魔法使いになるとき

 誰よりすてきな魔法を使うために、わたしはわたしに魔法をかける。

 この街の人たちがくれた、とびきりの魔法。

 世界中でたったひとつ、わたしを魔法使いに変える魔法。

 そしてわたしは、みんなを夢の世界へ連れてゆく。



「公演が終わってしまうと、いつも寂しいよ」

「わたしをミイラにする気?」

 季節がひと巡りして、フロル・ネージュにまた冬がやってきた。木々にうっすらと雪の残る朝、いつもの池の前でアレクシスが嘆いている。

 ユキはといえば、ひと月半に及ぶ主演公演を無事終えて、やっとひと息ついたところだった。次の役も決まっており、まもなく稽古に入る。それは待ち遠しいのだけれども、ひとつの作品を全力でやりきったぶんの休息も欲しい。そう言いながら毎朝公園まで走って、歌って踊って、稽古場にも通ってレッスンを欠かさないユキを、ヨハンは小さいころから相変わらずだと言って笑う。彼の言うとおり、ユキは子どものころからずっと、学校も忘れて稽古場に入り浸っていた。そこがユキの学び舎で、遊び場で、大好きな場所だった。

「公演期間中は、きみが忙しいからあまり話す時間もなくて、それはそれで寂しいんだけど」

「会えないときでも、毎日電話かメッセージで感想をくれたの、嬉しかった」

「それは、僕も伝えたくてしかたがなかったから」

 アレクシスはほんのり恥ずかしそうに笑った。少しくすんだ藍色の目が、微笑みの印象をいっそうやわらかくしている。花もなお恥じらうだろうな、とユキはその顔を見ていて思った。

「でもほとんど感想のことしか話せなかったから、朝にこうしてゆっくり話ができるようになったり、休みの日には出かけたりできるようになると嬉しいんだよ」

「わたしも、本番も好きだけれど、稽古期間もとっても好き」

 舞台の上ももちろん愛する場所だけれど、思い入れが強いのは稽古場のほうかもしれない。

 憧れたお兄さんお姉さんたち、厳しくも優しい先生たち。がんばって練習して、やっとできたと思えた瞬間の喜び。

 思い出はぜんぶそこから生まれてくる。

 きっとこの公園も、いつかそんな場所になるだろう。ここでアレクシスと出会い、過ごした日々だって、もう思い出だ。きのうまでのこと、たとえほんの一瞬前の出来事だって、過ぎ去った瞬間からすべてが思い出になる。

 そのぜんぶが、ユキの体を満たしている。

「きみが練習の虫なのはよく知ってるよ。でも、今の言い方は少し意地が悪くない?」

 ユキはにっこり笑って答えた。

「公演が終わると寂しいんでしょ。次に期待させてあげるの」

「寂しくないけど、寂しいんだって。全通してたんだ、そのぶん時間が空くんだよ」

「そういうこと言って、大半チケット外したくせに」

「倍率が高いのが悪い……。僕は会員先行はもちろん、全部申し込んだし、最後は一般販売のために携帯端末も最新機種に変えているのに」

「最初から諦めて関係者席使えばいいじゃない」

「いつもありがとう。でも自分の手で勝ち取りたい気持ちもあって」

 アレクシスはユキの公演のたび、無駄にチケット取りを試みている。どうも運が悪いらしく、当選確率はおそらく平均より低い。ユキは手もとに関係者席のチケットを余らせているからアレクシスに渡すくらいなんでもないのだが、彼はそれを最終手段にしているらしい。

「わたしに友だちがいなくてよかったわね。いつも一般発売後になって戦績を報告されて、そのときまでわたしの手もとに席が残っているのはそのおかげよ」

「ありがたいんだけど、それはそれでどうなの」

「訂正するわ。よかったわね、わたしに劇団員以外の友だちがいなくて」

「その友人って、みんなライバルなんじゃないの?」

「それはそうだけど」

 オーディションは厳しいし、競争も生易しくはない。

 ライバルとして彼らを見ているのがつらいときもあった。

 人魚姫のオーディションに落ちてから、同年代の彼らが、たとえ端役でもおとなの舞台に立っているのを見ていて、彼らにあって自分に足りないものを何度も考えた。

 技術が劣っていると感じたことはない。子どものころから、遊び半分であった幼いときでも、ずっと本気で努力してきた。自分の技量も、周囲の技量も見てわかる程度の自信を持てた。

 だからこそ、足りないものがわからなかった。

 それらの苦しみを乗り越えたと思える今、意識しているのは友人たちとの競争そのものではない。

「ライバルでも、友だちなの。役は、もちろんみんな目指すから取り合いになるけれど、わたしは自分が選ばれたとき、みんなにも納得してもらえるつもり」

 舞台の上で生きてゆく。この先に何があるかは誰にもわからず、違う道が、もしかしたらいつか現れるのかもしれないけれど、ユキは自分の歩むべき道、居たい場所を決めた。

 そこで、誰よりすてきな魔法使いになる。

「さすがだね」

 アレクシスが自分のことのように自慢げに笑う。ユキは微笑み返した。

 彼と出会って、彼がいてくれたから、ユキはほんものの魔法使いになるための、最後のひとかけらを手に入れることができた。彼がいなければ、今のユキもいない。ユキを満たし、かたちづくる大切なもののひとつは、アレクシスだ。

「さっきはあんなふうに言ったけれど、公演が終わって、惜しんでくれるのも嬉しいの。それだけ、ずっと観ていたいって思うほど、いい舞台だって思ってくれてるんだって、伝わってくるから」

「何度でも言うよ。このあいだの公演もすばらしかった。きみ以外、ほかの誰であっても、あの舞台は作れない」

「そうでしょう」

 誰かにとっての唯一無二になる嬉しさ。ユキはつかのま、純粋な喜びだけに浸って笑い、それから肩の力を抜いた。

「だけど、それは当たり前なの。同じ役でも、わたしと、ほかの誰かは違う。わたしからしかあの舞台のあの役は生まれない。わたしの積み上げてきたもの、わたしをかたちづくるもの、それが舞台の上で、わたしが演じるあの人を作る」

 確信を持って言えた。

 だからユキは努力を怠らない。どれほど多岐にわたる役があろうと、どれだけ演じることができようとも、すべて、ユキ自身がどんな人であるかにかかっている。ユキがからっぽでは、舞台の上にもどんなものも生まれてはこない。

 どんな役も、ユキの技量や想像を越えてはくれない。

 それは恐ろしいけれど、苦痛ではなかった。ユキが可能性を持ち続ける限り、どんな役でも、同じように高みへと上り続けられる。そしてユキには自分の可能性を、舞台に立ち続けるために人生を賭けて広げてゆく覚悟がある。それらを注ぎ込んで舞台を作る。

 これ以上に楽しくて心躍る挑戦はない。

 子どものころから舞台ひとすじで、ほかのことなんか考えなかった。そんなユキに、ほんとうにそれでいいのかとおとなたちが問うた。ユキの人生には、ほかにもたくさんの可能性があるはずだ、と。

『それでも、わたしは舞台の上で生きてゆきたい』

 苦しんだ二年間のすえに、ユキが手に入れた覚悟だ。

「でも、きみだってちゃんとわかっているけれど、舞台の上のきみは、まるで違う人のように感じる」

「前は怖いって言っていたわね。今もそう?」

 アレクシスは穏やかにユキを見つめて笑った。

「今は怖くないよ。ほかのどこでも見ることのできない、奇跡のような夢みたいだと思う」

「夢よ」

 ユキはアレクシスの隣を離れ、数歩前に出て片足を軸にくるりと振り返った。両手を広げて世界を抱く。

「わたしが舞台の上に作り出すのは夢の世界。そこではおとぎ話も、魔法も、どれほど困難な希望でも、何もかもがほんものになるの。現実の世界でどんなに打ち砕かれようと、舞台の上では決して消えない。わたしはみんなにそういう魔法をかける。でも」

 ユキの指さきはこの世界で人が生きるための空気をすくいあげている。頬も、髪も、触れているものすべて、この世のものだ。

 真実の愛なんて、舞台の上にしかないのだと思っていた。

 現実の世界では、人は愛を言い訳にして嘘をつく。愛を信じたら生きてゆけない。

 そんなふうに感じて、拒んでいたのがかつての自分だ。

「魔法をかけるわたしは、今ここにいるの。この世界に。その魔法は、この世界から生まれるのよ」

 この世界でも愛を信じていいのだと、ほかでもないアレクシスが勇気をくれた。

 夢から醒めたユキに、この世界は、この世界のほかのどこにも、生きる場所などないことを突きつけた。でもアレクシスは、彼のいる場所で生きたいと思わせてくれた。そしてユキは現実に打ちのめされた彼に、夢を見せたいと願った。

 ユキは夢の世界には生きない。だけど、夢の世界を信じている。

 観客たちが舞台の上に夢を見て、その感動を、この世界で生きてゆく力にしてほしい。

 幼いころ、夢の世界を見て憧れた。一瞬で心奪われ、帰り道では走りだすほどの力が身体いっぱいに溢れていた。

 そして自分もまた、人びとに夢を見せたいと思ったのだ。

 泣くことができなくなるくらい苦しくても、また走り出してしまえる力を生み出す夢を、みんなに見せたかった。

 この世界には、こんなにすてきなものを生み出す力がある。わたしたちが生きるこの世界に。わたしたちのなかに。

 みんなに、信じてほしかった。

「この街のみんな、おかあさんとおとうさん、おばあちゃん、ヨハンお兄さん、ヘレナ先生、そしてあなた。それが、わたしを作ってくれる。だからわたしは魔法を使えるの」

 そのままこのあいだの舞台で踊ったステップを踏むユキを、アレクシスがまぶしそうに見ている。でもユキが彼に手を差し出せば、彼もまた夢の世界の住人になる。

 スローテンポのワルツを踊るとき、リードするのはまだユキのほうだが、アレクシスもずいぶんさまになってきた。それほど他愛なく何度もふたりで踊った。

 早朝の公園の、ふたりきりの池のほとり。時おり鳥の鳴き声がきこえ、風が吹き抜ける。音楽はふたりのあいだだけで鳴っていた。

 この場所で、人魚姫になれなかったユキの苦しさを抱き留めてくれたあの日のアレクシスが、ユキと人魚姫を初めに隔てたのかもしれない。ユキと人魚姫が違うものであり、ユキがユキであることを見抜き、人魚姫ではなく、ユキを捕まえてくれた。

 それでいて、ユキが歌と踊りで描こうとした光景を、とても美しいものとして見てくれた。

 きっと、人魚姫そのものではなく、ユキが人魚姫になることでこそ夢を生み出せることを、ユキ本人よりも、アレクシスが先に見つけていたのだ。

「ところで、いつも全通してるけど、あなた暇なの?」

 チケット運のないこの青年は、しかしながらほんとうのところ、彼こそ表紙を飾れば一瞬で雑誌が店頭から消えるほど人気のモデルだ。さもありなん、美しいものを愛するフロル・ネージュの女神が、丹精をこめて作り上げた最高傑作と言っていいほどの見目をしている。

 今はユキのまえでやさしげにけぶる藍色の目も、写真の中では宝石のように鋭く輝く。

 ユキ自身は、よく街中の広告で見かける彼の写真も美しいとは思うが、目の前にいるときのアレクシスのほうが好きだった。

 さらに、街中の広告の写真よりも、ずっとすてきな写真があることも知っている。

 けれど素の彼を知らない街の人たちだって、とても熱心に彼を愛しているのだ。雑誌の表紙のみならず、さまざまな広告やイメージモデルやらに引っ張りだこでおかしくないはずだった。事実、街に出れば彼を見ない日はない。

「暇というのではないけれど、劇場に行くために仕事をしているようなものだから、優先順位は変わらないよ」

「スケジュール調整をしてるあなたのマネージャーさん、ほんとうにすごいと思うわ」

「きみの手綱を握ってるヨハンさんも大概だと思うけどな」

「ヨハンお兄さんは、最近あなたの手綱も握らされてるってため息ついてるわよ」

 ユキがネージュとして活動するうえでつけられたマネージャーのヨハンが、幼いころ稽古場で面倒を見てくれていた先輩たちのひとりだったことを知ってから、ユキは彼の呼びかたを変えた。親しみと、ずっと見守ってくれていたことの感謝と、今でも同じ舞台を作っているのだという思いを込めて、『ヨハンお兄さん』と、そう呼ぶと、ヨハンは懐かしそうに、嬉しそうに笑う。そして、ユキが彼をそう呼んでいるのを見たほかのスタッフたちもまた、懐かしそうな顔をするのだ。

『ひよこちゃんみたいに私たちのあとをついてきて、真似していたものよ』

 からかわれるたび、ユキは恥ずかしくなる。でも、嬉しくも思う。

 劇団には表舞台に立つことを諦めざるをえなくなった人たちがたくさんいる。当たり前だった。役の数は限られていて、どれほど夢見ても、どれほど努力しても、現実は厳しく人を振り落とす。それでも舞台を愛し続ける彼らの何割かは団に残り、スタッフとして運営を支えていた。

 ヨハンもそのひとりだった。夢に破れる悔しさを誰より知っていて、それなのに妬心なくユキを支え続けてくれたから、ユキはまた舞台に立つことができた。同じようにユキを見守り続けてくれている人たちがいっぱいいるのだ。

 ユキは、彼らの夢も背負って舞台に立とうと思っている。

 現実では夢を諦めざるをえなくても、舞台の上では、人は希望を持ち続けて夢を叶えてゆく。

 都合のいい夢の世界だ。それを苦く思う人もいるだろう。けれど、多くの人たちが諦めた夢の果てにはユキがいる。

 彼らの願いや想いが報われる夢を、見せてあげたい。みんなの夢を集めて作られたユキが、舞台の上で、観客を夢の世界へ連れてゆく。人びとはユキを褒めたたえてくれるけれど、そのユキは、ほんとうはひとりじゃない。

「ヨハンお兄さんがいい人だからって、あんまり困らせないで」

「頼りになるんだもの」

「自分のマネージャーはどうしたのよ」

 アレクシスは笑いを含んで目を伏せ、「今、喧嘩中」と言った。

「どうして? あのオリヴァーさんと?」

 この街が誇る美しいフロルと歌姫ネージュは、かつてともに宣伝やイメージモデルに起用されても、それぞれ互いを写真や歌の中で知るだけで、直接は顔も合わせずにいた。それが、ふたりでミュージックビデオを作ってみたり、歌詞を練ってみたりと共同制作のようなことをするようになってから、当然ヨハンには心労をかけたし、ユキはアレクシスのマネージャーであるオリヴァーともよく知る仲になった。

 彼がアレクシスの事情を汲んで無理はさせないよう気を配ってきたことは、現場でのアレクシスへの接し方を見ていればすぐにわかる。ユキが出会ってからのアレクシスはおおむね楽しそうにしているけれど、以前は危うかったのだろう。少しでも負担になりそうだと感じれば、オリヴァーは必ずアレクシスに声をかける。

 もっとも、今のアレクシスに対しては、オリヴァーもずいぶん安心しているようだ。

『以前は笑えと言うのが無理だったが、今は笑うなと言うほうが難しいみたいだな』

 ある現場で、オリヴァーは頭を抱えながらも嬉しそうに言っていた。

 フロルのイメージは、冷たく無機質な、それこそ人を寄せつけない宝石のように硬質なものだった。それはアレクシスがカメラの前でどんな表情も作れなくなっていたから撮れた写真であって、彼の本質とはずいぶん違う。アレクシスが生来の穏やかさを取り戻して以降、彼はオリヴァーに、『現場で喋るな』と言い渡されたらしい。

 あまりにもイメージと違う、というわけだった。

 とはいえそこまでの無理がいつまでも続けられるわけがなく、最近のフロルの変化はすでに街の人びとの知るところだ。そしてそれは、おおむね喜ばしいものとして受け止められていた。

 いつも大勢の人びとでごった返す交差点付近の、街頭の電子広告で彼が微笑んだとき、歩いていた人びとが目を奪われて玉突き事故が起こったというのは、あまりに真実味を帯びた都市伝説と化している。誇張ではあるが、完全に作り話でもない。

 街の人びとが愛するフロル、そのすがたを生み出すアレクシスというのは、それほど美しいひとなのだ。

「オリヴァーはいい人だけど、僕のしたいことと、仕事の折り合いをつけるのが難しいんだよ」

「アレクシスのしたいことって?」

 尋ねると、アレクシスはゆっくりと踏んでいたワルツの三拍子を止めて、ユキの背で軽く両腕を交差させながら引き寄せた。甘い触れ合いというより、ほんのり心細い気持ちが伝わってくる。

「……ユキは知ってくれているけれど、僕の、フロルというのは、ほんとうは兄さんの作品の名前なんだ。そのことを街のみんなにも知ってもらいたい。でも、兄さんが僕を写した写真で作品として世に出ているのはあの写真集ひとつだけで、あれは兄さんがそのために撮った中から時間をかけて厳選したものだから、残りを出すのも兄さんの意思を裏切るようで……」

「そうね」

 これ以上を聞かなくても、ユキには、この先の話がわかった。『Flor』のタイトルがつけられた写真集。そこにはアレクシスの兄の指示のもと、さまざまな表情をしたアレクシスが収められている。この世にふたつとない、とてもすてきな一冊だ。本来は、その写真集、その作品こそが『フロル』だった。

 でも今、『フロル』はアレクシスのモデルとしてのすがたとして街の人びとに受け止められている。

「兄さんの言葉は、僕にとって魔法だった。兄さんが言えば、この池だって何にでもすがたを変えた。僕は兄さんの言うとおり想像して、兄さんの言うとおりの人間になった気がしていた。そして僕が想像した通りの世界が、兄さんの撮った写真の中にあった」

「わたしは、すてきな作品だと思う。あの海での写真も、テスト用紙を紙飛行機にしているあなたも」

「紙飛行機のほうは……まあ、あれはあれで兄さんの撮り方がうまいんだろうけれど、世に出すのは恥ずかしすぎるなあ」

 アレクシスは笑っていたが、切なそうでもあった。

 もうこの世にいないひとだけれど、そのひとがいて今のアレクシスが、そしてフロルがいることを、『フロル』という名があまりにも有名になってしまったからこそ、知ってもらいたいのだ。

 フロルがアレクシスひとりのものでないこと、彼の兄がいてこそ生まれたものであること。

 ユキは、兄のことを愛おしそうに語るアレクシスや、彼の兄が弟を本当に愛していたのだと伝わってくる写真たちを見ている。なによりユキ自身も、ほんとうは自分を支えてくれている人たちのことを大きな声で話して、『ユキ』がひとりではないのだと街の人たちに知ってもらいたいと思っているから、アレクシスの切実な気持ちがわかると思えた。

 けれど、ユキにはできない。街の人たちに夢を見せるために、あまり表に出さないほうがいいこともある。

「オリヴァーさんの気持ちもわかるわ。だって、あの写真たちは、とてもすてきだけれど、プライベートのものじゃない」

「うん……」

「あなたが危ないと思っているのよ。わたしもそう思う」

「それは、わかっているんだけど……」

 アレクシスの声音からも迷いが感じられた。遺品のカメラに残っていた写真は、作品として撮られたものがあったとしても、すべてアレクシスの日常を切り取ったものだった。それを『フロル』という、この街でもっとも愛され、そのぶんだけ名の知れたモデルのものとして世に出すとしたら、ひとりの人間として暮らしてゆくのに、あまりにリスクが高すぎる。

「ねえ、たとえば、きみはこの街や、国を出て活動することを考えたりしない?」

 それは妥当な案と言えた。もしもアレクシスが彼の兄の作品としての『フロル』を印象づけるなら、彼ほどに名が知れていると、国を出て初めからやり直すのがもっとも簡単だろう。

 だが、その問いは逃避にすぎない。アレクシスのつらそうなまなざしを見つめていると、それが実現したい案ではなく、真実の割合は五分もない、ほんとうにただのたとえ話であることがわかった。

 それには、ユキの本心が答えになる。

「しないわ。わたしはこの街が好き。この街の人たちがわたしを作ってくれた。だからこの街の人たちにこそ、わたしの作る夢を見てもらいたいの。わたしがどこかへ行ったら、この街の人たちにはわたしの魔法が届かなくなってしまうでしょう」

「ほかの街や国の人たちにも、魔法をかけてあげようとは思わないの?この街は美しいものを愛しているけれど、外にはもっと大きな街もあって、たくさんの人がいるんだよ。そこで有名になれば、今よりももっとたくさんの人たちに魔法をかけてあげられる」

「その街の人たちには、その街の誰かが魔法をかけてあげたらいいのよ。わたしに魔法をかけてほしかったら、この街に来ることね」

「たしかに、きみがいるなら僕もこの街に来たいな……」

 ユキは、この街を離れたくないアレクシスの言い訳にされたのだった。それが嬉しい。

 自分のいることが誰かを惹きつける理由になるとは、ずいぶんぜいたくな話だ。ユキにはある程度の自信はあるけれど、それでも目の前で肯定される喜びは薄れない。

 アレクシスのそれが舞台の上のユキと、今ここにいるユキ、それぞれに対して半々の割合であるだろうこともなお、ただのユキとしても嬉しかった。

 だからこそ今このときのアレクシスにも、何か魔法をかけてあげたい。

「わたしはここにいるわ」

 言いながら、ユキはアレクシスのゆるい拘束を抜け出して、芝居がかったお辞儀をした。

 それから、かつてアレクシスに聞いた、彼の兄の魔法の言葉を口にする。

「『想像して』」

 アレクシスが深い藍色の目をみはる。その目を見つめて、ユキは微笑む。

「あなたはひとりで暗い森の中をさ迷っている。どこまで歩いても出口が見えなくて、孤独感に足を止めそうになる」

 それは、かつてのアレクシスを思わせる光景だった。

 大切な家族を失って、罪悪感と悲しみから抜け出せないまま彷徨い、ついにはどこにも行けなくなって歩みを止めた。

 その彼が、現実に打ちのめされて失意の底にいたユキが足掻くさまを、美しい夢だと言った。

 彼が夢を見てくれたから、ユキは彼にもっとすてきな夢を見せたいと思った。

 ユキには、アレクシスのほんとうの気持ちは、想像することしかできない。どんなに言葉をつくしても、心そのものが同じになるはずがない。言葉になれない心のかけらもある。そのつらさも苦しみも痛みも、彼ひとりだけの、ひとりぼっちで抱えなければならないものだ。

 でも、想像することが、その孤独を少しだけ打ち破る。

 アレクシスの心のなかにある景色をせいいっぱい思い描いて、ユキは歌に乗せる。歌詞なんてない。旋律だけの歌は、ユキだけでなく、アレクシスが心を重ねてくれなければ何も描けない。

 彼もユキの心を想像してくれると信じた。

 ひとりぼっちの森の中。もう諦めたくて、それでも諦められなくて、苦しくて痛い体を前に進めようとする。

 人は、ほんとうにはひとりだ。

 ほかの誰かになることも、誰かと同じになることもできない。

 けれどだからこそ、暗いところにいる人を、導く光になれる。

 暗い森へ射し込むかすかな光、視線を向けたら少しずつ強くなってゆく輝き。

 重く沈んでいた歌声がやがて高く透き通り、きらめく。

 想像してほしい。

 ここは出口のない森ではなく、その先に必ず道が続いている。かつて歩いてきた道は途切れず森に入って、また出てゆく。

 光に導かれて森を抜け、明るいところで振り返った森は暗く陰鬱ではなくて、鮮やかな緑に彩られた、たくさんのいのちの息づく場所だ。歩いてきた道も、木々に遮られて見えなくなっていくけれど、たしかにそこにある。

 ずっと、繋がっている。

 確信を持って歌いながら、ユキはこっそりと起動していた携帯端末のカメラで、アレクシスのすがたを撮った。

 しばし森を眺めていたものが、ふたたび前に向きなおり、歩きだすところまでで歌を終わらせ、まだ夢見るような目をしているアレクシスに端末を差し出す。

「わたしは、あなたに夢を見せてあげたい。でもこれは、夢ではなないわ」

 ユキは写真を撮るのがうまいわけではない。それなのに、画面に映るアレクシスは美しかった。

 懐かしげに目を細めて、嬉しそうに、少しだけ切なげに、やわらかく微笑んでいる。

「あなたのなかにいる」

 写真のアレクシスは、ユキに向けるのとは違う顔をしていた。

「わたしのなかに、もういないおとうさんやおかあさんや、昔のお兄さんやお姉さんたちがいて、みんながわたしを今のわたしにしてくれているように、あなたのお兄さんもあなたのなかにいて、今のアレクシスをつくっている」

「……うん」

 本当はきっと、街の人たちだって知っているのだ。ユキがひとりでユキになれるのではないことも、同じように、フロルがアレクシスそのものではないことも。

 街の人たちは、ユキやアレクシスのうしろにあるものをうっすら知りながら、知らないふりをして夢を見てくれている。美しいもののうしろに、決して美しいばかりではない何かがあることを知らないままでいられるほど、人はまっさらではない。

 なぜなら、誰もがひとりきりでありながら、多くのものにかたちづくられてそこにいることに、みな気づいているからだ。孤独と、かたち無き多くのものの集まり。ひとは、相反するようなそれらを抱えて生きてゆく。

「この写真、送ってあげる」

 モデルをしていてこういうものは散々見慣れているはずなのに、ユキの端末に映る自分を見下ろしてはにかむアレクシスの前で、ユキはアレクシスの端末へ写真を送った。通知があったのか、アレクシスは一瞬コートのポケットに手をやったものの、変わらずユキと一緒にユキの端末を眺めている。

「さっきのは、何の歌?」

「なんでもないわ。思い描いた景色を音にしただけ」

「そんなことできるの?」

「なんとなく、ね。歌としてちゃんとまとまっているわけじゃないんだけど、アレクシスがこういう顔をしてくれたなら、よかった」

 アレクシスがユキの見せたい景色を想像できるのは、きっと彼のお兄さんが、幼いころからそうやって彼にいろんな景色を見せていたからでもあるのだろうとユキは思った。想像することは、思うよりずっと難しいのだと、ユキは役作りなどを通して知っている。

 自分の知らない人物、知らない国、知らない言葉、知らない空気。知らないものは想像するしかないのだけれど、知らないから想像するのがとても難しい。

 絶対の正解なんてないと思う。だから調べものをするのはもちろん、そこからせいいっぱい考えて、どうにか近づきたいと祈るほどに心を尽くす。

 でも、ユキがどれだけ想像しても正解ではないのに、それが独りよがりにならないのは、受け止めてくれる人たちの心のなかにも、思い描く力があるからだ。

 ユキはひとりだけれど、ひとりではない。

 みんながいる。

 美しいばかりではないと思うような何かだって、きっとうつくしいものだ。夢の残骸も、嘆きも、空虚さも、思い出も、やがて美しいものを生み出し、夢見る力となっているそれらすべて、うつくしくないはずがあるものか。

「僕は、いつかこの街の人たちに、『フロル』というのは兄さんの作品なんだってことをわかってもらえるようにするよ」

「お兄さんと、アレクシス、あなたとふたりの作品なんだと思うわ。お兄さんだけでは、あなた以外のほかの誰でもフロルにはならないから」

「それはそうだね」

 今はまだ薄曇りの空みたいに淡く笑いながら、アレクシスは誇らしげにしていた。そして付け足す。

「兄さんと、僕と、ユキ」

「そう、ね。それとご両親や、オリヴァーさんや、この街の人たち」

「うん」

 フロル・ネージュは女神が愛する美しい街だ。でも何も無いところから美しいものがひとりでに生まれるはずはなく、この街に生きる人たちが、美しい街をつくってゆく。

 アレクシスや彼のお兄さん、今は亡き両親、おばあちゃんとヨハンお兄さんやヘレナ先生、それからたくさんの、街の人たちみんなが、ユキを魔法使いにしてくれる。

 ユキは彼らに支えられながら、この街がいつまでも美しいのだと信じられる魔法をかけて、夢の世界をつくりだす。

「次の公演が待ち遠しいな」

「あなたはいつも寂しがってばかりになるわね」

「それも悪くないよ。僕にとっては、いつも満ち足りているのと同じだもの」

 矛盾するようなことを言って、アレクシスは笑う。

「あなたのこと、時々おかしなことを言うひとだと思っているけれど、わたしにもわかると思うの」

 いつも、ここにはないものを求めて生きる。そのぶんだけ未来が楽しみになる。楽しみだと思えるように、ユキはなった。

「でもアレクシス、忘れてない?」

「まさか。今度の仕事のことでしょう? 忘れるわけがないよ」

「そうよね。あなたも、何だかんだ言いながら仕事熱心だもの」

「きみはまた、きみと一緒にする仕事だからだって言いたかったこと、わかっててそんなふうに言う。……でも、ユキの言う通り、ぜんぶ大事なものだから。兄さんが作った僕の作品、この街の人たちがそれで喜んでくれる。大切に思わないわけがない」

 知っていた。アレクシスは、たとえ悲しみに押しつぶされかけているときでさえ、心を込めてカメラを見つめ続けた。そうでなければ、彼の写真があんなに美しいわけがない。

 街の人たちや、彼のお兄さんのことを、アレクシスは愛している。だからこそ、彼自身の在り方を認められずに苦しんだ。

 その苦しみの先、今、ここで微笑むアレクシスもまた、今はまだ持たないものを求めて生きることを、喜びとして受け入れているようだった。

「わたしも、アレクシスの、フロルとしてのすがたを見るのも、好きよ」

 愛している。アレクシスを。家族や、劇団のみんなを。この街の人たちを。

 それがユキの持つ、たったひとつの魔法だ。でも、その魔法ひとつあれば、果てしない夢を描ける。

 夢は、いつだって希望に満ちている。

 この街の名は、フロル・ネージュ。

 女神が愛する、いつまでも醒めない夢の街。

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フロル・ネージュの街の歌 崎浦和希 @sakiura

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