第7話 『ひかりの家』
一見して洋館の威風を持つ『ひかりの家』本館。
漆くいの白壁が印象的な、二階建ての木造建築である。蒼偉は一目見て「貴婦人」のイメージを抱いた。正面玄関から両翼に伸びる長い廊下。一階には教室や食堂があるらしく、そこら中で児童たちがはしゃいでいる。とはいってもそのほとんどが十歳に満たない年少組で、ある程度上の年齢ともなると、静かに読書などをしているらしかった。
蒼偉たちが通されたのは二階の応接室である。この階には他に院長執務室をはじめ、生徒たちの部屋、そしてゲストルームがあると花岡に説明を受けた。さらに上の階には、物置部屋がひとつあるだけ。外観から察するに、二階の屋根にはどうやらそこから行けるようだ。
応接室には立派なテーブルと革張りのソファーが鎮座していた。
ふかふかのカーペットが床を覆い、調度品にも歴史と大金の匂いがする。芸術品には目端の利く蒼偉である。少々無作法かとは心得ていたが、胸躍る誘惑には逆らえず、そこら中をねめ回していった。
中でも暖炉の上に掲げられた一枚の肖像画には眼を瞠った。
威厳に満ち溢れた鋭い眼差し、ピンと張ったカイゼル髭。銀に輝く頭髪と、胸に輝く幾つもの勲章とが織り成すコントラストに蒼偉は息を飲む。実際この建物もそうだが、いまの日本で、これほどの品々に出会えたことを幸運に思った。それだけでも今日、ここに来た甲斐はあったというものだ。もちろん、そんなことは口が裂けても沙希にはいえない。
「もしや御子柴鏡太郎氏では?」
蒼偉はステッキの柄を持ち上げて花岡に尋ねた。すると「いかにも」と満足げな返答を得られ、まずはスムーズな滑り出しに成功したことを純粋に喜んだ。一方、テーブルではお茶請けに出された菓子を頬張る老舗問屋の小娘がいる。一口ごとにボロボロと食べカスをこぼす様には眼も当てられない。またそれを花岡が、秒と待たずに布巾で綺麗に拭き取るのだ。蒼偉はなんだか申し訳なかった。
「先代が『ひかりの家』を創設しましたのが、いまを去ること十五年前。まだこの辺りも焼け野原ばかりの頃でした。たった五人の生徒から始め、いまでは数多くの卒業生を見送るまでになりました。その黎明期から微力ながらお手伝いさせていただけたことは、私にとって生涯の誇りといえましょう」
蒼偉がようやくのことでソファーに腰を落ち着かせると、花岡は静かな口調でそう語り始めた。時折、氏の肖像画を眺めては恍惚とした表情を見せ、どこか神仏への尊崇のようなものまで滲ませる。
「そのお人柄から、先代はとても多くの生徒に、いまでも慕われております。特に青木君は、こちらの一期生ということもありまして格別の思い入れをお持ちでしたからねぇ……哀しい事故ではありましたが、無理もありません。むしろ先代に先立たれてからの数年間のことを思えば、やっと苦しみから解放されたのかも……いや、これは教育者としては行き過ぎた考え方ですかな。お忘れいただければ幸いです」
「いえ、お気持ちは充分に。しかしですな、事故当夜、青木氏は初めからこちらに宿泊するおつもりだったのでしょうか? そもそもこちらのように、お子さんがたくさんいらっしゃる場所で、公然と飲酒に饗するというのも、私にはいささか不思議に思いましたが」
すると花岡は、さもありなんと、顔を上げた。
「彼は先代の死後も、月命日には必ず顔を出しておりました。訪問時には決まってゲストルームで一夜を明かし、早朝には帰宅するという感じで。それからあなたのおっしゃる通り、当園での飲酒は風紀上、原則禁止となっております。しかし先代は生前、訪問した卒業生との一献をそれは楽しみにしておりまして。その名残と申しますか、近頃では私が氏との思い出話を肴に、ご相伴などさせていただいております。それからあの日は、ちょうど青木君の誕生月でもありましたので、なにかお祝いにと思いましたところ、そういえば生前、先代が『いつか青木君と飲みたい』といっておりました秘蔵の一本を開けようということになりまして」
「秘蔵の?」
「ええ、19**年のロマネコンティ。『ひかりの家』が創設された年のボトルですね」
「なんと! **年ロマネ!」
ひとり驚きを隠せない蒼偉。何事かさっぱり事態を把握できない沙希は、なにか重要な証言でも出ないかと待ち受けていたところである。露骨に訝った彼女は、そのペン先を無防備な蒼偉の脇腹へと向けた。
「痛ッ!」
「ちょっと、なんの話よ?」
花岡に対して失礼にならない程度の小声でヒソヒソ話。
「百年に一度といわれるブルゴーニュワインの当たり年です! しかもその年のロマネは生産量が少なく稀少で、さるフランスの豪商が一ダース買い付けるのに、自宅を売り払ったとまで噂される名品ですよ。これから値はさらに上がり、入手困難となるのは必定。そんなものをいま飲んでしまうだなんて、大馬鹿か本物の金持ちかのどっちかです!」
ここまで説明しても「ふーん」とさして興味のなさそうな沙希の態度にがっくりしつつも、どうせなら自分も賞味してみたかったという誠に図々しい、勝手な想いが胸中に渦巻く。それは深酒しても仕方ない、などと。
「と、失礼。取り乱しました」
花岡の視線に気付き、乱れた髪を後ろへ撫で付けた。
「すると、当夜はあなたもかなり遅くまでお飲みに?」
「いいえ。私は嗜む程度ですので、それほどは。普段通りの就寝時間にはお暇させていただきましたので、それ以降の状況は存じ上げません」
「では、彼がひとりで一本飲み干した」
「おそらくは」
「ふむ……」
「なにかご不審な点でも?」
蒼偉の態度はなにかにつけ、もったいぶったところがある。花岡にはそれが気になったのだろう。ズイと少しテーブルの上に、身を乗り出した。
「いえ、大したことではないのでお構いなく。それと、事故当夜、あなたはどちらでご就寝を?」
「は? 院長執務室の隣にあります、寝室ですが」
「というと、階段のすぐ横にある部屋ですな」
「ええ」
「すると青木氏がゲストルームから屋上に出るには、必然的にあなたの寝室の前を通らねばなりませんね。当夜、なにか物音などは聞かれませんでしたか?」
「なにも聞いておりません。先ほども申しましたが、その日は私も少し飲んでおりましたので、朝まで熟睡しておりましたが……」
「なるほど。もっともなご意見です」
当たり障りのない相づちを打って蒼偉がふと視線を隣に移すと、沙希がサラサラとペンを走らせているのを見た。どうやら自分の仕事は忘れてないらしい。
「あの……そろそろよろしいでしょうか。色々と雑事もありますので……」
「や、これはすみません。お手間をとらせまして。それでは最後にもうひとつ、ふたつ」
「なんでしょう」
「現場に残されていたあの絵本は、こちらの蔵書ということでよろしいですか」
「ええ、いつもは教室の本棚にしまってあるのですが、どうやら私がお暇をいただいた後に、青木君が持ち出したようですね」
「ほほう。こちらにとっては、いわく付きの本だというのに寛大なことですな」
「……私はあのような風評は信じておりませんので」
「と、いいますと」
「先代の死はごく自然なものでした。還暦も過ぎ、心臓も弱っておりましたので。年に数回、発作のようなものもありましたし、あの時は偶々、児童に絵本を読み聞かせていただけに過ぎません」
沈痛な面持ちで花岡はそう結んだ。
「そうでしたか。改めてご冥福を……」
蒼偉は胸に手を当て哀悼を表した。花岡もまた深々と一礼。沙希だけは相変わらずだった。それから蒼偉は花岡に屋上を視察する許しを得て、本日の面会を終了した。去り際、蒼偉が見送った花岡の背中は、少しやつれているようにも思えた。
「さて、と」
蒼偉はステッキの先で、板張りの廊下の感触を確かめながら沙希にいった。
「私はちょっと館内を色々と見て回りたいので、ここで一旦別れましょう。そちらはそちらで勝手に情報を集めてきてください」
「なんか投げやりね」
「この件に対するスタンスが、元よりあなたとは違いますからね。そうそう沙希さん、ひとつ頼まれごとを」
「なによ?」
「青木多喜男の人物像をより詳しく知るために、ぜひ他の一期生とも面会したい。彼らの現住所と連絡先を、花岡氏から聞いて来てはもらえませんか」
「どうしてさっき聞かなかったのよ?」
「下手に私[探偵]が聞くと、妙な勘ぐりをされる恐れもありますからね。そうなると少々面倒です。あなたなら記事にインタビューでも載せるとでもいえば、正当な理由になるでしょう?」
「……なにを企んでるの」
いかにも怪訝そうに眉を吊り上げた沙希を尻目に、フフンと意味深な笑みを浮かべ、蒼偉は颯爽とその場を離れた。
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