をガン見しながら、僕は薄ら笑っていたんだ。君の気持ちがわかって嬉しかった。やっぱり、大好きだよ、春子。


 暖かな陽射しの降る方向に目をやると、窓から清々しいほどに晴れ渡る空がよく見えた。

 嘘みたいな演出で、青空に飛行機が飛んでいる。この辺りは飛行機の通り道なのだろうか。

 不思議な偶然に見とれていたら、何だかそこに春子が乗っていて、僕に手を振っているような気がした。

 僕は、誰も居ない教室から、大好きな春子に向けて大きく手を振った。


 二人の未来が良いものでありますように。

 僕も、ずっと祈ってる。


 ありがとう、春子。




 -了-



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明日の黒板 青い向日葵 @harumatukyukon

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