第四幕 本当の魔法
人魚を本物の人間にすることができるのは、人間だけなのです。海で生まれた人魚は、陸の魂を持っていない。愛する人間に魂のかけらをわけてもらうことで、やっと愛する人とともに陸で生きてゆけるようになるの。
「いってきます」
いってらっしゃい、と笑顔で手を振るニコおばさんに見送られて、ユキは普段の朝と変わらず家を出た。ニコおばさんが何かもの問いたげにしていたかもしれないが、自分は至って普段通りだ。何も言うべきことはない。ニコおばさんの視線が玄関ドアの向こうに消えたあと、ふと気になって、走り出す前になんとなく自分の格好を確かめてみた。今日は目の色に似た灰空色のワンピースを着てキャメルのコートで被い、首に薄いグレーのカシミヤのマフラーをぐるぐる巻きにしている。薄曇りの空にいよいよ冬の気配が近く、いちだんと寒い日だった。
いつものペースで、と固く決めて走り出したつもりが、公園についたときにはいつもより息が上がっていた。ペースを調整して息を整えながら遊歩道を走り抜け、池の前に出る。遊歩道にいつもはない人影があった。わかっていたから驚きもないはずなのに、走ったことで逸る心臓が一度不規則に大きく跳ねたあと、今度は妙に落ち着いてゆく。ユキの目が秀でた横顔をはっきり捉えるより早く、彼は待ちわびていたかのように振り向いた。
冷たい池を眺めていた横顔は寒々しく見えた気がしたけれど、ユキを見た彼は微笑んでいて、つぼみがほころぶ春先のくすぐったさを感じた。印象が違いすぎて少々戸惑う。
「ユキ、おはよう」
「おはよう、アレクシス」
ユキはスピードを変えず、彼のすぐ前まで走り寄る。アレクシスは遊歩道の真ん中に佇んでユキが近くに来るのをじっと待っていた。池から離れていたのは、出会い頭の誤認とそのときユキが彼にかけた嫌疑が、まだ彼の頭にもあったからだろう。誰も来ない遊歩道は遠慮なく独り占めできる。ユキもそれが理由でこの場所を気に入っていた。だが人が寄りつかない場所というのは、後ろめたい理由がある場合にも好都合なのだということをユキは昨日思い知った。
昨晩に再会を約束してから、帰りが遅かったことをニコおばさんに心配されながら夕食をとり、風呂に入って日課のストレッチをし、ベッドに入って寝るまでと、目が覚めて着替えて顔を洗って朝食をとってストレッチをして家を出るまで、彼はいったいどんな顔をしてここに来るのだろうとあれこれ考え巡らせたのに、想像のどれとも違って、風に揺れる花のごとくふんわり微笑んでユキを見ている。そんな顔ができるなんて聞いてない。
近くで見上げると、彼の瞳は写真で見た宝石のように透き通る藍とは違い、青い色素を持つ花の色に似て少しくすんで見える。街中で人目を惹いたあの煌めきはライティングの関係なのか編集による加工だったのか、いずれにしても、自然光のもとで見える今の色のほうがやさしげで好印象だ、とユキは思った。
「朝早いのね」
「僕、今暇だからね」
アレクシスはすこし笑んだ唇で飄然とそう返してきたが、今のは嫌味っぽかったかしら、と内心ちょっと悔やむ。冷たい風が吹いても身を縮めるどころか眉ひとつ寄せない彼の表情からは、不快だったのかどうかを読み取ることはできなかった。ユキが彼を見上げたまま次に言うべきことを探していたら、ふと、アレクシスは長身を屈めてユキにやわらかく笑んだ目もとを近づけた。ルージュがなくても可憐さを失わない唇はくすくす笑っている。
「きのう、きみと会う約束をしたのだから、この時間に来なかったら意味がないじゃない」
「まあ、そうね」
意外にも、と思うことがたいへん失礼だとわかってはいるものの、意外にも、彼はまっとうなことを言った。意外にも、と思ったことで、ユキは今まで無意識のうちに彼をまっとうなひとだとは思っていなかったことに気がついた。無理もなかろう、いつも見ていたのは浮世離れした玲瓏な美貌、ゆうべ見せつけられたのは入水自殺、未遂。
「ねえ、今日はどんな場面なの」
大好きな母親にお話をねだる子どもみたいな口ぶりで、アレクシスが上体ごと横に曲げる姿勢をとってユキを下から覗き込んだ。彼には怜悧な印象ばかり抱いてきたのに、いったいどういうわけか可愛らしい仕草もよく似合っているから、ユキは成人男性が取るべき姿勢としてそれが通常なのかそうとも言えないものなのか、判断に迷って視線をそらした。曇り空を映して灰色にくすんだ池が見える。
あれを今から、あたたかで深い青色をした海の底に変えるのだ。
「人魚姫が、先に十五歳になって海の上へ行くことを許されたお姉さまたちからお話を聞く場面よ。一番上のお姉さまは月の光と海辺の町の明かりが美しかったと言って、二番目のお姉さまは空と雲の色のすばらしさを、三番目のお姉さまは川をさかのぼって見た森のみずみずしさや人間の子どもたちの可愛らしさ、四番目のお姉さまは陸から遠く離れた海の上に浮かんで見えた空の広さや水面で見えるいきものたちの姿を、五番目のお姉さまは冬の海の凍える色と氷山の輝きを、語ってくださるの。そうして時々五人で海の上へ行くんだわ。人魚姫にはそれがとてもとてもうらやましいのに、お姉さまたちはそのうち、海の上で見たものより海の底がいちばん美しい、いちばんいい場所だって言うようになるのよ。わたしには信じられない。海の上にはきっと、ここよりずっと美しくて、見事で、すてきなものにあるに違いないのに!」
ユキは二、三歩池のほうへ寄って、息を吸った。
お姉さま、お約束でしょう? 海の上のおはなしをして!
どんなにすばらしかった? どんなに美しかった? ねえ、海の底には無いすてきなものが、陸にはたくさんあったのでしょう?
海の上で見る月や星、町の灯りはどんなものかしら。鐘はどんな音を鳴らすの? 空や雲はどんな色で、森はどんな匂いがしているの? 広い空っていうものは、どこまで続いていているのだろう? 氷の輝きはきっと海の底では見たこともないくらいきらきらしているに違いないわ。
海の底にいると、月も星も、青い水の向こうにほんのちょっと光っているだけ。鐘の音も聞こえない。
嵐があると人間たちが海の底へやってくるけれど、みな物言わぬ骸、海の底の美しさも知らず、お喋りもできない、寂しく朽ちてゆくばかり。
ああ、お姉さまたちがうらやましい。今ではお姉さまたちさえ、口を揃えて海の底のほうがよい場所よ、と言うけれど、いつでも海の上へ行けて、いつでも美しいものをたくさん見られるからそんなふうに言えるのだわ。
わたしは知らないもの。美しいものも、すてきなものも知らない。
知りたいの、海の上の世界。きっとすばらしい世界。
ああ早く、わたしも十五にならないかしら。
お姉さまたちが歌っておはなししているあいだ、人魚姫は興味深そうにちょこまかとお姉さまの周囲を踊りまわる。興奮すると尾ヒレが跳ね上がる。ひとしきり話し終えるとお姉さまたちはそろって海の上へあがっていってしまうので、人魚姫は自分だけ取り残される泣きたい気持ちで海の底から姉を見送り、自分はお気に入りの美少年像のところへ行って、海の上を夢見ながら期待と好奇心と寂しさではちきれそうな胸のうちを切々と歌う。歌っても歌っても、胸は楽にならない。憧れは苦しくて、人魚姫の小さな心は、海で暮らす人魚なのにもかかわらず、溢れる思いに溺れそうだった。
十五になったら、海の上へゆく許しが与えられる。それまでの辛抱よ、と言い聞かせたら、やるせないため息ばかりが口からこぼれた。
うつむいて水底を眺めていると、控えめな拍手の音がした。ユキはひとつ瞬きをして顔を上げる。
「すごいね。やっぱり、ここにいるきみはいつものきみと印象が全く違う」
「あなたの言ういつものアレ、はスポンサーとかプロデューサーとか、そのあたりの人たちの好みよ。それに合わせているだけ。わたしはもともと役者なのだから、与えられた役になってどんなふうにでも歌えなきゃいけないの」
「うん。海の底の可愛い人魚姫がいたよ」
「…………」
自分のほうこそ可愛いが似合いそうな甘い笑みでアレクシスが言う。ユキは返答として口にすべき内容をひとつも思いつかなかったので、唇をきゅっと結んでかたくなに池の表面を見下ろしていた。アレクシスの受け答えは、話が逸れているわけではないと思うけれど、どうにもユキの想定したのと違う方向からやってくる。穏やかでふんわりした口調、低すぎず、かといって女性らしくもない柔らかなテノールの声音。声質としてはテノーレ・レッジェーロか、リリコか……でもこの人、オペラは似合わなさそう。
「ねえ」
ひとりで思考に没入していたせいで、すぐ隣から声をかけられて肩が跳ねた。ユキが踊るのをすこし離れて見ていたはずのアレクシスは、いつの間にかユキの真横に並んで、ユキと同じく池を見つめていた。会話を投げ出してしまっていたので機嫌を損ねたかと思ったが、彼は気にしたそぶりもなく、ユキの気を引き、目線で対岸の山裾を指してから、ふたたび穏やかな藍の目をユキに向けた。
「ゆうべ、結局教えてもらえなかったから。きみはきのうの朝、ここからあそこを眺めて人魚姫の歌を歌っていたよね。あのとき、きみにはどんな光景が見えていたの」
「昨日も思ったけれど、朝から人のこと覗いてたっていうの、けっこう衝撃的だわ」
「誓って言うけれども、きのうの朝は偶然だからね。ついでに言うなら夜のことも、きみが夜にここに来るなんて思っていなかった」
「どうして? 朝夕が日課かもしれなかったのに」
「だって夜はほとんど真っ暗じゃない。そんなところに女の子がひとりで来るなんて危ないよ」
その真っ暗な池で、池への転落防止の柵をさらりと乗り越えようとしている人間がいたりしたばかりだから、嫌な説得力があった。思えば、よく昨夜の自分は明らかな不審者を見つけて即逃げ出さなかったものだ。彼がどんなひとなのかもろくに知らず、冷静に考えれば、思い詰めた人間ならば逆上して襲いかかってくる可能性だってあった。
でも、わずかな明かりに浮かぶ彼の横顔が、魂が抜けたようにひたすら綺麗で、目が離せなかったから。
「……そうね、実際、ゆうべは不審者に会ってしまったもの」
「僕のこと? でもそれについては、おおもとの原因はきみなんだけどなあ」
まったく釈然としない。
昨夜、思わず口走ったユキの言葉を聞いて、彼は柵に足をかけた体勢のままぽかんと間抜けな顔をしたあと、数秒して笑いだした。くすくすと口もとを押さえても止めようがない様子で、あんまり可笑しそうに笑うものだから、ユキはわきあがる羞恥心に対し、いやどう見ても誤解する場面でしょ、と自己弁護を図らずにいられなかった。あまりにも不本意な展開でむくれるユキに、ひとしきり笑ってようやく笑いの虫を黙らせたらしい彼は、つい先ほどまで空虚な目をしていたのと同じひととは思えないくらい頬を染め、きみに会えてうれしい、と宣ったのだ。そうして、そこで何をしようとしていたの、と訊いたユキに答えて、「きみが見ていた光景を見てみたかった」などと仰せになった。こんな夜に何を言っているんだろうこの人、と思ったことまで鮮明に憶えている。
「わたしじゃないでしょ。あなたの妄想のせいでしょう」
「妄想って言いかたはひどいよ。きみに見えた景色が、僕にも見えないかなって思っただけじゃないか。きみがあんまり綺麗な声で、なんだかそこにとてもいいものがあるみたいなふうに歌うから」
「ゆうべは暗くて見えなかったでしょうけれど、今は見えてるわ。山裾の枯れ木よ」
「でも、きみは違うものを見ていた」
なぜか自慢げに言って、とっておきの秘密を前にした子どものように唇をつり上げるアレクシスは、ユキに「そうでしょう」と言わんばかりの目を向けた。ああ、やっぱり綺麗な藍色だな。薄曇の合間から少しだけ陽が射して、アレクシスの瞳に光の粒がうかぶ。アレクシスが眩しげに目を眇めると、光が揺らいで儚く散った。光が射した瞬間だけ、アレクシスの瞳は宝石のような煌めきを宿した。伏し目がちの瞼と長いまつげに守られているあいだは、藍色のなかでも柔らかな印象の、花びらのような――そう、矢車菊の青。その色はサファイアの最高級品を例える。
「ねえ、何が見えた?」
夢を見た。目の前の男がこの上なく上等で、美しさも申し分なく、その最上の宝石のような存在がこの手に落ちてくる、とんでもない夢。
この男は、そうやって誰彼となく夢を見せるからタチが悪いのだ。彼の意図なくしても、存在しているだけで特別なひと。
だからうらやましかった。あなたはただそこにいるだけで、人びとに極上の夢を見せる。ただ美しいというだけではない、彼がその魂に宿す輝くもの。人はそれを、天分や才能などと呼ぶ。
彼は自分が生まれ持った宝物に気づいていたのだろうか。いいや、気づいていたというには、あらゆる写真や映像のなかにいる彼は無垢すぎた。そのことを察したとき、なぜ、とユキは焦燥にも似たもどかしさを覚えた。ふつう、真っ先にそれを頼りにする。なのにどうして、彼は自分自身に無頓着にいられたのだろう。
ユキとは生きる世界が違うひとだからだ。そう思った。ユキのように翼ももてず、ヒレもなく、じたばたと地面を踏んでいるような人間と、彼は違う。違う、くせに。
「……真っ白なお城。明かりがあちこちできらきらしていて、とても美しいの。海辺のそのお城には憧れの王子様がいて、姿は見えないけれど、あのどこかにいらっしゃるのだと思うとそれだけで焦がれたわ。わたしに足があったら、浜にあがって、足で歩いて、あのお城の階段を上れるのに」
「王子様って、そんなにいい人?」
「もちろんよ。大きな黒い目がなにより美しくて、活き活きしていて、とってもハンサム。ダンスも上手なの。一度でいいから、王子様とダンスを踊ってみたいわ」
「でもその王子、結末のほう、けっこうロクデナシじゃなかったっけ」
きらきらした明かりを灯す白亜の城が消え、堂々とした入り江も白く輝く浜辺もなく、寂しい枯れ木が残るばかりの山裾があらわになる。
夢をぶち壊してくれたアレクシスのほうをちらと見上げると、彼はユキにどんな景色が見えたか訊いた無邪気さをすっかり引っ込め、ちょっとつまらなさそうに唇を尖らせていた。
「王子様は、人間としてはまっとうだわ。自分の責任と、果たすべき役割をわかっていらっしゃる」
「でも彼は、おとぎ話を信じられなかったんだ。魔法や奇跡がこの世界にあることを、彼は信じなかった。見ないふりをした」
「だって、それは……おとぎ話だもの」
「でも人魚姫はおとぎ話ではなかったじゃない。可愛そうに、王子が信じなかったから泡になってしまった。僕は信じているよ、おとぎ話とか、魔法とか。案外この世界には、目に見えないものが多い」
アレクシスは、そうであればいい、と願うような切ない目をした。
おとぎ話も魔法も、現実のものではないわ。ユキはそう言ってやろうと口を開きかけた。喉の奥に冷たく乾いた空気を吸ったところで、先にアレクシスが言った。
「きみの歌が」
「…………」
「僕にとって、魔法だったように」
とても大切そうに、アレクシスは言葉を口にした。いつの間にか彼の唇には微笑みが戻っていて、瞳が熱を宿して潤んでいる。
「胸が震えるほど美しいと思った。そんなことは本当に久しぶりで、夢みたいだった」
自分のことをとても大げさに語られている。そう思っても、アレクシスの言いようを冷やかしたり否定したりすることは、ユキにはできなかった。ユキにも覚えがある。幼いころに見た舞台、照明に照らされて眩しいくらいのその場所で、大きいお姉さんお兄さんが歌い踊り、きらきらと輝いていた。わけもわからず胸の芯を揺さぶられるような感覚。身体の中の、見えもしない、触れることもできないはずの場所を、深く貫かれたようだった。
「世界が違って見えた。今も、きみの歌を聴いていると、なんだかこの世界がとてもすばらしいもののように思える」
「それは……ちょっと言い過ぎじゃないかしら、さすがに」
ユキは頬に熱がのぼるのを抑えられずに、小声で言い返す。けれどもなぜかアレクシスのほうがはにかむように俯きがちになって、指さきで唇に触れていた。少女めいた仕草なのに、ほんのり染まった頬と唇の薄紅が相まってうっかり庇護欲がかきたてられそうなほど似合う。端的に言ってかわいい。広告であれだけ晒していた造りものめいた顔はどこへやったのだ。
「まあ、あの、うん……なんていうか、僕にも原因があるんだけど……ここ何年か、僕はぼんやりしていたから」
恥ずかしそうに口にする様子は可愛らしいと形容してよさそうだったが、そう見せるために慎重に言葉を選んでいるふうでもあった。本人にとっては可愛いと思われたいというより、話を重くしないための口ぶりだろう。ユキは黙って、アレクシスの目の動き、口もとや添えられた指、身じろぎのさまをじっと見ていた。
どうして、と話の続きをねだってもよかったのかもしれない。アレクシスはためらい含みで言葉を選んではいたけれど、ユキを拒絶する雰囲気ではなかった。でも、相手が抱える事情をわけてもらうには、自分たちはまだ互いを知らなさすぎる。
「きみを見ていて、あんなに美しい世界が見えるとは思わなかった。ある人が僕にいつも言っていたんだ。『想像して』って。僕はその人に言われるがままの景色を見ていた。その人は言葉がうまくて、僕にどんな景色でも見せてくれた。でもきみの世界は、あの人の見せてくれた景色とは違う。きみの歌声と身体を通して、あの人の言葉もないのに、僕が見ているんだ。僕の目が、そうやって世界を見ることができるなんて知らなかった。目が覚めた気分だ。よりによってこんなタイミングで」
アレクシスはほんのり苦そうに笑った。嬉しそうでもあり、同時に寂しそうでもあった。そうして彼はふと思いついたかのように言った。
「きみはいつか舞台で人魚姫をやるの?」
「簡単に言うわね」
アレクシスに真っ正面から傷を抉られたにしては、痛みはあまりにも少なかった。彼はユキがそもそも劇団員であることも、オーディションに落ちたせいで歌姫をやっていることも知らない。ただここでユキが人魚姫を演じているのを見て、その感動からこぼれた言葉だったのだろう。何も知らないからこその純粋な感動と期待が、ユキにまっすぐ届いていた。
「簡単じゃないことくらいはわかるよ。でも、きみの舞台を、いつか見てみたいな」
「……そうね」
見せてあげたい。眩しく輝く舞台、どんな世界でも、どこの誰でも、舞台の上になら存在し、生きられる。美しく楽しいダンス、それに歌。
魂がひっくり返るような感動を、この人にあげたい。
池にさざ波を立てて冷たい風が吹き抜ける。潮の匂いを感じた気がした。海沿いに建つ白亜の宮殿が対岸にふっと浮かび、消える。
いつか必ず。どんなに固く決めていても、夢がかなうとは限らない。舞台はユキにとって幼いころからいちばん身近で、今はどこより遠い場所だ。
だから約束はできなかった。でも、まだ頑張れる、と思った。
いつか舞台に立つときが来て、アレクシスのために歌って踊ることができたら、とびきりの夢を見せてあげたい。
ユキはちらりと隣にいるアレクシスを見やった。藍の目が今は穏やかに凪いでユキを見返してくる。写真みたいに煌めいていなくても、じゅうぶんに綺麗なひとだった。目があったのをそのままにしていると、どうしたの、と言いたげに首を傾げられる。それに首を振って、ユキは池に向き直って『人魚姫』の歌の一節を口ずさんだ。
人間の魂は消えることなく、天高くいつまでも輝きつづける。
アレクシスは目を瞠って、空に消えてゆくユキの歌声を追うように曇天を見上げた。彼には何が見えたのだろう。焦がれるようなまなざしをした彼に、ユキは心の中だけで問いかけた。
ねえ、あなたはどうしてフロルであることをやめたの?
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