第12話 温室にて

 薫風吹き抜ける、穏やかな小春日和。

 カフェ・ド・サンドリヨンでの会合を終えた蒼偉は、沙希を伴い再び『ひかりの家』を訪れていた。庭先では子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。今回は門前で止められることもなく、笑顔と共に迎えられた。


 蒼偉は来て早々、職員たちへの挨拶もそこそこに院長代理である、花岡牧夫を訪ねた。


 彼は平素からそうであるように、その時も院長執務室において、膨大な量の書類と格闘していた。にも拘らず、花岡は嫌な顔ひとつせずに、快くふたりの突然の訪問を受け入れてくれるのである。なんと紳士的な対応なのだろう。彼こそが『ひかりの家』の教育方針の礎である、故・御子柴鏡太郎の崇高な理念そのものではないだろうか。驕らず、また他者への気配りを忘れない高潔なる人格。


 蒼偉はこれまでの人生で、彼ほど完璧な人物を見たことがない。

 それだけに、これから起こりうることが、すべて自らの下劣な勘違いであって欲しいと願うのだった――。


 温室を見せて欲しい、それがこの日の蒼偉の用件だった。


 前日は慌しい中、無作法にも転がり込んでしまったと自らの非礼を詫び、その上で先代から受け継がれたといわれる見事な実りをこの眼で見たいと嘆願した。温室の管理は基本的に花岡が行っていると聞き及び、それではと思い立ち、まずもって氏にご挨拶をせねばとまかりこした由、重々ご理解いただけますように。


 そういわれてしまっては、花岡とはいわず誰とて悪い気はすまい。

 蒼偉は、当初これだけ掛かるだろうと踏んでいた交渉時間をはるかに短縮して、ことを思惑通りに進める。


 花岡の、御子柴鏡太郎へ信心はなににも増して深い。蒼偉はそのことを、この短時間でまざまざと再確認してしまった。まるで親を褒められた時に見せる子供のはにかんだ笑顔。花岡はいままさに、そういう表情をしているのだ。


 ふたりは園舎を出て庭を歩く。子供たちはすでに授業が始まっているのか、そこにはいなかった。沙希の姿も消えている。蒼偉にそれを気に留めた様子はない。花岡もまた、いち早く蒼偉を温室へと案内したいらしく、脇目も振らず目的の場所へと歩を進めた。


 ガラスに囲われた空間が口を開ける。


 適度に保たれた湿気と共に、強烈な腐葉土の匂いが蒼偉の嗅覚を襲う。全身の毛が逆立つようだった。自然に触れるということは、眠っている人間の本能を呼び覚ますようだ。眼は、生い茂る緑の壁の中に天然色の実りを見る。感覚はどんどん鋭敏になっていった。


 大人ふたりが悠々と作業を行える広さ。子供たちにしてみれば、ちょっと走り回るくらいは造作もない。入り組んだ蔓の御簾が、天然の迷路を形作る。


 花岡は剪定ばさみを手に、真っ赤に実をつけたトマトの株の前に立っていた。彼は、小振りだが身の締まったひとつを選んで摘むと、それをニッコリと蒼偉に手渡した。


「甘いですよ。農薬は使っていませんので、どうぞそのままお召し上がり下さい」


「では、遠慮なく……」


 赤い果実のまん丸な肌を、ちょいとジャケットの袖で拭ってやる。そして、そのままプリンとした果肉に歯を突きたてるのだ。むしゃぶりつく。肉厚の果肉の中からとろんとしたゼリーが溢れてくる。しっかりした甘味を包み込む、強烈な酸味。蒼偉はじゅるると最後の一滴まですすり飲んだ。「うまい」その言葉が無理せずに口をつく。花岡も満足げな表情を見せた。


「子供たちとこうして土と戯れるのが生きがいだと、先代はよく申しておりました。愛情と手間を掛けたものは、決して裏切らないということを、彼は園芸を通して教えたかったのです。私はこの場所に立つと、とても敬謙な気持ちになるのです。まるでいまは亡き、御子柴先生の魂に触れるようで……や、これは少し盛り上がりすぎましたかな。忘れてください」


「いえいえ。お気持ちは察します……。さだめし、素晴らしいお方だったのでしょうな」


「はい。人道教育における、偉大なる先駆者です。彼はこれからも、我々、教育者の灯火となることでしょう」


「なるほど。しかし……」


 と、蒼偉はここで口調を沈ませた。できればこのまま帰りたい、胸中はそんな想いでいっぱいだった。


「すべての生徒に、その素晴らしい教育理念が行き届いていた訳ではないらしい」


 すると花岡は眼をまん丸にして蒼偉を見返した、「なんですと?」そういう唇は僅かに震えている。


「青木多喜男の飛び降り自殺……あれは本当に事故だったんですか?」


「な、なにを急に仰るのですか? 警察の取調べにも不審な点はないと」


「不審な点はあるのです。いくらでもね。しかし当局は、御子柴興産の権力の前に引かざるを得なかった。ましてや、死亡者は昼間から酒をかっ食らうような町のクズ、正直、事件の真相を追う奇特な刑事などはいない。だが、衆目はどうそらす? あるじゃないか、おあつらえのいい目くらましが。先代からの哀しい迷信、使い方によっては美談にもなる。あなたは賢いひとです。でも嘘はいけない。少なくともあなたは四つの嘘をついている」


 反論をさせる暇もなく蒼偉は畳み掛けるようにいった。


 花岡の反応はひどく複雑なものだったが、かろうじて口にできたのは「嘘とは一体なんのことだ」という、あくまで蒼偉の予想を超えないものだった。


「まずあなたは青木多喜男の転落当夜、不審な音は聞いてないということでした。しかし現場を確認したところ、屋根瓦は葺き替えられるまでに破損していたと想像ができる。いくら酒を飲んでいたとはいえ、あなたほどの神経質なおひとが、あの真下の部屋で朝まで安眠していたとは思えません。だから少なくともあなたは、あの夜、青木多喜男が屋上から転落したことは知っていなくちゃならない」


 花岡は黙っていた。蒼偉は彼にしばらく動く気配はないと確信すると、さらに続けた。


「そして彼、青木多喜男に関しての嘘。あなた方、本当は彼に強請られてたんじゃないですか? 彼の風評はこちらで細かく調べました。するとどうでしょう、とてもあなたが仰るような好青年には思えません。もちろん、生前の彼を私は直接知りませんから、あなたたちの間で具体的に、どういった人間関係が構築されていたのかは量りかねます。しかしですねぇ……。あなた四年前の御子柴鏡太郎氏の葬儀で、他の卒業生たちにこういってませんか、『仕事で海外に行っている』と。これはおかしい、私たちの調査では、里親からの独立後、向こう十年、彼は定職に就いていないとある。無論、これには日雇いの現場作業は含まれません。しかしそんな男が毎日のように、上等酒を飲み歩くことができるでしょうか」


「それは……」


「無理ですよ、よほど強力なパトロンでもいない限りはね。青木は『ひかりの家』に隠された重大な秘密をエサに、十年間、ずっと金の無心を続けていたんだ。御子柴氏としても、はした金さえ渡しておけば面倒にはならないと。そのままずるずると関係は続いていった。しかし!」


 蒼偉はステッキを地面に突き刺し、一度言葉を強く切った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る