ナツ
あっという間に、試験も終わり、僕等は卒業の日を迎えた。
僕は第一志望の国立大学に無事合格して、ひとまず親も安堵していた。頑張れば自宅から通うことも可能なキャンパスだ。バイトして一人暮らしが夢だけど、ゆっくりやっていこうと思う。
進学校の卒業式なんて味気ないものだ。淡々とマニュアル通りに式典が終了して、部活の後輩が久しぶりに駆け寄って来る。因みに僕は文芸部だった。
呆れるくらい小さな部室と影の薄さが特徴の殆ど忘れられた部だったが、後輩は可愛い奴ばかりで居心地がよかった。
尤も、二年生の二学期で引退という儚い部活動である。思い出というほどのインパクトもない。ただ、話の合う仲間とは、これからも長い付き合いになるだろうという予感はあった。
「ナツ先輩、卒業おめでとうございます」
「第二ボタン下さい!」
「うわー、ボタン無くなっちゃってる……袖口のは、あっ、ここの第二ボタン下さい!」
こんな僕でも制服のボタンを全部取られてしまった。たまたま文芸部の後輩が女子ばかりだから、冗談みたいなものかもしれない。もう誰も着ることのない制服だ。遠慮なく持って行ってくれ。
それより、僕には大事なことがある。
陽だまりの中庭で、春子を探した。陸上部の輪の中に、背の高い彼女の艶のある明るい色の髪が見えた。真昼の光を浴びて輝く柔らかな髪が映画のシーンのように完璧な絵になって、人混みの合間から覗いた目と僕の目が一瞬ばっちり合った時、春子は懐かしいハルちゃんの笑顔で手を振ってくれた。一人で、こっちへ歩いて来る。
「ナツくん、モテモテじゃん」
「あ、これはね全部、部活の後輩だよ。義理みたいなもんだろ」
「義理で先輩のボタンなんか貰うわけないでしょ」
春子は楽しそうに笑うと、僕を促すようにしてそのままゆっくり歩いた。
並んだ二つの影は、ほぼ同じ長さで寄り添い、いつかの遊び疲れた子供たちの夕暮れの帰り道を思い出させる。
だけど今は、高校生活最後の昼下がり。僕等は、ただの他人同士だ。
半分花の散った何だか寂しい桜の木の下を進んで、
ひんやりと空気と同じ冷たさの細い手は、僕の手にすっぽりと収まるほど小さくて、ぐいぐい引っ張られた昔の勢いは跡形もなく消えていた。今更だけど腕も足も肩も首も、すべてが華奢に見えて驚く。春子は、もう幼い子供ではない。ほぼ大人の女性なのだ。
「三年間、あっという間に終わっちゃったね」
「うん」
静かな返事は、彼女らしくない。何も歳の所為だけではないような気がした。
「ハルちゃん」
「なあに、ナツくん」
僕等は、手を繋いだまま、何となく立ち止まった。
「今更だけど、僕は、やっぱり君が好きだ。ずっと、好きだった」
「……ありがとう」
「進学、どこに決めたの」
「あのね……私、両親と一緒にアメリカへ行くことになったの」
春子は、目を逸らしながら棒読みのような口調で言った。
「そう、なんだ……」
予想もしない答えに、僕は言葉を失う。
「ほんとは、誰にも言わないで行くつもりだった。寂しくなるから。でも、ナツくんには言えてよかったかな。小さい頃いっぱい遊んでくれてありがとう。大好きだったよ。あ、だった、じゃないか。好きだよ。だけど、私は新しいところに踏み出さなくちゃいけない。心残りは嫌なの。ごめんね、楽しかった思い出だけ持って行くね。ナツくん、さよなら」
春子は、一息に言うと、昔のように両手で僕の手をぎゅっと握ってから、にっこりと微笑んで去って行った。
その後ろ姿があまりにも綺麗で、僕は無様に追い縋ることなど出来なかった。それどころか、一歩も動けないまま、呆然と去りゆく彼女をいつまでも、姿が消えてもまだ、ぼんやりと同じ方向を見ていた。
さよなら。
左様ならば、何だと言うのか。もう会えないなんて、とても考えられない。
この三年間、僕は何をしていたのだろう。
結局、彼女の気持ちはわからない。好きだと言ってくれたのは多分、嫌いではないという意味だ。それくらいは知っていたさ。
だから、思い出に胡座をかいて、大切なことを先延ばしにしていた。終わりがあるなんて想像出来なかった。いや、まだ出来ない。きっと、永遠に無理だ。
ハルちゃん、待ってよ。行かないで。
幼い子供の頃みたいに、大声で泣きたい気分だった。
彼女には何の落ち度もない。ただ僕の不甲斐なさが憎らしくて、悔しくて、泣きたくなったけど、涙なんて出てこなかった。僕も知らないうちに出来損ないの大人になりかけていたんだ。
あの日の情熱を何処かに置き忘れて、一番近くにあった大切なものを見失って。どうすることも出来なくて。
どうやって家に帰ったのか記憶になかった。
僕は、家族が寝静まってからこっそり抜け出して、高校の校舎に向かった。ただの思いつきだ。
思ったより簡単に忍び込むことに成功すると、僕は教室の黒板に残された「卒業おめでとう」と書かれた飾りの類を静かに剥がし、教卓に積み上げて、黒板を隅々まで拭いてリセットした。
真っ黒な大画面に、僕はチョークで書き込んでゆく。春子への想いを物語に仕立てて、縦書きにぎっしりと書いていった。新品のチョークがみるみる短く削れてゆく。僕の心の中身を全部文字にして吐き出してしまいたかった。
書いていて改めて気づいたが、なんて自分勝手な片想いだったのだろう。伝えることもせず、何を期待して待っていたのだろう。
春子の人生は彼女のものだ。僕は彼女の幼少期を独り占めした贅沢な過去を、もっと貴重なものとしてこの身にしっかりと刻んでおかなければならない。
物語は、幼い日々の夢のような戯れを童話のように紡いだ拙いものだったけれど、今の僕には、それが人生の意味のすべてだった。その先のことなんて、まだ始まってすらいないし、いつまで経っても始まらないかもしれない。
◇
ハルちゃんは、僕より少しだけ背が高くて、いつも僕の手を引いて一歩先を歩くのでした。
「ナツくん、一緒に行こう」
「待って、ハルちゃん。何処に行くの」
毎日が冒険でした。裏山と野原と公園と、太陽の光の中を駆け巡りました。僕等は手を繋いで、空を飛ぶように何処までも行きました。
あの頃、世界の果てのように感じた場所には、今ではマンションが建ち、コンビニが開店して、町は人通りが増える一方です。
「離れちゃダメだよ、迷子になるから」
「わかってるって。大丈夫、ちゃんと帰るよ」
◇
大丈夫、じゃねえよな。
溜息をひとつ、僕は続けて書いた。文芸部の小さな部室で気まぐれに書いていた時とは違って、何かに突き動かされるように、チョークを握る手がすらすらと進んだ。
やがて童話は終わりを迎える。黒板は、まだ埋め尽くされていなかったが、物語は突然、途切れるように終わりを迎えた。
◇
「ナツくん、さよなら」
◇
僕は、読み返す気にもなれず教室を飛び出して、足音を忍ばせながらも振り返らずに走った。
昼間は乾ききって滲むことさえなかった涙が溢れて、頬を伝い、いくつも零れ落ちた。
春の風に吹かれ、月が照らす優しい暗闇に包まれて、僕は夜の町の中をひた走りながら、声を上げて泣いていた。
「ハルちゃん、ありがとう」
さよならは、言えなかった。
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