第二幕 今はまだ、足りないだけ

 暖かな海の底には人間の知らない国があって、人魚や魚や貝たちが楽しく歌い踊りながら暮らしている。彼らはふだん海の深い深いところにいるけれど、たまに陸に上がってきて、人間のふりをしていたりするんですよ。


 公園からふたたび三十分かけて走って帰ったユキは、ニコおばさんが用意してくれていたハムととろけるチーズのサンドイッチを少し早めの昼食として口に詰め、今度は大きめのリュックサックを背負って家を出た。靴はスニーカーからチョコレート色のローファーに変え、街中へ出てゆくのに遜色ない格好だ。

 今度のユキは歩いて五分の最寄り駅まで行き、一度電車を乗り継いで、フロル・ネージュの街の中心部へ出た。一日に数万人が利用するという駅はいつでもにぎわっており、ユキは人の合間を縫いながら改札を出て地下鉄の駅へ向かう。

 この街の中心部は鉄道と地下鉄の交通網が縦横無尽に張り巡らされていて、それらを使えば街のどこへでも行ける。政治の中心地、ショッピング向きのエリア、ビジネスマンのスーツが目に付くオフィス街、時代の最先端をさらに先取りしたような地区、観光客の多い場所、大型の美術館や博物館の集まる地域など、街はその雰囲気でおのずといくつかにわけることができた。

 ユキの場合はいったん街郊外からのターミナル駅のひとつ、ショッピングエリアの最寄りとなっている駅に下りて、地下街を通り、地下鉄で劇団の稽古場近くまで行く。ユキの通る駅も道も、平日の昼間であってももっとも人の多い地区のド真ん中にあり、フロル・ネージュの街でもっとも華やかな顔をもつ地域であった。それだけに、ひしめくビルの壁面をはじめとして隙あらばあちらこちらにさまざまな商品やイベントの宣伝広告が打ち出され、華々しい女性モデルや人気の男性俳優が競うがごとく勢ぞろいする。もはや商品を売っているのかその顔を売っているのか。誰もかれもが人びとの目を引こうと整った顔を押し出してくるが、数が多すぎるために街の風景として視界を流れてゆくばかりだった。いちいち目を合わせていられない。

 けれど、それだけうるさい街中にあってなお、はっと目を惹くひとがいる。たったひとり、そのひとのまわりだけは喧噪が遠のく。

 美しい人。彼を見かけるようになったのはここ二年ほどのこと、まだ二十歳を迎えたかどうかという年頃であるはずだ。少しいとけなさを残した頬を、瞳の怜悧さが裏切る。この世の何にも興味がないとでも言いそうな、無表情一歩手前の冷淡な顔。そのほうが生まれついての顔かたちを際だたせるのか、フロルはいつもそうだ。たまに微笑んでいても、彼を世界と隔てる冷たい薄膜は消えない。

 横断歩道の近くにある大きなディスプレイには、化粧品のプロモーションでフロルが大きく映し出されていた。スピーカーからはネージュの歌が流れ、合わせてフロルの胸もとでブランドのロゴが形作られてゆく。聖夜祭にちなんだ限定コスメセットの発売日が近く、聖夜祭が恋人たちにとって特別なイベントだから、化粧品メーカーはどこも力を入れてシーズン品を用意していた。フロルとネージュが宣伝するのは、若者向けのなかでもハイブランドの少々値の張る化粧品で、だがフロルがその口紅やアイシャドウで彼の唇や目もとを艶やかに染め、ふと流し目などしてみせていたら、価格など気にせず手を伸ばす女性も多かろう。

「あ、あれ欲しいんだ。発売日、並ぶかな」

「並んでも買えたらいいほうじゃない? 見てあのフロル、自分で使ってもああはならないってわかってても、フロルと同じものってだけで使いたい」

「フロルと同じになれる女の人なんているの?」

「いないわね」

「あは、即答。……ああでも、ネージュが似た雰囲気になるかなってちょっと思う。フロルとネージュって、なんだか似てるよね。ネージュは顔出ししてないけど、フロルの顔の雰囲気と、ネージュの歌の感じがさ」

「わかる、ちょっと感情薄そうなところとか」

「あっでも、だけどさ、フロルって確か、前は……」

 ユキはどきりとして、通りがかった女性たちの話をそれ以上聞かないために、早足でその場を立ち去った。心臓がどことなく落ち着かず、地下鉄で二駅ほど移動して降りたあとも、駅から稽古場までの道を小走りに駆ける。

 フロルとネージュが似ている? まさか。ネージュは、フロルとは似ても似つかない。

 稽古場とまとめて呼んでいるが実際はユキが所属する劇団専用の、舞台仕様の広い稽古場をはじめ複数の稽古場、ダンスやバレエ、歌唱レッスン用のスタジオ、トレーニングルームや芸能事務所の事務室まで一所(ひとところ)に集められた大きな施設だ。息を弾ませたままエントランスに入り、IDカードをかざして奥へ入る。今日のスケジュールはバレエレッスンからなので、ユキは掲示板で講師の名前とレッスンルームの番号を確認して更衣室へ向かった。レオタードに着替えてレッスンルームへ入り、バレエシューズに履き替え顔を合わせた劇団員と軽い挨拶を交わしながらストレッチをする。やがて講師がやってきてバーレッスンが始まる。

 床から天井まで壁の三方を覆う鏡に映る自分とじっと向き合い、身体の動きのすべて、指の、爪の先、顎の先まで神経を張り巡らせ、姿勢は正しいか、美しいポーズ、美しい動きをしているか、つぶさに確かめてゆく。バーレッスンを一通り終えてセンターレッスンに移っても同じだ。身体の軸がしっかりしていなかったり、柔軟性が足りなかったりするとすぐに姿勢が崩れる。ユキは鏡の中の自分を見ながら、右足を曲げて爪先を左足の膝に当て、伸ばした左足を軸にピルエットを回って、足の爪先から背すじまでわずかの崩れもないことを目で確かめた。だが体感でもわかっていた。このくらいの身体は踊りをするためには基本中の基本で、幼いころからバレエとダンスを学んできたユキにとっては造作もない。

 けれど軽んじたことも一度もなかった。舞台袖で大きなお姉さんやお兄さんの踊る姿をずっと見て育ってきた。羽もないのに軽やかに跳び、足がもつれそうな難しいステップを軽々と踏んでみせた彼らが、舞台を下りてただの人間に戻ったときに何をしていたか、ユキはそれもちゃんと見ていた。

 ユキにもできることを、お兄さんお姉さんはユキよりもずっと美しくおこなった。ユキよりも自由に、ときに妖精のごとく、ときに巨人のごとく、同じひとりでありながら、彼らは何者にでもなってみせた。

 そうできたのは、彼らがユキよりも特別だったからではない。

 どんな派手な踊りも、難しい踊りも、美しい踊りも、支えるのは確かな技術だ。舞台で自由に美しく舞い踊るお兄さんお姉さんは、ユキが受けるレッスンを、ユキよりも長いあいだ、ひたむきに、真剣に繰り返してきた。ユキ自身、基本の動作をうまくこなせるようになるたび、自分の身体がより自由に、より意のままに動くようになってゆくのを感じてきた。

 床を擦って蹴り上げたつま先が美しく弧を描いて床に戻る。膝がまっすぐに伸びて、足の作るラインは綺麗だ。だがその膝を柔らかく曲げ、踏み切って飛び上がったとき、少しだけ身体の重さを感じた。とっさに、重心をコントロールできなかった、と思った。

 意識してもう一度跳ぶ。講師も見ていたらしく、着地したときに「今度はいいわ」と声がかかった。

 難しいことをするのに、難しい技術などそれらしいものがあるわけではなくて、必要なのは基本の技術をひとつひとつ完成させてゆくこと。けれどその基本でさえ、十数年同じ練習を繰り返してきても、いつまでも終わりは見えない。

 だからこそ、少しでも完全に近づきたい。どんな踊りでも踊りこなし、この身体のすべてを完全に支配し、自分の思う通りに踊りたい。心に生まれる気持ちを観客に伝える身体が欲しい。

 その思いのまま、ユキは一途に努力してきたつもりだった。

 バレエレッスンのあとは、少し時間をおいて歌唱レッスンが入っている。ユキは事務所で空いたレッスン室の使用許可を得ると、歌唱レッスンの時間になるまで、バーレッスンから繰り返して踊った。一人のレッスン室のほうが、どうしてだろうか、自分の姿を誰かにじっと見られているような心地がする。視線の主は三方の鏡からこちらを見返す自分の目の他になく、曲もかけていないしんとしたレッスン室で、ユキは自分のまなざしによって丸裸になる。

 ほんとうにこれでよいと思うの? それでちゃんと踊れていると思うの? それがわたしの姿なの? そのすがたを、わたしは本当に美しいと思える?

 まだ足りないから踊る。真に努力をしたのか、みせかけの努力ではなくて本当に力を尽くしたと言えるのか、誰より知っているのはユキ自身だ。何も考えずに身体を動かしただけのことを努力とは言えない。目を逸らしたいすがたをこそ見つめ、どうすべきか考えて、理想とする方向へ身体を修正してゆく。

 理想は遠い。時にはますます遠ざかるように思えるから苦しい。

 食いしばりそうになる歯をおさえて、笑顔を浮かべる。いまユキが踊っているこのシーンで、ヒロインは苦しい顔などしない。溌剌と笑っている。足はばね仕込みのように跳ね回り、陽気な明るさを振りまく。もがく自分を深く抑えこみ、役の気持ちだけを追って高揚を高めた。くるりと回ると、衣装のスカートが想像のなかでふわりと回った。足にはエナメルの小さな可愛い靴。わたしは可愛い格好で踊れることが楽しくてしかたがない。そう、とても楽しい。他のなにも考えられない。他のことなんてなにも。

 ワンシーンを踊り終えたとたん、ふつりと集中が切れ、膝に手をついて大きく息を吐いた。うつむいたユキの顔は苦く、眉が寄り、閉じたまぶたを汗が伝う。心に感じていた本当の気持ちと乖離した踊りが、ユキを消耗させていた。

 わたしはちゃんと努力してきた。苦しくても、苦しいことから逃げたりしなかった。

 なのに、今のわたしはなんて無様なのだろう。

 汗とともに滲んできた目もとをまとめてタオルで拭い、ユキは息を整えて背すじを伸ばした。もうすぐ歌唱レッスンの時間になる。まだ満足いく踊りができていなかったが、このまま踊ったところで満足できるとも思えなかった。

 足りないものに、いつになったら手が届くのか。

 レオタードから元の服に着替え、歌唱レッスンの部屋の前で深呼吸する。ノックをして、聞き慣れた声の返事に、張りつめた心が意図せず緩み、また緊張した。ドアノブにかける手がほんのわずか、ためらって揺れた。

「おはようございます、ヘレナ先生」

「おはよう、ユキ。準備運動は十分かしらね」

 ピアノの椅子に座り、ユキを振り返ったヘレナ先生は上気したユキの顔を見て笑った。

 亜麻色の髪をゆるやかに波打たせて肩に流し、優しげに微笑むヘレナ先生は、幼稚園の先生のような雰囲気を持っている。そう感じるのは、彼女が、ユキが劇団に入った幼いころからずっとユキの歌唱指導を担当してくれているからだろう。三十代と言って通じそうな容姿をしていても、ユキが入団したときにはすでに劇団でキャリアのある講師で、それから十数年経っていることを考えたら、四十は越えているはずだ。ヘレナ先生は基本的には幼少クラスから児童クラスまでの年少団員の歌唱指導を担当しつつ、個別指導に片手の指ほどだけ生徒を持っている。ユキの場合は個別に担当講師が付けられることになったときにまだ幼かったことを考慮されてか、担当は幼少クラスに引き続いてヘレナ先生だった。

 ヘレナ先生のレッスン室に来て、ピアノの前に座っている先生を見るとほっとする。このレッスン室で、ユキは十数年、自分の歌と歌声をつくりあげてきた。今の自分の大半が、ヘレナ先生の手を借りながら、ここで組み立てられたのだと思う。ヘレナ先生がいちばん、ユキのダメなところも、よいところも知っているに違いない。

 ユキが全幅の信頼を寄せてきた人だ。この先生の前でなら、未熟な自分もすべてさらして、上に導いてくれると信じていた。

 それが最近は、少し怖い。

「ユキ、発声練習は?」

「バレエ室のピアノで済ませてきました」

「じゃあ軽く確かめて、練習曲やりましょう」

 低音域から、特にユキの得意とする高音がきれいに発声できていることを念入りに確認する。ユキは最近やっと二年ほどかかった声変わりも終わり、声が安定してきた。声変わりのあいだは思うように歌声が出ないことも多く、高音が出なくなるのではないか、声が変わってしまうのではないかと不安だったが、声色は少し変わったものの、澄んでよく通る歌声はほとんど変わらなかった。ただ声変わりによって声質はやや柔らかくなり、透明だった子どものころの歌声に比べ、何かを秘すような響きを帯びた。

 それをどう使うか。

 音程を正確に歌うことも、狙った音高を外さず出すことも、ユキは当たり前にできる。たとえ音をわずかでも外してしまったとしても、ユキの耳は必ず感知して瞬時に修正する。レガートもポルタメントも歌える。何なら、ちょっとユキの目指すところとジャンルは違うけれども、コロラトゥーラだってやってみせよう。

 でもこの世界は、それが何だっていう場所だ。

 技術的な実力には完成などない、どこまでも上がある。それはどこまでも上手くなれるということでもある。けれどどんなに技術を高めたって、届かない場所があった。

 ユキより歌が下手で、ダンスも踊れない人が、ユキを追い越してゆく。ユキよりはるかにまばゆく輝く。

「うん、いいわね」

 ユキが歌うのを聴いていたヘレナ先生が微笑んで頷いた。ユキはヘレナ先生が振り返るまでの横顔を凝視してこわばっていた身体から力を抜いた。

「そうね、でも試しに、ここの小節から音色を変えられる? 今、ユキは柔らかく歌ったけれど、もう少し、少しだけね、音を立たせて……そう、そのほうがちょっと華やかになってこのフレーズには合うわ。次のフレーズですぐに戻って。……そう、いいわ」

 先生の指摘を追いかけてユキはすぐさま歌う。ヘレナ先生は深く頷いた。楽譜に鉛筆で指示を書き込んで、少し前の小節からもう一度歌ってみる。狙った音色の出だしの切り替えが一瞬遅れたように感じたので、気をつけてもう一度。繰り返すうち、先生が頷いたときより尚少し明るい音色を出したらもっと合うのではないかと思い、試してみた。

「相変わらず勘がいいわ」

 ユキが変化させた歌を褒めて、ヘレナ先生は言った。

「この歌がどんなシーンか、ユキは本番を見たことあったかしら」

「はい。昨年の舞台ですけれど」

「ちょっと振りも一緒にできる?」

「この舞台のレッスンは受けていないので、見たままなら」

 それでいいわ、とヘレナ先生が言うので、ユキはピアノと譜面台から離れ、開けた場所に立った。去年見た舞台の光景、それにストーリーと場面を頭に浮かべ、最後に視点を切り替えて、この歌を歌う人物の視界に合わせる。

『わたくし』に今、見えているのは、自分のお屋敷の庭。薔薇が咲き初め、一番好きなピンク色が濃い緑の葉のあいだにちらほら見える。綺麗に花開いたら、大好きなお兄さまにプレゼントしたい。お兄さまは喜んでくださるでしょうか。

 血の繋がらない、偽物のお兄さま。でも、わたくしは彼が好きで、心から大切に思っているの。どうしたらこの気持ちがお兄さまに伝わるかしら。

 ため息のように気持ちが唇から零れ出る。お兄さまはちっとも気づいてくださらない。

 まだ開かない薔薇の蕾にそっと手を伸ばし、けれど触れては可愛そうだから、やわらかくふくらんだ輪郭の外側をひとさし指の先でなぞる。この花みたいに、この気持ちもふくらんで、もうすぐ咲きそうなの。

 気づいてほしい、でも言えない。

 苦しい胸をなだめるように、手は自然と心臓の前で重なった。息が詰まりそう、けれど歌うのにそういうわけにはいかない。

 ふっと、意識がユキのものに切り替わる。しまった、とユキは思った。重なっていたはずの少女が遠ざかってゆくのを、懸命に呼び戻す。さいわい、振り付けはゆるやかで複雑な動きもないから、そちらにまで気を取られることはないからよかった。と、このときは思っていた。

 この時点で少女の抱く気持ちが恋なのかそうでないのかは、少女自身もわかっていない。その微妙な愛情を、ユキはひたすらに想像する。恋であればわかりやすいということでもないけれど、恋ではないかもしれない愛情、となると、観客に恋だと思わせてもいけない、だから少し難しい。

「ユキ、この女の子、どんな子だと思う?」

「え、っと……明るくて社交的、友だちにも慕われていて、でも男性とはあまり接したことがないからどんな態度を取ればよいのかわからないけれど、度胸で乗り切っている……あと、お兄さんのこと、偽物だと気づいていながら、優しくて情の深いことを知って、それをとても……その、愛している……。けれどお兄さんが、偽物であるのを気にしていることも知っていて、自分がそれに気づいていることを伝えたくない……違いますね、伝えてもいいけれど、お兄さんに自分の抱く愛情がふさわしくないものと思われたくない。頭はいいけれど、ちょっと臆病でもある。箱入りのお嬢様だから世間を知らないで、でも知らないということを知っている分、勘もいい。そういうところも含めて賢い」

「人物像は結構ちゃんと読み込んであるのね」

「今の課題曲の主人公ですから、一通りは。脚本ももらいました」

「そうね。間違ってはいないと思うわ。でも、ユキはその理解を、自分のものにできていないわね」

「それは、エヴァンジェリンになりきれていなかった、ってことですよね」

「そうねぇ。たとえば振りだけど、ユキは覚えている振り付けをなぞっていたわよね。でもエヴァンジェリンなら、本当にそういうふうに動いたかしら」

「振り付けの通りではだめなの?」

「踊りは大事よ、これはミュージカルだから。けれどね、踊りを単なる動きにしてはだめなの。振付師はもちろん、役の感情を表す振りにしてはいるのだけれど、でもそもそも、役の動きっていうのは、その役、つまりその人物が感じたこと、思ったこと、やりたいことが先にあって、だから動くのよ。だからね、その子が何をしたいのか、何を思っているのか、ユキがいつも想像してあげなきゃいけないの」

「…………」

 ユキは言うべきことが何も思いつかず、唇を引き結んだ。ヘレナ先生の言うこと、それは何度も聞かされた。だからユキは演技をするとき、当たり前に役と自分の感情を重ねるよう意識したし、役になりきろうとしている。ユキであることを捨て、役の人物で在ろうとしてきた。

 だが今、歌っている最中に役が自分から離れた瞬間があったのにもかかわらず、そこではなくて、いつも通り、ちゃんとなりきっていたはずのところでつまずいている。エヴァンジェリンの人となりを研究し、人物像を捉えて入り込み、歌っているときは彼女でいたつもりだった。それが本当か、ヘレナ先生は問うているのだろうか。ユキが本物のエヴァンジェリンであったか、どうか。

 恋をしたことがないから、その感情がわかっていないのだろうか。けれど、経験したことでなければできないなどと言えば、ほとんどの役は務まらなくなる。

 想像する、それはいったいどういうことなのだろう。

「歌も同じね。あなたの歌はとても上手だわ。でも、あなたはもっと歌えるんじゃないかしら。ユキ、あなたにとっての、本物の音楽を探して」

「はい」

 何が何でも見つけてやる。自分に足りないもの、あのまばゆい場所、舞台に立つのに必要なもの。自分にならば見つけられるものだと信じた。ない、のではない。今はまだ見つからないだけ。

 ヘレナ先生に見放されたら、もうユキに望みはないのだと思っている。そのヘレナ先生が探せと言うのだから、ユキに見つけられないものではないはずだ。

「それじゃあ次は、ネージュの新曲、練習しましょうか。レコーディングまでまだ間があるのよね?」

「はい、発売予定が来年の三月ですから。マネージャーさんが、……何か色々やろうとしているみたいで、ちょっと余裕を持たせているんですよね」

「不満そうね、ユキ」

「それは絶対にイヤって、言ってあるので」

 ヘレナ先生が、すべてわかっているわ、というふうに優しく微笑んだ。ユキは楽譜を取り替えながら束の間、うつむく。意思は固くとも、イヤだと言っていつまでも通じるとは思っていないからこそ、少しでも早くと気が焦る。

 戻りたい。ライトに照らされてどこまでも眩しく、汗の一滴さえ輝いて見えた、あの舞台へ。

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