第一幕 砕けたわたし

 海は、冬になると凍ってしまう。だから海に棲むものたちは、分厚い氷に閉じこめられないよう、暖かな海へ引っ越しをするの。


 カーテンを開けると、家並みの向こうで、紅を溶かす金色の光が空に染み出していた。空の半分にはすでに薄い橙色をした明けの光が広がり、街に目覚めを知らせている。窓のそばで吐いた息はほの白く、吸った空気はひやりとして、夜の冷気が残っているかのようだった。

 ユキの部屋の窓から、海は見えない。民家の連なりと、灰色の一群となって立ち並ぶ高層ビルの高低。その遙か後ろから、毎朝太陽が昇ってくる。部屋からどころか、この街のどこからも海を見ることはなかった。それなのに子どものころ、太陽は海から昇り、また海へ沈むと教えられたことを、おとなになりかかった今でも不思議と信じている。

 顔を洗い、パジャマを脱ぎ、深い青色をした膝丈のワンピースに白いタイツを履いて、鏡の前でブラシを取る。鎖骨の下まで伸びた淡い白銀の髪を整えながら、ユキは鏡の中から見返してくる自分の顔をじっと眺めた。まだ眠そうな目は灰混じりの空の浅い青。髪と目の色のせいでともすれば血色が悪そうに見える肌、高さを主張しない鼻、唇の色もごく薄く、華やかとは言い難い顔立ちである。

 どこを探しても、海を思わせる要素はない。

 目を細め、口角を上げて笑ってみる。

 鏡に映るのはつまらない笑顔だった。ユキは笑みを消し、ブラシを置いて部屋を出た。階段を下りてゆくと、温かそうな食べものの匂いがしていて、胃が期待して空腹を訴える。階段を下りてすぐの扉は一階の大部分を占める一間続きのリビングとダイニング。部屋は物音ひとつせず静かだった。ユキは人の気配がないしんとした部屋の真ん中、リビングとダイニングの間の壁に造り付けられた暖炉に近づく。見た目は暖炉だが薪を焚くものではなく、炉の部分にはオイルストーブが備えられている。ガラスの向こうでちろちろと燃えるストーブの火を確かめ、腰を伸ばしてマントルピースの上に目をやった。

 マントルピースといえばさまざまな調度品で飾りたてられることも多い場所だが、ユキが暮らすこの家においては、装飾もない空っぽのフォトフレームがひとつと、ユキの手に乗るくらいの大きさのクリーム色の巻き貝がひとつ、ユキの手のひらよりは小さくて白く細いすじの入った扇形の貝殻がひとつ、そのみっつきりが置かれているだけだった。ふたつの貝殻は、まるでフォトフレームにおさまるべきだった写真の代わりのように、フレームの前に並べて置いてある。

 ユキはそれらを熱のない目で一瞥したあと、あるかなしかの小さな声で、「おはよう、お父さん、お母さん」とつぶやいた。フォトフレームも貝殻もろくに見もせずすぐに目を逸らし、視線をカウンターの向こうのキッチンへ向ける。どこにも人の姿はない。

 カウンターの端でリビングから繋がっているキッチンへ回り込むと、オレンジ色のホーロー鍋が火の消えたコンロに乗り、オーブンで白パンが焼けていた。ユキは出しっぱなしのまな板と包丁や、シンクに置かれた洗いもののボウルなど、そこにいたひとの気配が色濃く残るキッチンを通り、食器棚のわきにある裏口の扉を開いた。ひょう、と冷たい風が正面から吹き付ける。目をつむって寒さをやりすごし、開けた扉から顔を突き出して人の姿を探しているあいだに、地面の土や家庭菜園の葉がうっすら白っぽいもので覆われているのに気がついた。

 霜が降りている。

 通りでことさらに風が冷たい。ツンと固く引き締まった匂いのする風に鼻を冷やされながら、一足だけ残っているスリッパを引っかけて裏庭に下りた。

「あらあら、おはよう、ユキお嬢さん」

 目的の人はすぐに見つかった。ふくよかな腕にレタス玉を抱え、寒そうに二の腕をさすりつつ、彼女はしわの増えた目もとを頬に埋もれさせるようにして笑う。

「おはよう、ニコおばさん」

「お腹が空いたでしょう。すぐに朝ごはんにしますからね。それに、そんなに薄着で外に長いこといたら冷えてしまいますよ。私はパセリを穫ったら戻りますから、お嬢さんは先に家に入っておいでなさい」

 裏庭の畑はそう広くない。裏口から見て一番奥に当たる庭の端には大きなりんごの木があり、今はもうほとんどの葉を落としている。赤く色づいた実を収穫したのはひと月ほど前で、ニコおばさんがパイやコンポートを作ってくれた他、たっぷりのジャムにして瓶に詰めた。りんごの木の手前に、畝を作って野菜畑がある。パセリの場所も知っているユキがそちらへ歩きだそうとすると、ニコおばさんは有無を言わさずユキの背中をたった今出てきたばかりの裏口のほうへ押し出した。

「パセリくらい、わたしにも穫れるわ」

「お嬢さんは大事な身体でしょう。冷やすのはよくありませんよ」

 問答しているほうがパセリを収穫するより時間を食ってしまうようなことだ。意地を通す理由もなかったので、ユキはおとなしく家の中に戻った。裏口の扉をくぐったとたん、ふわりとキッチンのあたたかさが体を包む。冷えを気にして電気ポットからお湯をもらい、白湯で喉を温めていると、ニコおばさんもすぐに入ってきた。さして広くもないキッチンはふたり並ぶだけで動きづらくなる。ユキはキッチンの主であるニコおばさんのために、マグカップを抱えてキッチンから退散した。

「かぼちゃのスープに生クリームは入れますか」

「あ、うん」

 チチチ、と点火装置の音がして、ニコおばさんがスープ鍋に火を入れたのがわかった。次いで、シンクでレタスを洗う流水の音。ベーコンだろうか、じゅうじゅうと脂の跳ねる音もする。オーブンが合図を鳴らして、パンの焼き上がりを告げる。ユキは冷蔵庫からバターの瓶を出し、食器棚でバターナイフとフォーク、スープ用に丸いスプーンを取って食卓に並べた。四人掛けの大きめのダイニングテーブルは、いつもユキとニコおばさんのふたりぶんしか使われないのに、ニコおばさんは空いている半分を物置にしたりせず、いつ何時あとふたりが増えてもよいとでも言うように、綺麗に整えてきちんと四人が使えるテーブルにしている。

「そういえば、このあいだお嬢さんが出したCDもますます評判になっているようですね。相変わらず、私のユキお嬢さんは歌がとっても上手」

 パンの盛られた籠をテーブルに運んで来ながら、ニコおばさんは機嫌のよい明るい顔をユキに向ける。ユキはテーブルに置いたスプーンの傾きを見るふりをして顔をうつむけ、「うん、まあ……」と無いよりましくらいの返事をした。頬に落ちた髪で横顔を覆って、ニコおばさんの喜ばしげな視線を避ける。

 ただお上手に歌えるだけの歌になんて、わたしは興味ない。

 ユキは本当の返事をぐっと飲み込んだ。

 ニコおばさんがユキを誇らしく思い、ほめてくれていることには、邪推が入る隙もない。ユキが幼いころからずっと変わらずに彼女が繰り返す、よけいな飾りがついたことのない讃辞を聞けばわかる。ニコおばさんはユキが小さいころも本心からそう思っていて、今でも思うのだろう。

 ニコおばさんの笑顔も言葉も変わらない。変わったのは、ニコおばさんがほめてくれることをただ喜んでいた幼いユキの手を放り出して、わざと迷子にしてしまった自分だ。

「あれはフロルとのタイアップだったし、向こうの人気があったのよ」

 ユキはさりげなく軽い雑談と同じ口調で、当たり障りのない答えを引っ張り出した。ニコおばさんに週刊誌の記事同然のことを言うのには胸が痛み、自分がとても不実な人間になってしまったかのように感じる。だけれど本当のところ、ニコおばさんのほうこそユキを手ひどく裏切ったのだから、こちらが後ろめたく思う必要はないんじゃないか。噛みしめてしまいそうな唇をため息をこらえつつ緩める。

「綺麗な人ですねえ、フロルさんと言うのは」

「ええ、本当に」

 ユキは必要最低限の同意を込めてうなずいた。タイアップといっても実際に顔を合わせて作業したわけでもなく、ユキはできあがったプロモーションビデオを見ただけだ。フロルは美しい青年であって、それだけにすら価値があるほど希有な存在である。造りものめいた氷の美貌。希少な宝石のように透き通って深い色の瞳。彫像よりも整った身体。確かに人の目は惹くだろう。美しいとも思う。けれど、ユキが焦がれてやまないものを、画面の中の彼は初めから必要としていないように見えた。映像で、フロルはただフロルであるだけだった。それが彼の価値だ。それで、ユキは彼は自分とは違う世界で生きるひとなのだと悟った。以来、さしたる興味もない。

 朝食は身体の温まるかぼちゃのスープと焼きたての白パンにベーコンエッグ、それから穫れたてレタスのサラダ。ドレッシングはオリーブオイルと岩塩にレモンをひとしずく、砂糖をひとつまみ。ユキとニコおばさんは向かい合って腰掛け、ユキの右側と、ニコおばさんの左側に、それぞれひとりぶんずつの席が余る。いつものことなので、空いた空間は気にもならない。

「お味はいかがですか、お嬢さん」

「とてもおいしいわ」

 ていねいに裏漉しされてとろとろになったスープのかぼちゃも、裏庭の家庭菜園で穫れたものだ。収穫してからしばらく追熟させていたのが食べごろを迎えたのだろう、体に馴染む甘さがじんわりとお腹を温めてくれる。

 裏庭は小さい畑なのに、ニコおばさんはそこでユキとふたりで食べるぶんの野菜を過不足無く育てるのがとても上手だった。大雨が降っても、夏に気温が上がらなくても、冬にあまりの寒さに襲われたときも、畑をだめにすることはほとんどない。自分が庭を守っていて、野菜たちの言葉がわかるのだから、とニコおばさんは真面目に言う。

『だって、私はそこのりんごの木のぬしですからね』

 ユキが小さいころから繰り返し、繰り返し、ニコおばさんは裏庭のりんごの木を指して笑っていた。ユキが生まれる前からあって、この家が建つより先に根を張り枝を伸ばして、ずっとこの家とユキを見守ってきたのだと彼女は語る。幼いユキはただ頷いた。

 朝食を終えると、ニコおばさんはリビングのソファに腰掛けて編み物を始めた。ユキは自室に上がって床にマットを敷き、夜のあいだに凝り固まった身体を入念にほぐし、伸ばしてゆく。そうしながら関節や筋肉、筋の具合を確かめる。痛めているところはないか。無理な力はかかっていないか。毎日のことで慣れたストレッチであっても、身体のすみずみまで細かく意識を向けて行うとよそ事を考えている余裕はない。

 身体がよく温まりほぐれたことと、どこも満足に動くことを確認してから背筋を伸ばして立ち上がり、軽く伸びをして、壁掛けのフックから小振りのウエストポーチを取って腰に留めた。ダークブラウンのなめし革のポーチとベルトはユキの服の趣味に合い、おしゃれを気にする年頃になってからずっと愛用している鞄屋さんの手作り品だ。

 ポーチに携帯端末、小銭入れとハンドタオル、音叉と小さなメモと鉛筆、それだけ入れてコートとマフラーを手に部屋を出る。階段を下りて玄関で靴を履いていると、ニコおばさんが顔を出した。

「いつものところですか、お嬢さん」

「うん。お昼前には戻るね」

 お気に入りのワンピースにおしゃれを意識したウエストポーチを身につけ、けれども靴だけは運動性を重視したスポーツメーカーのローカットスニーカーを履く。紐をきつめに絞め、つま先までゆるみのないのを確かめて、玄関のドアを開けた。鼻先を冷えた風がかすめ、庭先のハナミズキから枯色になった葉がはらりと落ちる。

「いってきます」

 朝日はすっかり家々の屋根から顔を出し、霜は溶けてなくなっていた。だが雲も出ていて空は薄灰色に覆われ、風は暖まらず、息をすると温度の低い空気を肺でまで感じる。寒い世界もユキは嫌いではない。暖かさを求めて棲み処を離れるいきものではないのだから、暑くても寒くても、この街で生きてゆくなら嫌うより好きでいたほうが気が楽だ。これからの季節、乾燥にはことさら気をつける必要があるが、何にせよ少なくとも一年の四分の一は寒い街である。しばらくのあいだ、寒さに耐えてゆかねばならない。

 ユキは深呼吸をひとつしてから、郊外の公園へ向かって走り出した。公園までは、ユキの足で走って片道三十分ほど。道のりはほとんど住宅街で、ときどき、通勤のため駅へ向かうらしき人や、車と行き合った。毎日見かけるから、見慣れた人もいる。どこの誰かも、どこへ向かっているかも知らないのに、でも、知っている人。平淡な人間関係だと寂しく思う人もいるのかもしれない。だけど、ここはそういう街だ。

 三十分かけて身体がよく温まった頃に見えてくるいつもの公園は、遊歩道以外を木が埋めている、森のような場所である。もともと小さな山のふもとを切り開いた場所であって、遊歩道もくねくねと曲がりくねり、あちこちでふたつ、みっつと道がわかれてゆくから、知らぬ人であれば迷う。公園をまっすぐ横切ると駅への近道になり、ユキがよく使う入り口を左に折れてさほども深く入らないところに芝生の広場があるので、ここを利用する人たちの歩く道すじはほとんどそのどちらかだ。けれどもユキは、走る速度をゆるめないまま、曲がりくねる道を進み、右へ、左へと分岐を選んで、山のほう、人気のほとんどない場所へ向かう。行き止まり、その向こうにゆこうとすれば山に踏み入るような公園の奥には、そこで湧いているのかどこかから引き込んでいるのか、立ち入り禁止の小さな池があった。池のこちらがわには柵が設けられ、対岸は山と接していて、ほとりの半周は深く木々が生い茂っているために、柵から身を乗り出しても池の全容は見通せない。公園のまわりに川もないので、この池の水はここが終着点か、地下水となって街の下にもぐっているのだろう。水はきれいで、夏場でも浅瀬は澄んで底が見えるけれど、深いところは浅葱色の水面が揺れるだけで底は知れない。

 今日は薄曇りで、空の色が池にも映り、水面はやや灰色を帯びている。ユキは池のそばで足を止め、呼吸を整えて、身体を伸ばしながら幾度か深呼吸を繰り返した。

 昨日でフィナーレまで終えたから、今日はまた序幕から。

 ユキは池を正面に見すえる場所に立った。木々を揺らして吹き抜ける冷たい風がユキのまわりだけかたちを変えてゆく。ここは海の底。美しく透き通ったあたたかな青い海の、やわらかな白い砂の敷き詰められた水底。ユキにとっては見たこともない、けれど『彼女』には馴染みの植物がかすかな潮の流れに揺れ、小さな魚たちが歌いながら群で泳いでいる。王様の住む宮殿の壁は珊瑚、窓は海琥珀。屋根は大粒の真珠を宿した貝殻たち。遠い遠い水面から、太陽の光がよわよわしく水のすきまを漂う。

 ユキは海底の柔らかな砂を擦るように右足を浮かせてゆるやかなターンをし、水をまとう腕をゆるりと上へ差し伸べた。

 海の上にはなにがあるのだろう?

 唇から夢見る歌が滑りだす。

 わたしの知らないもの。不思議な何か。それはどんなにかすてきでしょう。

 歌い泳ぎながら、難破した船とともに水底へ沈んだ美しい少年の真白い彫像をそっと撫でて、なめらかな白亜の頬に唇を寄せる。

 あなたは海の上を知っているのでしょう?

 海の上では、花はよいかおりをしているの?

 月も星も、とても輝いて見えるってほんとう?

 海の上の世界ってどんなところでしょう。わたしいつも考えているわ。見たこともないものがきっと、それはたくさんあるの。想像もできない景色が広がっているのよ。

 ああ、いますぐにでも行ってみたい。それができたら、どんなにすばらしいかしら。

 歌って、人魚姫はくるりくるりと軽やかに水底を泳ぐ。海の上に憧れて、どんなところだろうと夢見て、行ってみたいと焦がれて。

 海の上では、わたしは誰も知らないわたしになるの。お姫さまだからって、ヒレに牡蠣を挟むなんて痛いこともしないわ。代わりに、髪に花を飾るのよ。なんてきれいな花!

 まだ幼く夢見がちな人魚姫の無邪気な夢想。響く歌声は水底から泡とともに立ちのぼり、水に溶けてゆく。

 海の上にすばらしい世界があるとかたく信じている人魚姫の歌声はおさえられない期待と興奮にうわずり、水草のあいだ、お気に入りの美少年像のまわりを泳ぎ回る。とてもじっとしていられない。

 いつか、必ず。

 どうか、神さま。いつかわたしに、海の上の世界を。

 遠い天上へ手を伸ばして希(ねが)う人魚姫の頬は上気して赤く染まっている。唇も血が通ってつやつやと潤み、灰空色の瞳は見開かれて、遙か海の底まで届くわずかな光をいっぱいに吸い、輝く。

 長く伸ばした最後の一音をふつりと閉ざして一呼吸、ユキは掲げていた腕をゆっくりと下ろした。ぬるい水が消え、冷たい風が袖から服の下に入ってくる。

 他のどんな陸の子よりも、わたしが一番人魚姫に近い。人魚姫を演じるなら、誰よりわたしが一番巧(うま)くやれる。そのときが来たら、絶対にわたしが選ばれる。

 ライトを浴びて歌い踊る華やかなお姉さんたちの姿を舞台の袖から見開いた目で見つめ、ユキはそう信じて疑わなかった。

 なぜなら、ユキの声も、唇も、目も、髪も、手も、足も、身体のすべて、人魚から授かったものだからだ。伝説の通り、誰より美しいと褒められる歌声も受け継いだ。

 それがおとぎ話に過ぎないのだと知ったのはいつだったろう。

 ユキは深いため息をついて、ゆっくりと池のまわりを囲う柵に近づいた。背を丸め、柵に肘をついて、灰色をした冷たい池に目を落とす。人魚姫も、冬はこういう灰色の海を泳いだのか。灰色の海の向こうに、王子さまの宮殿があったろうか。目を細め、枯れた木々が立つばかりの山裾にきらびやかな白亜の宮殿を思い浮かべる。そうしておいてふたたび水面に顔を伏せたユキは、風でゆるやかにたわむ水を見下ろしながら、歌を歌うべき姿勢からはほど遠く身体を崩したまま、あふれてこぼすように唇から旋律を紡いだ。人魚姫が海から王子の城を見て憧れ、胸を焦がす歌だ。

 目の前に見えているのに、あの世界は遠い。

 人魚姫は、何を思ってこの歌を歌っただろう。

 かつては誰よりもわかると思っていた人魚姫の気持ちも、今のユキには砕けた鏡のようだった。もとのかたちもわからない。割れたかけらをひとつに戻すすべも知らない。

 あなたは特別なのだと言われたまま一心に信じて身を賭してきた。本当は特別なものなど何ひとつなかったのだと知らされたこの身には、いったい何が残っているのだろう。

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