きみのいる場所

「アレクシスは、写真のほうが得意なのよ」



「もちろん、僕は演技は初心者だし、実力なんてないのはわかっています。でもユキは、写真や動画でもかわいかったのに、目の前にいて歌って踊っているとさらにその何倍も綺麗でかわいいんです。それなのに僕は……」

 机の向かいに座って沈痛な顔をうつむけている青年は、無機質なオフィスが場違いなほどうつくしかった。憂いに満ちた面差しが彼の周囲に陰を生み、長いまつげの被る伏せられた目もとはほの昏く艶めき、花びらのような麗しい唇にはため息がかかり、テーブルの上で組み合わせた両手の指の爪の先まで長く優美なことといったら、絵画にすらそうはないだろうと思わせるほどの造形美だ。こぼれかかる長めの黒髪が青年の呼吸に合わせてかすかに揺れ、頬を隠して淡い影がかかる。その影すらも絶妙に彼をいろどっている。

 ヨハンはよほどデスクから取材用のカメラを持ってきてやろうかと考えた。ファン垂涎の一枚が確実に撮れるだろうし、何よりユキも喜ぶだろう。その思いつきを止めたのはひとえに、なぜ俺がそこまでこいつの面倒を見てやらなければならないのだ、という至極まっとうな疑問だった。

 この青年はヨハンが働く芸能事務所に所属しているわけではないし、芸能事務所の母体である劇団からしても部外者だ。ヨハンの仕事上、および私情も絡めて語るなら、担当している女優といつの間にか顔見知りになり、あまつプライベートで出かけるほど仲良くなって、さらには毎日レッスン終わりに迎えにまでくるこの青年は、決して歓迎したい相手ではない。

 担当女優にある日突然この青年と引き合わされた際は、週刊誌、スキャンダル、パパラッチ、とヨハンの頭の中が一瞬で猥雑な記事と無粋なフラッシュで埋め尽くされた。そのときの彼女たちはまじめに仕事の話を持ってきていたのだが、打ち合わせのあいだじゅう、「交際報告に来た」の間違いじゃないのか、と何回口を突きそうになったかわからない。

 もしその時、この青年が、いつも彼がメディアに出ているような目をしていたらヨハンは「悪いことは言わないからとにかくやめておけ」と何が何でもユキを説得して引き離しただろう。優良なのは顔と金だけに違いなかったからだ。あんなにうつろで冷たい目をした男がユキにしあわせをもたらしてくれるはずがない。

 ところが実際に目の当たりにした彼は、ヨハンが目を剥いて三度は経歴を確認したくらい、メディアに出ていた男と違っていた。氷の美貌はどこへやった、と言いたくなるほど、美しいには変わりないのだが、まなざしも表情も柔らかく、溶けた氷から澄んだ水が流れる春を体現したような青年だったのだ。

 たしかに、かすかに氷の名残はある。春先に吹くひやりとした風が含む雪解けの匂い。たおやかな花のごとき青年に混じる一抹の冷涼さがまたこの青年の美しさを引き立てている。

 その青年が今、露に濡れた花の風情でしんなりと萎れていた。ヨハンはため息を飲み込んで仕事向きの顔を保つ。

「ユキは小さいころからバレエやダンスをやっていますから。才能もあるのでしょうね、美しく洗練されているし、そりゃあ見惚れる動きをしますよ。静止画より動いているほうが魅力的なのは、あの子には当たり前のことです」

 ユキの第一の魅力は歌であるけれども、舞台で見せるダンスにも目を瞠るものがある。軽やかなステップを踏む足の動きから、ふわりと回るターンで翻る衣装のたなびきに至っても、頭から爪の先まで得も言われぬ優雅さがあって、踊る彼女を見たら目が自然と引き寄せられてゆく。ヨハンには親ばかの自覚もあるので実際の評価は多少引き算が必要だろうとはいえ、ユキは間違いなく、静止画よりも実際に動いているところのほうが何倍も魅力的に見えるタイプの子だ。

 対してこの青年はと言えば、顔は抜群に良いし身体も良い。もとの骨格も華奢なほうで繊細な顔立ちに合っている上、モデルという職業柄トレーニングはしているのだろうことがうかがえる完成度ではある。脱いだところはメディアでもついぞ見たことはないものの、服の下で筋肉が似合わぬ発達をしているということもないのだろう。かといって服の皺や生地の張り具合から見るに、痩せぎすでもなくほどよい肉付きがある。すらりと細身でしなやか、若い男らしく適度に筋ばって、肌はなめらかでほのかに血の色を透けさせながら白い。ほとんど完璧な見目だ。

 だがユキと違ってダンスの素養はないらしい。動きや仕草のひとつひとつには品があって育ちの良さはうかがえるけれど、踊ったところでなお魅力的にはならない。運動神経が悪くないなら踊れるには踊れるとしても、この分野、幼少期からの積み重ねがある人間にはどうしたってかなわないところがあった。

 まず身体が違う。バレエやダンスというものは、身体ができあがる前の幼いころからやっていると、成長とともに骨や筋肉も踊ることに向いたかたち、質のものがつく。骨格も定まらない未熟な肉体にすこしずつ負荷をかけながら、関節や筋肉の柔軟性や瞬発力、強靱さを練り上げ、踊る動きに耐え、また美しく見せるに適する身体を仕上げてゆくのだ。こればかりは、大人になってしまってからでは獲得が難しい。仮に身体づくりをするにしても、数年単位で長い時間が必要となる。ユキにそもそもの才があることも考えると、ユキと青年のその差は、絶対に埋められない。

 彼もそのくらいのことは承知していただろうに、いまさら、いったい何を憂えているのか。

「ユキに言われたんです。あなたは写真のほうが得意みたいね、って。それってユキの目に、動いている僕より静止画のほうがよく見えるってことですよね……」

 モデルとしての意地よりもユキに少しでも良く見られたいという願望のほうが濃く滲む口調と萎れ具合だった。ユキの言葉をそういう意識で捉えたら彼の言うとおりになるだろう。けれども、ヨハンはユキの性格を、少なくともこの青年よりは熟知している。それがよくわかる青年の一言に、多少溜飲が下がった。

 ユキの頭の中はほとんど歌と演技とダンス、つまり舞台のことでいっぱいだ。しかもそれ以外のことがほぼ目に入らないほど視野が狭い。最近はユキも他のことに目を向けるようになったらしく、口を開けば歌か演技かダンスのことばかりであったユキの話題に、時々違う単語が――その八割以上が目の前の青年の名であるが――混ざるようになった。ユキにとって、この青年はまさに新たな世界そのものなのだ。

 とはいえ長年の思考の癖がそう簡単に抜けるはずもないので、ユキの考えることはいまだにほとんどが歌か演技かダンスへ向かってゆく。ユキの言葉は、その思考のもと発せられたのに違いなかった。

 すなわち、ユキはごく単純に、この青年は映像作品よりも、写真を芸術品として完成させるのに長けている、と言ったのだ。

 ヨハンもこの業界に居て長く、マネージャー業も始めて勉強もしたので、動いているところがより魅力的なタイプと、反対に静止画のほうがより魅力的になる写真映えするタイプ、そういう特性をもつ人間がいることを知っている。どちらもそつなくこなすタイプもいるが、その場合はどちらかに特化したタイプにはそれぞれかなわないことが多い。

 ヨハンの目から見ても、この青年は明らかに写真映えするタイプだった。単に実物より写真のほうが映える、というに留まらない。彼が写っているというだけで、写真に切り取られた画像に独特の雰囲気が生まれる。彼の写真の中には俗世と異なる世界が広がっている。

 現実の世界には、彼にとって邪魔なものが多すぎるのだ。目の前にいる彼も特有の空気を纏ってはいるのに、さらにその外側に接している下界の空気が彼を薄めてしまう。

 彼の芸術的価値は彼独りの世界で完成している。余計なものは必要ない。だからこそ俗世で泳いでいるより、すべてから切り離すことのできる写真で彼の真価が発揮されるのだろう。

 ユキは芸術を判定する目で、単にそのことを言ったにすぎないのだが、自分の言葉が相手に正しく伝わっていなかったことに気づいていないのに違いない。だからこそ、たまたまこの青年と行きあったヨハンが泣きつかれているわけである。

 とんだ業務外の仕事に、ヨハンはため息をつきたくなりつつ、また飲み込んだ。もとはと言えばユキが発端なので、自分の担当の子のためと思えばこの青年を適当に慰めるくらいはしてやってもいい。

「あのですね」

 ユキの思考回路と、彼の持つ特性。そのふたつを説明してやろうとしたヨハンの耳に、軽やかな足音が聞こえてきた。同じものが聞こえたらしい青年がぱっと顔を上げ、瞳が輝きを取り戻す。まさに春のような浮かれた空気があたりを取り巻いた。ヨハンは馬鹿馬鹿しくなって説明のために取りまとめた言葉すべて放棄した。

「ごめんなさい、遅くなって! あら、アレクシスもここにいたの?」

「ロビーで目立っていましたから連れてきました。お疲れさま、ユキ。こちらの用件は手短に済ますのですぐ終わりますよ」

 息を弾ませて芸能事務所の簡易ブースに飛び込んできたユキは、頬を赤く上気させていた。汗の滲む肌は、ここまで駆けてきたためではないだろう。レッスン室の時間ギリギリまで居残りでレッスンをしていたに違いない。表情が明るく、走ってきたことを抜いてもはつらつとしている。それはここ数年、ついこのあいだまで、彼女から失われていた顔だった。最近、また見られるようになったユキの無邪気な輝きが、ヨハンには太陽のひかりみたいに見える。暗い夜に終わりを知らせ、同じ空の下に生きる人びとに明かりをもたらす、きっとユキの本質だ。

「ユキ、何か」

「何かいいことがあったの?」

 ヨハンが言いだすのと同時に口を開いた青年が、微笑ましげにユキを見つめて尋ねた。ユキも青年のほうを見て嬉しそうに笑った。

「あのね、ずっと引っかかっていたところがやっとうまくいった気がするの。夢中になってたら時間を忘れちゃって。待たせてごめんなさい」

「大丈夫だよ」

 さっきまですこしも大丈夫ではなさそうだったくせに、心底から幸せそうに青年が言う。ユキを見ていられるだけでこの青年は幸せなのだ。それはユキにも言えそうだった。

 この若者どもめ、とヨハンは内心で悪態をついた。この情熱が今後どう転ぶかまったく予測がつかないから、立場上ヨハンにとっては目下最大の問題である。だが青年のことも含め、ユキ自身が心を剥きだしにしてぶつかるさまざまな出来事を経て、彼女の未来がつくられてゆくのだろうこともまたわかっていた。もうユキは、傷つくことを恐れるあまり誰かに教えられたおとぎ話にすがって生きてはいない。美しい歌声で紡ぐのは、みずから誰かに語り聴かせる物語だ。

「それで、ヨハンさん、お話ってなあに?」

「ああ、取材のことです。申し入れがあってね、次回公演のチケットの売れ行きは申し分ないんだが、ユキの話を聞きたい、きみを見たいと思うファンのために、受けてもいいんじゃないかと俺は思う。もちろん、質問内容は先にもらって確認するよ。どうかな」

「そうね……わたしに何か、言えるようなことがあるのかしら」

「ありのままでいいんですよ。みんな、ユキという子に興味を持っているんです。きみがどんな子なのか知りたいんだよ」

「どんなって……わたしも、まだ自分がどんな人間か、探している途中なのに? 何を言ったらいいのかわからないわ」

 ユキは取材について嫌がっているわけではないものの、自分に何ができるだろう、と迷っているようすだった。その自信のなさがいじらしい。以前には見られなかった、彼女が自分のことをまっすぐに見つめ直そうとしているすがた。

 首を傾げてしばし黙考したのち、ユキはかたわらの青年に目を向けた。彼はデビュー以後一貫して、写真か音声のない動画以外のものを発信していない。ヨハンにしてみれば喋る彼はあまりにイメージが異なるので、さもありなん、と思う。ただここ数ヶ月の彼は、写真や動画であっても以前とは違う雰囲気を表に出すようになった。その変化についても本人からの言葉は一切ないので、マスコミが何とかして理由を紙面なりバラエティなりに載せたいと躍起になっているのを、事務所の違うヨハンも同業者から聞き知っている。

「アレクシスは、今もやっぱり取材は受けないわよね」

 ユキの口ぶりから、彼女は何か知っているらしい、とヨハンは察した。対して、青年もまたユキとのあいだに共有している情報を前提にした気軽い表情で、軽く肩を竦めて苦笑する。

「僕は、僕のマネージャーが言うんだけれど、今しばらくはあんまり生身の人間らしいところを見せないほうがいいんじゃないかってね。ありのままの僕よりも、求められているのは少し違うすがたなのかな」

 これまで作ってきた自分のイメージと本来の性質が異なることを自覚しているからか、青年の口調は後半にかけてやや皮肉げだった。そこでユキが首をかしげる。

「ありのままのすがたを見せるほうがよいことなの?」

 ユキは実にすなおな心からその疑問を発した。意表を突かれたように青年が目をぱちくりと瞬かせ、ヨハンはユキらしい返しに自分の唇が笑みをかたちづくるのを自覚する。この子のこういうところは、昔からずっと変わらない。

「わたし、人に夢を見せるために努力しているつもりだわ。だからいつも、こんなふうに見られたい、こう見てほしいって思うの。それは、時にはありのままのわたしとは違う。でも、それじゃいけないの?」

「ユキはいつもきみの目指すところに一生懸命な考えかたをするね」

 青年がまぶしそうにユキを見、すこしくすんだ藍色の瞳を細めて微笑んだ。

「自分を取り繕って見せるのが卑怯なことだと考える人もいる。取り繕っているすがたはしょせん偽物で虚しいと思う人も。そして執拗なくらい他人のありのままの姿を見たがる。でもユキには、ありのままであろうと取り繕った姿であろうと、見る人にはあまり関係がなさそうだ。どちらでもユキらしい、って意味でね」

「関係がないのかしら? わたしは、取り繕うのが卑怯だとも思わないし、ありのままがよいとも思わない。舞台の上で、わたしはわたしじゃない誰かになることで、夢を見せるの。でもそれを偽物だとは言われたくないわ」

「ユキの見せるすがたはどれも本物だと僕は思うよ。人に夢を見せたいと自分を取り繕う、それもまた真摯なユキの思いそのものだもの。時々他のものがまったく見えないくらいまっしぐらに走る、きみのありのままのすがただって僕は好きだな。でも役に合わせた振る舞いというのも必要なんだろう、きみには」

 そこまで言って、青年は口出しをしたことを詫びるようにちらりとヨハンに視線を寄越した。考えることに夢中でユキは気づいていない。ヨハンも目線で応えて、ユキに目を戻した。

「どうします、ユキ」

「そうね……ヨハンさんは、どうして受けてみてもいいと思うんですか?」

 ヨハンはやや意表を突かれ、一瞬言葉を失った。ヨハンがユキのマネージャーをつとめるようになった三年前から、ユキが意見を求めてくることはほとんどなかった。言われるがままにネージュとして歌をうたい、一方でコンサートやインタビューは頑なに断り続けていた。

 その彼女が自分を頼ってくれた。ヨハンは胸の中に生まれた歓喜に身震いしそうなのをおさえて、ユキと視線をまっすぐに合わせた。

「『ユキ』を見るためには、基本的には劇場に来てもらわないといけない。ネージュのコンサートもスケジュール的にしばらくは難しいし、街の人たちに、もっと気軽にきみを知ってもらう機会があったらいいなと思ったんだ」

「でも、舞台の上にいるのは人魚姫で、『ユキ』じゃないわ。『ユキ』を知ってもらうことは、必要なことなの?」

「確かに、舞台の上で求められているのはユキではなく人魚姫だけれど、街の人たちはきみが思っているよりももっと、どんな子が演じているのかに興味を持っているよ。中には下世話な好奇心もあるかもしれない。そういう質問はちゃんと俺が弾く。でも、きみがどんな思いで、どんな願いをもって舞台に臨むのか、知ってもらうのは悪いことじゃないと思う。それに、インタビューを受けて、その答えを考えるということは、きみにとってもきみ自身を見つめることの助けになるのではないかな」

「そう……」

 ユキは目線を落として考え込んでいるようだった。ヨハンは黙って彼女が決めるのを待った。初めてのことに臨むのには不安もあるだろう。ユキはどこまでも舞台のことだけに一途だから、その外でのことに懐疑的にもなっているかもしれない。

 どちらにせよ、彼女の選択を尊重するつもりでいた。彼女は彼女の意志をしっかりと抱いて、この世界で生きてゆくと決めた。長く劇団にいた少女だが、今、ようやっと子どもであることに決着をつけ、ひとりの人として歩み出したばかりだ。その彼女が自分で考え、答えを出してゆくことを、ヨハンは妨げたくなかった。

「そうね……、うん、受けてみようかしら。わたしにできることが、舞台の上だけとは限らないものね」

 顔を上げたユキは青年のほうをちらりと見て言った。彼の仕事を意識したのか、この街で、フロルという名を持つ彼と対になって歌姫ネージュとしても活躍している自分の経験を思ったか。いずれにしても今のユキにとって、公私ともに青年の存在は大きい。

 ヨハンよりも付き合いは短いはずなのに、青年はユキのことをよく見ていて、本人は無意識なのかもしれなくとも、彼女にないもの、あるいは、彼女が欲するものを与えている。ユキが初めて彼を事務所に連れてきたときのことを思い出す。この二年、ユキ本人は必死だったのだろうけれども、ずっと覇気のない表情で、うなだれそうな頭をむりやり上向けているような状態だった。その彼女が、突然街の人気モデルと親しげに手を繋いでやって来たかと思えば、いつぶりにか、ごく自然に笑って、楽しそうに仕事の話をしはじめた。ネージュの新曲にあわせて、青年とのミュージックビデオを撮る。そんな企画を、まるで結婚の話でもしているかのように、青年と愛おしげな微笑みを交わしながら語るのだ。ヨハンはマネージャーとして、絶対に話題になるだろうとわかりきった企画に否やはなかった。先方の事務所との調整は必要でも、本人たちがすっかりやる気でいる以上、そんなに困難はないだろう。もともと何かとセットで宣伝に使われていたふたりである。そんなことより、どんな雰囲気であれ仕事の話をするふたりを前にして、マネージャーとしての自制をしてもなお、その新曲とミュージックビデオで、ユキがどんなふうに歌を歌い、どんな演技を見せるのか、期待がふくらむのを抑えられなかった。

 長らくくすぶっていた彼女が立ち直ったことの喜びもあった。そのうえで、彼らふたりが目を合わせ、言葉を交わすのを見ていたら、ユキの前に、これから新しい世界が開けてゆくのではないかと思わされたのだ。そこで、彼女はどんなすがたを見せてくれるだろう。

 先のユキの発言を誤解して嘆いていたことといい、青年にはユキの性質を理解していないところもまだある、それなのに、直感のように本質を見ている。ヨハンにも、ふたりの間に何か、人には操れない巡り合わせのようなものの存在が感じられた。

 フロルとネージュ。偶然にも、この街の一対の女神の名を与えられたふたり。彼らはそれぞれ異なる美しさを持ち、異なる場所で輝く。それでいて引き合う。果たしてどこまでが偶然で、どこからが必然であったのか。

 この世界にも、おとぎ話はある。ふたりを目の前にしてヨハンは強く思う。

「ヨハンさん、日程調整お願いできますか」

「承知しました。当日は私服になると思うので、見繕っておいてください。とはいえ、ユキならいつものワンピースの類で大丈夫ですよ」

「はい」

 ユキはすこし落ち着かなげにうなずいた。取材のことではないな、とヨハンにはピンときた。ついでに服のことでもない。足先が何かのリズムを刻んでいる。交わした会話からか、何らかのインスピレーションを受けてレッスン室で試してみたいのだ。案の定、ヨハンがタブレットに仕事の予定を入力しているあいだに、ユキはそっと青年の袖を引いて「もうちょっとだけ居残ってもいい?」と訊いていた。

「いいよ。今日は金曜日で明日はお休みだし。あ、僕もレッスン室って入れるのかな。ヨハンさん、入室許可ってどしたらもらえますか?」

「あ? はあ、まあ、ここに連れてきた時点で手続き済なのでご自由にどうぞ。写真をSNSに上げたりしなければ」

 ヨハンは来客用の許可証ホルダーを青年に渡した。

「ユキが練習するところを見るのは初めてだな。毎朝のは別として」

「ふふ」

 ユキがすこしはにかんで頬を染めている。毎朝って何だ、と口をついて出そうになったのをヨハンは飲み込んだ。飲み込んでから、いや聞くべきだった、と思い直す。その時にはふたりが席を立ってしまっていたので、ついでとばかりにヨハンも彼らについて行った。かつては、自分はあくまでネージュのマネージャーであるからと理由をつけて戒めていたが、ユキのレッスンを見学するくらい、関係者であるヨハンには何も問題がない。役者を離れてもユキの舞台は公演ごとに観ていたから彼女の成長はよく知っている。でもおそらく、悩み抜いた二年間を経て、ユキはまた変わっただろう。今の彼女がどのような演技をするのか、どんなふうに歌い踊るのか、この目で見られるのをずっと楽しみにしていた。本当は舞台の幕が上がるときまで待つつもりでいたけれど、すこしだけ先取りしても罰は当たるまい。

 ふたりに続いてレッスン室に入ったヨハンに気づいて、ユキが振り返る。ヨハンが見学するつもりなのだと気づいた彼女は、小さいころにそっくりのちょっと恥ずかしそうな可愛らしい笑みを見せた。小さな彼女が稽古場の隅でひとり練習しているところに声をかけて、聴かせてごらん、と目線を合わせて屈み込んでやったときと同じ笑顔だ。恥ずかしいけれどうれしい。彼女の浅い空色の目が言う。その笑みひとつで、ヨハンは懐かしい気持ちが胸に満ちるのを感じた。しばらく来なかったレッスン室の空気は、かつてと少しも変わっていない。藝に打ち込む情熱、真摯さ、ひたむきさ、この部屋は長い間団員たちを見守ってきたから、壁に思いが染み込んでいるようだった。

 バレエシューズに履き替えて、ユキが三面を鏡に囲まれたレッスン室の真ん中に立つ。本来なら鏡のほうを向いて練習するのだろう彼女は、今は観客がいるからヨハンたちのいる後ろの壁を向いて軽く一礼した。そうしてすとんとその場に座り、軽く上向いて視線を中空、今はまだ彼女だけにしか見えない光景へと向ける。

 すっと息を吸った彼女の唇から流れ出した最初のフレーズで、あたりが夜闇に包まれ、星の光が無数にきらめいた。

 静かな曲調。夜に独り王子様を想う切ない人魚姫の歌。遠い夜空の星を求めるように人魚姫の細い指さきが天へ差し伸べられる。当然、その手は空を切って何ひとつ掴めないままそっと彼女の胸もとへ当てられた。

 物語の結末を、ヨハンは知っている。公演も何度も観た。それでも今、目の前にいる人魚姫を見て、どうか彼女の願いがかなってほしいと祈らずにいられない。

 どうして王子は気づかない。すぐそばに、こんなにも健気に、一途に、彼を愛するものがいるのに。

 人魚姫はゆっくりと立ち上がり、王子様と戯れに踊ったダンスを思い出してひとりぼっちでステップを踏む。人間の足を手に入れても、歩くことにさえ慣れていない彼女のステップは優雅とは言い難くつたない――はずだった。そのつたなさにまた切なさを覚えかけていたところで、ヨハンは目を見開いた。

 今、ヨハンの前にいる人魚姫ははじめこそつたなく、人間の目にはただ可哀想にしか見えない踊りを踊っていた。しかしながら唇から紡ぐ王子を想う歌の音色を変えてゆくとともに、次第にやさしい表情で、滑るように優美な足運びを見せるようになってゆく。相手がいないのに包み込むように手を差し伸べ、ふわりとゆるやかなターンをする。何も心残りなどないと言いたげなほど、ただ相手を想うやさしいばかりのほほ笑みで、なにもない夜を見つめる。

 踊る人魚姫のまなざしに、くちびるに、指さきに、足の先まで、全身から愛する心が滲み出していた。応えるもののない愛情、それでもかまわず人魚姫は心を捧げている。

 そのいのちを懸けて。

 ヨハンは結末を知っている。彼女の想いが報われることはない。王子が他国の王女と結ばれるのを見届けて、人魚姫は朝日とともに消えてしまう。

 ああ、でも、まさにいまこのとき、彼女の愛から魂が生まれたのだ。人魚姫は、身体は消滅しても、魂となって王子を見守り続ける。その魂の生まれる瞬間を見た。

 星空のもと、たったひとりで美しく踊る人魚姫。なんて悲しく、なんて綺麗な少女だろう。その美しさを留めることはかなわず、一瞬ごとに失われゆく彼女のすべてが惜しい。

 ヨハンは呼吸も忘れて見入った。

 これが今のユキか。かつては無邪気にきらきら輝いていたばかりの女の子が、今では全身を振り絞って身体から滲み出すような光をまとう。表情は慈愛に満ちて穏やかで、動きにはわずかの乱れもなく優雅だ。今の彼女なら、太陽にも、月にも、星にもなれるのだろう。役の心に寄り添うように、どこまでもやさしく寂しげなひかり。それは見るものの心にもそっと触れ、あたたかな火を灯す。

 役者をやめると決めたとき、悔しさと惨めさの中で見た夢はまぼろしではなかった。この子ならきっと、と身勝手に託した希望が目の前で花開いてゆく。

 まばたきのひとつも惜しいのに、視界が歪んで揺れる。

 ユキちゃん。きみはそれでほんとうにしあわせなのか。

 愚にもつかない、彼女はみずから答えを出したばかりだ。そう知っているのになお問いかけたくなったのは、いまの彼女が想いを届ける先もなく、ひとりぼっちで踊る人魚姫そのものだったからだ。演じているだけ。わかっているのに、それだけだと思えない。

 ときにひとりぼっちになる、この世界で、きみは生きてゆくのか。それはしあわせなことなのか。

「前にも言ったけれど、こうして踊るんだよ……」

 涙を拭おうと腕を上げたヨハンの視界の隅で、黒い影が機敏に動いた。人魚姫の孤独を包み込んで抱きしめるようなやわらかく静かな、小さな笑みを含む声で言い聞かせ、彼は人魚姫の空っぽだった手のひらにみずからの手を絡める。惑う人魚姫の足を導いて、青年がゆるやかに動いた。

 四拍子のスローフォックストロット。ゆったりと流れるような、やさしい空気に満ちたふたりのダンス。慣れない人魚姫が踊るのに似つかわしく、複雑なステップは踏まないで、互いを見つめて同じ拍を刻むことによろこびを感じているのが伝わってくる。

 人魚姫が戸惑ったのはほんの一瞬、触れあわせた手のひらの温度が馴染むころには、彼女の呼吸は青年とぴたりと揃い、孤独を取り払って、満天の星の光を浴びながら、ふたりだけの舞踏会で踊っていた。その夜空の下には、他国の王女も、声を奪う魔女も、ふたりを引き裂く運命はひとつとして存在しない。互いの想いに深くいだかれて、果てなき空も黒い海をも恐れずほほ笑みを交わす。

 完璧な世界だった。誰もが、彼らのあいだにある特別な何かを感じるだろう。

 もしかしたら、ひとが、愛とか、永遠とか呼ぶもの。

 王子を想う人魚姫の歌声が宛先を見つけた。歌がふわりとふくらんでふたりを包む。

 どこまでも美しい人魚姫の動きに対して、青年はダンスに慣れているらしく優雅であるが、人魚姫のように大勢の誰かを魅せる動きではない。直すべきところは、ヨハンの目にいくつも見つけられる。ユキの言ったのはまさにこれだ。青年は、写真のほうがよほど上質な芸術作品になる。

 けれど、これがたとえ舞台の稽古であったとしても、制止をかけていまのふたりを壊してしまうのはあまりにも惜しかった。人魚姫が彼女の幸福そのものをその腕に抱いている。これ以上、ここに求めるべきものがあるだろうか。

 真実、想いがそこにあるのだとわかる慈しみ深いまなざしで互いを見つめあうふたり。彼らからこぼれ出る輝きが、まるでフロル・ネージュの街の灯のようだ。

 人びとが願う人魚姫の幸福な結末を、このふたりなら導けるのではないかと、ヨハンは夢見た。決して舞台に乗ることはないのが惜しい。

 夢見心地のうちに短いワンシーンは終わりを告げ、ユキは人魚姫からひとりの少女に戻った。

「前も言ったけれど、これはそういう話ではないのよ」

 歌の終わりとともに静かに足を止めたユキが、咎めるにしてはやさしすぎる声音で言った。青年はユキと向き合い、手指を絡めたまま、満ち足りたように微笑んだ。

「うん。ごめんね」

 彼はちっとも悪いとは思っていないだろう。ふだんならレッスンの邪魔をされたと不機嫌になるはずのユキも、人魚姫の手を取ってともに踊った青年を、まるで最初から待っていたかのように間近に見上げる。

「僕は、あの王子様じゃないから、きみが寂しそうにしていたら、絶対に手を放さない」

「あなたの前で、人魚姫の物語は成り立ちそうにないわね」

「僕は人魚姫を愛しているから」

 青年はやや小柄なユキの耳を上から覆うように花の唇を近づけて、くすくす笑う吐息とともに吹き込んだ。ユキはくすぐったそうに身をすくめて頬を青年の肩口に乗せた。微笑みは安らかで、彼の愛情を信じてすなおに受け取っている。青年がユキの身体を腕に囲い、目を伏せて、黒々とした長いまつげの下から潤む瞳の藍を覗かせる。ユキが力を抜いて青年に身を預ける。その瞬間から、ユキは青年の支配下に入った。青年がゆっくりとユキのかたちをなぞり、唇に指さきで触れ、腕の中に抱えなおしたとき、ユキは美しい人形のようだった。美しい青年が抱き込む、精巧に、慎重に創られた渾身の一体。その美しさに囚われ、魂を捧げる青年の愛しげなまなざしと、彼が腕に抱くものの無機質さが決して交わらない。誰かが指摘しない限り壊れはしない、だが薄い硝子のようにはかないもの。美しく完成した、他の何者をも拒絶した永遠の世界。

 けれどユキが瞬いて、瞳に光を灯し、青年に微笑みかけた瞬間から、ふたたび時を刻みはじめた。青年の作る閉ざされがちな世界からユキこそが彼を連れ出す。静と動、彼らはただしく一対で、決して同じものにはならない、だからこそ惹かれあうものたち。互いの世界が混ざり合うことで、夢ともうつつともつかない新しい空間が生まれる。あれは夢。だけれども真実。

 観るものの情を揺さぶり、火をともす。心をよみがえらせてくれるかのような感動を観客の胸に与え、それはひとにとって、日々を生きる力になる。

 ユキは、女神からこの街に与えられた、いっとうたいせつな宝石だ。それはアレクシスも同じ。けれど今のところ、ふたりがもっとも輝ける場所は同じではない。

 彼らはそれぞれのひかりをうけて、それぞれの場所で、うつくしく光り輝く。

 ――もしその場所が交わるときがあるとしたら、いったいどんな輝きを放つだろう?

 ヨハンはユキとアレクシスを見ながら、自分の中の情熱が、青い炎を上げて燃え上がってゆくのを感じていた。




「人魚姫がひとりで踊るでしょう。見ている人にはもの悲しいシーンだけれど、人魚姫は王子を愛して、ほんのいっときでも彼とともに過ごすことができて、しあわせを知ったのではないかと思ったの。大切な人を想うとき、胸がいっぱいになって、やさしくてしあわせな気もちになるわ。まるでその人がすぐそばにいるみたいに。だからあのシーンは、現実ではひとりぼっちでも、人魚姫は夢を見ていて、王子様とふたりで、優雅なダンスを踊っているのよ」

 ぎこちなく、切なく踊る人魚姫に、ユキはずっと引っかかっていたのだという。そうして観客の憐れみをさそうシーン。今までの演出ではそうだった。それをユキは、人魚姫の夢見た幸福へと変えて演じてみせた。

 舞台監督がどう判断するかわからない。でも少なくともヨハンは、ひとりの観客としても、またユキのマネージャーとしても、舞台でもあの人魚姫を見てみたいと思った。実現したなら、ユキの演じる人魚姫の舞台で、もっとも美しく、印象的なシーンになるに違いない。きっと人びとの胸に、忘れられないほど深く刻み込まれる。

 もしも王子が彼女の手を取ったら、という幸福なまぼろしは、今夜たった一度の、ヨハンだけが見た夢だ。それに、あれは王子ではなくアレクシスがユキの手を取ったからこそ生まれた、夢。

 劇団の建物を出ると、空はまだほのかな明るさを残していた。冬を越え、日が長くなった。紫の、太陽の名残りが混ざる空に、街中でも輝くひときわ明るい星がいくつか散っている。

「ねえヨハンさん、さっきの、僕の弱音は忘れてください」

 ご機嫌なユキがスキップをした拍子に履き古して緩くなったらしいローファーを飛ばしてしまって、それを取りにいっている隙に、ヨハンに並んだ青年がこっそり言った。視線はユキを追っている。やさしく細められた目の奥で、藍色をした瞳にも、星のような燃える光が宿っていた。

「僕はユキのようにはなれない。とてもあんなふうに綺麗に踊れないし歌えない。でも代わりに、彼女と違う、僕には僕にできることがあるんです。兄がくれた『フロル』が」

 ユキはそれを知っていたんですね、といとおしそうに彼はつぶやき、ヨハンの返答を待たずに行ってしまった。靴を履きなおしたユキの手を取って、何か言葉を交わしている。ユキが青年を見上げて笑う。年相応の少女らしく、他の誰でも、何の役でもない、ユキという子の顔をしていた。

 彼らはフロル・ネージュ。けれどもフロルとネージュである前に、アレクシスとユキ、それぞれこの世界でただひとりの人である。アレクシス。ユキ。この世界に生きる彼らのその在りかたこそが、人びとの夢であるフロルとネージュを導く。そして、互いが、互いを導いてゆく。

 美しいものを愛するこの街の女神が、彼らに与えたかけがえのない贈り物は、その才、そして互いの存在であったのかもしれない。

 その彼らを、もっともっと輝かせてみたい。その力が自分にあるかはわからないが、そのために自分は今の道を選んだのだ。

 別れの挨拶を寄越したのち、背を向けて遠ざかってゆくふたりを見送りながら、ヨハンは高揚に弾む胸の内を企画書にまとめるべく、事務所へと踵を返した。




 ここは、女神の愛する美しい街、フロル・ネージュ。

 その愛し子たちが生きる街。

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