第三幕 夜の池は真っ黒
恋をしたの。お互いを人魚だと知らないまま、人間のふりをして、ふたりは運命の恋に落ちた。このひとなら私を本物の人間にしてくれる、そう思ったのよ。
歌のレッスンが終わったあと、ネージュのマネージャーとの打ち合わせが入っていたので、ユキは劇団の芸能事務所となっている棟へ移動して、廊下のソファでマネージャーを待った。楽譜やレオタードが入った大事なリュックを膝に抱え、顎を埋めるように丸まって深くため息をつく。
ユキの所属する劇団はそこそこ大きく、団員の中には舞台を離れて芸能活動をする人もいる。劇団は芸能事務所を併せ持ち、そういった団員のほとんどをフォローしていた。
実は所属事務所を公表していないものの、ネージュもそのひとりだ。デビューして一年半、たったそれだけで人々をとりこにし、街を象徴する歌姫になった。
舞台を離れても活躍できる。むしろ、舞台より広く名を知られ、人気も高い。芸能活動をやっている団員のなかでも飛び抜けて恵まれたほうであるのには違いないのだ。
でもそこは、ユキがずっと夢見た場所でもなかった。
気分が沈むのを嫌って、鞄から携帯端末を取り出し、いつも使っているネットニュースのサイトにアクセスする。政治、経済、スポーツ、エンターテイメント。毎日、大量の記事が更新され、閲覧者がコメントを付けもするが、出来事はあっという間に次の話題に流されて、たいていが人びとの記憶に残らない。これだけ目まぐるしくたくさんのことが起こり、ニュースにもなっているのに、だからといって身の回りが変わることもない。なのにこういう出来事や、身の回りを巡る日々の積み重なりがゆるやかに世界を変えてゆくのだから不思議なものだ。ひとつひとつは、たいして心に残りもしないのに。
無感動に画面をスクロールしていたユキは、次に更新された新着記事のうちひとつの見出しに目を見張った。
『フロルが活動休止を発表』
急いでリンクをタップする。アクセスが集中しているのか、読み込みにやや時間がかかったのち、記事本文のページが表示された。センセーショナルなニュースなのに、本文の内容はひどく簡潔で、フロルが本日付けで活動を一時休止する旨を事務所を通じて発表したこと、活動再開時期は未定であるという事務的事項を伝えるのみ、フロルのコメントも、理由も一切書かれていなかった。速報だからだろうか、と思って他のニュースサイトの記事も見てみたものの、どこも情報は変わらない。週刊誌のオンラインサイトには記者の憶測らしきものが文末に付け足されていたが、ニュースをよりスキャンダラスにしようとする低俗な煽りでしかなく、フロルの美しい横顔を思い浮かべれば、下世話な憶測は真実を遠ざけているようでさえあった。
フロルが写真や映像の中にいるばかりで、その姿のほかには声のひとつも発さない、インタビューやコメントのたぐいを出すこともないモデルだというのは有名な話で、彼に詳しくないユキも知っている。それにしてもこんな重大発表にまでコメントも弁明もなしとは、徹底してフロルは彼の一番外側の皮しか外には見せない人物であるらしい。
それは不利益であることも少なくないだろうに、なぜ。
ユキはサイトを表示したまま、無味乾燥な文面を凝視して、どこかにフロルの片鱗が見えやしないかと、端末と額を付き合わせた。無機質な携帯端末もネットニュースも、超然としたフロルには少しも似合わないし、彼のことを伝えきれない。
あの美しい人も、こうしていずれ世界から忘れられてゆくのか。フロルの美しさも、そのたぐいまれな姿も、数多のニュースと代わり映えのしない一記事として世界に発信され、またたく間に次のニュースに流されて消えるのだろう。
「お待たせしました、ネージュ」
ネージュのマネージャーを務めてくれているヨハンさんは、いつもグレーのスーツにノンフレームの眼鏡をかけた三十代前半くらいの男の人である。色素が薄く、白い肌にヘーゼルの瞳は涼しげで、舞台に立っていても見劣りしないであろう整った顔をしていた。初めて紹介された時は、劇団の先輩だと思ったくらいだ。さまになるスマートな仕草で手を差し出され、ユキは携帯端末を仕舞い、リュックを肩にかけてその手を取る。
「ずいぶん待ったでしょう。前の子の収録が押してね」
「大丈夫です。けっこうギリギリまでヘレナ先生のところにいたので。ところで今日の打ち合わせって、何ですか?」
ヨハンはユキを連れて芸能事務所の事務室に入り、奥のパーテーションで区切られたいくつかのブースのうちの一つに通した。外部の人間がいない劇団内のみのちょっとした打ち合わせに使われる場所だ。小さなテーブル一つと椅子が四脚、狭いスペースに詰め込まれている。ユキは警戒を全面に出してヨハンと向かい合わせに座った。
「企画の提案ですよ。来年の四月でデビュー二周年でしょう? そろそろ記念コンサートのひとつでも、ってね」
「お断りします」
食い気味に、しかし早口でも小声でもなく、はっきりゆっくりユキは言った。ヨハンはユキの反応を予測していたらしく、軽くため息をついていくつかの書類を鞄から出す。この話を続けるつもりなのだ。ユキの拒絶などものともしていない。
「そうは言いますがね、これはアンケートの結果をまとめたもの、こっちはスポンサーの要望、こちらはネージュのシングルとデジタル配信の売り上げの推移。最後のはとりあえず置いておくとしても、コンサートの希望、多いんですよ、本当に」
「誰に何を言われてもコンサートはしないわ。最初に言ったわよね、わたし」
「コンサートはしないにしても、歌番組やラジオにも出ない、雑誌のインタビューも受けない、それじゃ人気を上げようにも限界があります。人々にネージュをもっと認知してもらうためには」
「そんなことしたって、ネージュだっていつかは忘れられてゆくわ」
ユキの声は平淡だったが、内心では、そうなればいい、という希望がこもっていた。ネージュが有名になりすぎて、後戻りできなくなるのはいやだ。ユキにとってネージュは、生涯を賭けて身を投げ出す相手ではなかった。ヨハンは聞き分けのない子どもを相手にするように、眼鏡のブリッジを上げて机に広げていた書類をまとめた。
「ええ誰だっていつかは忘れられるでしょう。三百年、五百年、千年後に名前が残っている者はごく稀ですから。でも十年、二十年、三十年後に名を残すことは不可能ではない。ネージュならばできると私は思っています」
「必要ないわ」
「いいえ必要です。この街できみのような、何の後ろ盾もない子どもが生き残っていくためには、少しでも有名にならなければ。そして」
最後まで聞くこともできず、かっとユキの頬に血が上った。同時に心臓は冷たいナイフを突き刺されたかのようにどくどくと激しく脈打つ。衝動的に、ユキは大事な楽譜とレッスン着の入ったリュックを胸に抱えて椅子から立ち上がっていた。
「ネージュとして有名になるようなことは、私には必要ない。この街にも必要とされてないわ。ネージュはこの街の、声だけの歌姫よ。わたしは要らないの。曲も歌詞も歌いかたもスポンサーの意向じゃない。ネージュはわたしじゃない」
「だからこそ! ああ待ちなさい、ネージュ!」
ヨハンの制止が聞こえたが、振り切ってユキはブースを飛び出し、事務所のデスクの間を駆け抜けて乱暴にドアを閉めた。急な運動をしたこととは全く無関係に心臓や、全身の脈という脈がズキズキする。閉めた扉の向こうからユキを追ってくる足音が聞こえて、ユキは全速力でその場を離れ、ついでに劇団の施設も飛び出して、地下鉄の駅まで走っていた。
乗り換えの道中、街のあちこちにフロルのポスターや電子広告を見た。ユキの脳裏には完成したプロモーションビデオの映像も浮かぶ。
奇跡のように美しくて、人の目をひときわ惹きつけて、彼は彼がそこにいるというだけで価値があって、こんなに誰もが彼のことを認めている、それなのにフロルは満ち足りてはいなかったのだろうか。
どうしてフロルは活動休止を決めたのだろう。
もちろん、人には外からは見えない様々な事情というものがあるのはわかっている。けれどユキから見て、あんなにも天分に恵まれていた人がそれを捨てようとするなんて、思いもしないことだった。
街郊外の住宅地の駅を出て家までの道を歩きながら、ユキはついうつむいた。舞台で活躍するお姉さんお兄さんたちがいついかなるときもまっすぐ顔を上げて背を伸ばし、堂々と歩いているのに憧れて、ユキも真似をして歩いた。レッスンでうまくいかなかった帰り道でも、顔を上げて前を見ていた。ユキの背と重い頭を支えていたのは、自分もいつかあんなふうに舞台に立つのだという絶対の自信だった。心から信じていた。
今はもう、ユキを支えるものは何もない。
うなだれるのは顔を上げているよりもずっと簡単で、楽だ。すっかり日が落ちて暗くなった道を街灯が照らし、ユキの下に濃い影を落としている。背負ったリュックサックが重みを増した気がした。
このまま沈み込んでしまうのが、一番苦しくないのかもしれない。背を圧迫する重いリュックも捨てて、ユキのことなど誰も知らないところに――でも、それはどこ?
ユキは、海には帰れない。海はユキを迎え入れてはくれないだろう。でも、歌と踊りだけに時間を費やしてきたせいで、他の場所なんてひとつも知らない。稽古場と、舞台と、りんごの木のある小さな家だけ。
嫌だ!
どこかへ行くのも、帰るのも、何もかもが嫌になって、ユキは衝動的に走り出した。街へ出るための革のローファーのまま、息継ぎやペースのことなど考えもしないで走る。家の前を通り過ぎ、窓に明かりが灯っているのを横目で見ながら、振り切ってスピードを上げた。
息が苦しくて、こんなことをしたって結局は無意味だとわかっていて、見開いた目に突き刺さる風が痛くて、瞳の表面から涙が浮いてくる。街灯の明かりが丸くふくらんで頼りなく、道がぐにゃぐにゃに滲んで見えなくなるたび袖で乱暴に目を擦った。
勢いに任せるばかりであてもなく走っていたつもりが、気づけばユキは毎朝訪れる公園の入り口に立っていた。重なり合う葉が暗い影を落とす森に一瞬足が竦み、けれども恐れを抱くにはユキをここまで走らせてきた衝動が勝って、迷うより早くいつもの小道へ踏み込む。明かりが途切れない間隔で街灯が置かれ、道はうすぼんやりと照らされているが、昼間とは陰影の様相が違って、奥へゆくごとに道の先は知らない場所に繋がっているような気がした。次の街灯が道すじの目印で、黄色がかった電灯の明かりが目に入るたび、次はこちらへ、その次は向こうへと、どこかへ導かれているかのようだ。ユキの内側から噴き出していた拒絶の衝動が夜の闇に沈み、代わっていつもと違うことをしている高揚がじわりと浮かび上がってくる。
いつもの池へ出る道の、遊歩道の終わりに置かれた最後の街灯にたどり着いたとき、そこから見える池の付近は、柵の近くの街灯が照らして意外にも明るかった。けれど光は水の中までは届かず、池は夜の色をしてとろりと黒く、底があるのかさえわからない。思わず息をひそめる。自分の呼吸の音が消えてしまうと、ちゃぷん、と岸にぶつかって跳ね返る水の音以外、何も聞こえなくなった。街灯以外に明かりがなく、ふと空を仰いで、今日が新月かそれに近しく月のない夜であることを知った。
ちゃぷ、ちゃぷ、動くものはひとつも見えないのに音だけ聞こえている。姿を現さない怪物が水際から這いだそうとしているかのようで、本能的な恐怖が背すじを駆け上がった。
何事もなければすぐさま回れ右をして場を離れるところだ。しかしながら、何事かがあった――正しく言うなれば事が起こるのはおそらくこれからなので、その、何事かが起こるかもしれない気配が、ユキに立ち去ることをためらわせた。
誰にも知られないまま人を容易く呑み込んでしまいそうな水辺はただでさえ近寄りがたく感じるのに、まして街灯の明かりが届く範囲ギリギリの、足もとに薄闇が忍び寄る頼りない場所で、柵に両肘をもたせかけて池を見ている人がいた。かろうじて闇を退けている明かりがその人の横顔をユキに見せる。重力に従って瞼を伏せた目もとは力なく、視線はぼんやりと池の向こう岸あたりを見ているようだった。けれども明かりも届かない池の向こうに、果たして何が見えているのだろう。夜闇が光を奪ったように瞳はうつろで、彼がいったい何を考えているのかわからない。
視線を追って、向こう岸に行きたいのかもしれないと考えることはできた。だが対岸は何もない山裾、紅葉の季節も過ぎて木々は落葉し丸裸、日も落ちて月も無いこんな暗い日に、真っ黒な池を渡って向こう岸へ行こうとするなど不自然すぎる。まして彼の周囲にも水面にも舟らしきものはない。泳ぐのは不可能ではないかもしれないけれど、そもそも池は立ち入り禁止だ。
ふつうの人がそうやってそこにいてぼんやりしていてもふつうじゃないと思えるのに、活動休止、理由は不明、とユキの頭を携帯端末に表示されていた文字がよぎった。
まさかまさかもしかして、もしかするのだろうか。
そうあってほしくない、そんな馬鹿な、と思いながら知らず手を握り合わせて息を殺しているユキの見守る先で、まさかの懸念を肯定するかのように今まで微動だにしなかった彼がゆっくりと身を起こし、その長くすらりとした足を苦もなく柵の一番上の段に置いた。そのままぐっと上体を池に向かって乗り出す。
「ちょっ」
思わず声が出た。はっとして手のひらで口を塞ぐも、いやいやこれはさすがに見過ごせない、と思い直して唇に当てた手を下ろす。同時に、ユキの悲鳴にも似た先の声が聞こえたのか、彼が動きを止めてこちらを振り向こうと身を捩った。ただし足は柵に乗せたままで。
視線が合う。暗くて互いの顔さえはっきり見えなくてもおかしくはないのに、彼の藍色の目がユキを見て、そうしてわずかに見開かれたのが、なぜかよく見えた。彼が軽く首を傾げる。
そこの池、立ち入り禁止です。
冷静なユキの頭はそう言おうと思っていたが、口からは別の言葉が飛び出した。
「じっ、そこで自殺はダメです!」
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