第13話 オオカミと子羊、そしてへび

 花岡はその場へと崩れ落ちる。しかしその視線は、なぜか蒼偉の顔ではなく、抉れた地面へと注がれた。沈黙は続く。


「御子柴氏の死後、あなたたちの関係に変化が起こる。原因はあの絵本です」


 花岡が総毛立ち、蒼偉を睨みつけた。顔の筋肉は引き千切れんばかりに怒張し、眼は毛細血管が破裂して真っ赤になっている。

 蒼偉は少したじろいだ。しかし背後、数歩先に出入口があるのを確認して意を決する。


「おそらく青木が御子柴氏を強請っていたネタと、『ひかりの森のおはなし』が暗示するなにかとが酷似、あるいは全くそのものだった。ここに至っては、もはや作者の正体などは瑣末なことで、重要なのは御子柴氏が絵本のなにに怯えたのかということ」


「……やめろ……」


「それはオオカミが、男の子と女の子にした仕打ちの中に答えがある」



  おとこのこは あなのなか



「花岡さん、まだいるんでしょう……。その男の子はこの温室の中に」


 いって蒼偉は身構える。

 だが、花岡はピクリとも動かなかった。それどころか地面のある一点を凝視して、ただブツブツとなにかをつぶやいているだけ。その様子からでは、蒼偉のことも意識に入っているかさえ分からなかった。


 彼に自分の声は届いているのか、その不安はあったが蒼偉は続けねばならなかった。


「昔……子供たちはおままごとで結婚式をしたんですってね。ことりが唄い、大飯食らいのタヌキと、賢いキツネがお祝いして。まるで絵本の通りだ。そしてそれに腹を立てたオオカミは式を壊しに来た。それを臆病な子羊である、あなたは止められなかったんだ」



  おくちをあけて ペーロペロ

  おんなのこは くちのなか



「御子柴鏡太郎は、大下麻美亜を虐待していた。それも……悪戯目的で。彼は猛烈な嫉妬に狂い、たかだか子供のままごと遊びに腹を立てた。そして自制心は崩壊し、その狂気は青木多喜男を殺すまでに至った」


 ここまで話して、花岡がようやく正気を取り戻したかに見えた。ゆっくりとその場に立ち上がり、蒼白となった能面の表情に、うっすらと笑みを浮かべて。しかし、


「なにをいってるんですか、相馬さん。青木君が死んだのは、つい二ヶ月前のことじゃないか……それに先生は幼女にそんなおかしなことをするような人間じゃ――」


 語尾には力がなかった。緩みきった口の端から、よだれが滴っているのを蒼偉は見た。眼は見開いてはいるが、どこを見ているのか分からない。


「チョロという少年の話を聞きました。御子柴氏によって連れてこられ、そして他の年長組ふたりと同時期に『ひかりの家』から姿を消した。青木多喜男は殺害され、それを目の当たりにした大下麻美亜は精神を病んだ。そして……チョロという少年は、青木多喜男として『ひかりの家』の第一号卒業生となった。里親のもとで普通に暮らしていた彼も成長し、世の中のことが段々分かってくると、自分がひどく不当な扱いを受けていたことを知るようになる。他人の名を押し付けられ、ただ御子柴の悪行を隠蔽するためだけの人生。いつしか彼は復讐を誓う、しかしなるべく長く、できるだけ陰湿に。それが彼の十年間の真相だったんじゃないですか」


「だから……どうしたというんだね? もう……終わったことだ。全部。すべて!」


「いえ、花岡さん。青木多喜男を……チョロという名もなき青年を殺したのは間違いなくあなただ。大して酒に強くない人間が、ボトルワインを飲み干し、わざわざ階下に絵本を取りに行った末に、屋上に昇って転落死するなんてことは不自然極まりない。確かに状況証拠でしかないが、当夜、泥酔した彼を担ぎ上げ、屋上から突き落とせるような人間はあなたしかいない。そしてあなたはそのまま階下に降り、遺体の顔を地面に叩きつけてチョロ本人と分からなくした。最後に、傍らに『ひかりの森のおはなし』を置けば、大恩ある先代院長の死に思いつめた青年の、この世を儚んだ後追い自殺の完成です」


 時が止まる。

 蒼偉も、花岡も。

 地を這い回る虫が、生い茂る濃緑へとガラス越しに降り注ぐ陽光がすら、花岡の放つ病的な威圧感にすくんでいるようだった。


 肌がひりつく。肺に流れ込む空気が何倍もの重さに感じられた。

 蒼偉は花岡の次の言葉を待つ。


「……よく、調べ上げましたね」


 怒りも焦燥もなく、ただ研ぎ澄まされた野性の本能だけがそこにあった。血走っていた眼も平静を取り戻し、口調も穏やか。しかし失われた血色だけは戻らなかった。

 白鬼がいる――蒼偉は脈打つ脳裏でそんなことを考えていた。


「いつから私を疑われていたのですか?」


 花岡が寂しげにいった。


「ロマネコンティ……いや、いまは亡き御子柴氏の遺品ともいえる記念ボトルを、そう易々とあなたが開けてしまうものかと思いましてね」


「そんな些細なことで……?」


「ええ、疑惑が確信に変わったのは、青木……いえ、チョロと呼ばれる男の現在の風評を聞いた後でしたがね。おそらく当夜も、あなたがお勧めになったのではなく、彼が勝手に飲んでしまったんじゃないですかね。あなたとしてはそれが一番の決定打となった。もはや、彼を許すことなどできなかった――」


 花岡は天を仰いだ。まるで太陽に慈悲を乞うように。そしてゆっくりと、言葉を選びながら想いを紡ぎだす。


「佐賀重松[さが・しげまつ]――それが彼の本当の名前でした。もはや名など、なんの意味もないですがね。彼は私の……腹違いの弟でありそして、御子柴鏡太郎の血を分けた兄弟でした。そうです。私もまた、御子柴が妾のひとりに産ませた子供でした」


「なんと……」


「しかし、私は御子柴鏡太郎を尊敬していた。最初の空襲のあと、焼け野原で途方にくれていた私を見つけ出し、人生のどん底からすくい上げてくれたのだから。その時、私は誓いました。一生をこの方のために捧げよう、我が人生はそのために与えられたのだからと。彼は肉親であると同時に、私のすべてとなったのです。だが」


 花岡は一度言葉を切る。そして感情的になるのを抑えるかのように下唇を噛締めた。


「だが、重松は変わってしまった。あれほど御子柴からの恩を受け、『大任』まで与えられたというのに! 私なら、あのまま青木多喜男を演じ続けることなど、造作もなかった。秘密を共有し、彼の名誉を守れるのなら、自分の人生などいらない!」


「それが……それが、氏の行った非道を隠蔽することだと知っていながらですか!」


「瑣末なことだ! 御子柴が世に与えた善行の前には、無にも等しい! 強烈な光には必ず影が付きまとう。それはひとがこの世に生きるために支払う、神への代償だといってもいい。大下麻美亜は供物として捧げられたのだ、それを汚い手で触れておいて、天罰が下らぬ方がおかしいだろう? 青木多喜男の死は自然の摂理だ」


「御子柴鏡太郎が神だとでもいうのですか!」


「そうだ! 少なくとも私にとっては神以上の存在だ! それに仇なす者は何人たりとも許しはしない…………」


 のそり。

 花岡が手にした剪定ばさみを逆手に構えて、蒼偉へとにじり寄る。その表情はとても気の触れた人間ができるようなものではなかった。まるで秋の実りを刈り取る農夫のように、いたって平然とした物腰で間合いを詰める。


「は、花岡さん! これ以上、罪を重ねてはいけない」


「往生際の悪いことだね、相馬さん……恨みはないが死んでいただきますよ――」


 これはまずい、そう思うやいなや、蒼偉は慌てて身を翻す。背後には出入口がある、それはことの核心に迫る前に確認しておいた。いつでも逃げ出せるように、いつでも抜け出せるように。


 しかし、花岡の邪悪な『氣』に当てられた蒼偉の身体は、彼の思うようには動いてはくれない。足はもつれ、運悪くステッキが地面につんのめる。ガラス張りの箱庭は深い緑に覆われ、外界からは完全に遮断されている。


 蒼偉は無様にも地面を舐めた。出入口は、依然、手の届かぬ位置に存在する。

 立ち上がろうとした時にはすでに、花岡が足首を掴んでいた。わざわざ目線を合わせ、地を這うように。それはまるで蛇のようだった。



  それみてへびさんにげちゃった オオカミくるからにげちゃった



「そうか……おまえが……おまえがへびか――」


 圧し掛かられ、身体の自由を奪われた蒼偉が必死に逃れようとする。だが、襲う者と襲われる者の気迫の差か、事態は好転するどころかどんどん深みへとはまっていった。

 振り上げられた花岡の右腕。

 天頂から降り注ぐ陽の光を浴びて、カラスのくちばしのような刃先が残酷に光る。


「死ね」


 短く吐き出された呪詛。蒼偉の全身は凍りついた。


「――ッ!」


 刹那、己の顔に落ちるひとつの影を感じた。荒れ狂う日照りの猛威から逃れることのできる、安息の影を。その影の名を佐々木沙希といった。彼女は剪定ばさみを振り下ろした花岡の腕を、蒼偉に突き刺さる寸でのところで掴んでいた。


「きさまはッ」


「やかましい!」


 いい放ちざま、花岡の顔面に掌低を叩き込む沙希。鼻先をめり込ませた花岡がもんどり打った。その隙に開いた胸元へと、沙希の細い指が一瞬に忍び寄る。完全な組み手からの背負い投げは、見事な半円を描いて地面を揺らした。


 受け身も取れずにまとも背中から落ちた花岡は、一度「グフゥ」と呻いてから昏倒。全身を弛緩させ、狂信の断末魔をさらした。


 助かった――。

 そう思いながらも蒼偉は複雑な気持ちだった。花岡もまた、この閉鎖された空間に人生を狂わされた犠牲者のひとりだったのではないか。だからといって、彼のしたことが決して許される訳ではない。しかしながら、自分の掟を守るという一点において、花岡牧夫は誰よりも純粋で気高く、そして従順であったのではないかと思うのだ。


 人間誰しも彼のように盲目的な一面を持っている。

 そう、この自分さえも――。


「もうッ。ボクがいないと、君はもう何度死んでいるか分からないねッ」


 パンパン、手を払いながら彼女が片目をしばたかせる。

 そうだ。自分はまだ生きている。そして花岡もまた。生きていれば何度だってやり直すことができるのだ。その可能性を信じて。

 蒼偉は明日を生きようと思った。

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