第8話 宙を舞う

 二階からの階段を昇ると、そこは物置として使われているいわゆる屋根裏部屋であった。十畳ほどの四角い空間に、来客用の布団やら、使わなくなった机やらが雑然と押し込まれている。まめに掃除もされているのだろう、床に埃が積もっている様子はない。しかし古いものが放つ特有のすえた匂いが、蒼偉の鼻の奥をしきりにくすぐるのだった。


 四方ある壁の一画、唯一、二階の屋根に出られる扉がある。扉は内側から閂を掛ける仕掛けになっており、なまじ鍵などで戸締りするよりもよっぽど頑丈であることが見て取れた。そして、


「確かに酔っ払いが外に出るのに、鍵の心配をする必要はないか……」


 かねてより蒼偉が気に掛けていた事柄が、これでひとつ氷解した。

 閂を外し、屋外に出てみる。そこは物干し台のような造りになっており、実際、吹き抜ける爽やかな秋風に吹かれ、生徒たちの洗濯物が揺れていた。頭上には軒が、そしてしっかりとした転落防止用の柵が、蒼偉の腰までの高さに設けられている。


 蒼偉は柵を撫でながら、青木が転落したという庭先の方を見下ろした。

 すると視界の下方に、二階の屋根瓦が見切れる恰好となる。屋根瓦は、屋敷の中央周辺に敷かれた数列だけが新しくなっており、ごく最近、葺き替えられているのが分かった。蒼偉はその様子を満足げに眺め、ステッキをクルクルと回し、事故現場となった屋上を後にした。


 次に彼が向かったのは、児童たちが走り回る一階廊下。壁には職員たちの眼を盗んでは描かれたと思われる、小さな「画伯」たちの作品が所々に展示され、蒼偉の眼を大いに楽しませた。彼は、時折立ち止まり、その奔放なタッチに心を奪われる。


 例の絵本は、いまなお教室の片隅に収められていた。他の書籍とも雑多に交ざって当然のようにそこにある。蒼偉には、花岡が『読んだら死ぬ絵本』の風評を強く否定しているのが思い出された。


 また教室には扉そのものがなく、やはり出入りには鍵を必要としない。これで事故当夜、青木が絵本を持ち出すことになんら障害はなくなった。蒼偉は耳たぶをさすりながら、教室を出る。そして青木が倒れていたという、現場を見に行った。


 そこは正面玄関の間近、先ほどの転落現場である物干し台の、ちょうど真下という位置だった。地面にはもう血痕のひとつも残されてはいないが、沙希いわく、青木の遺体は顔面から地面に衝突したらしく、壮絶な有様だったという。未明での発見、またその後の警察の対応も迅速だったため、児童たちがその光景を目の当たりせずに済んだというのは、不幸中の幸いだったに違いない。


 庭先には、この街ではまだ珍しい、ブランコや鉄棒といった遊具がたくさんあった。中にはバネ仕掛けのロデオまであり、蒼偉の眼を引いた。随分キャアキャアと賑やかだなと思っていたら、乗っているのは彼の相棒だった。なぜだか異様に巧く乗りこなしている。児童にも大人気だ。


 そこから逃れるように視線をそらすと、庭の一角にガラス張りの小屋を発見した。


 温室である。中には背の高い植物が植わっており、外からではその全容を窺い知ることはできない。しかし葉の形や実りを見るに、ナスやきゅうりといった家庭菜園的な要素が強いことが分かる。


「中をご覧になられますか?」


 振り向くとそこには『鉄のエプロン』こと、門前払いをされそうになったあの女性が立っていた。花岡からなにかいわれたのだろうか、先ほどよりもいささか印象が穏やかである。


「先ほどは申し訳ありません。大変失礼なことを……」


「いえ、こちらの方こそ突然すみませんでした。あなたの仰る通り、少し子供たちに対する配慮が欠けていたようです」


「ご理解がいただけて幸いですわ」


 女性は両手を胸に当て微笑んだ。その笑顔は鉄製のエプロンを融解させるのに、充分なものであった。


「こちらの温室は誰かのご趣味で?」


「いえ、情操教育の一環として当園では創設以来、子供たちに土に触れることを教えておりますの。こうして彼らは命の大切さを学んでいくのです。これもご先代の教育理念の賜物ですわね」


 女性の瞳が、庭先を走り回る児童たちを追う。その中にひとり、大きな娘が混じっていることに、蒼偉は意図的に気付かない振りをした。


「温室には誰でも自由に出入りできるんですか?」


「いえ、生徒たちには時間を決めて手入れをさせています。中にはイタズラ好きのヤンチャな子もいますので」


「そのようですな。すると施錠されておられる訳ですね。鍵の管理はどなたが?」


「基本的には花岡先生が監督されておりますが、私どもがお借りすることもございます」


「なるほど。では、わざわざ鍵を取りにご足労いただく訳にもまいりませんので、今日はこのまま引き上げるとしましょう。院長代行にもよろしくお伝え下さい」


 といって蒼偉は、庭で遊んでいる沙希を捕まえ『ひかりの家』を後にした。そして「歩きながら話しましょう」とお互いの仕入れた情報交換と、現段階での蒼偉の見解などを整理して聞かせた。


「まずこれはほぼ確定なんですが、花岡は私たちになにかを隠していますね」


「根拠は?」


「事故当夜、花岡は寝室に入ってから朝まで、怪しい物音は聞いていないといってました。しかしあれは嘘です。二階の屋根瓦の一部が葺き替えられているのを確認しました。あれはおそらく、青木の転落により破損したので修理したんでしょう。それに物干し台の真下は、ちょうど花岡の寝室です。ならば屋根瓦が破壊されるほどの音を、彼が聞き逃すはずがない」


「でもお酒が入ってたんでしょう? 朝までぐっすりだっていってたじゃん」


 沙希は取材ノート片手にそういった。


「確かに。しかし、あの神経質な男がそう簡単に前後不覚に陥るとも思えません。それを考えれば、青木多喜男が絵本を取りに階下へ降りたというのも怪しくなる」


「どうして?」


「板張りの廊下を覚えてますか? ちょっとステッキの先でつついただけでもキィキィと鳴るような年代モノですよ、深夜ともなればもっと響く。酔っ払って腰の高さまである柵から転げ落ちるようなマヌケに、あの花岡牧夫が出し抜けるとは想像できませんね。ということは、当夜、花岡は寝室にいなかったか、もしくは怪しい物音に気付きながらもそう証言することは拒んだということになる。これは少し面白くなってきましたよ」


 不敵な笑みをこぼして耳たぶを撫でる蒼偉。足並みも実に軽やかである。


「それに私としては青木多喜男の転落事故よりも、むしろ御子柴氏の死因の方に興味を持ちましたのでね」


「なによ、あんだけヨタ話とか馬鹿にしてたくせに」


「『ひかり森のおはなし』の著者を覚えてますか」


「確か、青島民生[あおしま・たみお]ね……あッ」


 取材ノートに眼を移しながら沙希が呻く。蒼偉はまた、フフンと鼻孔を膨らませた。表情が生き生きとしてくる。


「青木多喜男と青島民生、偶然とはいえ酷似している。一度調べてみる必要がありそうですね。しかし、御子柴氏は一体、あの絵本のなににショックを受けたのでしょうか。それも心臓が止まってしまうほどに」


「信じてないんじゃなかった? 『読んだら死ぬ絵本』なんて」


「もちろん、信じていませんよ。その辺は花岡と同意見です。しかし、偶然もこれだけ重なれば、なんらかの必然性が見えてくるような気もしますからね。と、そういえばそちらの方は巧くいったんですか? 他の一期生の情報収集は」


 すると沙希はペンの尻で、カリカリと頭を掻きながら、少し表情を曇らせた。「一応は全員と連絡がとれそうなんだけど、ただ」などと前置きをする。


「当時『ひかりの家』には五、六歳の年少組が三人と、年長組として十歳だった青木多喜男、そして八歳になる女の子がひとりいたんだけど……」


「どうかしましたか」


「いまその子は田舎で療養中なの」


「ほほう。面会謝絶という訳ですか?」


「そういう訳じゃないらしいけど、話を聞くのは難しいんじゃないかって院長代行が」


 カツン、と蒼偉のステッキが石畳を叩く。突如立ち止まった蒼偉を振り返り、沙希の表情はいよいよ怪訝になっていた。


「よろしい。その女性にはこれから私が会いに行きましょう。花岡氏のご紹介ともあればそうそう無下にもされますまい。その間、あなたは年少組三人との接触、それから青木多喜男および、青島民生の周辺を洗っていただきたい」


「なんか仕事の割り振りに下心を感じるんだけど」


 と、露骨なジト眼で沙希が蒼偉を睨みつけると、


「察して下さいよ、お年頃なんですから」


 などと冗談めかした答えが返ってくる。


 そして、相馬蒼偉はぼんやりと考えていた。口は災いの元とは、きっとこういう時のために、先人が作りたもうた言葉なのだろうと。


 己の相棒に投げ飛ばされて、宙を舞いながら。

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