第9話 潮風はただ吹いている

 都心から二時間も掛けて蒼偉が訪れたのは、海の見える高台に建つ小さな診療所だった。


 円筒形を基本とした白壁にいくつかの小窓が開き、屋根はドーム状である。こじんまりとした造りだが、田舎には似つかわしくないほど前衛的なデザインだ。例のよってその建築美に惚れ込んでしまった蒼偉は、しばらく中にも入らず目の保養を楽しんだ。


 しかし、彼がここに来たのは他でもない。


 青木多喜男の同窓生であり、数少ない『ひかりの家』の黎明期を知る人物のひとり、大下麻美亜[おおした・まみあ]への面会が目的である。


 本来であれば、御子柴鏡太郎、青木多喜男、両氏の人となりを知る上で、これほど適した人物もいないはずであるが、診療所の玄関に掲げられた「心療内科」という見慣れぬ文字を見ると、蒼偉の胸裡にも一抹の不安が頭をもたげなくはない。


 そして、その不安は受付窓口で微笑みを浮かべる、ひとりの看護婦によって現実のものとなった。


「お引き取りください」


 よもや一日に二度もこのセリフを聞くことになるとは、さすがに思いもよらなかった。蒼偉は「またか」と内心毒づきながらも、眉間に寄るシワを伸ばして笑顔を作る。


「や、そこをなんとか。『ひかりの家』の花岡氏からのご紹介なのですが」


「申し訳ありませんが、そのような連絡は承っておりません。失礼ですが、紹介状はお持ちじゃございませんか」


「えーっと…………ございません」


「でしたら今日のところは残念ですが、ご面会を許可することはできません」


「随分とかたくなですな」


「患者さまのご病状が第一ですので……」


 看護婦もまた己の職務をまっとうせんと、頑としてゆずらない。ここでもまたエセフェミニストぶりを発揮する蒼偉が、仕方がない、今日のところは目の保養ができただけでも良しとするか、などと本末転倒なことを考えていると、


「だれ?」


 と、病室があると思われる方から声がした。蒼偉がちょいと覗いてみると、そこにはひとりの女性の姿があった。


 身体を締め付けないゆったりとしたネグリジェに、肩から薄手のカーディガンを羽織っている。肩口で切り揃えられた真っ直ぐな黒髪に、透き通るほどに白い肌がよく映えた。女性はペタペタと裸足で歩き、蒼偉に近付いてくる。それを見咎めた看護婦が慌てて彼女に駆け寄った。


「麻美亜さん、いけません!」


 さっきまで穏やかだった看護婦の態度が、急にヒステリックなものに変わる。女性は腕を掴まれると駄々をこねるように身体をくねらせ、看護婦を困らせた。蒼偉はその様子をポカンと見ていたが、女性がお目当ての人物であると分かるや、このままなし崩し的に面会の機会が得られると打算し、にこやかにその合間を取り持った。


「まま、お嬢さん方、落ち着きましょう。まずは病室の方へ。あなたが大下麻美亜さんですね? 私、探偵をしております、相馬と申します」


「たんてい、さん?」


「はい。今日はあなたのご親友の、青木多喜男さんについてお伺いしに参りました」


 看護婦の手を借り、嫌々、病室のベッドに戻った麻美亜だったが、青木多喜男の名を聞くやいなや、いままでとは違った晴れやかな顔で「たきちゃん! たきちゃん!」などとはしゃぐのだった。


 もしやと思い看護婦の方へ目配せをすると、彼女はなにも語らず、ただ小さく首を縦に振る。どうやら大下麻美亜の精神は『ひかりの家』にいた頃から、成長を止めているようである。また診療所とは名ばかりに、病室には麻美亜のためのベッドしか見当たらない。蒼偉は療養というより「隔離」に近いとその時理解した。


「お医者さまは……今日はお見えじゃないのですか?」


 それとなく看護婦に聞いてみる。返ってきた答えは大方、蒼偉の予想の範疇だった。


「……先生は色々とお忙しいので普段こちらにはいらっしゃいません。まだ日本では普及が進んでいない医療分野ですので……」


 悲痛な面持ちで語る看護婦。おそらく建前半分といったところだろう。


「お答えにならなくても構いませんが、治療をわざと遅らせているのですか?」


「……」


 沈黙が事実を物語る。看護婦は俯いたままだった。やり切れないといった風で蒼偉が目を背けると、視線の先に開かれたままのスケッチブックがあった。そこには鉛筆で描かれた少年の絵が。陰影が丁寧につけられ、とても写実的なものだった。技術的にはまだ拙さが見える。しかし線の走らせ方に、類稀なセンスを蒼偉は感じ取っていた。


「こちらはあなたが?」


 蒼偉はスケッチブックを手に、麻美亜に訊ねる。すると「そうだよ」と元気よく彼女は答えた。


「それ、たきちゃんだよ」


 麻美亜は自慢げにそう教えてくれた。


「たきちゃんはね、あたまもいいし、かけっこもはやいの。それからねー、やさしくってねー、ポンちゃんがひばりちゃんをいじめてるとたすけてくれてねー。それからねー、おっきくなったら、けっこんしようってねー、いうんだよ」


 最後は頬を真っ赤に染めて。

 大下麻美亜は見た目こそ二十代のうら若き女性だが、真実、年端も行かない少女であると蒼偉は感じた。スケッチブックにはヤンチャな少年のいがぐり頭。そこから伝わってくるのは幼い愛情だけだった。


「なるほど。さだめし、かっこいい男の子だったんでしょうなぁ」


「うんッ」


 彼女は知らない、もうこの世に、この絵の少年がいないことを。それを思うと切なくなる。蒼偉はそっとスケッチブックを閉じた。


「では、今度は御子柴鏡太郎氏についてお聞かせ願えますか。どんな方でした?」


 蒼偉はそれとなく、話題を変える。しかし、


「みこしば……せんせー……」


 オウム返しにそういうと、麻美亜は突然黙り込んだ。そればかりか表情は強張り、見る見る内に青ざめていく。次第に身体はガタガタと震え、眼は光を失ってただ壁の一点だけを凝視していた。刹那、


「きゃあああああああああああああ――――――ッ」


 頭を抱えて奇声を発し始めた。ベッドの上、まるで逃げるように後退り、シーツを蹴り上げつつも次第に狂気を高めていく。ついには呼吸も荒くなり、看護婦が慌てて手足を押さえつけた。


「麻美亜さん! 麻美亜さん、しっかり!」


「ああッ! ああ――ッ!」


 この錯乱振りはどうしたことだろう。

 蒼偉は状況に呑まれた。「今日のところはもう、お引取りを」看護婦にそう命ぜられるままに退室、診療所を後にする。帰り道、纏わり付く潮風が妙に鼻についた。


 死の香り、恐怖――。

 御子柴を死に追いやったもの。麻美亜の精神を過去に封じ込めたもの。


 蒼偉にはその正体が同質のもののように思えた。『読んだら死ぬ』などという呪いなんかではなく、そこには確かな理由が存在するはずだと。


 ぼやけていた輪郭が、徐々にカタチを成してゆく。

 だが、蒼偉のキャンバスにはまだ色が足りない。

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