第10話 足りない絵の具

 翌日、相馬探偵社――。


 蒼偉は改めて『ひかりの森のおはなし』を読み返していた。一字一句、絵の端々まで注意深く。持てる洞察力の限りを尽くして、『読んだら死ぬ』ことの手掛かりを見つけようと奮闘している。


 たった一度の実例が噂として世に広まってしまったのは、死亡したのが比較的地位のある人物だったからに他ならない。大衆は上流階級の不幸を糧に日々を耐え、末世思想やオカルトの時流に乗り、醜聞をまたたく間に伝説化していくものだからだ。


 しかし、この絵本がただ一度きりの呪いを発動させたことで、すでに目的を達しているのならば。その後に起こった『読んだら死ぬ絵本』としての風評も、青木多喜男の転落事故もあくまで二次的な副産物に過ぎないのではないか。『ひかりの家』と『ひかりの森のおはなし』、そして青木多喜男と青島民生。もちろん偶然かもしれないが、当時の捜査関係者がこの暗示めいた酷似性を見逃すとも思えない。すると当局には、大資本の牽制が働いたとも邪推ができる。


 また仮に御子柴鏡太郎の死が計画殺人だったとするならば、死因である心臓麻痺を『ひかりの森のおはなし』の内容で故意に誘発させたのは、必然的に著者である青島民生ということになる。だとすれば、なぜこんな回りくどいことをしたのだろうか……。


 ここまで推理して蒼偉は一度、絵本から眼を離した。傍らにある飲みなれたエスプレッソへと手を伸ばす。舌ざわりのいい泡沫と、軽い苦味が疲れた頭をほどよく解きほぐした。


 そこへノックもせずにドアを開ける不躾者が登場する。蒼偉はいまさら驚きもしない、やはり沙希だった。


 手にはいつもの取材ノート。喉でも渇いていたのだろうか、訪問した早々、断りもせずに蒼偉のエスプレッソを飲み干した。無作法にもブラウスのボタンを外し、前をはだけさせる始末。もはや、なにもいう気が起こらない。


「で、取材はどうでした」


 そう促すのが精一杯。


「上々よ……とは、いい難いわね。思った以上に分かったことは少ないわ」


「ほほう」


「まずは青島民生の正体。『ひかりの森のおはなし』を始め、同名義で三冊の絵本を出版している編集者を問い詰めたけど、頑として口を割らないの。なぜだか分かる?」


「『読んだら死ぬ絵本』の風評被害を最も受けているのは、出版社と作者のはずです。普通なら作者の擁護のためにも情報は最大限秘匿しますね。ましてや胡散臭い娯楽雑誌からの取材なんか、おいそれと受けませんて。かといって、あれほどのセンスを持つ作家を手放すのは惜しい。私なら筆名を変えて新作を描かせますけどね」


「なによ、知ってて行かせたの? ひっどい!」


「ま、人生、何事も経験ですから……って、沙希さん暴力は止めましょう。暴力は」


 沙希がペンを逆手に構えて大上段に振り上げている。どこかしら嬉々としているようにも見えるのは、きっと蒼偉の気のせいではないはずだ。


「そ、それよりも青木多喜男の人となりの方はどうなりました。やはり花岡氏のいうように、徳の高いお人柄で?」


 すると沙希は首をぶんぶんと横に振った。「とんでもない」と。


「里親のもとからは、とっくの昔に独立してたんだけどさ、長いこと定職にも就かずにぷらぷらしてたらしいよ。そのくせ、金回りはいいみたいで、昼間からよく飲み屋で飲んだくれてたって。たいして飲めないくせに決まって高い酒頼むんだってさ」


「ほほう……」


「近所づきあいもそれほど熱心じゃなかったみたいだから、青木と親しくしていたひとは見つからなかったわ。下宿の大家ですら、まともに口利いたことないんだって」


「それは、それは」


 蒼偉が耳たぶを撫で始める。情報という名の絵の具が、彼のパレットに鮮やかな色彩の華を生んだ。次第に見えてくる事件の全容、白かったキャンバスにも色が載り、線と線とが明快に繋がる。二次元的だった推理に奥行きが加わり、やがて一本の道筋が現れた。


 しかし、まだだ。まだ埋まらない空白がキャンバスには残っている。

 その欠けた色が見つからない限り、蒼偉の絵は完成しない。

 どこだ? どこにある?

 蒼偉の眼は、修行時代の絵描きのそれに戻っていた。


「――、――い。ねぇ、蒼偉ってば!」


 気が付くと沙希のくりくりとした瞳が、蒼偉を真正面から捉えていた。寒々とした秋の終わり、隙間風の吹く部屋の中で、お互いの体温が伝わるほどの距離。ふっくらとした桜色の唇、屈んでできたブラウスの胸元からは、かすかに膨らんだ部分が覗く。


 なぜだか急に気恥ずかしさを覚えた蒼偉が横を向くと、その両頬をむんずと掴まれて元の状態へと引き戻された。


「な、なんでせう……」


 冷や汗をかきつつ、やっと搾り出した言葉は旧仮名遣い。沙希の吐息は熱かった。


「なに緊張してんのよ? ボケッとしてないでそろそろ行くわよ」


「へ? 行くってどこにですか?」


 もうッ――と。やっと身体を引き離して沙希が溜息をつく。「やっぱり聞いてなかった」と。そして口を尖らせていう。


「これから下の喫茶店で、一期生の残り三人と会う約束してんのよ。どうせだったら顔合わして話してもらった方が、なにかと思い出しやすいでしょ」


「ああ――」


 そういえば、と蒼偉が間抜けな声を出した。沙希のいう三人とは、『ひかりの家』一期生の中で年少組とされていた、高杉ひばり[たかすぎ・ひばり]、本田圭吾[ほんだ・けいご]、そして北村義経[きたむら・よしつね]の三人である。昨日、蒼偉が大下麻美亜と面会している間、沙希は彼らに連絡をつけてくれていたのだ。


 ようやく足りない絵の具が揃い出したと、蒼偉は密かにほくそ笑む。

 椅子から立ち上がった蒼偉は、衣装棚からお気に入りのネッカチーフを引っ張り出した。たかだか階下に行くだけだというのに、身支度には一部の隙もない。

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